2018年03月11日 (日) | Edit |
震災から7年、つまり84か月が経過しました。拙ブログでもすっかり震災関連のエントリが激減しているところですが、昨年に引き続き、秋篠宮さまのお言葉に感銘を受けたところです。

秋篠宮さま 震災追悼式でおことば(NHKオンライン 3月11日 16時48分)

秋篠宮さまは、東日本大震災から7年となる11日、東京都内で開かれた犠牲者の追悼式に紀子さまとともに出席し、被災地や被災者に末永く寄り添うことが大切だとする気持ちをあらわされました。

東日本大震災の追悼式には、おととしまで毎年、天皇皇后両陛下が出席されていましたが、ことしは去年に続いて秋篠宮ご夫妻が出席されました。

(略)

秋篠宮さまのお言葉 全文

 2011年3月11日、東北地方を中心に東日本を襲った未曾有の地震とそれに伴う津波により、2万人を超える死者及び行方不明者が生じました。震災発生後、刻々と伝えられる現地の状況と押し寄せてくる津波の映像は、7年を経た今でも決して脳裏から離れるものではありません。ここに一同と共に、震災によって亡くなった人々とその遺族に対し、深く哀悼の意を表します。

 大震災からの7年間、被災地において、人々は幾多の困難を乗り越え、手を携えて、復興に向けての努力を弛みなく続けてきました。こうした努力を支援するため、国や全国の自治体、そして国内外の多くの人々が、様々な形で力を尽くしてきました。

 その結果、住宅の再建や高台移転、産業の回復、生活環境の整備、防災施設の整備など多くの進展が見られました。また、原発事故により避難を余儀なくされた地域においても、帰還して生活を再開できる地域が少しずつ広がってきております。多くの悲しみや困難の中にあった子どもたちも、未来に向けてたくましく成長しています

※ 以下、強調は引用者による。

というのも、震災から7年となる日の前日にNHKで放送された番組を見て、改めて子どもたちが「死」を受け入れることの辛さを考えたからです。

「死にたい。将来は夢も希望もない」「わたしは無感情人間だった。悲しいと言えなかった…」
津波で家族を失った子どもたちが、震災から7年経った今になって悲鳴を上げている。あの日、釜石で被災した当時3歳の女の子。津波から逃げる際に飲み込まれる家屋や遺体を目撃、さらに家族3人を亡くした。壮絶な体験をひとり抱えてきた震災後のある日、耐えきれず感情が爆発。体調不良を訴え不登校になった。10歳になった今になって、誰にも言えなかった体験やつらい気持ちをポツリポツリと語り始めている。被災地で、津波で家族を亡くした子どもは1800人近く。心身の不調を訴える子どもは後を絶たず、宮城県では不登校率が全国最悪レベルだ。こうした子どもたちは心の専門病院やNPOに駆け込んでいる。治療やケアを受け、親にも打ち明けられなかったトラウマ体験や気持ちを言葉で表現することで震災を受け止めようともがいているのだ。番組では支援の現場に密着、語り始めた「言葉」から最大の被災弱者とされる子どもたちが抱えてきた葛藤を見つめる。

「誰にも言えなかった  ~震災の心の傷 母と子の対話~」2018年3月10日(土) 午後9時00分~9時49分

もちろん、秋篠宮さまのお言葉のように「未来に向けてたくましく成長して」いる子どももいます。しかし、それはもしかすると表向きの表情で、その心の中には身の回りの人々が一気に姿を消したことの悲しみを抱えているのも事実でしょう。その悲しみは決して消えるものではなく、抱えながら生きていくしかありません。

番組の中では、沿岸部から内陸に引っ越したものの最近学校に行けなくなった子どもの様子と、その母親の様子が映し出されていました。子どもが気丈に振る舞っていたのは家族の死を受け入れられない自分を認めたくないから、母親が家族の死を受け入れられないのは、そうして気丈に振る舞う子どもに自分の気持ちを素直に表せられなかったから、というお互いに思いやる気持ちの中で、不安な気持ちばかりが募っていったのでしょう。その二人が、家族への思いを人形で共有したときから、お互いに前向きに生きていく気持ちが芽生えたところで番組は締めくくられていました。

番組の中では、この「前向きに生きていく」という言葉がこの母子以外の登場人物からも繰り返し発言されていました。辛い現状をそれとして受け入れて日々生活している中で、「前向きに生きていく」という気持ちが出てくるまでには7年の月日が必要だったともいえます。その母親が言った「3月11日は気が付かないうちに過ぎてほしかったが、やっと迎える気持ちが出てきた」という言葉にその思いが表れていると思います。節目に思い出したように特集されるより、日々の生活の中でこうした思いに向き合っている方々がいるということに、これからも思いを馳せるようにしたいと思います。

(付記)
宮城県名取市で「奇跡の保育所長」と持ち上げられた当人も、その「功績」に押しつぶされてしまった自分を振り返っていらっしゃいいます。

佐竹悦子さん(66歳)。

街全体が壊滅的な被害にあった宮城県名取市閖上地区で、海のすぐそばにあった市立閖上保育所で所長を務めていた。

54人の園児を迅速に避難させ、誰一人死者を出さなかった保育所は後に「閖上の奇跡」と呼ばれる。

だが「奇跡」の後、トップはたったひとり感情を押し殺し、恐怖も悲しみも、あの日の怒りも表に出せない日々を送っていた。

彼女が明かす、孤独の日々と再出発、そして7年という時間――。

(略)

「泣けない」ことに気がつく
時期を前後して、泣けない自分にはじめて気がつく。泣こうと思っても泣けない。親族のことを思っても、閖上の子供たちのことを思ってもどうしても涙がでない。

宮城県の支援にあたっていた精神科医に打ち明けると「それはPTSDだ」と指摘された。医師は続けて、こんな言葉をかけてくれた。

「先生、あれだけ特殊な経験をしたんです。何も起きないほうがおかしいですよ」

そうか、自分の精神は限界なんだと妙に納得できた。この後、彼女は2度の「引きこもり」を経験する。

1度目は2013年だった。体調を崩してしまい、家で静養していた。ところが体調は回復したのに、外にでる気力がなくなった。

外にでること、イベントが何より好きだったはずなのに、理由をつけて、すべての依頼や誘いを断り、家の中でも寝巻きから着替えないまま1日が過ぎていく。そんな日々が半年ちょっと続いた。

市役所の仲間が用意してくれた旅行を機に少しずつ日常を取り戻すことができたが、自分の精神が危うくなっていることを痛感した。

2度目は2015年の春だった。

1度目の引きこもりから「社会復帰」し、引き受けた幼稚園の園長業務をこの年の3月まで受け持っていた。

怒涛の日々だった。

震災の経験を活かさねばならないと、防災の専門家を招き避難計画を作成した。近くを流れる川が気になって、安心できないとマニュアルを練り直した。

心は一気に疲弊した。任期が終わってから、また気が抜けたように家にいる時間が長くなっていったのだった。

佐竹さんは震災について「事実」は話せるが、「思い」をうまく言葉にできない時期を過ごしていく。

(略)

トップの行動が、彼らの心にも深い、深い傷を負わせたのではないか。

所長が涙を流さないから、職員も涙を流せなかったのではないか。3月27日の卒園式はもっと泣いてもよかったのではないか。

6年半を過ぎても、自分を責めるように問うてしまう。後悔ともし…を考えると、恐怖から涙がこぼれ落ちてくる。

あれほど泣こう、泣こうと思っても泣けなかった自分が泣いている。あの日、自分も辛く、怖かったという感情が溢れてきた。

それは、長く押し殺していた感情とようやく向き合うことができた、転機の涙なのかもしれない。

「【あの日から7年】大津波から子供を守った”奇跡の保育所長” 「美談」の裏で抱えた苦悩(2018/03/11 06:00)」(BuzzFeed News)

泣けないほどの責任感を感じて外に出られないほどの辛い経験を経て、やっと泣けるようになるまでの6年半は、あの震災を経験した方々の心を変化させるために必要な時間だったのでしょう。ただしその心の変化は、あくまで震災の経験をずっと抱えたままであることも忘れてはいけないのだろうと思います。「震災から○年」という節目はそれとして大事にしながら、同じ時代に生きる者として心にとどめておかなければと思います。

2018年03月04日 (日) | Edit |
前回エントリで書いた通り、オリンピックが終わって1週間も経つと、アスリートたちに対して「調子に乗っている」とか「かわいこぶっている」等々批判が巻き起こりつつあるようですが、その主体となるのがちょっと前までちやほやしていたマスコミであり、その視聴者であることは銘記しておくべきでしょう。わかりやすい感動は商売になりますが、それ以上にわかりやすいやっかみは商売になるんですよね。

その一方で裁量労働制をめぐる議論が盛り上がっているようでして、まあこれもわかりやすい敵失を狙った野党の思惑通りにコトが進んでいるわけですが、では裁量労働制とはどんな制度であり、その適用に必要な要件や手続きはどのように定められているのかを正しく知って批判されている方はあまり多くはないだろうと思われるところです。ということで、某世界的大企業(特に隠す必要もないだろうと思いますが)で人事労務に携わっていらっしゃったroumuyaさんがその議論のダメダメさを指摘されているので、この問題に関心のある方はまずは一読しておくべきですね。

ホワイトカラー・エグゼンプションや各制度についての考え方については過去繰り返し書いてきましたのでできれば事前にお目通し願えればと思うのですが(左上の検索窓にエグゼンプションとか裁量労働とか高プロとか入れて検索していただければ多数ひっかかると思います)、とりあえず現時点で簡単にまとめるとこんな感じでしょうか。

 ホワイトカラー・エグゼンプションは「目先の収入より、将来の仕事やキャリアのほうに関心が高い、「自分の仕事は時間の切り売りではない」というハイパフォーマーおよびその予備軍が、働き過ぎにならない範囲で、残業予算や限度基準といった事実上の労働時間の制約を気にせずに、思う存分仕事ができる制度」。

 議論において重要なポイントは以下の3点。ここを外した議論は基本的にダメ。


【1】ホワイトカラー・エグゼンプションは限られた一部の人たち(≒エリート)のもの

【2】ホワイトカラー・エグゼンプションは「残業代ドロボー対策」ではない

【3】ホワイトカラー・エグゼンプションで労働時間は短縮しない



おそらくは現在議論されているあれこれとずいぶん違うなあと感じられると思いますが、要するにその違うところがダメだという話です。でまあそんなんお前がそう思っているだけだろうというご感想もあろうかと思いますが、実は現行制度は制度としてはきちんと上記【1】【2】【3】にあてはまっているのです。迂遠な感じで面倒かもしれませんが、まずはそこの確認から入らないと次の話に進めませんので長くなりますがおつきあいください。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(1)(2018-03-01)」(吐息の日々)
※ 太字強調は原文による。


裁量労働制の議論なのになぜ「ホワイトカラー・エグゼンプションの議論」となっているかという点にも解説が必要かもしれませんが、この制度が設けられた経緯については、菅野『労働法』で確認しておきます。

2.裁量労働制
(1) 趣旨・沿革 従来の労基法は、管理監督者等の労働時間規制の適用除外労働者(41条)を除くすべての労働者について、始業・終業時刻、法定労働時間、時間外労働などの法規制下に置き、かつ労働時間の厳格な計算を要求してきた。また、いったん法定労働時間をこえる労働が行われた場合には、その労働について割増賃金の規定(37条)によって労働の長さに比例した賃金支払を要請してきた。しかしながら、近年における技術革新、サービス経済化、情報化などのなかで、労働の遂行の仕方について労働者の裁量の幅(自由度)が大きく、その労働時間を一般労働者と同様に厳格に規制することが、業務遂行の実態や能力発揮の目的から見て不適切である専門的労働者が増加した。これら労働者は、多くの場合に、労働の量よりも質ないし成果によって報酬を支払われるのに適している人々でもある。
 1987年の労基法改正(昭和62法99)は、このような社会経済の変化に応じて、従来の一律的労働時間規制を改め、一定の専門的・裁量的業務に従事する労働者について事業場の労使協定(102〜3頁)において実際の労働時間数にかかわらず一定の労働時間数だけ労働したものとみなす「裁量労働」制度を設けた。
p.376

法律学講座双書 労働法 第十版
定価: 5,724円(5,300円+税)
著者名:菅野和夫 著 出版社:弘文堂

(やや古いのですが手元にあるのが10版なもので)

ということで、一般の労働者と異なる「業務遂行の実態や能力発揮の目的から見て不適切である専門的労働者」に対する規制を実態に合わせるための制度であり、その専門的労働者向けの制度をroumuyaさんは「ホワイトカラーエグゼンプション」と表現されているわけです。そして、そのような労働者向けの裁量労働制の導入に当たっては、どこにも労働時間短縮を目的とするとは書いていませんね。いやもちろん、実際の日々の労働時間の中でやりくりしてある日は早く帰ることができるということはありうるでしょうけれども、それはあくまで個別の事情によるものであって制度の目的ではないわけです。

ではなぜ労働時間規制を緩和しなければならなかったかというと、日本の労働法では法定時間内の賃金の基準は特に規定がないものの、法定時間を超えた途端に時間給となってしまうため、日本型雇用慣行で正規労働者の多くが日給月給であって、特に高給な労働者に対しては、その高額な日給月給を基礎とする高額の時間外手当を支払うことの合理性も問われていたわけでして、再び菅野『労働法』から引用すると、

…裁判例においては、労働時間の管理を受けず高額の報酬(基本給と業績賞与等)を得て自己裁量で働く専門的労働者について、時間外労働手当は基本給の中に含まれているので別個の請求はできないとしたものがあるが(モルガン・スタンレー・ジャパン事件—東京地判平17・10・19労判905号5頁)、これは実質的には自己管理型労働者に関する時間外労働規制の適用除外を先取りした判断といえる。

菅野『労働法 第10版』p.380

という判断が示されたこともあったわけですね。まあこの事件そのものは、パワハラで懲戒解雇されたプロフェッショナル人材が、その懲戒解雇取消訴訟と合わせて所定外時間の会議分の時間外手当を払えと請求した事案ですので、hamachan先生も指摘されるように「あんまり筋のいい事件でもない」のですが、まあそうした判断も現行法で可能である事例があるにはあるといえます。

もちろんこれは特殊事例ではあるとしても、そうした判断が合理的である場合があるのに対して、現行法がそれを認めないというのであれば、それは現行法の改正によって対応することが必要であることは明白であるとは思うのですが、ではどうやって労働者の労働時間管理を実効性あるものとするべきかが問題となります。この点はroumuyaさんが指摘される通り、

【3】は今回の政府がダメだった(そして上記日経新聞もダメ)なポイントですが、ホワイトカラー・エグゼンプションが上記のような(エリートが)「思う存分働ける制度」であり、かつ(これは多かれ少なかれホワイトカラー労働全般に言えることですが)仕事のペースを自分で調整できる、「マイペースで働ける」制度である以上、常識的に考えて労働時間が短くなるわけがないわけです(もちろん個別には短くなるケースもあるだろうとは思いますが例外的でしょうし、ホワイトカラー・エグゼンプションか否かと独立の事情も多いだろうと思います)。したがって働き過ぎ防止と健康管理措置が重要になっているわけで、安衛法上の安全配慮義務とかいったものに加えて、それぞれの制度においてさまざまに追加的なものが定められていることは周知のとおりですし、重点的な監督も行われているわけです(今回問題になったデータについてもそうした監督にともなうものですね)。

(略)

ここまででかなりムカついている方も多いのではないかと思いますが、私が申し上げたいのは、行き過ぎた長時間労働や過労死といった問題を引き起こしているのは、要件も手続も満たしていないにもかかわらず「わが社は裁量労働です」とか言って長時間労働や不払い残業を強いるブラック経営者であり、ファーストフードの店長を管理監督者扱いして人手不足下での過重勤務の構造を放置しているブラック人事であり、残業予算を超える分はサービス残業での対応を強要するブラック上司なのであって、これらはすべてすでに違法です。悪事を働くのは人間であって制度には罪はないわけですよ。ここを踏まえない議論はなかなか建設的なものにはなりにくいのではないかと思います。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(1)(2018-03-01)」(吐息の日々)

「思う存分働ける制度」を導入するに当たって、「働き過ぎ防止と健康管理措置が重要になっているわけで、安衛法上の安全配慮義務」を追加的に盛り込んだのが今回の法案であったものの、わかりやすい「裁量労働制憎し」の声に押されてそうした健康管理措置についての議論が深まらないのは、現行法で働く労働者にとってもあまりいい影響はなさそうです。

さらにいえば、「残業代ゼロ」とかいって騒いでいる方々は、残業代さえ払えば労働時間が青天井でもよいという議論にも与することになるので、ちょっと慎重になるべきではないかとは思います。この点roumuyaさんは上記のエントリの続編で、

それと関連しますが、ホワイトカラー・エグゼンプションについて「効率化して短時間で仕事を終わらせても別の仕事を押し付けられるから早く帰れない」というようなことを鬼の首を取ったように指摘してドヤ顔になっている(いやなっているかどうかはわかりませんが。失礼しました)向きもあるらしく、これもあえて申し上げれば、ダメ。本来ホワイトカラー・エグゼンプションというのは昨日の【1】で書いたように少数のエリートのためのものであり、そういう人たちは空いた時間に新しい仕事を割り当てられることは基本的に歓迎だと思われるからです。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(2)(2018-03-02)」(吐息の日々)

と指摘されていて、「空いた時間に新しい仕事を割り当てられることは基本的に歓迎」とまではさすがに言い過ぎではないかとは思いますが、相当の給料を受け取りながら早く帰ってもいいということが制度として認められれば、それが一つのインセンティブになるとはいえるでしょう。もちろん、それは相当の給料を払うという前提に加えて、ノーワークノーペイの原則によらない給料負担を使用者側が引き受けるという取引によって成り立つ制度である以上、労働者にはそうした使用者側の引き受けた負担に見合う働きが求められるわけです。逆にいえば、裁量労働制の対象とならないような一般の労働者は、強大な人事権をもって配置転換しながら雇用を維持するという負担を使用者が引き受ける取引の代償として、どんな業務でも長時間労働によってこなすという働きが求められているわけですが、裁量労働制のように対象が限定されていないために、多くの一般の労働者に過重な負担を押し付ける原因となっていることを考えなければならないわけですね。

裁量労働制の運用が問題だからといって、専門的労働者が業務を効率化して新たなスキルを身につけようとするインセンティブそのものを否定してしまうと、上記の通り労働時間問題を健康問題ではなくゼニカネの問題に帰結させてしまい、結局一般の労働者が過重な負担を押し付けられる現状を肯定することにもつながるわけでして、今回の敵失でいきり立っている反対派の皆さんにおかれては多少自制されることが望ましいのではないかと愚考する次第です。

(追記)
roumuyaさんが完結編(?)をアップされていまして、大いに同意いたします。

前回、前々回のエントリには多数の反応があり(ありがとうございます)、中でも多かったのが「監督強化や厳罰化が必要」とのご意見でした。これについては、このブログを以前から読んでいただいている方はご存知のとおり、私もほぼ同意見であって監督強化については繰り返し訴えているところです(たとえばhttp://d.hatena.ne.jp/roumuya/20141130#p1http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20140430#p1http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20111129#p1http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20110822#p1http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20160401#p1あたり。他にもあると思います)。厳罰化についても悪質事案は送検すべきとは繰り返し主張しています。罰則の強化には慎重さが必要だとは思いますが、(どこかで紹介したと思うのですが)送検されて罰金を払ったほうが得だとかいう実態があるとしたらそれは罰則強化が必要でしょう。裁量労働制にしても、前も書いたように、例の「調査的監督」を見ても、現場は裁量労働の届出がされた事業所に対してはそれなりに頑張って監督しているわけですが、届出をしないブラック企業の監督までは手が回っていないというのが実情のように思われます(某大手不動産会社の過労死案件がニュースになっていましたが、このケースでも裁量労働の違法適用に対して特別監督が行われていることには注目してほしいと思います。かとくは頑張っているのです)。たしかに、裁量労働制がなくなればブラック経営者がそれをダシに使うことはできなくなるでしょうから、その限りにおいては制度にも罪はあるのかもしれません。しかし、裁量労働制がなくなればブラック経営者やブラック人事やブラック上司がすべてホワイトになるとは思えないわけですから、その撲滅には監督や罰則の強化が最重要であろうことは論を待たないものと思います。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(3)(2018-03-05)」(吐息の日々)

法規の世界で「実効性確保」といえば罰則とその監視体制を指すことが多いところでして、現場で実践すべき労働時間管理としての健康管理措置について、違反があれば適切にそれを摘発する態勢が必要となるわけでして、まさにroumuyaさんが「その撲滅には監督や罰則の強化が最重要であろうことは論を待たない」と指摘される通りです。

そして、roumuyaさんのこの一言には首が痛くなるほど首肯するところです。

もうひとつ、議論が始まった当時には関連法案すべての撤回を求めるという主張も見受けられ、「過労死」「命」を訴求しているのに労働時間上限規制まで撤回しろというのはどういうことなのだろうと思いましたが、さすがに現時点では裁量と高プロだけを撤回しろという話でまとまっているようです。上記連合事務局長談話もそういうスタンスですね。一方で、今回の上限規制を「過労死ライン容認法案」と呼んで撤回を求めているという人もいるらしく、まあ気持ちはわからないではないですが労使の努力をなめてるなとも思う。長年にわたってなかなか実現してこなかったものが、労使の大いなる譲歩によってようやくここまでこぎつけたわけですよ。しかもその背景には、個別労使が営々として限度基準に収まる時間外協定を締結し普及させてきた努力があるわけです。それに対してご自身の狭量な価値観で悪しざまに述べるというのは、まあどういう独善かなと思うわけですが、それが「信念」というものなのだ、ということなのかもしれませんが…。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(3)(2018-03-05)」(吐息の日々)
※ 下線強調は引用者による。

いやもちろん、法案に反対する意志をお持ちの方がその心情を吐露する際にどんな表現を用いようともその表現は尊重されるべきかもしれませんが、法案に反対(だけなのか反権力という信条なのかよくわかりませんが)できればその他諸々の関係者の努力の積み重ねや法案の改正そのものまで否定してもかまわないという言説に対しては、「労使の努力をなめている」と私も思うところです。まあ、この国の労組を支持母体とする政党が三者構成の労政審による答申を否定することはここ数年で何度も目にしている立場からは、それもある意味自業自得だろうとも思うわけですが。

2018年02月25日 (日) | Edit |
ただの雑感です。

前回エントリで、「「よくやった」という一言が大事ですよね。そこで「次へ、次へ」と休み無くやっていると疲れちゃうし、組織としての「遊び」が無くなって行ってしまう」というゆうきまさみ先生の言葉から関連して、「世の中には、思った以上に「激励のつもりで罵倒しか出来ていない人」が多いんじゃないか」という指摘を取り上げたところですが、奇しくも今日閉幕する平昌冬季オリンピックでは日本から出場した選手の獲得したメダル数が過去最高となり、たいそう盛り上がりを見せているようです。

私自身は、商業的に成功したと言われる1984年のロサンゼルス夏季オリンピックから記憶があるもので、こうしてメダル獲得に沸いている界隈が、オリンピックの興奮が冷めた途端にプライベートを詮索されてマスコミのバッシングを受けたり、国の強化策に対する批判(多くても少なくても批判されますね)等々が沸き起こることを経験的に知っています。寒いところに住んでいますので、トリノ冬季オリンピック以降、カーリングが(興味本位でおやつタイムとかかけ声が話題になって)ブームになっては下火になり、その都度選手たちが興味本位で翻弄され、活動場所を求めて奔走している姿を見ている者としては、男女を通じて初めてメダルを獲得したこの後の周囲の反応が気になるところです。

個人的にスポーツに特段思い入れがあるわけでもなく、テレビで中継があればそれなりに盛り上がって観る程度ですが、もちろん世の中にはスポーツそのものに関心がなかったり、ましてやオリンピックなんて商業主義のイベントに対する反感を持つ方もいらっしゃるわけでして、それはそれとして尊重すべきとは思いますし、特に後者についてオリンピックが商業主義で歪められているという指摘はその通りだとも思います。ただし、そうした反感をスポーツという活動やオリンピックというイベントに向けるのみではなく、スポーツの世界で結果を残すために努力した方々、さらにその努力が実って結果を残した方々までに向けてしまって、一緒くたにして批判してしまうことは避けるべきと思います。



スポーツで結果を出した個々のプレーヤーやその支援者を称えることもせず、まして経済的な面で報いることができないこの国で、その中ですら結果を出した方々には私なりの最大の賛辞を送りたいと思います。その一方で、「世の中には、思った以上に「激励のつもりで罵倒しか出来ていない人」が多い」というこの国で声の大きい方々とその意を受けたマスコミは、容赦なく彼らに刃を向けていくことでしょう。歯がゆいのは、私の資力では個人的に称えることはできても報いることはほぼできませんので、政府支出として個々のプレーヤーの活動を支援することに期待したいところですが、これもまた上記のとおり批判の対象となります。

というようなこの国の状況を見ていると、オリンピック憲章の高邁な精神を改めて確認することはそれなりに意味のあることではないかと思います。

Fundamental Principles of Olympism


  1. Olympism is a philosophy of life, exalting and combining in a balanced whole the qualities of body, will and mind. Blending sport with culture and education, Olympism seeks to create a way of life based on the joy of effort, the educational value of good example, social responsibility and respect for universal fundamental ethical principles.
  2. The goal of Olympism is to place sport at the service of the harmonious development of humankind, with a view to promoting a peaceful society concerned with the preservation of human dignity.
  3. The Olympic Movement is the concerted, organised, universal and permanent action, carried out under the supreme authority of the IOC, of all individuals and entities who are inspired by the values of Olympism. It covers the five continents. It reaches its peak with the bringing together of the world’s athletes at the great sports festival, the Olympic Games. Its symbol is five interlaced rings.
  4. The practice of sport is a human right. Every individual must have the possibility of practising sport, without discrimination of any kind and in the Olympic spirit, which requires mutual understanding with a spirit of friendship, solidarity and fair play.
  5. Recognising that sport occurs within the framework of society, sports organisations within the Olympic Movement shall have the rights and obligations of autonomy, which include freely establishing and controlling the rules of sport, determining the structure and governance of their organisations, enjoying the right of elections free from any outside influence and the responsibility for ensuring that principles of good governance be applied.
  6. The enjoyment of the rights and freedoms set forth in this Olympic Charter shall be secured without discrimination of any kind, such as race, colour, sex, sexual orientation, language, religion, political or other opinion, national or social origin, property, birth or other status.
  7. Belonging to the Olympic Movement requires compliance with the Olympic Charter and recognition by the IOC.

オリンピズムの根本原則


  1. オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学である。オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものである。その生き方は努力する喜び、良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする。
  2. オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである。
  3. オリンピック・ムーブメントは、オリンピズムの価値に鼓舞された個人と団体による、協調の取れた組織的、普遍的、恒久的活動である。その活動を推し進めるのは最高機関のIOCである。活動は5大陸にまたがり、偉大なスポーツの祭典、オリンピック競技大会に世界中の選手を集めるとき、頂点に達する。そのシンボルは5つの結び合う輪である。
  4. スポーツをすることは人権の1つである。すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない。オリンピック精神においては友情、連帯、フェアプレーの精神とともに相互理解が求められる。
  5. スポーツ団体はオリンピック・ムーブメントにおいて、スポーツが社会の枠組みの中で営まれることを理解し、自律の権利と義務を持つ。自律には競技規則を自由に定め管理すること、自身の組織の構成とガバナンスについて決定すること、外部からのいかなる影響も受けずに選挙を実施する権利、および良好なガバナンスの原則を確実に適用する責任が含まれる。
  6. このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。
  7. オリンピック・ムーブメントの一員となるには、オリンピック憲章の遵守およびIOCによる承認が必要である。

「オリンピック憲章 Olympic Charter 2017年版・英和対訳 (2017年9月15日から有効)」
※ 強調は引用者による。


スポーツの政治利用やら商業主義とかその一環としてのマスコミによるバッシングは、いずれも人間の営みの中から生み出されるものである以上、こうしたFundamental Principles of Olympismの実現は困難だろうとは思いますが、だからこそ常に意識しなければならないものなのでしょう。

(付記)
言わずもがなですが、カーリング女子に出場したロコ・ソラーレ北見が使う「そだねー」が流行しつつあるそうですが、組織の意思決定を考える上でもとても参考になります。外科医であるハーバード大のアトゥール・ガワンデ氏が「チェックリスト」の有用性をこう指摘しています。

 多くの外科医は怒鳴ることで物事を解決しようとする。当初はテールマン医師もご多分にもれず、関係者全員に気合いを入れなおすように怒鳴った。だが、結果は改善されなかった。そこで彼は同僚と協力し、別の方法を試みることにした。チェックリストを作ったのだ
 彼らはあえて権限の弱いレスキュー隊と電話オペレーターにチェックリストを与え、手順を一つ一つ丁寧に説明した。レスキュー隊はできるだけ早く、たとえ事故現場にまだ到着していなくても、病院に人工心肺の手配と患者を温める用意をするように連絡すること。連絡を受けた電話オペレーターはチェックリストに書いてある順番通りにスタッフに電話し、機器などを準備して待機しているように伝えること。
 その結果、ついに初の蘇生に成功した。それがあの少女だった。直後にテールマン医師はウィーンの病院に移ってしまったが、クラーゲンフルトのチームはその後も二人の命を救った。
pp.55-56

(略)

 新しいプロジェクトを始めるときは、まずチェックリストが作られるそうだ。16の業種の代表者が話し合い、各業種の仕事をまとめた大きなチェックリストを作るのだ。今回のプロジェクトでは、サルビア氏の会社からも代表者が一人参加し、構造設計に関連した手順をチェックリストに加えた。そうしてできあがったチェックリストは下請け業者と各分野の専門家に送られ再度確認される。
 完成品は見事だ。数百人から数千人の知識をそれぞれ適切な場面で、適切なタイミングで、適切に活用する、詳細なチェックリストができるのだ。
pp.73-74

(略)

 「じゃあ、いったいどうするんですか?」と私は聞いた。するとオサリバン氏は会議室の左側の壁に張ってある(ママ)、大きな紙を見せてくれた。右側の壁の工事スケジュールと一見そっくりなのだが、これは「提起スケジュール」と呼ばれるものだ。これもチェックリストなのだが、工事の予定ではなく、コミュニケーションの予定が書かれている。「○月×日までに関連分野の専門家が集まり、△という工程について話し合うこと」といった具合にだ。専門家たちに確実にコミュニケーションを取らせることで、不測の事態に対応しているのだ。各専門家はもちろんさまざまな決断を下すのだが、個人として決断するのではない。お互いの懸念を考慮し、問題について話し合い、すすむべき方向性に合意したチームの一員として判断を下す。起こりうる全ての問題を事前に予測するのは不可能だが、問題が発生しやすそうな工程や時期は予想できる。だから事前にコミュニケーションの予定を入れておくことで、問題が発生しても対応できる。提起スケジュールには、いつまでに誰と誰が何について話し合うのか、次の工程にすすむ前にどの情報を「提起」しなければいけないのかが記されている。
p.77


『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』
定価: [本体1600円]+税
発売日: 2011.06.18
ISBN: 978-4-86391-280-9

本書では、医療の現場は未だに「ご多分にもれず、関係者全員に気合いを入れなおすように怒鳴った」というような状況にあり、テールマン医師はそれをチェックリストによって解決したことをヒントとして、チェックリストの有用性を探っていきます。その中で著者のガワンデ氏は、建築業界で「お互いの懸念を考慮し、問題について話し合い、すすむべき方向性に合意したチームの一員として判断を下す」ことがよい結果を導くことを経験し、業界全体でそれをシステム化していることを知り、有用なチェックリストの作成、運用を追求しているわけです。

カーリングでも、刻一刻と変化するストーンの位置を把握し、氷の状況を読むアイス・リーディングを磨いて状況を判断し、相手が打ってくる手を想定しながら、自ら複数のパターンを想定するという判断を制限時間内に行う必要があります。一人では判断が難しくても、役割分担をした4人が話し合うことでより多くの問題について確認し、チームとして意思決定を行うことができるようになります。おそらくストーンの位置や氷の状況についてチェックリストがあり、それを各選手が確認しているからこそ、それぞれが現状とこれからの問題を話し合うというやり方が定着しているのだろうと思われます。その観点で見ると、ブームに終わらないカーリングの面白さが認識されるのかもしれませんね。

2018年02月11日 (日) | Edit |
実質的な今年最初のエントリで「明日から仕事始めということでヘタをするとまた数か月放っておきかねない」とか書いておきながら1月はパワハラクソ野郎関連でいくつかエントリをアップしつつ、その後やはり1か月ほど放置してしまいました。国会審議が滞っているものの、今回の労基法改正で(一定の条件で)月80時間を超える超勤には罰則が適用される見込みとなっておりまして、まあここ数か月は改正法適用後には罰則が適用されるような働き方をしていたところですので、早いとこ法改正して罰則を適用してほしいものだなあと思うところです。

という働き方をしている中で、これも繰り返しになりますが日本型雇用慣行での業務効率化の難しさを改めて実感したところでして、TLで流れてきた3年前の記事でゆうきまさみ先生がその本質を指摘されていましたのでメモしておきます。

ゆうき:そう。たぶん日本人が苦手なのは目標設定なんですよ。そりゃ、会社とかでも売上目標とかはありますよ。でも、それが本当に達成すべき目標なのか?取り敢えず10億って言っておけば、半分くらいは達成できるだろう、的なことになっていないか(笑)。その辺が曖昧なんじゃないですか?

2002年に「パンゲアの娘 KUNIE」が打ち切りになってしまって、することがなくて日本で開催されたサッカーのワールドカップをずっと見てたんです(笑)。その時、日本代表がどこまで行けるか?ということにみんな不安だったはずなんですよね。その前のW杯では一勝もできなかったんですから。当初、監督や協会はグループリーグ優勝までを目標として体制作りをしていました。で、グループリーグを突破して目標は達成したんです。

――そうでしたね。

ゆうき:本来であれば「よくやった!」と監督やチーム、関係者を褒めるべきだったのに、その後トルコに負けて、ベスト8まで行けなかったので、叩かれてしまったんですよね。あれはおかしいんですよ!

――たしかに。想定外のラッキーだったわけですからね。

ゆうき:目標を立てて達成したら、そこで一回リセットというか、そこからは違う世界、予定外なんだという見方をしないと、ああいう事が起こっちゃう。一番良くない事として、目標を達成して欲をかく、ということが起こりがちなんですよね

(略)

――後藤さんなんかもそうですよね。目標達成したらさっさと撤収みたいな(笑)

ゆうき:とりあえず、もうそれで「お疲れさん」なんですよ。まあ、W杯の場合はそれで終わりって訳には行かないとは思いますけどね。それにしたってね。大会前とグループリーグ突破後の世間の掌の返しっぷりといったらね・・・・・・。

――それも、目標が軽く扱われているというか、単なるお題目に普段からなっているからかも。後藤さんは実は何が重要で何がそうでないかを明確に見定めている

ゆうき:そうかもしれないですね。マンガの終盤で泉がシリーズ終盤の敵となったレイバー「グリフォン」に対して「逃がさなければ勝ちだ」と喝破するシーンを用意したんです。それは彼女が後藤イズムを体得したことの現われだったわけです。 

――なるほど!でもそういう後藤さんのもと、目標を達成し続けるチーム第2小隊は組織としては傍流に置かれ続けるというのは皮肉ですね。

「負けた人列伝」を僕は描きたい

ゆうき:目標をきちんと定めて共有する。所与の目標が達成されたら、そこでちゃんと1回評価しましょう、ということですね。もっと小さなレベルで言えば、「じゃじゃ馬グルーミンUP!」で主人公の駿平が「親父が褒めてくれたことがない」って言い放つじゃないですか。あれですよね。

――父親は「お前はもっとできるはずだ」という信念のもと、良い成績を取っても褒めてくれないんですよね。そんな駿平にとって、牧場は馬を育てあげるという目標がとても明確で心地良い場所だった・・・・・・。小さなレースに勝っても、その度に祝勝会を開く様子が繰り返し描かれてましたね。

ゆうき:そういう場での「よくやった」という一言が大事ですよね。そこで「次へ、次へ」と休み無くやっていると疲れちゃうし、組織としての「遊び」が無くなって行ってしまう。あの牧場の目標はダービー馬を出すことじゃなくて、もっともリアリティのある目標として、生産馬を競馬場に送り出すことなんですよ。

――そこから先は主に調教師の仕事ですしね。

ゆうき:そうなんですよ。

――少年マンガにありがちな敵を倒したらまた更なる強大な敵が、という展開をある意味僕たちは刷り込まれて、望んでしまっているのかもしれないですね。

ゆうき:もちろん、そういう局面とか野望、野心も大事なことではあるとは思うんですけどね。後藤隊長みたいな人が主人公だと少年マンガとして成り立ちませんから(笑)。「オラもっと強い奴と戦いたい」と言う風に、自分が定めた目標なら良いんですよ。でもそれを評価する側は違う視点をもたないといけない

――でも、現実に次から次へより大きな敵(目標)を求めちゃうと。

ゆうき:疲れ果てちゃう人の方が多いでしょうね。どんな社会でも勝つ人よりも負ける人の方が圧倒的に多いんですよ。だから、負けたときどうするか、というのを僕はずっと考えているのかもしれない。

「日本の会社には「遊び」がない–パトレイバー作者・ゆうきまさみ氏が語る組織論(2015年07月30日)」(HRナビ)
※以下、強調は引用者による。

いやもう、首肯しすぎて首が痛くなるかと思いながら拝読して長々引用してしまいましたが、第二小隊の隊員のモチベーションの高さとそれに由来するパフォーマンスは、具体的な個々の目標達成を的確に評価するという上司の存在が大きいのだろうなと改めて認識した次第です。組織のパフォーマンスを確保するためには、組織の目標を具体的な行動にまで落とし込み、それを構成員全員が的確に理解して実行できるように伝えるマネージャー(上司)の存在が決定的に重要です。第二小隊では、そのようなマネージャーを通じて、構成員が組織の目標把握の考え方(ゆうき先生がいう「後藤イズム」ですね)を体得し、それによってその組織が果たすべきパフォーマンスが確保され、その経験や課題を基にして次の具体的な行動につなげていく…という好循環が回っているわけです。『パトレイバー』という作品が、歩行式の作業機械を駆使する警察部隊という(企画された昭和の時代では)荒唐無稽な設定でありながら、警察という組織においてその構成員が仕事を遂行するという点でリアリティを獲得しているのは、こうした組織マネジメントの要諦が織り込まれているからなのかもしれません。

飜って周りを見渡してみると、「目標が軽く扱われているというか、単なるお題目に普段からなっている」光景ばかりが目につくところでして、その象徴が年始以来拙ブログで取り上げているパワハラクソ野郎なわけです。ということを考えていたところで、ゆうきまさみ先生つながりで興味深い記事がありました。



(略)

勿論、ファンの声というのは創作者にとってエネルギーの源泉です。そして、悪評というものも、時には創作の糧になり得ます。それは間違いないんです。

ただ、ゆうき先生の発言に対して、冒頭まとめで時折みられる

「世に作品を出すなら叱咤激励を受けるのは仕方ない。」とか、

「(褒め言葉ばかりでは)いい漫画家が育たない。」

といった反応には、正直なところ「うーーん」と思うところがありまして。

というのは、世の中には、思った以上に「激励のつもりで罵倒しか出来ていない人」が多いんじゃないか、と私は感じているんですよ。

(略)

ただその時、「こういうのって嫌がらせみたいなものなんですかねー?」と言ってみたら、「いや、これで応援のつもりの人も結構いるんだよね…」という言葉が編集さんから返ってきて、それは結構私の頭の中に残っているんです。

つまり、それこそ「悪評が漫画家を育てる」的な信念の元、いわば愛の鞭のようなつもりで罵倒を投げてきている人もいるんだ、と。



そして、そういう人たちは、自分の罵倒が「創作の参考になる批評」だと考えているんだ、と。

はー、と思いまして。

例えばブラック企業では、パワハラ上司の言葉がしばしばやり玉にあがります。徹底的に新人を追い詰めて、辞めさせたり鬱にしてしまったり。ああいう話、結構みますよね。



ただ、ああいうパワハラ上司的な人達も、多くの場合「自分が単に罵倒をしていて、相手を精神的に追い詰めている」とは思っていないんですよね。少なくとも本人の主観的には、あれ、「叱咤激励」のつもりなんです。

自分の言葉を糧にして、相手が強く成長することを願っていたりする。で、言われた方が耐えかねて辞めちゃったら、「なんであれくらい耐えられないんだ」と首をひねったりするわけです。

「「激励のつもりで罵倒しか出来ていないファンの人」と「パワハラ上司」は同じ構図。(2018/2/10)」(BOOKS&APPS)

「世の中には、思った以上に「激励のつもりで罵倒しか出来ていない人」が多い」というのは、「パワーの行使がハラスメントとなる源泉は、実はパワーそのものではなく、OJTにおける試行錯誤にあるのが日本的雇用慣行の特徴だろう」と考える拙ブログの立場からしてもしっくりくるところです。ここ数回のエントリではサイコパス傾向とか一定の性向をもつ方に限定的なような書き方になっていましたが、日本型雇用慣行そのものが上司が職場で部下を指導するOJTを必須とするためにパワハラを誘発しやすい環境にあり、そうしたパワハラOJTで仕事を覚えてきた上司の多くはパワハラOJTでしか部下を指導できないことになってしまうわけですね。

上司-部下の関係における指導ではなく、組織のパフォーマンスを上げるためのマネジメントこそが組織にとって必要なことであって、だからこそ上司はマネージャーと呼ばれます。そのマネジメントに必要な理論をまとめたのが、海老原さんの『マネジメントの基礎理論』と『即効マネジメント』でして、こうしたマネジメントの理論を学んで指導とマネジメントの違いを改めて自問しなければならない方は多いのではないかと思います。まあ有り体にいえば、自分の部署の従業員が期待された成果を挙げていない場合には、その従業員のスキル不足やら姿勢やらを批判して罵倒するだけでは問題が解決しないということですが、さて日本型雇用慣行にどっぷり浸かった現在の上司の皆さんが自らそれに気が付くのはいつのことなのでしょうか。

2018年01月14日 (日) | Edit |
年明けからこの話題ばかりというのも気が引けますが、昨年度末に自治体業界でちょっと話題になったこの件も前回までのエントリの流れで見るといろいろ考えさせられます。

静岡県職員の自殺者が、2009年から2016年の過去8年間で41人に上ることが分かった。川勝平太県知事が12月18日の定例記者会見で明らかにし、朝日新聞等が報じた。

41人の内訳は、知事部局が17人、教育委員会や県警本部が合わせて24人。知事部局とは企業局とがんセンターを除く県庁内の部局の総称で、特定の部局を指すものではない。川勝知事は会見で「鬱積したものがあれば言える環境、言える職場の空気を作っていきたい」とコメントしている

「職員数100人削減」の目標は取り下げたが、人手不足は依然解消せず

自治体職員1000人あたりの年間自殺者数(2015年)は、全国の都道府県・政令指定都市の平均値が0.18なのに比べ、静岡県は0.34と約2倍だ。

過去8年間は、現在知事を務める川勝知事の就任時期と重なる。就任前の8年間(2001年から2008年)の自殺者数が12人だったことを踏まえると、就任後の仕事の進め方や方針転換が影響している可能性もある

県の担当者は会見で、「自殺の原因は本人の健康状態、仕事、家庭など様々」と語っていたが、静岡県職員労組はキャリコネニュースの取材に対し、「人員不足が大きいのでは」との見方を示した。

労組の担当者によると、2015年時点で、年間360時間以上の時間外労働をした職員は1000人を超えていたという。元々予算あたりの職員数が少なかった静岡県だが、ここから更に人員削減を進めたため、職員一人にかかる業務負荷が大きくなっていたようだ。県は昨年12月、行政改革大綱の中にあった「職員数100人削減」の目標を取り下げたが、人手不足は依然解消していないという

残業削減指導するも「声かけが行き過ぎ、かえって時間外勤務を申請しない人も増えた」

(略)
最近では電通の過労死事件を受け、管理職から部下へ、時間外労働を減らすよう指導していたというが、「声かけが行き過ぎ、かえって時間外勤務を申請しない人も増えた」と言う。組合の担当者は

「静岡県の労働環境が他と比べて劣悪ということはありませんが、人員不足は課題。長時間労働の削減方法も、現場から提案するだけでは限界があります。県には、減らす手法を考え提示するよう今後も対応していきたいです」


と話していた。

静岡県職員、過去8年で41人自殺という異常な事態 職員労組は「人員不足が大きな原因」と分析(キャリコネニュース 2017.12.20)
※ 以下、強調は引用者による。

で、これに対する具体的な方策としては、こちらの記事にちょっとだけ記載があります。

知事部局職員、8年で17人自殺 静岡、全国平均の2倍(朝日新聞 大内悟史 2017年12月20日09時16分)

 2009~16年度の8年間で、知事部局の静岡県職員の自殺者が17人いたことが分かった。川勝平太知事が18日の定例記者会見で記者団の質問に答えた。県によると、うち2人が公務災害に認定。県は職員向けの相談・通報窓口への連絡を呼びかけているほか、昨年度からストレス調査を導入するなど対策を講じている。

 県によると、職員数がおおむね6千人弱で推移する中、14年度は最多の5人、15年度は2人、昨年度は2人が亡くなった。15年度の県職員の千人当たりの自殺死亡率は0・34と、都道府県・政令指定都市職員の平均(0・18)の約2倍だった。知事部局が8年間で17人だったのに対し、教育委員会や県警本部などでも同時期に計24人が自殺した。

 今年度は11月末現在で2人が自殺したといい、18日の会見で藤原学・県職員局長は「亡くなった方の苦しい心の叫びを聞くこと、気づくことができなかった責任を感じる」と話した。

 県によると、公務災害に認定された2人は職責の重さや多忙が自殺した要因の一つとみられる。県は昨年度からストレス調査を導入し、ストレス度が高い職員に受診やカウンセリングを勧めているという

 川勝知事は「全国平均の2倍と聞いて驚いた。相談しやすい職場の空気を作っていきたい」と述べた。(大内悟史)

静岡県知事は「驚いた」とのことですから、ご自身にとってはこのくらい自殺するのが当たり前という認識だったのでしょうか。まあもしかすると、こちらの知事にとっては「俺は死ぬほど苦労して学位も取って経済学の分野で名をなしてきたのに、公務員程度の仕事で音を上げるなんてチョロいもんだな」ということかもしれませんが、そのような御仁には「日本型雇用慣行が「社会が要求するレベルの非現実的な高さ」の原因となっていることをもう少し丁寧に議論すべき」ということが理解されることはなさそうだなあと毎度ながら落胆させられます。

実は静岡県については、拙ブログでも8年前に取り上げておりまして、

 このSDOからは、伝票関係のマニュアルやQ&Aが参照できるので、ある程度の疑問は自席のパソコン上で自分で解決できる。もちろん、それで総務事務センターへの問い合わせがゼロになるわけではないが、総務事務の人員を削減する以上、職員が「自分のことは自分でやる」という環境を用意しておくことは、集中化の前提条件となる。さらに今後、電子決裁の範囲が広がれば、集中化のメリットはもっと出てくるはずだ(今のところ、総務事務センターの関連業務で電子決裁が導入されているのは旅費のみ)。
(略)
 総務事務の改革を行えば、これまでは身近にいた総務担当者にお願いすれば済んだことでも、必然的に自分でやるしかなくなる。これを「サービスの低下」と感じる職員もいるだろう。しかし、自治体財政が厳しい中で、“全体最適”を考えるなら「自分のことは自分でやる」という方向での業務改革は避けては通れない。

【静岡県】本庁の総務事務を集中化、アウトソーシング ルーチンワーク外注で県職員の生産性向上を目指す(4)[2002/12/27]」(ITpro


前段の引用部によると、この総務事務の外注化によって削減される人員は20名弱なわけですが、その人員を企画的な業務に就かせることによって生産性を上げる*2のが狙いとのことです。一方で、後段の引用部によると、総務担当にお願いすれば済んでいたことを自分でやるという「サービスの低下」の影響はすべての県庁職員に及びます。これを「トータルで見ての効果は十分上がっていると静岡県では考えている」とする静岡県は、どのような「現場」をご覧になっているのか大変興味深いところです。

「生産性」という言葉は時間当たりとか人当たりとか多義的に用いられるので、ここで静岡県が考えている生産性の定義は推測するしかありませんが、人を減らして生産性を上げるということであれば「生産性=業務/人員」のようなイメージでしょうか。分母の「人員」を減らすことによって生産性が向上するというシナリオですね。しかし、これまで各部署に置いていた総務担当者を削減してその事務を一か所に集中するとなれば、その分「現場」の担当者に事務が降りてくるのは前回エントリで指摘したとおりですし、議会や監査に提出する事務そのものが減少したのでなければ、それはトータルで分子の「業務」を増やすことにつながります。20名弱の人員削減の効果がそれによる業務の分散化に伴う業務増を補うかどうかは慎重な判断が求められるのではないでしょうか。

それよりも、そうした「ルーチンワーク」が総務担当者に集約されていたことが、どれだけ生産性向上に貢献していたかという効果が十分に検証されていたのかが気になります。むしろ、そうした「ルーチンワーク」を担当する職員を「外にも出ないで内勤ばかりしている使えないヤツ」と評価していたからこその外注化だった面があると思われるわけで、ノウハウを知る職員がいなくなるにつれて役所が回らなくなるのも時間の問題なのでしょうね。というか、この記事自体が8年前のものですから、もうそうなっているところもあると思いますが・・・

内部労働市場とキャリア形成(2010年05月16日 (日))
※ 引用部以外の強調は引用時

というエントリが既に8年前となっているということは、16年前から人員削減で生産性向上に取り組んでいる中で、さらに8年前からは現在の川勝知事が就任して「行政改革大綱の中にあった「職員数100人削減」の目標」を掲げていたということですね。まあ私自身は静岡県から遠く離れた自治体の下っ端公務員ですから静岡県庁の内実はよくわかりませんが、とはいえこの光景は公務員なら身近でよく見る光景ではないかと思うところですね。

(2018.1.15追記)
役所というか日本社会で静岡県のような考え方が何の違和感もなく受け入れられるのは、日本型雇用慣行(日本社会の雇用システム)でほぼ説明できることだというのが、ちょうどhamachan先生のところで取り上げられていますね。

会社とは社員と呼ばれる人間の束であり、その各人間に対して、採用当時はそもそもできない仕事を習い覚えてやれるようになっていくことを大前提に社員という身分を付与することが採用であり、労働者側からすれば(間違って「就職」と呼ばれている)入社である社会において、その入社当時には全然できない仕事をできるように努力することが正社員たるものの心得第一条であり、そういう心構えを教えるのが上司や先輩であるのもあまりにも当たり前の話なわけです。

どちらのシステムにもメリットとデメリットがあるということも、繰り返し論じてきたところ。

欧米型のデメリットは、そもそも新規学卒者という、仕事ができないことが大前提である人間は「できないことはできなと言え」という社会では、「ああ、仕事ができないんなら採用できませんね」で、なかなか就職できないということに尽きます。

逆に言うと、何にも仕事ができないことがほぼ確実な若者が労働市場で「仕事ができないなんて言わずに頑張ります」でもって一番有利な立場に立てるような社会は日本以外にはまったく存在しないということでもあります。

だからそれが雇用システムの違い(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳) 2018年1月14日 (日))

ことがスキルの話であれば、ここでhamachan先生が指摘されていることはまさに「当たり前の話」で済ますこともできるのですが、仕事の量とか分担が絡んでくると途端にきな臭くなります。というのも、このような思考回路しかもたない日本の労働者が仕事の分担を考えると、「これまでできないことはないと言ってやってきたんだから、どんな仕事でもどんな量でもできるはずだ」となりがちです。つまり、(正規)労働者が元々何もできない若者だったという前提がある限り、その(正規)労働者はどんな仕事でもどんな量でもこなすことができるはずだし、組織が新しい仕事に取り組むときも現存の(正規)労働者が超勤で試行錯誤しながら何とかしてくれるはずだということになり、結局(正規)労働者を増やすことなく仕事を増やすことができるという幻想が生まれることになるわけですね。仕事量が減らないのはこうした側面が大きいわけですが、さて静岡県はどのような対策を取られるのか生暖かく見守りたいところです。

(2018.1.20再追記)
こんなブコメをいただいたようで、

事情は理解した。しかし結論は「どのような対策を取られるのか生暖かく見守りたいところ」なのである。例えば「自治体の枠を超えて労働構造の変革を勝ち取ろう」などではない。人が死んでいるのにだよ。

morimori_68morimori_68のコメント2018/01/20 11:43

なるほど、本エントリだけをご覧になるとそのような感想になるのかと気づかされました。ご指摘ありがとうございます。

本エントリの冒頭にある通り、年明け以降のパワハラクソ野郎関連でアップしたエントリではありますが、拙ブログの主な関心分野である労働カテではそれなりにこれからの日本型雇用慣行が進むべき方向を考えてはおります。大雑把に言えば、日本型のなんでもできる正規労働者を前提とした慣行から、個々の労働者の制約に応じた職務限定型の労働と、自らが勤務形態(労働条件ではありません。為念)を決定する管理職型の労働を入口(新卒に限らず、全ての昇進は採用です。これも為念。)の段階で峻別する慣行へのシフト(というより、そもそも日本の労働法はこのような社会を想定しています)が必要であり、その実現のためには、労使間でそれを推進する原動力としての集団的労使関係の再構築と、個々の労働者の制約を社会的に保障する再分配政策の拡充が不可欠と考えております。とはいえ、現行の日本型雇用慣行を支える職能資格給制度により、特に企業内再分配の機能(端的に言えば生活給)が強くあまりに堅牢であるため、結論は上記の通り「生暖かく見守る」しかないのが現状だとの認識であることも事実です。われわれ公務員の雇用主(任命権者)は選挙で選ばれる政治家ですが、日本的左派の政党が公務員人件費削減を公約に掲げる現実がありますからね。
立憲民主党「公務員に労働基本権を認め人件費を削減する!!」に左右両方から非難