2019年01月03日 (木) | Edit |
新年早々から昨年度の積み残しで恐縮ですが、プライベートでなかなか辛い時期が続いていた(2017年からのエントリのほとんどがパワハラ関連だったのでお察しというところですが)中で、hamachan先生も取り上げられていた「荻野勝彦×倉重公太朗」対談の最後の部分に思うところが多々ありましたので、去年の振り返りを兼ねてメモしておきます。

倉重:それは面白いですね。なるほど。ありがとうございます。じゃあ最後に、大学でも教えてらっしゃるということですんで、これから世に出ていく、あるいは社会人キャリアが浅くてこれから日本型雇用を進んでいく若者に向けて、キャリア的な観点で、ぜひ思ってらっしゃることがあったらお願いしたいんですけれども。
(略)
倉重:確かに。その仕事なりの、やっぱり意味があるから、そういう仕事があるわけだし。

荻野:そこは強調しますね。個人的な経験からも、それは言えますから。

倉重:そうなんですか。それは最初に人事に就いたときですか。

荻野:どれとは言いにくいですが、長い間にはちょっと気が進まないな、という仕事も何度かありました。まあでもせっかくやるんなら楽しくやらないとつまんないよねと思って、現場に足を運んだりして勉強をしている間に、だんだん面白くなってきて。それがキャリア的に有利だったかというと、まあそうでもなかったわけですが、でもそのほうが幸せに過ごせますよね。これは学生さんとかにはよくお話しします。

倉重:でも、それは結構、キャリアの本質的な話だと思うんですよね。やっぱりキャリアって、私のように結果的にできているものなので、例えば配属になった時点で、俺はこういうキャリアを歩んでいくんだ!なんて分からないじゃないですか。

荻野:分かんないですね。

倉重:そこでちゃんと、やっぱりとことん勉強をして真正面から仕事をやった人と、なおかつ嫌な仕事だなというふうにだらだらやっていた人では、当然、キャリアのでき方に違いというものが出てくると思うんです

荻野:特に日本企業は、仕事は会社が決めるし、転職をすると賃金が下がることが多いし。これもどうしようもないことなんです。それだけ賃金が高いんだと考えなくちゃいけない

倉重:その仕事を選べない代わりの対価として。

荻野:仕事を選べない代わりに。仕事を選べないし、会社の外に出ていたらそのままでは通用しないような能力をたくさん蓄えているわけですから。

倉重:社内スキルが。

荻野:社内スキルが。でも、それに対しても給料を払われているから、転職をすると給料が下がるんだと思えばいいんです。そういった中で、自分で選択をするわけではない形で担当業務が変わることも多いですね。それにいかに柔軟に適合していくかというアダプタビリティーというものはすごく大事なんでしょう

「【荻野勝彦×倉重公太朗】「日本型雇用はどこへ行く」最終回(若者と高齢者と日本型雇用)(2018/12/30(日) 6:00)」
※ 以下、強調は引用者による。

引用部の最後で語られている「それにいかに柔軟に適合していくかというアダプタビリティーというものはすごく大事」という人材育成の考え方こそが、日本型雇用が「メンバーシップ型」である所以ですね。もちろんそれは、何の職業的レリバンスも持たない新規学卒者を一括採用して職場の中で次々に仕事をアサインしながら人材育成しなければならないという現状において、最適化された行動であることは間違いありません。しかし、そうして「最適化された行動」自体がいろいろな問題を内包していて、そのことにそのメンバー全員がわかっていながら、その問題が放置されている原因ともなっているのが実態でしょう。

繰り返しになりますが、私が「パワーの行使がハラスメントとなる源泉は、実はパワーそのものではなく、OJTにおける試行錯誤にあるのが日本的雇用慣行の特徴だろう」と考えるのも、メンバーである限りはどんな仕事でも「柔軟に適合していく」ことが求められていて、それに「柔軟に適合」できない(とみなされる)労働者が非人道的な扱いを受けてもやむを得ないという組織風土が、(多くの方が内心では疑問に思いながらでしょうけれども)受け入れられる現状があるからです。

その一方で、「柔軟に適合していく」労働者は人事や上層部の覚えもめでたく出世街道をひた走るわけですが、そこにも「パワーの行使がハラスメントの源泉となる」一因があります。上記で荻野さんが「せっかくやるんなら楽しくやらないとつまんないよね」とおっしゃるような態度は、実務上必要な仕事であればもちろん有用ですが、問題は理不尽な仕事にまでその姿勢で取り組んだ場合です(おそらく荻野さんもそうした場合があることも認識されているとは思いますが)。つまり、理不尽な仕事といえども自分自身を錯覚させて前向きにこなした労働者にとっては、その前向きな姿勢や労苦が評価されるという効用がある一方で、その他の労働者にとってはその理不尽な仕事が標準の業務として定着するという副作用がもたらされかねません。

いやもちろん、目の前の苦難を楽しむことはサヴァイヴするための重要なスキルではあります。

・・・ユダヤ人が「ショア(大虐殺)」と呼ぶあのホロコーストは、あまりにも非道だった。それゆえに、重苦しく厳粛なトーン以外でその体験が語られることはほとんどない。たしかに、ホロコーストを題材にした笑いは今もなおタブーとされている(メル ブルックスの『プロデューサーズ』のようにヒットした一部の例は除いてだが)。だからといって、ホロコーストのさなかに笑いが皆無だったわけではけっしてない。現在は心理学者としてホロコースト生存者を支援しているチコヴィッツは、こう話してくれた。「最悪の状況でも、私たちは笑っていたわ」。強制収容所のバラックでは、夜、近くで寝ている元売春婦の女性たちが交わす下品なジョークに興味津々だった。強制労働の現場では、同じ製造ラインに立つほかの女の子たちとおかしな歌や馬鹿みたいな話でクスクス笑い合った。それに、今から思えば恥ずべきことだけれど、他人の災難をこっそり心のなかで笑ったことも—。「地獄みたいな飢えに苦しんでいたけれど、それでも私たちは笑っていた」彼女は言う。「きっと、笑いはひとつの解放だったのね」
 解放、癒し、しばしの休息—多くの人が、ホロコーストのような恐ろしい苦境で生まれるユーモアをそう解釈している。「ホロコーストにおけるユーモアは、楽しむためでなく、人生を肯定するためのものだった」『地獄のなかの笑い ホロコーストにおける笑いの効用(未訳: Laughter in Hell: The Use of Humor During the Holocaust)」の著者であるスティーブ・リップマンはそう指摘する。「それは対処ツールであり、逃避であり、一歩引いて小さなことから状況をコントロールしようとする手段なのだ」と。同じことが、いわゆる「絞首台のユーモア」にも言えるだろう。絶望的な状況で自らの運命を笑うそのユーモアは、フロイトに言わせればこう解釈できる。「人間の自我は、現実がもたらす刺激に苦痛を感じるのを嫌い、苦しみを強いられることを拒む。外界からのトラウマに影響されるなどあり得ないと主張したがる。だから、そんなトラウマは自分にとっては笑える程度のちっぽけなものだと身をもって示そうとするのだ」
p.48
世界"笑いのツボ"探し
ピーター・マグロウ/ジョエル・ワーナー 著
柴田さとみ 訳
ISBN978-4-484-15112-0 C0098
2015.4発行



目の前の苦しみがどうしても回避できない場合に、それをユーモアに変えて楽しむことでサヴァイヴする可能性が高くなることはありうるでしょう。しかし、仕事においてどうしても回避できない苦難はあるでしょうけれども、それを楽しんで乗り越えるようなサヴァイヴァーばかりではないはずです。ましてその苦難が「柔軟に適合」できない(とみなされる)労働者が非人道的な扱いを受けてもやむを得ないという組織風土」に由来するものであるならば、その組織風土を受容しているメンバーがそれを楽しむというなかなかにグロテスクな光景が広がることになります。昨年頻発した企業の不祥事の多くがここ数年ではなく数十年にわたって現場で引き継がれてきたのも、こうした背景があるのではないかと思うところです。

そして、その組織風土の中で「柔軟に適合していく」と評価される労働者が、その組織の中で重要なポストを占めるようになっていくわけですが、人事評価の基準となる職能資格給制度においては、実はキャリアの途中まではそれほど明確な処遇の違いはありません。というより、「柔軟に適合していく」労働者には微妙な昇進の違いやいわゆる花形といわれる部署への異動によって徐々に組織風土になじむキャリアを積ませていき、40歳を過ぎた頃からその差を踏まえて役職に登用するなどにより明確にコースを分けていくことになります。

まあそもそも上記で引用した荻野さんのアドバイスは、倉重氏が「これから世に出ていく、あるいは社会人キャリアが浅くてこれから日本型雇用を進んでいく若者に向けて」と振っているように、あくまで将来の幹部候補たる正規労働者として採用され、当面は微妙な差しか付かないような概ね30代前半以下の方に向けてのものです。つまり、40歳を過ぎて「柔軟に適合」できなくなった労働者、もっといえば出世街道からはずれて「柔軟に適合」する必要がなくなった労働者にとっては、このアドバイスはあまり参考にならないということになります。えーどうしようという私のような中高年労働者の皆さんにも、荻野さんは最後にアドバイスされています。

荻野:・・・逆に、しょうがねえなと思って諦めたっていいんですよ。いまの日本の正社員なら、それで失うのは将来のキャリアだけ。それにどれだけ価値があると思うかですね。それは案外、あまり意識されていない、日本の人事管理のいい面かもしれないんですよ。

倉重:ということですよ。結局、その会社での出世争いが全てじゃなくて、自分が納得する人生を送れるかですから。

荻野:まあそうなんでしょうね。日本の正社員は全員社長候補かもしれないけれど、実際に全員が社長になるわけじゃない。海老原嗣生さんの本によれば、ある企業に入社すれば、まあ2割か3割は部長クラスになれるそうですが、まあ、どこかでは天井を打つんです。そのときにどうするかですよね。そこから、仕事も大事だけれど、もっと家庭を大事にしようとか、地域とつながってみようとか、仕事以外のことに目を向け始めても、たぶん遅くはないと思うんです。

倉重:だから、そういうやっぱり仕事の外のつながりとか関係性というものは。

荻野:それはとても大事だと思います。

「【荻野勝彦×倉重公太朗】「日本型雇用はどこへ行く」最終回(若者と高齢者と日本型雇用)(2018/12/30(日) 6:00)」

もしかするとそれこそが海老原さんが「「ある年代までは日本型、そうして習熟を積んだあとは欧米型」という接ぎ木型」として提唱された働き方につながるのかもしれませんが、それを荻野さんは「日本の人事管理のいい面かもしれない」と指摘されるわけです。つまり、わざわざ法制化などの対応をしなくても、現行の日本型雇用管理の枠の中で可能との見立てではないかと見受けるのですが、「出世争い」から降りるという選択肢がどのように実現されるのか、それに対して職能資格給制度はどのように変容するのか、考えるネタはいろいろありそうですね。

2019年01月03日 (木) | Edit |
昨年中は多くの方々にコメント、拍手、ぶくま、tweet等々いただきありがとうございました。
本年も引き続きご愛顧のほどよろしくお願いします。

というわけで初詣しておみくじ引いてみました。

【吉】 (No.65402) モナー神社
願事 : 遅かれど思う通りになるべし
待人 : 思う日までに来るべし
失物 : 高き処にあり
旅立 : さわりなし
商売 : 物の価下がる買うは悪し
学問 : 困難 勉学せよ
争事 : 勝てど難有り
転居 : 急がず行えばよし
病気 : 少々悪し 信心せよ
縁談 : 人に頼めば早く調う ひそかにして宜し

昨年までの戦績が大吉→吉→吉→吉→大吉→大吉→大吉→大吉→末吉→大吉→吉でしたので、2年連続の吉で通算戦績は大吉6回、吉5回、末吉1回となりました。flash廃止の2020年末までですのでモナー神社詣でもあと1回を残すのみとなりまして、大吉5割超えは来年に持ち越しのようです。

ということで、今年も無事これ名馬を心がけて参りたいと思います。

2018年12月23日 (日) | Edit |
これもまた積み残してしまっておりましたが、『HRmics vol.31』をご恵投いただきました。いつもながらありがとうございます。
http://www.nitchmo.biz/hrmics_31/_SWF_Window.html

ということで表紙を拝見したら「M&Aがあるじゃないか!」ということで、いつもの雇用問題からテーマを変えられたのかなと思って読み進めると、なるほど、人材確保の手段としてM&Aを活用することができるということなんですね。経産省から東京商工会議所が受託している「東京都事業承継引継ぎ支援センター」の木内氏がこう指摘されています。

 いくら採用活動を行っても、欲しい人材を獲得できない。であれば、人材を会社や事業ごと買収してしまおうと考える会社が増えているのです。先の約1,000社の中にも、そうした人材獲得目的のM&Aを思考している会社が多くあります。
 その対象となるのは専門的人材で、なかでも人気なのはシステムエンジニア(SE)、建設業に従事する職人や現場監督ができる人材などです。SEの在籍数が数名でも、年齢が若く、経営内容もよい会社ならばぜひとも買いたいという会社もあります。それだけ人手不足が深刻なのだと思います。

東京都事業承継引継ぎ支援センター 木内雅雄氏『HRmics vol.31』p.23

とはいえ、これはやや大雑把な分析でして、海老原さんは「ホワイトカラーの人手不足は景気によるもの、非ホワイトカラーは構造的なもの」とした上で、次のように指摘します。

 そこで政府は非ホワイトカラー領域に外国人材を活用しようと、技能実習生の対象職務拡大、在留期間の延長、受け入れ枠の拡大を行った。それでも足りずに、昨今は新たな在留資格をつくり、サービス業にまで外国人の労働者を受け入れる方向に歩を進める。
 その前に、やるべきことはないか?
(略)
 一番の解は、よき中小企業が核になり周辺領域の中小企業を集め、資金力で環境を改善し、同時に生産性を高めていく。これなら垂直分業の中で同じ階層にいる者同士の効率的な集約だから無理はないだろう。

Conclusion『HRmics vol.31』p.24

これは、『「若者はかわいそう」論のウソ』で「高卒に対する労働需要を作り出すとともに、中小企業を含めた就職口とのマッチングの仕組みを拡充することが雇用対策として求められるわけで、第4章でその対策が示されています」として示されたいた公的派遣のような形で、中小企業の採用の負担を共同して分担しようという取組の延長線上にあるように思います。中小企業の人材確保はいつの時代も難しい課題ですが、それも時代が進むとともに対応が変わっていくということなのかもしれません。

さらに、hamachan先生の連載「原典回帰」ではサンフォード・ジャコービィの『会社荘園制』が取り上げられているのですが、hamachan先生がブログで

・・・『会社荘園制』はその裏側でひっそりと生き延び、やがて組合の弱体化とともに勢力を拡大してきたノンユニオン型あるいはむしろ会社組合型の内部労働市場の歴史を描いているのです。なぜそっちを取り上げるのか?それは、それがいくつかの点で、日本的なメンバーシップ型の内部労働市場と似通った性格を示しているからです。


「サンフォード・ジャコービィ『会社荘園制』@『HRmics』31号(2018年12月 2日 (日))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))

と引用されている通り、日本型雇用慣行におけるメンバーシップ型と類似したアメリカ企業が取り入れられていて、中でも2012年に破綻したコダックの労使関係が紹介されています。それを読むと日本型雇用慣行は、欧米と日本の文化の違いということではなくどこにでも発生しうるとともに、本文の最後では富士フイルムと対比させて、片や時代の変化に対応できず破綻したコダックとの違いが示唆されており、なかなか考えさせられますね。

2018年12月23日 (日) | Edit |
気が付けばいつものように1か月ほど更新が滞っておりまして、それに加えて世の中はクリスマスから年末年始モードへまっしぐらという時期になってしまいますので、拙ブログも今年のネタは今年のうちに消化してしまいたいということでできるだけ片付けてしまいたいと思います。

というマクラからで大変恐縮なのですが、hamachan先生の『日本の労働政策』第二版(?)を拝読…というより入手しました。いやまあこの厚さはまさに枕…などと失礼極まりないこといっている場合ではありませんで、2004年に発行された第一版(?)の倍以上のページ数となっておりまして、ハードカバーのためイメージ的には3倍近くの厚さではないかと感じます。それでいて第一版の4,800円(税別)に対して3,889円(税別)という大変お買い得なお値段でして、早速近所の書店で取り寄せして入手した次第です。

個人的には、第一版の冒頭で「労働法政策の序章という位置づけではなく,内容的には独立したエッセイとして読まれるべきものである」と宣言して異彩を放っていた「労働の文明史」がどのように改訂されているのかに注目していたのですが、残念ながら第二版では丸々カットされてしまっていました。まあ、「文明史」ですから10年程度の間隔でその都度改訂する必要はないとも思うのですが、その最後の部分でのこの見通しについては、引き続き意識していくべきではないかと思うところです。

自己労働ネットワーク社会へ

 改めて振り返ってみれば,近代産業資本は商人資本に由来する自己資本と独立生産販売者に由来する自己労働の結合が生み出した存在であった。そして,自己資本の実質的他人資本化ととともに,自己労働者としての経営者が20世紀の指導階層となった。今一見それを揺るがしているかに見える「株主主義」は,実は富裕化した労働者の貯蓄が生み出したものである。この皮肉な構造の中に,21世紀システムの方向もまた透けて見えるのではないだろうか。
(略)
 第三の方向は,富裕化した労働者の貯蓄が金融市場の中で資本の論理の体現者となってしまている事態の転換である。戦後日本の会社主義においては,株主の持ち合いによって株主の行使可能な権利を可能な限り縮小するとともに,法制的には会社の主権者であるはずの株主を総会屋という非合法な私的暴力装置を用いることで圧伏するというやり方で資本の論理を抑制していたが,このやり方がもはや持続可能でないことは明らかとなっている。それに変わる手段は,金融市場で資本の論理を振り回している者は代理人にすぎず,依頼主である労働者層の利益に反することは許されないということに立脚すべきであろう。「企業の社会的責任」という概念も,まずはそこから出発する必要があろう。
pp.26-27

『労働法政策』
濱口 桂一郎 著
政治・法律
2004年06月10日
ISBN 9784623040728
A5・536ページ
本体4,800円+税


歴史の巡り合わせというか、第一版が発行された2004年はホリエモンこと堀江貴文氏がライブドア事件で一躍有名になりながら野球の球団(現在の東北楽天ゴールデンイーグルスとなる近鉄バッファローズ)を買収しようとしたり、そこから2006年の村上ファンド事件に発展したりと、「金融市場で資本の論理を振り回している者」がまさに「労働者層の利益に反すること」を堂々と繰り広げる時代が継続しているようにも思われます。

その後の時代背景については、拙ブログでも9年半ほど前に、

特に経営悪化時においては、株主配当と労働者人件費はトレードオフの関係にある以上、どちらかが多ければ他方は少なくなるわけで、それを「投資家にとっては状況が改善するかどうかが問題」として考えたとき、労働者に対する配分が多いことがどう影響するかというのは一概には判断できないのではないかと。というか、株主はそれを含めて投資の判断をする必要があるんでしょうね。

と考えてみると、反共の牙城であるアメリカにおいて労働組合が本来の機能を果たす一方で、戦後長らくアカデミズムや論壇の左派思想が労働運動を支えていた日本において集団的労使関係が絶滅の危機に瀕しているというのは、なかなか理解し難い現象です。

ただまあ、株主配当が増えれば「大企業が弱者から搾取している」と騒いで、労組が配分を獲得すれば「労働貴族が暴利をむさぼっている」とか騒ぐようなマスコミしかないという現状を見れば、そんな日本の光景になんとなく納得してしまいますが。

「株主と経営者と労働者(2009年06月05日 (金))」

というようなことを書いておりまして、企業内部のステークホルダーとしての労働組合と株主の関係が、hamachan先生の指摘によると実は労働者の富裕化によって一体化している一方で、上記エントリで引用したkumakuma1967さんの指摘によれば、アメリカにおいては「経営が弱すぎた」故に経営破綻に追い込まれたとの評価を受けてしまっていたわけです。そしてその度合いは、「反共の牙城であるアメリカにおいて労働組合が本来の機能を果たす一方で、戦後長らくアカデミズムや論壇の左派思想が労働運動を支えていた日本において集団的労使関係が絶滅の危機に瀕している」という状況でして、それは現在も変わっていませんね。

というような集団的労使関係が絶滅しかかっている中ではありますが、実は第一版から第二版の間に集団的労使関係法制が動きかけたことがあります。というのは、そもそも労働基本権が認められていない公務員について、一時期労働基本権を復活させるべきという議論が進められ、国会に法案が提出される段階まで至ったんですね。

(4) 国家公務員労働関係法案

 その後(引用注:2011年4月の国家公務員制度改革推進本部「国会公務員制度改革基本法等に基づく『全体像』について」発表後)、同年6月、国家公務員の労働関係に関する法律案ほか関連法案が国会に提出された。その内容は以下の通りである。
(略)
 もっとも、同法案は国会で全く審議されることなく、2012年12月の衆議院解散で廃案となった。

(5) 地方公務員法関係法案

 こうして国家公務員の集団的労使関係システムの見直しが進む以上、それと平仄を合わせた形で地方公務員についても見直しが必要となってくる。
 総務省は2011年6月、「地方公務員の労使関係制度に係る基本的な考え方」をとりまとめ、意見募集を行った。その内容はほぼ国家公務員労働関係法案に沿っている。これに対し、知事会や市長会など地方公共団体からは「二元代表制、地方公共団体の規模や任命権者の多様性など、地方自治制度の特性を踏まえた検討を行うこと」など、強い慎重意見が出された。
(略)
 しかし、同年12月の衆議院解散で国家公務員関係法案と同様廃案となり、同選挙で自由民主党が政権を奪取したことから、この形で成立する可能性はなくなった。
pp.960-963

日本の労働法政策
定価: 3,889円+税
2018年10月30日刊行 A5判 1,074頁
濱口桂一郎[著]
ISBN978-4-538-41164-4


2011年4月以降の動きというと、拙ブログとしては東日本大震災発生直後の対応に追われてほとんどフォローできていない時期なのですが、その前の段階ではいろいろフォローしておりまして、その法案提出に至る経緯はあまり筋のいいものではありませんでした。

さらにいえば、そういった労働者同士の牽制が「お客様は神様です」的消費者天国を作りだし、他の労働者に対しては「経営者目線」で労働条件の引き上げを阻止する風潮につながっているように思います。「みんなが我慢して「お客様という神様」のために働いているのに、あいつらだけが労働条件を向上させるなんて許せない!」とお互いが考えているうちは、誰もがまともな労働条件で働くことは望めません。それが「引き下げデモクラシー」だったり、「会計検査院とオンブズマンが作り出すすばらしき世界」だったりするわけで、労働組合が支持母体となっている現政権下でもこんなマニフェストが作られる始末。

「公務員庁」を検討、民主が参院選公約に(2010年4月23日00時17分 読売新聞)※リンク切れ

 民主党は22日、夏の参院選公約に、公務員制度改革の一環として、国家公務員の定員や給与などを管理する「公務員庁(仮称)」の設置を盛り込む方針を固めた。

 公務員の労働基本権を回復した場合、労使交渉の政府側窓口とする。労使交渉によって国家公務員の人件費2割削減を目指す考えだ。

 公務員庁は、幹部職員人事を一元管理する内閣人事局とは別に設置し、幹部以外の職員の定員管理や給与制度管理を集約する。労使交渉を担当する閣僚を置くことも検討する。

 民主党は昨年の衆院選政権公約で「公務員の労働基本権を回復し、民間と同様、労使交渉によって給与を決定する仕組みを作る」としていた。

※ 以下、太字下線強調は引用者による。


・・・本来なら労働条件を向上させるための労使交渉によって人件費を2割削減するという、憲法の趣旨と矛盾しまくった主張が何の驚きもなく受け入れられるというのが、現在の「お客様は神様」的消費者天国たる日本を象徴していますね。

「協力を壊すのは誰か(2010年05月03日 (月))」

労働条件を引き下げる法改正は順調に進むのが現状であることを考えると、労働時間に物理的な上限規制を設けた労働基準法改正が今年成立したことは、第一版と第二版の間に実現した最重要案件だったのだなあと改めて思います。本書は労働法政策の立法過程を詳述したものではありますが、こうした経緯を確認し、それを踏まえて立法過程を構築するために参照するというのがその重要な役割ではないかと思います。

例えば今回の労基法改正についていえば、「働き方改革」という政府のうたい文句で進められたことが改正案成立に至った原動力ではありますが、野党はむしろ「残業代ゼロ法案」としてこれに反対していましたし、その「働き方改革」自体もデフレ脱却を掲げる政府が成り行きで掲げざるを得なかったという流れもありそうです。それぞれの立場で提案、修正される法案の内容を見ればそのせめぎ合いが垣間見えるわけでして、本書が政策過程論の基本書として長く参照されることを期待いたします。

2018年11月24日 (土) | Edit |
軽減税率をめぐる迷走が日々混迷を深めているわけですが、中田大悟先生が4回にわたってその弊害を主に経済学的な見地から指摘されていました。拙ブログは軽減税率に一貫して反対の立場ではありますが、こうしてまとめていただくと私自身の頭の整理にもなるので、ぜひ多くの方に読まれていただきたいと思います。

なぜ軽減税率は最悪の選択だったのか(1)- 資源配分のゆがみ(10/18(木) 15:01)
なぜ軽減税率は最悪の選択だったのか(2)- まやかしの逆進性対策(10/21(日) 1:22)
なぜ軽減税率は最悪の選択だったのか(3)- 膨れ上がる徴税コスト(10/30(火) 10:51)
なぜ軽減税率は最悪の選択だったのか(4終)- 軽減税率をめぐる誤解や錯誤(11/4(日) 17:27)

とはいえ、1回目から3回目までの経済学的な分析はおそらく実務的にはほとんど顧みられることはないだろうと思います。それはもちろん、現実の政策は必ずしも教科書的な説明の通りにはいかないという現実主義的な偏見によるところもあるかもしれませんが、「政策は、所詮、力が作るのであって正しさが作るのではない」という権丈先生の箴言の通り、リクツなんかで世の中は動かないという要素が大きいといえましょう。

私も3回目までの指摘だったら特に取り上げる必要もないと思ったんですが、4回目の議論は現実の政策過程を考える上で大変示唆に富む内容となっていると思います。

「欧米では一般的だ」

(略)
つぎに、欧米では長年にわたって軽減税率が定着している、という主張です。これは、特に欧州での軽減税率の導入の過程を無視した議論です。

歴史的に、付加価値税(消費税)が最初に導入されたのは、1960年代から70年代にかけての西欧諸国です。これらの国々は、経済統合を目指すために各国の財政状況を調整する必要がありました。そこで、付加価値税を導入して、売上税などの既存税制の整理が行われたのです。ですが、この時すでに、さまざまな個別消費税などが設定されており、それらを一足飛びに単一税率の付加価値税に統合することは政治的に不可能でした。これらの国々では、付加価値税が10%以上でスタートしています。この高税率に、ゼロ税率や非課税、低税率のもの全てを同時に統合するのは難しかったのです。

その結果として、西欧各国では、数多くの軽減税率が導入されることになります。つまり、欧州各国での軽減税率の殆どは、付加価値税導入のために政治的な事情で入れざるを得なかった税率、と解釈することができます。西欧諸国は、この後、軽減税率をなんとかして簡素化、廃止したいと悪戦苦闘しますが、政治的な圧力から、止めるに止められない税制として存続させざるを得ず、今日に至ります。

(略)

軽減税率のもうひとつの「メリット」

痛税感に関連して、軽減税率がもたらすもうひとつの「メリット」についても説明しましょう。

軽減税率は、それが消費者の認識バイアスや錯覚に起因するものとしても、消費者にとっては、納得しやすい税制です。これを利用すれば、軽減税率によってさらなる消費税増税が容易になります
(略)
この抵抗感の減少こそが、軽減税率の最大の「メリット」と言って良いでしょう。先に述べた、付加価値税を初期に導入した西欧諸国は、一般に非常に高率の標準税率を設定しています。なぜ、このような高率の税率(概ね20%以上)を設定できるのでしょうか。ここに軽減税率が寄与しています。軽減税率があるからこそ、その国の国民は、増税を受け入れやすくなるのです。

なぜ軽減税率は最悪の選択だったのか(4終)- 軽減税率をめぐる誤解や錯誤(11/4(日) 17:27)
※ 太字強調は原文、太字下線強調は引用者による。


ほかにも税制改正のオーソライズの所在の問題など興味深い論点がありますが、結局のところ軽減税率という「分かりやすい」対策が取られなければならないほど、この国における「痛税感」が強いということなのでしょう。

この点については、拙ブログでも

ということで、私のような下っ端地方公務員はことの成り行きを見つめるしかないわけですが、付加価値税率が高いヨーロッパ各国で軒並み軽減税率が導入されているのは、増税に対する抵抗をいくらかでもそらなければならないという政治的な事情が大きいのではないかと思います。そうした側面については、abz2010さんのご指摘が参考になります。

そして、ここから派生するもう一つのメリットは消費税率の上げ下げが比較的容易になることである。 もちろんどのような形であっても増税には常に逆風が吹くわけであるが、 生活必需品を軽減税率の対象とすることにより、「低所得者への負担増が・・・」、「逆進性が・・・」といった消費税増税の本質的な問題を(相対的にではあるが)軽減できる為、消費税増税(減税)をフレキシブルに実施することが可能になる。(念のために書いておくと、上記は軽減税率そのものが低所得者対策として有効という話ではなく、消費税増税による低所得者の負担増を相対的に軽減する事ができるという話である。尚、より直接的な低所得者対策が必要であれば消費増税で得た財源を元手に別途行なえばよい。)
(略)
そして欧米並みの税率となるまでの道程とそうなった場合の低所得者への配慮を考えるとこのあたりで軽減税率の議論を真剣に行うことは避けては通れないだろう。 もちろん軽減税率の代わりに低所得者用の還付金を採用する等、他の方策も十分検討の対象となりうるが、「生活必需品の税率は軽減される」という基本部分のわかりやすさ・納得感も考えると軽減税率も巷でやたらと批判されているほど悪いものでもないというのが筆者の考えである。

「軽減税率のメリットについて(カンタンな答 - 難しい問題には常に簡単な、しかし間違った答が存在する2014-11-25)」



個人的には、軽減税率を「批判されているほど悪いものではない」とまでいえるかはかなり疑問ではありますが、政治プロセスを考えると「議論を真剣に行うことは避けて通れない」というのはその通りだと思います。そして現在、軽減税率の導入のためにどの財政支出を削るかという真剣な議論が行われているところなわけでして、政治的プロセスの中で経済学的な正しさがどのような行方をたどるのか大変興味深いですね(なお、社会保障の財源を公債に頼ることは、スティグリッツの批判の通り軽減税率と同じくらい公共経済学的に無理筋だろうと思います)。

軽減税率のメモ(2015年11月03日 (火))

ということでabz2010さんのご指摘を参考としてメモしておいておりましたが、政治的なプロセスを考えると、軽減税率という「分かりやすい」政策でもって財政錯覚を起こさせて、消費税率引き上げという実を取る戦略と捉えることもできるかもしれません。

とはいえ、「世界一の高齢化率を誇る日本で高齢者向けの年金給付が社会的支出の半分を占めているといっても、まあまだ低い水準といってもよさそうなものです。いうまでもなく、現役世代向けの現金給付や医療などの公共サービスの水準が高いフランスやスウェーデンでは、その社会的支出を支える国民負担率が高いわけでして、その3分の2程度の国民負担率しかない日本では、現役世代向けの現金給付や公共サービスがクラウディングアウトされるのは当然の成り行きでありましょう」という現状において、これほど痛税感を強く感じる国民性がなぜ形成されたのかを考える必要もあるのではないかと感じるところです。

結局、生活を保障するのは(民間と公務員の別にかかわらず)使用者であって政府ではないという、世界に類のない小さな政府かつメンバーシップ社会が現出することとなったわけですね。という次第で、いまや「可処分所得を確保するために正社員を増やせ!経済成長のために増税なんてけしからん!」などと知った顔して声高に煽る方々が「経済左派」を自称される世の中になってしまったわけでして、市民を雇わない国家どころか、市民の生活を保障しない国家と人手不足でも職能資格がなければ賃上げをしない社会をつくり出したのは一体誰だったんだろうと考えてみるのもまた一興です。

市民の生活を保障しない国家(2018年07月21日 (土))