2017年04月19日 (水) | Edit |
震災から6年を過ぎて業務で被災地支援に当たることも減り、拙ブログでも震災関連のエントリは激変しているところでして、被災した沿岸部から遠く離れた内陸部からは窺い知れない部分も増えてきました。そんな中で被災された地域から貴重な情報発信を続けていらっしゃるhahnela03さんの最新エントリでは、復興の進み方(進め方)が引き起こしている問題が鋭く指摘されています。

 大槌町の復興の遅れは、防潮堤建設の際に共産党系の反対する方たちの「巨大な防潮堤ガー」ということによるものです。地下水脈が豊富に流れる町内を嵩上げせずに再建させるには震災前より大きい防潮堤整備と非難道路の整備を行うことで、自然環境を温存しつつ町内再建者を増やし、人口流出を抑制するという考え方によるものです。ですが、当時、反対派は安倍首相夫人が城山体育館に来訪されて際に、「安倍首相夫人も疑念があると発言した」と政治利用をしたのです。上手に利用されたわけですね。
 それにより大槌町の復興計画は狂いこの6年で住民の流出はとどまるところを知らず、復興後の予測でも人口は半減する方向へ反対派によって誘導されていったのです。嵩上げの選択が復興を遅らせることは当初から分かっていたことで、これを後押ししたのが、メディアによる報道でした
 明治・昭和の津波の際の高台移転の事例や津波石などを取り上げ、住民を誘導して言ったのです。それをさらに利用したのが東京のNPOによる「桜植樹」「鎮守の森」等の植樹募金ビジネスです。浸水地域という穢れた土地という設定の下に、復興計画が住民の意思から乖離して行き復興はどんどんずれ込んでいくようになりました。

「津波被災の記録146(2017-04-09)」(hahnela03の日記)
※ 以下、強調は引用者による。


大槌町については、拙ブログでも3年ほど前にNHKの番組での議論の様子を取り上げたことがありました。

番組では住民の皆さんが真摯に向き合って話し合う中で、様々な立場から意見が述べられていました。番組を見た範囲で私なりに大きく意見を分類すると、防潮堤の高さを低くすべきという意見としては、

  • 高い防潮堤があると景観が損なわれる。
  • 高い防潮堤が町を守るという安心感から防災意識が低下して、津波警報が出されても逃げない人が増える(今回の震災ではそのような状況で命を落とされた方も多くいた)。
  • 奥尻島でも町を囲む防潮堤を完成させて復興宣言もしたが、重要な地場産業である漁業が衰退し、人口減少が止まらない。
  • 防潮堤の高さを下げることによって予算を浮かせ、高台移転や避難路などの防潮堤に頼らない防災対策に予算を使うべき。
  • 防潮堤などの規模が大きくなると、維持管理・補修などの後年負担が大きくなる。

というところだったと思います。これに対して、計画通りの防潮堤とするべきという意見としては、
  • 防潮堤を低くすると浸水区域が広くなり、避難するのに時間がかかって足腰の弱い高齢者などが逃げ遅れるおそれがある。
  • 防潮堤の高さを前提として、避難路、公共施設の設置場所などの計画が作られており、防潮堤の高さを変えると計画全体を見直す時間がかかる。
  • すべての計画を作り直すために時間をかけるより、早く復旧させることを優先すべき。
  • 高齢者などの足腰の弱い住民が安心して暮らせるようにすべき

というところだったと思います。

「守るべきもの(2014年03月15日 (土))」


震災後3年の時点の上記のような議論からさらに3年が経過した現時点では、後者の意見の悪い点の方が目立っているということかもしれませんし、あるいは前者の意見で優先された点の利点がまだ顕在化していないということもいえるかもしれません。しかし、これらを組み合わせて考えてみたときに、後者の立場で懸念していた事態が発生している(と思われる)現状から、前者の立場から主張された利点が今後それを補うだけ顕在化していくのかは、より長いスパンで評価しなければならないように思います。というより、その長いスパンがかかるということ自体が後者の立場からの懸念だったわけでして、まさに守るべきものの評価は多様であり、それこそが意思集約の困難さを物語るものだろうと思います。

そのほか、ラグビーワールドカップに向けた競技場建設が建設地の復興事業の進捗を妨げているというご指摘も重要だろうと思いますが、もう1つ気になったのはこのご指摘です。

 みなし仮設に居る方達も含め医療費無料化が続いています。民進党と共産党によるものではありますが、これは事実上の県立病院対策でもありますが、それにより被災者は生活保護相当の扱いを継続していると言うことでもあります。生活保護と違い所得の把握をしないため、貯金が随分たまったと言う声もあるようです。そのため被災地の住民からもあまりよく思われていないです。これが住民対立へと向かうことになるんでしょう。
 県立病院以外の民間病院も恩恵は受けていますが、昨年から患者数が減ったということなので、転換点に来たのかと感じる出来事です。
 生活保護相当の扱いを受けた方達が、そのまま生活保護へ向かうのか、その際の所得管理等の把握のためマイナンバーが機能するかどうかということも含めいろいろと転換する動きを感じる6年と約1ヶ月です。

「津波被災の記録146(2017-04-09)」(hahnela03の日記)

医療費の無料化はいわゆる所得再分配に相当するものですから、生活保護相当の扱いというのはその通りだと思うのですが、それがミーンズテストを伴わないものであるため、所得がある層であっても可処分所得としてではなく貯蓄として積み重なっているとのこと。医療そのものは現物給付であるとはいえ、その無料化による現金給付相当の再分配が行われた場合、可処分所得の増加によって消費が増えるというどマクロな方々の想定通りに事が運ぶわけではなく、相当程度は貯蓄に回るのが実態なのでしょう。

その説明として、経済学方面からは将来の増税に備えて将来不安があるからというリカードの中立命題を持ち出して、だから永久国債などという威勢のよい主張がされているようですけれども、こうした実態を見るにつけ、必要な医療・介護・保育などの公共サービスの供給体制が公費で賄われ、その利用が必要原則に応じたフリーアクセス(この「フリー」はいつ誰でも自由にという意味ではありません。為念)を確保することのほうが優先だろうとは思います。まあ、こんな「経済学的に正しい」とは認められない議論には誰も振り向きもしないでしょうから、この状況は相変わらず続いていくのでしょうけれども。

2017年04月16日 (日) | Edit |
さて、再び1か月以上間が空いてしまい、過労死認定レベルの超過勤務ですっかりネタが貯まってしまっていたところではありますが、実はこの間に私淑している某先生にお会いする機会があるなどありつつも、この社畜ライフの中ででいろいろと考えたことがありましたので、忘れないうちにメモしておきます。

というのは、その過労死認定レベルの超過勤務が許容される日本型雇用慣行では、その大きな特徴としてOTJ挙げられるところでして、今更ではありますが、そのOJTが日本型雇用慣行における長時間労働の根源ではないかと思うわけです。もちろん、こうした指摘はこれまでにもhamachan先生や海老原嗣生さんをはじめ、日本型雇用慣行の実態を踏まえた議論をされている方々から散々されていたものではありますが、「働き方改革」をめぐる議論を見ていていると、その辺は華麗にスルーされているのだなあなどと思うところです。まあ簡単に言えば、現在の長時間労働を削減しなければならないとなったときに、どんな業務が真っ先に削減されるかと考えれば、自分以外の従業員に業務を教えたり指導したりする業務だろうと。

日本型雇用慣行はメンバーシップ型だからとか欧米ではジョブ型だからとか単純な切り分けはできないとしても、大雑把に言えば、「白地の石板」たる無垢な新卒採用による正規労働者が基幹業務を担うメンバーシップ型と、ある程度の職業能力を前提に入職するジョブ型を比較すれば、入職後にその職業能力を高めるための労力は前者の方が多く必要となるはずです。つまり、「白地の石板」が職務遂行能力を身につけていっぱしの業務を担える「メンバー」になるためには、通常の労働時間に加えてその職務遂行能力を身につけるための追加的な労働時間が必要となる場合が多くなるわけです。

この点不利だと言われるのが、結婚前なら気を遣って時間になれば早く帰れと言われ、結婚して育児が始まると否応なく早く帰らなければならない女性労働者であったり、何らかの事情や疾病などの影響により、8時間を超えて(場合によっては8時間以内でも)就労することが難しい障害者や難病患者であって、そのために就労支援などが行われているのですが、hamachan先生の言葉をお借りすると、その就労支援はあくまで追加的な「第2次ワークライフバランス」でしかありません。日本型雇用慣行で必要とされる職務遂行能力そのものには全く手がつけられておらず、従ってその習得に必要な労働時間が組み込まれた正規労働者の「第1次ワークライフバランス」は相変わらず長時間労働を前提としたままとなっています。

結局のところ問題は、正規労働者の「第1次ワークライフバランス」が実現できない要因であるところの職務遂行能力の習得のための追加的な労働時間と、主に正規労働者とはみなされない「第2次ワークライフバランス」で支援されている追加的な労働時間短縮が対応していない、言い換えるなら、メンバーシップ型のメンバーとなるためには労働時間短縮による「第1次ワークライフバランス」なんかやれるはずがないという点にあります。そして、正規労働者の「第1次ワークライフバランス」が実現できないまま労働時間短縮が強制されたときに、肝心の職務遂行能力の習得に必要な追加的労働時間が削減される可能性が高く、そのことに危惧を抱くメンバーシップな正規労働者(その中にはなんとか正規労働者として認められたいと考える女性労働者や何らかの事情により長時間労働しなければキャッチアップできない労働者も含まれるでしょう)からは、労働時間削減に対する反対の声があがるという、何重にも倒錯した事態が生じることになるのでしょう。

このような現実を前にしてどのような実務的対応が可能なのかは、我々のような現場の下っ端労働者が考える羽目になるわけですが、現状に対する慣性の力というのは想像以上であることが多いわけでして、「働き方改革」の前途は多難と言わざるを得ませんね。

(2017/04/19追記)
このエントリをアップしたタイミングを計ったかのようなエントリを発見しましたので、こちらに貼っておきますね。

理由1: 一定の知識と技術がなければ、NZではプログラマになれない

まず、「プログラマ」という職業に求められる要素が、日本とNZでは大きく異なる。

日本では、学問的なバックグラウンドや経験の有無を問わず、誰でもプログラマになれる。文系出身で1行もコード書いたこと無いけどプログラマになりました、という人は珍しくない。また、人材派遣の世界では「簡単な研修を受けただけで経験1年のプログラマとして派遣された」なんて話もある。
(中略)
一方でNZでは、情報系の学部を卒業していなければプログラマになるのは難しい。また卒業しているだけでは不十分で、企業でのインターンを中心に、ある程度の経験を積む必要がある。採用の過程では、NZ国内の学生だけでなく、世界中からやってくる移民たちとの競争にも勝ち抜かねばならない。

(中略)

まとめ ー 技術を磨けば定時で帰れる! ー

NZのプログラマが毎日定時で帰れるのは、必要な知識と技術を身に着けており、かつ企業がそのスキルにじゅうぶんな給与を払っているからだ。NZの社会や文化に関係なく、残業せずに仕事が終わるのには、それなりの裏付けがあった。

これは、とても希望の持てる結論だと思う

日本に住んでいても、技術さえあれば毎日定時帰りの生活を手に入れることができるのだ。

残業がなかなか減らないのは、あなた自身の技術力が不足しているか、もしくは、技術に見合った職場で働いていない可能性が高い。

「ニュージーランドのプログラマが毎日定時で帰れる本当の理由(2017-04-17)」(NZ MoyaSystem

こちらのブログ主さんは「まとめ」の部分で「これは、とても希望の持てる結論だと思う」と指摘されていますが、「白地の石板」として新卒で入職してから日本型雇用慣行で働いている我々にとってみれば。むしろ希望どころではなく絶望しかないような気もします。

まあそれはそれとして、入職した時点でそれなりのスキルを持った労働者が仕事をすれば、当然のようにはじめから仕事は効率的に進むでしょうけれども、日本型雇用慣行はそうした効率性ではなく、仕事を知らない新卒学生上がりが試行錯誤する中で経験を積むことに重きを置いているわけです。つまり、非効率な試行錯誤のために労働時間を費やし、その試行錯誤の経験が職務遂行能力として評価されて職能給が上がっていくというのが日本型雇用慣行である以上、試行錯誤する時間を有することこそが正規労働者としての資格を意味します。

そしてその試行錯誤の結果、運良く効率的な業務の進め方が構築されたならそれはそれでラッキーですが、場合によっては試行錯誤の結果が極めて非効率的なやり方になる可能性もあります。そしてその非効率なやり方が一度定着してしまうと、そこには制度の慣性の力が働いてしまい、次の担当者はそのやり方を改めるために新たな試行錯誤を繰り返し、さらに次の担当者がその試行錯誤を再現しつつそのやり方を身につけていく…という無限ループをこなして初めて、正規労働者として認められていくことになります。時間がいくらあっても足りないわけです。

さらにいえば、上記エントリで

あるエンジニア情報サイトが実施した「残業に関するアンケート」では、「残業する主な要因」として最も多かった回答は「残業費をもらって生活費を増やしたいから」で、「非常に当てはまる」「やや当てはまる」の合計が34.6%だった。*1

という記述があり、その参照先を見ると確かに、

 エンジニア情報サイト「fabcross for エンジニア」は3月2日、会社員・公務員1万145人を対象にした「残業に関するアンケート」の調査結果を発表した。調査期間は2017年1月12~19日。

 調査によると、「残業する主な要因」として最も多かった回答は「残業費をもらって生活費を増やしたいから」で、「非常に当てはまる」「やや当てはまる」の合計が34.6%だった。次いで「担当業務でより多くの成果を出したいから」(29.2%)、「上司からの指示」(28.9%)、「自分の能力不足によるもの」(28.9%)という結果になった。

(中略)

 「日本は残業が多過ぎるか」という問いには77.9%が賛成する一方で、「社会人として成長するためには、残業が必要なときもある」という考えにも52.5%が賛成している。また、「自分の勤めている企業・団体で残業を減らすのは無理だと思う」という考えには賛成が45.9%、反対が20.5%と、長時間労働を認識しながらも、問題の解消は容易ではないという考えが多くを占めるようだ。

1万人に聞いた「残業する理由」、1位は「残業代がほしいから」[ITmedia]2017年03月02日 12時21分 更新

という記事が掲載されていました。残業代がほしいといういわゆる「生活残業」というのも、「賃金の上方硬直性」がある日本型雇用慣行ならではのものでしょうし、本エントリの趣旨を裏付けるように、「自分の能力不足のために残業せざるを得ないが、それは社会人として成長するために必要なものだ」という認識が根強いのも日本型雇用慣行のなせるワザなのでしょう。

さらに問題を難しくしているのは、そうした残業に対する認識が根強い状況においては、取引先から「こんなんじゃ使い物にならないからもっと勉強してくれよ」とエキストラな対応を求められても、「社会人として乗り越えなければならない貴重な成長の機会だ」などと美化されてしまうことになり、結局お互いがそれを押し付け合うことで際限のない残業が発生してしまうという状況です。制度というのはその趣旨を超えて都合のいいように活用されるのが常でして、誰かが抜け駆けすればそれがスタンダードになっていくわけですから、「働き方改革」によって日本型雇用慣行を改めるとしても漸進的に進めるしかないだろうと思います。その過程では悲喜こもごもありつつも、その方向性が示されただけでも大きな前進と捉えて、しゃかいじんとしてせいちょうしていきたいとおもいます(棒)

2017年03月12日 (日) | Edit |
既に日付も変わってしまいましたが、震災から6年、つまり72か月が経過しました。場合によっては昨年の5年目で終わるかとも予想していましたが、今年も政府主催の追悼式典が挙行されました。生前退位に向けた動きもあってか、天皇皇后両陛下ではなく秋篠宮ご夫妻が御出席されたとのことで、そのお言葉がこれまでの歩みを余すことなく拾い上げています。

東日本大震災6年 政府主催の追悼式(NHK NEWS WEB3月11日 15時42分)

東日本大震災の発生から6年となる11日、秋篠宮ご夫妻が出席されて、政府主催の追悼式が東京で開かれ、地震の発生時刻に合わせて、安倍総理大臣や遺族の代表ら出席者全員が黙とうをささげ、震災で亡くなった人たちに哀悼の意を表しました。
政府主催の「東日本大震災六周年追悼式」は11日午後、東京の国立劇場で開かれ、秋篠宮ご夫妻や安倍総理大臣、それに遺族の代表らおよそ900人が出席し、地震が発生した午後2時46分に出席者全員が黙とうをささげ、哀悼の意を表しました。
追悼式には、これまで毎年、天皇皇后両陛下が出席されてきましたが、6周年となるのに合わせて検討が行われた結果、ことしは秋篠宮ご夫妻が出席されることになりました。

この中で安倍総理大臣が、「被災地に足を運ぶたび、震災から6年を経て復興は着実に進展していることを実感します。インフラの復旧がほぼ終了し、住まいの再建や産業・生業の再生も一歩ずつ進展するとともに、福島においても順次避難指示の解除が行われるなど、復興は新たな段階に入りつつあることを感じます。復興の進展に応じた切れ目のない支援に力を注ぎ、さらに復興を加速してまいります」と式辞を述べました。

また秋篠宮さまは「避難生活が長期化する中で、年々高齢化していく被災者の健康や、放射線量が高いことによって、いまだ帰還の見通しが立っていない地域の人々の気持ちを思うと深く心が痛みます。困難な状況にある人々誰もが取り残されることなく、平穏な暮らしを取り戻すことができる日が来ることは私たち皆の願いです」とおことばを述べられました。

この後、追悼式では、岩手、宮城、福島の3県の遺族の代表があいさつしました。
岩手県の遺族代表の千葉陽さんは、「去年、今住む町で、台風による甚大な被害がありました。私にとって、津波を思い起こす出来事でした。災害からなんとか生き残った者として、精いっぱいに生きることを全うすること、そして、さまざまなことで起きる『つらさ』を『幸せ』に変えられるように、今の自分が持てる力が役立つのならば、少しでもできることをしていきたいと思います」と述べました。

宮城県の遺族代表の佐藤昌良さんは、「過酷な経験を後世に色あせることなく語り続けるため、あの悲しみを忘れません。あのつらさを忘れません。あの無力さを忘れません。あの寒さを忘れません。両親の無念の思いに応えるため、火葬を済ませてすぐに東京の職を辞し、父の背中を追い、現在は地域建設業の経営者として復興の最前線に立っております。全国から頂いた善意の力を借りながら、ふるさとの復興を必ず成し遂げて参ります」と述べました。

福島県の遺族代表の石井芳信さんは、「川内村は、比較的放射線量が低く、一部の地域を残し1年で戻ることができました。今では全村の避難も解除され復興も着々と進んでおりますが、若い人たちが子どもの教育問題などから村に戻らないという課題なども多く、以前のような村の姿には程遠い現況にあります。みんなで力を合わせ復興と再生を進めていくことが私たちの責務であると考えます」と述べました。

この後、追悼式では、各国の代表ら参列者が献花を行い犠牲者を悼みました。

秋篠宮さまのおことば 全文

6年前の3月11日午後2時46分、私たちが今までに経験をしたことがない巨大な地震とそれに伴う津波が、東北地方太平洋沿岸部を中心とした東日本の広範な地域を襲いました。そして、この地震と津波によって、2万人近い人が命を落とし、また2500名を超える人の行方がいまだ知られておりません。
ここに、本日、参集したすべての人々と共に、震災によって亡くなった方々とそのご遺族に対し、深く哀悼の意を表します。この6年間、被災地においては、人々が互いに助け合いながら、数多くの困難を乗り越え、復旧と復興に向けた努力を続けてきました
そして、そのことを支援するため、国内外の人々が、それぞれの立場において、様々な形で力を尽くしてきました。その結果、安全に暮らせる住宅の再建や産業の回復、学校や医療施設の復旧などいくつもの分野において着実な進展が見られました。また、原子力発電所の事故によって避難を余儀なくされた地域においても、帰還のできる地域が少しずつではありますが広がってきております。今まで尽力されてきた多くの関係者に対し、心からの感謝と敬意を表するとともに、復興が今後さらに進んでいくことを祈念しております
しかし、その一方では、被災地、また避難先の地で、困難な生活を強いられている人々が今なお多くいます。特に、避難生活が長期化する中で、年々高齢化していく被災者の健康や、放射線量が高いことによって、いまだ帰還の見通しが立っていない地域の人々の気持ちを思うと深く心が痛みます。困難な状況にある人々誰もが取り残されることなく、平穏な暮らしを取り戻すことができる日が来ることは、私たち皆の願いです。東日本大震災という、未曽有の災害のもとで、私たちは日頃からの防災教育と防災訓練、そして過去の災害の記憶と記録の継承がいかに大切であるかを学びました。この教訓を決して忘れることなく、私たち一人ひとりが防災の意識を高めるとともに、そのことを次の世代に引き継ぎ、災害の危険から多くの人々が守られることを強く希望いたします。様々な難しい課題を抱えつつも、復興に向けてたゆみなく歩みを進めている人々に思いを寄せつつ、一日も早く安寧な日々が戻ることを心から願い、御霊への追悼の言葉といたします。

※ 以下、強調は引用者による。


この国に住む住民の一人として深く共感して肝に銘じるとともに、多くの方とこの簡潔な言葉の中に込められた思いや願いを共有できればと思います。

さて、気が付いたら年明けから実質的なエントリをアップしないまま震災から6年目の節目を超えてしまいました。言うまでもなく、この数か月の超過勤務時間が月当たり三桁時間を超えて週休日って何それ?という激務のため更新できなかったわけでして、おかげさまで社畜ライフを満喫させていただき、なんとか作業も一段落したところで一応生存確認を兼ねてエントリをアップしようと思ったら、すでに震災から6年目のエントリとなってしまったという次第です。

でまあ、秋篠宮様のお言葉を共有したところで終わってもいいのですが、念のために、私自身は山口先生が震災から2年後に指摘されていた「「よりよく忘れる」ということ」に特に付け加えることはないと考えております。秋篠宮様のお言葉にあるとおり、忘れることなく伝えていくべきことは「私たち一人ひとりが防災の意識を高めるとともに、そのことを次の世代に引き継ぎ、災害の危険から多くの人々が守られること」であって、被災地そのものへの関心が薄れることはやむを得ないことだろうと思うとともに、ある面ではそれも必要ではないかとも思います。

「被災地」という意識が当事者にもその他の方にも強すぎると、支援する/されるべき対象という区分けがいつまでも残ってしまい、そのこと自体が新たな問題を引き起こす可能性もあるように思います。例えば数日前に炎上した案件ではこんなものがありました。
「なんか、『福島米食べてます』って言えない自分がいる」――。お笑いコンビ「クワバタオハラ」のくわばたりえさん(40)が漏らした福島産の食材に対する「本音」が、インターネット上で激しい賛否を広げている。

くわばたさんは、東日本大震災による「風評被害」を特集した2017年3月8日放送の『あさイチ』(NHK総合)に生出演。検査で安全が保障されていると理解しつつも、福島産の米に「抵抗」を感じてしまうことについて、複雑な思いを吐露した。

(略)

こうしたくわばたさんの「本音」をめぐり、ネット上では賛否の大きく分かれた意見が出ることになった。ツイッターやネット掲示板には、

「くわばた、福島の米は買わないとか。そんな人間をなぜ番組に呼ぶの? 風評被害をぶっ飛ばせ目的かと思ったら、逆の印象を与えそう」
「見損なった。福島の米を買わないからではなく、買わないことを公言してそれを自己正当化して、影響の大きなテレビ番組で言い放ったから」

と激しく反発するユーザーもいれば、その一方で、

「安心と安全は違うという典型的なやつで くわばたはまさにそこをしっかり説明してる」
「発言がネガティブに見えて実はニュートラルだよね。福島のものは大丈夫!みなさん食べましょう!!なんて歯の浮くようなこと言うやつよりはるかに信用できる」


とくわばたさんの発言に理解を示す声も数多く出ていた。

くわばたりえ「福島米食べてます、って言えない自分」 NHKで本音連発に複雑な反応(J-CASTニュース 2017/3/ 9 15:46)

いやまあくわばたりえ氏(というと堅苦しいですが一応敬称をつけます)の発言は引用しませんでしたが、その意図をネット掲示板のユーザーなる方々がどこまで理解しているのかという一抹の疑問はありつつ、ここで取り上げられているコメントはくわばたりえ氏のものも含めて、「福島県という被災地」をひとくくりにして個別に判断しようとするものではないように思います。

しかし、だからといってすべての住民が自分ですべてを調べて自分で判断すべきかといえば、それも絶望的に難しいのが実態だとも思います。

対話は活発だったし、なにより、参加者は熱心にメモをとっていた。
集会が終わった後、西澤さんと専門家は「これは成功だ。他の仮設住宅でもやるべきだ」と話していた。
ところが2012年1月末、集会に参加した住民の感想を聞いて、西澤さんは愕然とする。
「先生、この前の話、全然おぼえてない」と子育て世代の女性は話しはじめた。
「バナナにも(放射性物質が)あるって言っていたから、娘にバナナ食べさせるのやめたんだ」
比較のために、バナナの事例を出したが、バナナを食べないようにという話はしていない。西澤さんはもう一度、女性に尋ねる。
「えー。あれだけメモとってたじゃないですか」
「うん、でもあとはラドン温泉の話くらいしか覚えていない」
「そうですか……。わからなかったこと、次に聞きたいことあります?」
「先生、放射能の話は難しいんだよね。なにを質問していいのか、わからないんですよ」
専門家としては、住民の関心にあわせてわかりやすく説明したつもりだったが、住民は覚えていない。

(略)

西澤さん自身の言葉で、ズレが生じた理由を分析してもらおう。

いま思えば、当然のことですよね。
リスクは、科学的な観点からだけでなく、社会的な観点や、個々人の受け取り方という観点からも論じないといけない。
科学的な説明で納得できる人はいいけど、人の納得の仕方はそれぞれの状況でまったく異なる。
対話に参加してくれた人たちのなかでも、住民対象の説明会に参加して、専門家の説明を聞いた人は多かった。
そこでも散々、科学的な説明はあるんです。彼らは「専門家はどうせ、また村は安全っていうんでしょ」と思っているんです。
事故が起きてから、飯舘村が計画的避難区域に指定されるまでだいたい1カ月。人によっては、避難するまで、村に住み続けたことを強く後悔しています。
私がやった対面のインタビュー調査で、あがってきたのはこんな声です。

  • 「あのとき、孫を遊ばせた雪のなかにたくさん放射能がついていたんじゃないか」
  • 「避難前に外で遊ばせていた。もし将来なにかあったら、それは私の責任だ」
  • 「小さな子供たちは、自分は結婚できない、結婚しても子供ができないと考えている」

この不安に対して、専門家は「科学的には、この程度の放射性物質で影響はありません」「広島、長崎の研究を踏まえれば〜」と説明する。
これは科学的には正しい。でも、コミュニケーションとしては失敗しています。
彼女たちが求めていたのは、知識ではなく、まず自分がしてしまったことを受け止めてほしいということ。
自分が悩んでいることであり、知識を聞いてもどうしても消えない不安がある、と知ってほしかったんですね。
ここからズレているんです。

西澤さんは、原発事故後の対応では、行政だけでなく専門家も不信感を持たれた、と考えている。
インタビュー調査にある住民の声が「不信感」を象徴している。

「子供がいる世帯は避難したほうがいい、ともっと早く言ってほしかったのに、(2011年4月上旬に)質問しても『年間被ばく量がどうだこうだ』とか難しいことばかり言われて、答えてもらえなかった」

「大丈夫、大丈夫という科学者の声を信じてきたけど、結局、避難することになった。それなら、逆に事態が深刻です、という人のほうが信用できる。(講演会にいっても)どうせ安全というに決まっている」


いちど失った信頼は、容易には取り戻せない。

(略)

「住民が聞きたいことを引き出し、専門家が伝えたいこととすり合わせること。聞きたいことと、専門家が伝えたいことのミスマッチを可能な限り減らす場をつくること」
これが西澤さんの教訓だ。そして、ミスマッチを放置してはいけないのは、いまだ福島を巡って繰り返されるニセ科学やデマの素地になっているからだ、と指摘する。
人はどうしても、自分の仮説や信念に都合のいい情報ばかり集めてしまうバイアスがかかってしまう。
前述したように、いちど専門家に不信感を持ってしまったら、人はどんな情報を集めるようになるか。
「事態が深刻だという人」の声を集め続けることになるだろう。
不安につけ込むように、インターネット上に大量に、危険を訴えるデマや誤情報も入ってくる。例えば「福島県産食品は実は危ない。子供たちに食べさせてはいけないのだ」。

福島県産食品のデータを調べれば簡単に否定できる情報だが、よかれと思って善意から忠告する人もいる。

【東日本大震災】なぜ福島デマが残り続けるのか?専門家が勘違いしてたこと(BuzzFeed News posted on 2017/03/05 11:01)


人は知りたいことしか聞かないし見ようともしないというのは、私のような実務屋にとっても痛いほどよくわかることなのですが、「よかれと思って善意から忠告する人」には対処のしようがないというのも現実ではないかと思うところです。この現実にこれからも向き合っていくことが、復興の一つの側面でもあるのでしょう。

2017年01月01日 (日) | Edit |
昨年中は多くの方々にコメント、拍手、ぶくま、tweet等々いただきありがとうございました。
本年も引き続きご愛顧のほどよろしくお願いします。

というわけで初詣しておみくじ引いてみました。

【大吉】 (№19215) モナー神社
願事:他人の助けありて思いのほか早く調う
待人:幸運をもたらす人来たる
失物:出づべし
旅立:利益あり 行きて吉
商売:念を入れよ 大吉
学問:安心して勉学せよ
争事:勝てど難あり
転居:差し支えなし 上吉
病気:快癒すべし
縁談:良縁あり しばし待て

記念すべき10年目のモナー神社詣ででしたが、昨年までの戦績が大吉→吉→吉→吉→大吉→大吉→大吉→大吉→末吉と、昨年は初の末吉となったものの、今年の大吉で大吉率6割を達成しました。

まあおみくじと実生活とはほとんどかけ離れた状況ではありますが、今年も無事これ名馬を心がけて参りたいと思います。

2016年12月31日 (土) | Edit |
ケインズの「一般理論」はその晦渋な書きぶりでいろいろな読み方をされているところでして、ケインズの名を冠した学派はオールド・ケインジアンや新古典派統合を経たニュー・ケインジアンから、マルクス経済学と接近したポスト・ケインジアン等々諸説が乱立していますが、その中にはケインズのつまみ食いで「ケインズ」を名乗る場合も多いように思います。クルーグマンは特にその場その場で議論を使い分けるので「つまみ食い」の印象が強いのですが、望月夜さんのコメントで教えていただいた講演録はまさにその典型のようです。

この講演でやりたいことを簡潔に言えば,まずケインズの読み方について――というか,ぼくが好むケインズの読み方について――お話することです.
(略)
『一般理論』でカギとなるメッセージとすべくケインズが意図していたことは,いったいなんでしょうか? ぼくの答えはこうです――「そいつは伝記作家や思想史家の仕事ですな」.べつに,「どうでもいい」とまでは言いませんが,なによりも重要なことではないでしょう.古いネタにこんなのがあります.美術館の来訪者が,ジョージ・ワシントンの肖像画をじっくり鑑賞して,守衛に「ほんとにこんな外見だったの?」と尋ねます.守衛が答えて,「いまの外見はそこにあるとおりだよ」.ケインズについても,ぼくの感覚はこれとだいたい同じです.大事なのはケインズからなにを引き出すかであって,彼が「ほんとうに」言わんとしたことではありません
(略)
ともかく自分の見解を言えば,ぼくは基本的に第1巻さんです.そこに第13章と第14章の中身もかなり加えます.その話はこのあとすぐしましょう.第12章はすばらしい読み物ですし,「市場は賢明で合理的だ」と仮定してかかる経済学者にありがちな傾向を調べるのにすごくべんりではあります.でも,ぼくがいつも経済学に求めているのは「直観ポンプ」です――つまり,言葉あそびや偏見にはまらず経済状況を考える方法,いくらか深い洞察をもたらしてくれそうな方法を求めているんです.

「クルーグマン「ケインズ氏と現代人」(2013年12月5日)Paul Krugman, “Mr Keynes and the moderns,” VoxEU, June 21, 2011.」(経済学101)
※ 以下、強調は引用者による。

長いので引用は省きましたが、引用部より前の部分で「まさしくケインズが75年前に格闘していたのと同じ問題がかかわっています」といいながら、そのケインズが言わんとしたことはどうでもよくて自分の好きな読み方を披瀝するというのは、場合によっては歴史修正主義との誹りを免れないでしょうけれども、天下のノーベル記念スウェーデン銀行賞受賞者にはそうした批判はされないんですね。

でまあ、ケインズの理解についてはケインズの言わんとしたことをきちんと理解した上で、その洞察に学ぶことが重要ではないかと考えているところでして、

 新ケインズ派のモデルは今回の危機であらわれた事実にかなりよく一致しているように思える。たとえば、銀行が融資を行った相手には、返済がまったくできない借り手が入っていたといった事実である。そのモデルの欠陥は、ローンの借り手や保険の買い手など、誰かが完全な情報をもっていると想定していたことだ。ところが今回の危機では、不確実性という問題があり、導く側も導かれる側も将来を理解できていなかったことが明らかになった。
(略)
ドナルド・ラムズフェルドの忘れがたい言葉を使うなら、「未知の未知」こそが躓きになるのである。誰かひとりが完全な情報をもっていれば、経済全体が危機に陥ることはない。だが、完全な知識をもっているのは神だけであり、神が株式市場で投資を行うことはない。
pp.82-83

なにがケインズを復活させたのか?―ポスト市場原理主義の経済学―
ロバート・スキデルスキー 著/山岡洋一 訳
定価(本体2,000円 +税)
四六判 上製 320 ページ
978-4-532-35402-2
2010年1月発売

信用創造はその過程において「信用」が不可欠となるはずでして、まあ国家というのは栄枯衰勢あるものでして、その信用がどの程度なのかはそう簡単な判断ではないと思うのですが、完全情報とは言わないまでも国家の信用がどの程度かというのは明示的にはわかりにくいものではないかと思うところです。

ケインズの理解でいえば、権丈先生はケインズの思想に至るまでの社会的・歴史的背景を吟味しながら議論されているので、その点を「信用」して参考にさせていただいているところでして、ケインズが投資と消費の関係をどのように考えていたのかについての権丈先生のご指摘を引用させていただきます。

We established in chapter 8 that employment can only increase pari passu investment unless there is a change in the propensity to consume.
(間宮訳「第8章でわれわれは、消費性向に変化がないとしたら、雇用の増加はただ投資の増加にともなってのみ起こりうることを確認した」)

僕は、「これなんだよなぁ。ケインズが線型の消費関数なんか定義するから、消費は所得で決まってしまい、需給ギャップを調整するのは投資しかないという妙な理屈がまかり通るようになってしまったんだよなぁ・・・」
彼「なるほど、そういうわけかぁ・・・」
と、ふたりで、投資の限界効率表なんてのは、あれは期待の話で、消費量が変われば期待としての限界効率表も動くに決まっているじゃないか、などなどと、iPad そっちので、『一般理論』の話で盛り上がる。

Consumption――to repeat the obvious――is the sole end and object of all economic activity.
(間宮訳「消費は、わかり切ったことを繰り返すなら、あらゆる経済活動の唯一の目的であり、目標である」)

この消費こそが、いま不足しているのである。
ところが、世の中の多くのひとは、ケインズが投資の話に論点を集中するために仮定した世界にとらわれてしまい、需給ギャップは投資で埋めると考えるばかりで、他の箇所ではケインズも結構論じている消費性向を高めていく政策には考えが及ばない。だから、需要不足があるんだから投資を増やさなければとばかり考える彼らと、現下の需要不足は主に消費が不足しているからと診る僕の話はかみ合わない――と言うよりも、彼らは間違い続けているように見える。

「勿凝学問 313 足りないのは、投資か消費か? 誤解の源はケインズの言葉だろうな(2010年6月8日 慶應義塾大学 商学部 教授 権丈善一)」


このようなケインズの「消費は、わかり切ったことを繰り返すなら、あらゆる経済活動の唯一の目的であり、目標である」という言葉が目に入らないような方々が世の中に増えてしまった理由を考えてみると、冒頭のクルーグマンの講演録の中にそのヒントがありますね。

ぼくが日々の仕事に使ってる経済学のブランドは――いまでも,これまでに登場してきたアプローチのなかでいちばん理に適ってると考えてるブランドは――その大部分を1948年にポール・サミュエルソンが確立したものです.1948年とは,サミュエルソンが古典的な教科書の第1版を出版した年です.このアプローチは,ミクロ経済学の立派な伝統とケインジアン・マクロ経済学を結合させています.ミクロ経済学は見えざる手のはたらきで一般に望ましい結果がもたらされる仕組みを強調します.他方,ケインジアン・マクロ経済学は,ケインズが言う「マグネトの故障」を経済がときとしてどのように発展させてしまうのかを強調します.この経済の「マグネトの故障」には政策の介入が必要となります.このサミュエルソンの総合では,おおよその完全雇用を確かなものとするのに政府をあてにしなくてはなりません.それが当然のこととなってはじめて,自由市場のおなじみの美徳は威力を発揮するのです.

これは実に理に適ったアプローチです――ただ,知的に不安定なアプローチでもあります.というのも,これには,経済に関する考え方になんらかの戦略的な不一致が必要となるからです.ミクロをやっているときには,合理的個人と急速にごたごたをととのえてしまう市場を仮定します.他方で,マクロをやっているときには,摩擦やアドホックな行動上の仮定は必要不可欠です.

それで? 有用な手引きを得ようとする際に首尾一貫しないことがあるのは,なんの悪徳でもありません.車を運転するときなら道路地図があれば事足りますが,ハイキングのときには等高線が入ったやつが必要でしょう.

「クルーグマン「ケインズ氏と現代人」(2013年12月5日)Paul Krugman, “Mr Keynes and the moderns,” VoxEU, June 21, 2011.」(経済学101)


クルーグマンはサミュエルソンの「新古典派総合」がもっとも理に適っているというわけですが、当のサミュエルソンはどうだったかというと、

さて,ここまでケインズの論を引用するサムエルソンは,さぞかしケインズの考えをしっかりと継承し,ケインズに心酔しているのかと思われるところであるが,どうもそうではないようなのである。サムエルソンのケインズ理解,ゆえに,サムエルソンの教科書『経済学』を通じて世界中に広まったケインズ理解は,間違った理解であったと攻撃する者は,ケインズから直接教えを受けた者たちをはじめ,現在に至るまで数多くいる。その一人ポール・デヴィッドソンは次のように言う。

1936年に『一般理論』を読んだ後でさえ,サムエルソンは,その分析が「好みに合わず」理解できないものであることに気づいたと述べていることである。サムエルソンはコランダーとランドレスとのインタビューの中で「最後にわたくしが納得したやり方は,ただそのことについて 〔ケインズの分析を理解することについて〕くよくよ悩まないことでした。わたくしが 自分に問いかけたのは,なぜ 自分は1933年から1937年までの上向きのルーズヴェルト景気を理解するのを可能にしてくれる理論枠組みを拒否するのか,でした。……わたくしは,ワルラスに代わるケインズの分析を有効なものにするのに十分な程度の相対価格・賃金の硬直性があると想定することに満足しました」 と言っている。言い換えれば,サムエルソンは,自分がケインズの分析を理解していなかったことを認めている。それどころか,かれは,ケインズが賃金と物価の硬直性が失業の原因であるような,伝統的な古典派の一般均衡モデルを提示していると思い込んでいたのである。
Paul Davidson(2009)/小 山庄三・渡辺良夫訳 (2011)『 ケインズ・ソリュー ション』183頁


ここで,サムエルソンの経済学で学んだ多くの人たちは,なぜ,ポール・デヴィッドソンは,サムエルソンを「ケインズが賃金と物価の硬直性が失業の原因であるような,伝統的な古典派の一般均衡モデルを提示していると思い込んでいたのである」と批判しているのかと思うかもしれない。
その理由は,ケインズは,貨幣を保蔵 (hoarding)したいという欲求がある社会,すなわち流動性選好理論が成り立つ貨幣経済 (monetary economy)を 前提に置けば,伸縮的賃金であっても硬直的賃金であっても失業は起こりうると考えていたからである。このことは,ケインズの次の言葉が端的に示している。

喩えて言えば,失業が深刻になるのは人々が月を欲するからである。欲求の対象 (貨幣)が生産しえぬものであり,その需要が容易には尽きせぬものであるとき,人々が雇用の口をみつけるのは不可能である。
Keynes(1936)/間 宮陽介訳 (2008)『 一般理論』上巻331頁

これは,将来,すなわち歴史的な時間の流れの中での「不確実性」に備えて価値保蔵手段としての貨幣に対する選好,他にも諸々の理由により貨幣を保蔵したい という欲求すなわち「金銭欲」が尽きず「物欲」に優る場合には失業が起こると言っているのである。ケインズの論の中では,失業発生の原因として硬直的賃金という条件は重要ではない。
権丈善一「社会保障—— サムエルソンと係わる経済学の系譜序説の経済学系統図と彼のケインズ理解をめぐって——」(三田商学研究 第55巻 第5号 2012年12月)


ということで、ケインズの理論は「好みに合わない」として、その提示する理論を勝手に読み替えていたわけです。サミュエルソンの『経済学』の教科書で学んだ経済学徒(クルーグマンもその一人のようですが)には、そのようなサミュエルソンの理解だけではなく、勝手に読み替えるという作法まで伝わってしまったということでしょうか。

さて、ここまでが私が望月夜さんと議論を共有できないと考える一つ目の理由です。長々と引用しましたが、消費性向を高める政策が必要とされるときに、直接的に消費を増やす政府支出の財源として、安定的に税収を確保すべきと個人的に考えています。これに対して、望月夜さん(が信奉するMMTやそれに類似する学派?)は、消費とトレードオフの関係にある貯蓄を増やすために投資としての国債を増発するべきと指摘されていらっしゃると見受けます。マクロではそういえる面もあることは否定しませんが、具体的に誰の貯蓄が増えて誰の消費が増えるのか、その調整はどのように実施するのかが不明であるためお伺いしたものの回答はなく、その過程で政府支出によって賄われる利払いを含めると迂遠で高コストな財政支出ではないかという私の指摘にも特に回答はないため、議論を共有することが難しいと判断するに至ったという次第です。

これに加えて二つ目の理由は、実はクルーグマンの講演録でちらっと言及されていることですが、「有用な手引きを得ようとする際に首尾一貫しないことがあるのは,なんの悪徳でもありません」ということです。一見すると、サミュエルソンのように勝手に読み替えることとの違いはないように思いますが、そうはいっても現実の手続きやら実務やらというのは、一貫した理論的背景があるわけではなく、その都度プレイヤー同士の交渉や力関係で決まるものでして、その当事者同士の利害関係などがわからない部外者にとっては理不尽だったり整合性がないように見えたりするのが実態であってみれば、整合性のない理論を組み合わせて現実の実務を理解することも必要になります。

まあ、順番からいえば、先人達が歴史的経緯の中で築き上げてきた交渉や取り決めが制度化され、その制度化された世の中を主に行動の面から、時に数理的な手法を用いて分析するのが経済学という学問であることからすると、経済学が制度分析に理論を提供することはあっても、理論に基づいた制度設計が功を奏するのは、その理論がそれまでに築き上げてきた交渉や取り決めに匹敵するだけの利害調整機能を持っていることが必要条件となるはずです。つまり、いかにこれまでの制度が理不尽で整合性のないものであっても、その裏に営々と積み上げられてきた交渉や取り決めを取っ払うような制度改正は関係当事者の合意を取り付けることはできず、逆に制度として不都合であっても、当事者が合意している限りは制度として機能することになります。

このような取り決めによって形成されたものとして典型的なのは日本型雇用慣行でして、確かに職務無限定で単身赴任を伴う転勤が強要できて年功的な職能資格給を核とする働き方は、長時間労働を抑制することができず少子化の一因にもなっているものの、長期的に雇用を安定させつつ学校教育では習得できない職業上のスキルを身につけるための人事異動を可能にするのもまた、日本型雇用慣行なわけです。これを例えば欧米型のジョブ型雇用に一気に転換せよといっても、実際に就職している労働者の大半は就職してから年金保険料を支払いながら年金を受給するまでに40年程度の職業人生を確保しなければならないわけで、現在の就職先でそれを確保するのが合理的である以上それを前提として職業人生が設計されているのが現実です。その実態を前にすれば、結局漸進的に少しずつ働き方を変えながら労働者側と使用者側の利害関係を調整しなければなりません。

私も現在の雇用慣行には大きな問題があって持続可能的ではないと考えていますが、それを変えていくのは労働者の人生を流れる時間との根気強い付き合いの中でしか可能ではないというのが現実でしょう。同じく政府支出や税制を含む財政政策や金融政策も今のやり方に問題があるからといって、その裏に積み上げられてきた交渉や取り決めをひっくるめて制度そのものを潰してしまうやり方は、禍根を残すばかりで機能はしない可能性が高いと考えます。まあそれでもやるというならそれも一つの政治的考えではあります。結局また権丈先生の言葉を引用してしまうのですが、

「政策は、所詮、力が作るのであって正しさが作るのではない。」
http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/kenjoh/


経済学における「正しさ」とは、各学派がそれぞれ「正しい」と信奉する何かであるに過ぎず、現実の世界では利害関係の当事者の交渉や取り決めで少しずつ築き上げた制度があるのみです。経済学の各学派がそれぞれ経済学的な「正しさ」を競い合うのは、まあそれぞれの思考実験として邁進されることは素晴らしいことかとは思いますが、拙ブログでは今後とも制度をどのように(内容のみではなくその過程を含めて)変えるべきなのか考えていきたいと思います。

(2017.1.8追記)
年を越えて引っ張るのもなんですが、このエントリのきっかけとなったお二人のコメント(http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-711.html#comment)を拝見していると、公共政策についての議論の難しさを改めて認識いたします。公共政策は繊細な議論ですので危険ではありますが、あえて模式化してみると、再分配や雇用・労働の制度に関する問題をAとして、Aの制度にまつわる問題をどのように解決すべきかという議論をしているのが拙ブログのスタンスでして、そのための財源の制度に関する問題をBとすると、本エントリで書いたような制度の裏付け(交渉と取り決めによるフロー支出はフロー財源で賄うという原則)を踏まえつつ、Bについては増税の必要性があると考えています(その理由は本エントリや上記エントリの参照先をご笑覧ください)。

というところで、Bについて異論をお持ちの方から、Cという考え方があるとか不正確とかいろいろなコメントをいただきまして、ではそのCの考え方なり私の記述の不正確さを正すなりによって、Aの問題についてどのような制度的解決が構想されるかについてお考えをお伺いしたところ、「急に「公共政策はどうあるべきか」という全く別の議論を持ってきて」とか「私は広い視野など持ち合わせておりません」という回答しかいただけないのが現実ですね。

私はBの議論に特化してその是非を論じているわけではありませんので、Aの問題が解決なり改善するのであれば、Bに関して増税にこだわるものではありません。そもそも増税が景気後退させることまで否定していませんし(中里先生がおっしゃるナローパスが重要だと考えています)、増税と現物給付との差引においていかに安定的に社会全体の消費を確保するかという経路が制度によって担保されることが重要と考えています。つまり、現状において制度による裏付けが弱いAとBの紐付けをいかに強化するかという点が私の関心なのですが、世の中にはBさえ何とかなればAは自動的に改善するとお考えの方がいらっしゃって、もしかするとそっちの方が多数派だというのが実態なのでしょう。

現実の制度においては、「その他の要件が変わらないのであれば、政府支出の対GDP比は現状のままであるはずでして、教育の無償化だの待機児童の解消だの医療行為に対する診療報酬の引き上げによる医療体制の拡充だのという再分配政策の支出構造は変わらない」わけでして、そのために制度の裏側にある利害関係の当事者による交渉や取り決めを踏まえつつ、どのように政府の支出構造という制度を変えていくかを考える必要があります。その際に決定的に重要になるのは、生産物はストックできないということであって、「「共同体の構成メンバーは連帯して共通の規範を守るべきであり、メンバーの中に苦境に立たされる者がいれば協力して支えなければならない」というsocialな考え方を理解できるか、「効率的な現金給付」で事足りるとする経済学的な議論の問題点を理解できるかというのが、労働政策に裏付けされた現物給付による社会保障や再分配を議論する上で、問われている」のですが、こういう議論が共有される世の中というのはこれまでも、そしてこれからしばらくも期待できそうにありません。himaginaryさんがおっしゃるように「「労働政策や所得再配分政策に関する論争が前面に出てくる」状況を目撃することは贅沢なこと」なんですねえ。