2018年05月20日 (日) | Edit |
前回エントリで「立場の左右を問わず「働き方改革」でどのような働き方を目指すのかがあやふやなまま議論が進められてきたという経緯」と書いたところ、マイクロソフトの働き方改革がバズっているようで早速拝読しましたが、いやまさに「ジョブディスクリプション」が肝となっていると明言されていまして、メモしておきましょう。

我々の働き方改革という話をする時に、一応、私の肩書についてもお話ししておきたいと思います。
まず、マイクロソフト テクノロジーセンターのセンター長というものをやっています。これは全世界に50カ所あります。その50カ所に同じようにテクノロジーセンターダイレクターというのがいるんです。そのダイレクターというのは、みんな同じ仕事をするんですね。同じ仕事というか、評価をされるポイントがまったく同じになっています。
全世界でロールモデルが決まっている。そのロールモデルが協調されているというのがポイントとなります。

(略)

震災時に気づいた「クラウドで仕事ができるぞ」

環境としては、我々はすでにクラウド化がかなり進んでいて、どこからでもインターネットに接続さえすれば、社内の環境に繋がることができました。ワンクリックでセキュアなネットワークを張って基幹業務にアクセスすることができる環境になっていたんです。ですので、その環境が与えられていることに気付いたんですね。
つまり、会社にいることが仕事の中のオプションの1つでしかないとわかったんです。やらなきゃいけないことは会社に行くことではなくて「さっと決めて、すぐにやる」。これだけだったんですね。決めるためにはオフィスに行く選択をとる必要がないということに、我々はようやく気付いたんです。
一般的にはテレワークとは、例えば自分が患者の立場になったり介護する立場になったりしたときに仕事を切り出して自宅で行う状態だったんですが、会社の仕組みがこのままだとワークしないんです。
会議のために紙を配るとなっていると、在宅勤務の人には紙が配られません。だから、会議に参加できないんですね。マイクロソフトの場合は、いつでも、どこでも、誰とでも、とにかく全員が仕事をできる状態に考え方を変えました。
繰り返しになりますが、出勤することは仕事のうちではない。やらなければいけないのは、「あなたはこれを持って仕事をしたとみなす」というようなジョブディスクリプションを徹底的に満たすことなんですね。ですから、先ほどからしつこく言っているように、「全世界統一をされていますよ」「これをもって評価しますよ」が効いてくるんです。

(略)

テクノロジーとは、ビジネスを思いっきり推進するもの

それからもう1つ。あれもこれも手取り足取りで教えるような、子ども扱いをすると、残念ながら子どものようにふるまうんですね。社員はどんどん子どもになってしまいます。
ではなにをすればいいのか、「Accountability」、責任を明確にすることなんです。それは先ほど言ったジョブディスクリプションです。「あなたはなにをもって成果を出した」と評価するのか。これを明文化して合意を得ることなんです。
そして、そこに例外を認めない。いちいち例外を認めると無尽蔵に例外を認める羽目になります。すべてがリスクとコストなって跳ね返ってきます。ですから「No Exception」を徹底する。

日本マイクロソフト株式会社 テクノロジーセンター センター長 澤円 氏
「日本企業は「礼儀正しく時間を奪う」 マイクロソフトが働き方改革で歩んだ“地雷だらけ”の道(2017年11月14日)」(logmi)
※ 以下、強調は引用者による。

無限定で何でもしなければならない日本型雇用慣行では、「ジョブディスクリプション?何それ食えるの?」というところですが、それがあって初めて「ここまで仕事をすれば帰っていい」とか「自分の仕事以外は気にしなくていい」という働き方ができるわけですね。本文にもあるように、ジョブディスクリプションが明確に定まっていれば、「やらなきゃいけないことは会社に行くことではなくて「さっと決めて、すぐにやる」。これだけ」となるので、やるべきことを決めてそれをやってしまえば、あとは会社にいる必要はなくなるのが道理というもの。

逆に、「職務が無限定で、上司と部下がホウレンソウで常に情報を共有する」という働き方をしていれば、自分の仕事が終わっても周囲の仕事が終わっていなければ帰れませんし、お互いに情報共有するためにも上司が帰るまで帰れません。それが当たり前になると、新たな仕事が増えてもそのために人員を増やすことなく、無限定に働くことでカバーすることがスタンダードとなり、慢性的に人手不足の状態とすることが最適解となっていきます。そしてそれが最適解となった社会では、組織が相互にそのような体制を組むことを想定するため、時間外の突発的な業務に対応できることをアピールすることで競争力を獲得しようとし、お互いがお互いの首を絞め合う状況が作り出されていくという、見慣れた光景が完成するわけですね。

そうした組織の仕事の仕方ってどこかで見たことがあると思ったら、昔見た記事を思い出しました。


CIAは第2次世界大戦中に敵国にスパイを潜入させて、組織が機能しなくなるよう工作活動を行っていました。その中でも、「Simple Sabotage Field Manual」と呼ばれる極秘マニュアルには、組織を機能不全に追い込むためにはどのように行動するべきかという「組織の癌」とでも呼ぶべき愚者の心得が説かれており、ここには時代を問わず多くの組織で反面教師とするべき含蓄があります。

CleanedUOSSSimpleSabotage_sm.pdf
(PDFファイル)https://www.cia.gov/news-information/featured-story-archive/2012-featured-story-archive/CleanedUOSSSimpleSabotage_sm.pdf

Read the CIA's Simple Sabotage Field Manual: A Timeless, Kafkaesque Guide to Subverting Any Organization with "Purposeful Stupidity" (1944) | Open Culture
http://www.openculture.com/2015/12/simple-sabotage-field-manual.html

CIAがスパイに実践させた組織腐敗行動は以下の通り。このような行動は、すべての組織を機能不全に追い込むと考えられています。

◆組織と会議

・Insist on doing everything through “channels.” Never permit short-cuts to be taken in order to expedite decisions.
(何をするにも「指揮系統」を主張せよ。意志決定を早めるためのいかなるショートカットも認めないようにせよ)

・Make “speeches.” Talk as frequently as possible and at great length. Illustrate your “points” by long anecdotes and accounts of personal experiences.
(ひたすら「演説」せよ。演説は可能な限り頻繁に、そして尋常ならざる長さで行え。論点は、長々とした逸話や体験談で形作れ)

・When possible, refer all matters to committees, for “further study and consideration.” Attempt to make the committee as large as possible — never less than five.
(可能な限り、委員会(会議)に全ての項目を提示せよ。そして「さらなる調査と検討」を求めよ。委員会の大きさはできる限り大きなものにせよ。委員会は決して5人未満ではいけない)

・Bring up irrelevant issues as frequently as possible.
(できるかぎり頻繁に関係のない話題を持ち出せ)

・Haggle over precise wordings of communications, minutes, resolutions.
(解決策が出る直後に、正確な言葉をもって押し問答せよ)

・Refer back to matters decided upon at the last meeting and attempt to re-open the question of the advisability of that decision.
(前回の会議で決まった問題を持ち出して、その決定を再検討するように議論を蒸し返せ)

◆上官

・In making work assignments, always sign out the unimportant jobs first. See that important jobs are assigned to inefficient workers.
(課題を与えるときは、つねに重要でない仕事から先に割り当てよ。重要な仕事は能率の悪い部下に割り当てるように心がけよ)

・Insist on perfect work in relatively unimportant products; send back for refinishing those which have the least flaw.
(相対的に重要ではない仕事に完璧さを要求せよ。ささいな点でも修正するように突き返せ)

・To lower morale and with it, production, be pleasant to inefficient workers; give them undeserved promotions.
(士気を下げ、非生産的な部下が心地よいようにせよ。出来の悪い部下に不当な昇進を与えよ)

・Hold conferences when there is more critical work to be done.
(やるべき重大な仕事があるときこそ、会議を開催せよ。)

・Multiply the procedures and clearances involved in issuing instructions, pay checks, and so on. See that three people have to approve everything where one would do.
(許認可、指示、確認などあらゆる手続きを複雑化せよ。一人で決められる事でも3人の承認が必要なように取りはからえ)

◆部下

・Work slowly.
(とろとろのろまに働け)

・Contrive as many interruptions to your work as you can.
(できる限り多くの仕事の妨げになるよう企画せよ)

・Do your work poorly and blame it on bad tools, machinery, or equipment. Complain that these things are preventing you from doing your job right.
(仕事は下手くそにやり、道具や機械のせいにせよ。「こんな道具では仕事にならない」と不平不満の声を発せよ)

「CIAが敵の組織を破滅に追いやるために潜入スパイに実行させた「愚者の心得」をまとめたマニュアル「Simple Sabotage Field Manual」(2016年08月29日 08時00分00秒)」(Gigazine)

こちらに上げられている項目のうち、部下の部分はまあそりゃダメな部下の典型だろうなとは思いますが、最後の「こんな道具では仕事にならない」というのは、ろくな道具も与えずに精神論だけで何とかしろという使用者に対してはそのように主張する必要がある場面もあるでしょう。同様に、「組織と会議」や「上官」の項目についても、時と場合によってはそのように行動することが必要な場面があると思いますが、そう考えるとむしろ、そのように行動することがないように、組織の行動原理を構築しなければならないと考えるべきではないかと思います。

でまあ、特に「組織と会議」の項目は、我々公務員にとってはこれもまたよく見る光景だなと思うところでして、どこで見たんだろうと思うと、国会の議論はここに書いてある通りに進められるんですね。いやもちろん、国会はそもそも会議の場であってここで想定されている組織とは違うだろうと思いますし、国会そのものが仕事をするわけではありませんが、国会で決まったことを基に仕事をし、仕事の成果や課題を国会に説明しなければならない役所にとっては、国会の議論そのものが仕事であり、役所の仕事の効率性を決める大きな要因となります。その国会で上記のような「組織を機能不全に追い込むため」のマニュアルに沿った行動を取られれば、そりゃ役所の仕事が効率悪くなるのも宜なるかな。

とはいえ、国会が「仕事」をしようとするなら、国会の議論で役所を「組織を機能不全に追い込」んで法案や予算の執行を阻止することが最もダメージが大きい(それは当然、役所の仕事を通じて国民の生活にも影響がある)わけで、特に野党はそのような戦法を採る傾向があることも事実でしょう。最近でいえば、働き方改革法案をめぐって上西充子先生が提唱された「#ご飯論法」を野党の皆さんが国会でも取り上げているようでして、もちろん研究者としての上西先生が国会におけるデータの取り扱いを問題視して正確なデータに基づく議論を求めること自体は当然の行動だと思いますが、これを上記のような立場にある野党の皆さんが積極的に取り上げているということそのものが、どのような効果を狙って行われているのかは推して知るべしでしょう。そしてその行動が「組織を機能不全に追い込むため」のものである程度において、役所の仕事は非効率化していくわけでして、まあ役所の働き方改革が進むのはいつになるんだろうなあと遠い目をせざるを得ませんね。

2018年05月13日 (日) | Edit |
GWも無事に乗り切りまして、年度末年度初めはいつも仕事が立て込むところ、今年は例年よりもゆっくり休めた、というよりさすがに年齢的に年がら年中働きづめでは身体が持たない状況で少し一息ついたところですが、働き方改革法案は相変わらず先行き不透明のようですね。

働き方改革関連法案 本格論戦 高プロ、与野党火花(毎日新聞2018年5月10日 東京朝刊)

 衆院厚生労働委員会は9日、立憲民主党など主な野党が審議に復帰し、働き方改革関連法案の質疑を行った。立憲、国民民主両党の対案の趣旨説明があり、高所得の一部専門職を労働時間規制から外す「高度プロフェッショナル制度(高プロ)」の創設の是非を中心に、本格的な論戦が始まった。

 野党は高プロに反対し、立憲、国民とも対案に盛り込んでいない。趣旨説明で立憲の西村智奈美氏は「サービス残業が蔓延(まんえん)している現状では、悪用される」と批判。国民の白石洋一氏は「過労死ゼロを切望する国民の要請に反する」と述べた。

 一方、加藤勝信厚労相は高い付加価値を生み出す経済を追求する必要があるとした上で、「高度専門職の方が仕事の進め方や働く時間帯を自ら決定し、その意欲や能力を有効に発揮する働き方が求められている」と高プロの必要性を訴えた。西村氏への答弁。

 また、厚労省は9日、裁量労働制の調査データに異常値が含まれていた問題で、精査結果を15日の同委理事懇談会で報告することを明らかにした。【神足俊輔】

野党が対案を示したそうですが、日本的左派の皆さんにとっては日本型雇用慣行こそが守るべきものであって、ジョブ型なんて認めるわけにはいかないという立場を堅持されているところですので、対処療法的な案しか出てこないというのはある意味予想通りではありますが、その議論のねじれ具合には相変わらず暗澹としますね。

とはいえ、政府与党の議論も十分にねじれているわけでして、立場の左右を問わず「働き方改革」でどのような働き方を目指すのかがあやふやなまま議論が進められてきたという経緯があるわけです。そのねじれ具合についてはhamachan先生がご自身の発言を改めて紹介されていますので、こちらでも引用させていただきます。

あまりにもねじれにねじれ、枝葉末節ばかりに迷い込んでしまっている現下の議論の惨状を見るにつけ、5年前に官邸の産業競争力会議に呼ばれてしゃべった時の議事録なんぞを再読していると、こういう本質の議論がいかにい雲散霧消してしまっているのかが嘆息されます。

労働時間規制の問題とは、本来どのように論じるべきであり、そしてどのように論じるべきではないかを、自分ながら手際よく見事に整理している発言だと思うので、ここらでお蔵出し。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/bunka/koyou_hearing/dai1/gijiyousi.pdf

(略)
(濱口総括研究員)
 むしろここで私が申し上げたかったことは、個々の制度設計の問題というよりも、一体この制度は何を目指しているものなのかということ。本質的に言うと、ある種のホワイトカラーの働き方というものが、決して労働時間の長さに比例した成果を出すのではないということから来ているはずだと私は思っている。これはホワイトカラーエグゼンプションのときの日本経済団体連合会の出した提言もそのように書いてあるし、実は企画業務型裁量制が議論され出した1990年代初頭の議論もそこから始まっている。それにもかかわらず、厚生労働省もそうなのだが、これをワーク・ライフ・バランスができるというような言い方でやろうとしたところにボタンのかけ違いがあったのだろう。
  一旦そういう形で話がされ、これは過労死促進策だという話になってしまうと、話がことごとく食い違ってしまう。それをもう一度本来の筋道に戻して議論した方がいいのではないか。実はつい先日、規制改革会議に日本労働組合総連合会が呼ばれて、労働時間規制についての意見を開陳した模様。私は出された資料を見ただけだが、そこでは、まさに健康確保や労働時間規制の必要性についてはいろいろ書いてあるが、残業代が一番大事だなどということは書いていない。それは彼らとしても、一部のマスコミや政治家のような残業代ゼロが一番諸悪の根源だという発想に立っていないということなので、実はそこに着目すれば、もう少しまともな議論ができるのではないか。むしろそういう形で議論してほしい。
(略)
(濱口総括研究員)
 後の方がわかりやすいので、先にそちらから先にお答えするが、全くおっしゃるとおり。つまりここで私が上位から何パーセントと言ったのは、日本のメンバーシップ型の社会を前提にすれば、こういうふうにするしかないよという話。ところが、日本の法律もそうだし、どこの国の法律もエグゼンプトというときの管理監督者というのは入ったときから管理監督者。それはビジネススクールやグランゼコールを出て初めから管理職見習いとして入り、2年か3年ぐらいすれば見習いが取れて管理職として働く。初めから入口が違うわけで、それを前提として管理職という職種のエグゼンプトをやっているだけだと。ところが、日本はそうではない。
 先ほど日本には管理職という職種が存在しないと申し上げたのはそこ。日本は、管理職のエグゼンプトですら、係員島耕作が係長島耕作になって、課長島耕作になったらエグゼンプトだと言っているだけの話。この中高位というものが、昔みたいに何でもかんでもみんな管理職に放り込めばいいという1990年代から変わってきている。機能としては管理していない者をみんな昔は管理職に放り込んでいたのが、そういう無駄なことはできなくなったので、管理職を少数精鋭に絞れば、自ずから、そこらからこぼれ落ちる人が出てくる。ところが、賃金制度は依然として年功制だから、非常に高い給料をもらっている。高い給料をもらっているけれども、管理の仕事はしていないし、昔みたいに管理職に就かないので、残業代を払わなければならない。おかしいだろうと。私はまさにそこに矛盾があると思っている
 もし、本当に世の中ががらっと変われるのであれば、つまり企業の人事部がメンバーシップ型からジョブ型に全部変わるというのであれば、まさに今おっしゃったのが本来の姿、法の本来の趣旨ではある。しかし、それはすぐにできないだろうということ、かつ、昔であればみんな管理職に放り込まれていった人がそうでなくなってきていて、そこをどうするかということに対応するのであれば、こういった上位から何パーセントというのが、メンバーシップ型を維持していることを前提とした上での話になる。これは管理監督の仕事、これは企画の仕事、これは何の仕事というジョブで人事管理をするようになれば、当然それでできる。しかし、現実にはそうでないということを前提としてお話している。 ・・・


「産業競争力会議雇用・人材分科会有識者ヒアリング(2013年11月)(2018年5月13日 (日))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))
※ 以下、強調は引用者による。

リンク先のエントリで引用されている発言は全文読まれるべきですが、拙ブログでも「なぜ労働時間規制を緩和しなければならなかったかというと、日本の労働法では法定時間内の賃金の基準は特に規定がないものの、法定時間を超えた途端に時間給となってしまうため、日本型雇用慣行で正規労働者の多くが日給月給であって、特に高給な労働者に対しては、その高額な日給月給を基礎とする高額の時間外手当を支払うことの合理性も問われていた」と指摘しておりまして、上記引用部でのhamachan先生の明確なロジックでご確認いただければと思います。

でまあ、拙ブログの最近の流れからいえば、hamachan先生の発言の後段で「昔みたいに何でもかんでもみんな管理職に放り込めばいいという1990年代から変わってきている」と指摘されているような日本型雇用慣行における管理職の在り方が、その立場において日本の組織の意思決定を歪めていることも大きな問題であろうと考えております。ということで、管理職が無能であること有名にしたのが「ピーターの法則」ですが、その解説書が新装版として発行されていましたので改めて読んでみました。

ただし、本書を理解するためには、カナダ生まれで南カリフォルニア大学で教鞭を執った教育学博士であるローレンス・J・ピーターの説を、同じくカナダ生まれの小説家であるレイモンド・ハルが1969年に書き起こしたという当時の状況に留意しなければなりません。ということは当然、本書で描かれる企業組織はアメリカ型のジョブ型雇用でして、採用と昇進はその手続きにおいて同じであって、本書でいう「昇進」とは、職務記述書によって職務が明確に示され、それに対応した職業的能力を有する者が組織内外から共通の基準で「採用」されることを指します。したがって、組織内における「経験年数」によって高まることを前提とする「職務遂行能力」に基づいて、組織内で上位の職位に順繰りに「昇進」していく日本型雇用慣行とはまったく異なるということを意識しながら、次の引用部をご覧ください。

平等主義が無能を招く!?

 無能のはびこり方という点では、縁故やえこひいきで役所や軍の任用が行われていた時代よりも、今日の状況のほうがひどいといえます。平等主義の現代に逆行するようなこの発言に眉をひそめる方もいらっしゃるでしょうが、まあ私の説を聞いてください。
 ここにプローヴィアという仮想国家を考えてみます。この国では、公務員試験や、雇用機会均等法、成果主義での昇進といったものは存在しません。プローヴィアは厳格な階級社会で、政府、企業、軍隊、教会など、あらゆる階層の高位に就けるのは、支配階級に属する人々に限られています。
(略)
 ピラミッドの下半分は、何らかの理由で被支配階級に属する人たちです。そのなかにとびきり聡明で有能な者がいたとしても、身分境界線を越えて昇進はできません。
 ピラミッドの上半分は、支配階級の人々によって占められます。彼らは、ピラミッドの最底辺からではなく、身分境界線のところからキャリアをスタートさせることになります。
 さて、おわかりいただけると思いますが、ピラミッドの下半分では、身分境界線があるおかげで、多くの人が無能レベルまで昇進することはありません。彼らは十分に職責を果たせる仕事に取り組みながら、その職業人生に幕を引くことになるでしょう。身分境界線より上に行けないということは、境界線の下に有能な人材を封じ込めることにほかならず、いつまでも彼らを活用できるということになります
 つまり、身分境界線があるおかげで、ピラミッドの下半分では効率のよい仕事が期待できるということです。
 身分境界線の上ではどうでしょうか? 無能レベルに達してしまう人の数は、その階層社会に存在する数に比例するので、多くの肩書きがあればあるほど、無能に陥る人間も増えます。ピラミッドの上半分は、ポストの数がそれほど多くない綴じた階層社会ですから、ここでも多くの人が無能レベルに到達しないですむことになります。
pp.102-104

[新装版]ピーターの法則
「階層社会学」が暴く会社に無能があふれる理由
ローレンス・J・ピーター 著/レイモンド・ハル 著/渡辺伸也 訳
定価:本体1,400円+税
発行年月: 2018年3月
判型/造本:46並製
頁数:248
ISBN:978-4-478-10355-5


この引用部では明確にされていませんが、この仮想国家における支配階級と被支配階級は、その内部に存在するであろう組織における管理職層と被管理職層のアナロジーと思われます。となれば、それはギルドを始祖として欧米で発展した産業民主主義によって形成されたジョブ型雇用のアナロジーであって、hamachan先生が「初めから入口が違うわけで、それを前提として管理職という職種のエグゼンプトをやっている」と指摘されるように、職として採用される「管理職」層によってマネジメントされる欧米の企業組織の描写であると考えるのが自然でしょう。

ということは、「ピーターの法則」とは、管理職としての職業的能力もスキルも身につけていない労働者が、闇雲に上位の職を目指して「昇進」という「管理職への採用」に応じて管理職に就いても、結局「無能」な管理職が生まれるという指摘にすぎないといえそうです。そして、この本が書かれた1969年という年代は、アメリカでも高度成長に陰りが見え始めて、ベトナム戦争が泥沼化し、人種差別に対する抗議運動や反戦運動が盛り上がり、組織に属さないヒッピーという生き方がもてはやされた時代であったことを考え合わせると、既存の組織に対する反感とそこでの処世術をアイロニカルにかつロジカルに指南するというのが本書の位置づけだったのかも知れません。1919年生まれのピーター博士自身は本書が刊行された当時50歳前後ですので、(その趣旨には賛同していたとしても)過度に盛り上がったり過度に厭世的に振る舞う若者に対して一歩引いた立場で、それが本書に通底するアイロニカルな記述に現れているように思います。

ところが、21世紀の日本型雇用慣行にどっぷり浸かった私が読んでも、本書の指摘にはいちいち身につまされることが多いんですよね。というのも、まさに上記引用部でピーター博士が指摘しているように「平等主義が無能を招く」のにもかかわらず、現在進行しているのは、例えばともに大卒を対象としながらキャリア(管理職)とそれ以外に区分していた国家1種と国家2種試験を廃止して「総合職」と「一般職」とし、(少なくとも建前上は)国家公務員のキャリアコースを廃止したり、「能力主義の徹底」として「人物本位の採用」がもてはやされて学歴を問わずに一律に採用するという「平等主義」的人事管理です。

その一方で、日本型雇用慣行における管理職は、その組織において「優秀」と認められた者に対して与えられる報酬であって、「白地の石板」として採用された無垢の新卒学生がスキルを身につけるインセンティブとしては機能するとしても、管理職としての実績を積むことなく管理職として登用されることがキャリアのゴールとなり、管理できない管理職が管理職層を占める結果となっているわけです。ピーター博士がアメリカでアイロニカルに記述した「ピーターの法則」が、ジョブ型ではないメンバーシップ型の日本において最もよく当てはまるというこれ以上ないアイロニカルな状況においては、冒頭で取り上げたようなねじれにねじれた政治状況が生まれるのもやむを得ないのでしょうね。

2018年05月02日 (水) | Edit |
この時期はメーデーやら憲法記念日やらがあるので、拙ブログでも労働基本権についてのエントリをいくつかアップしているところですが、かねがね感じていた違和感をこれまで書いていなかったので、メモ代わりに。

高度成長期の日本的労使関係におけるメインイベントはいうまでもなく「春闘」でしたが、これは略称ですので、正式には「春季闘争」(連合は「春季生活闘争」と呼んでいますが)です。その経緯についてはいつもの通り菅野『労働法』から引用しておきます。

(ⅱ) 春闘争議の時代

…1960年代半ばから高度経済成長が本格化し、組合運動も生産性向上に協力して企業収益のパイを大きくしたうえ、その分配に預かる路線が主流となった。かくして、労使対決の大争議はほとんど発生せず、代わって高度経済成長の成果を社会全体に分配する「春闘」が発展し、そのなかでの賃上げ争議が典型的な労使紛争となった。(中略)また国鉄、郵政などの組合が春闘で相場確定の役割を担うに至り、争議行為が盛んに行われるようになった。1960年代後半から1970年代半ば過ぎにおける春闘では、産業間・産業内の賃上げ交渉を連携させるための交渉スケジュールに従って、鉄鋼、電機、自動車などの基幹金属産業における交渉=ストライキが行われ、最終段階で私鉄総連と公労協が組んだ「交通ゼネスト」が行われた。
p.803

法律学講座双書 労働法 第十版
定価: 5,724円(5,300円+税)
著者名:菅野和夫 著 出版社:弘文堂

注 以下、強調は引用者による。


菅野先生が「交渉=ストライキ」と指摘されるように「春に闘争を行う」というなんとも物騒な呼称が採用されたようでして、いや待てよ、ストライキには労組法、労調法で「同盟罷業」という訳語が与えられているのではないかとも思うところですが、マルクス主義の影響を強く受けていた戦後の労働組合からすると、「階級闘争」(日本大百科全書(ニッポニカ)によると英語ではclass struggle、ドイツ語ではKlassenkampfだそうですが)の意を込めて「闘争」という言葉を使う方がしっくりきたのではないかと推察するところです。

春闘が始まった当時の「闘争」の使用例について、金子先生の著書からも引用しておきますと、

春闘のはじまり

 …1954(昭和29)年に総評の事務局長戦で高野実と太田薫(合化労連)が争い、かろうじて高野が再選を果たした。太田は、政治的要求を経済的要求より優先させ、労組本来の闘争を地域住民全体に解消させている高野の「ぐるみ闘争」を批判し、「産業別統一闘争」を主張した。翌年の事務局長選では高野は岩井章に敗れ、あわせて賃金担当の副議長の太田薫が再選されたことで、いわゆる岩井・太田ラインが完成し、春闘を先導していくことになる。1954年末、産業別統一闘争強化をはかるため、炭労、私鉄、合化労連、電産、紙パ労連による五単産共闘会議が設定され、翌年の春には全国金属、化学同盟、電機労連(総評には未加入)が加わって八単産共闘が組織された。これを受けて1956(昭和31)年には総評は「春季賃上げ合同闘争本部」を設置し、組織的に春季賃金闘争を指導する体制が構築された。折からの神武景気のもとでの賃金闘争だったこともあり、平均10%の賃上げを獲得した。
p.155-156
日本の賃金を歴史から考える
著者 金子良事
ジャンル 単行本
■社会・労働・法律
■社会・労働・法律 > 労働
出版年月日 2013/11/01
ISBN 9784845113378
Cコード 0036
判型・ページ数 4-6・208ページ
定価 本体1,500円+税


いやまあ「闘争」のオンパレードですが、こうした用語法を持つ組織ならむしろ「闘争」でなければ違和感があるくらいですね。ちなみに、「strike」に同盟罷業という訳語を当てるのは1886年6月の雨宮製糸場の労働争議を伝えた山梨日日新聞の当時からのようですので、由緒正しい言葉のようですが、これを言い換える必要性は、ストライキ自体が風化している現代ではよく理解できないのが正直なところです。というより、労働組合が「闘争」するのが世界的に共有された用語法なのかよくわかりませんし、そもそもGHQ草案での憲法第28条では、

Article XXVI.
The right of workers to organize and to bargain and act collectively is guaranteed.


となっていたところでして、団結権や団体交渉権、さらに団体行動権にわざわざ「闘争」という訳語を当てるのはそれなりに思想的な背景があると考えたほうが自然なのではないかと思います。

そうした日本的ポツダム組合の歴史を描いた牧久『昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実』を題材にして、hamachan先生はこう指摘されています。

全てをトップで決めて下に従わせるのではなく、現場に権限を下ろし、現場でヒラの労働者も管理職と同様に創意工夫をこらして、現場レベルで自主的に仕事を進めていくから、日本型労使関係は強いのだ、日本型雇用が強靱なのだ、というのは、ある時期までの日本型雇用礼賛における定番の議論の筋道でしたが、その「現場の強さ」「現場力」が、経営体、事業体としての国鉄にとってかくも逆機能的に作用してしまったことの皮肉の意味は、実は今日に至るまで必ずしもきちんと総括されきっているわけではないように思います。

これは、日本型雇用システムの本質としての「職務の無限性」について、ややもすると一定の方向性でのみ理解する傾向が強いことととも関わりがあります。職務記述書に示される「職務の限定」とは、いうまでもなく、「これ以上の仕事はやらなくてもいい」という意味と、「ここまでは仕事をしなければならない」という両方向の意味があります。というか、欧米の人事管理の本には必ず書いてある常識ですが。

「職務の無限定性」とは、その両方の意味において限定性が曖昧化するということを意味します。それがどういう風に現れるかは、経営側と労働者側の信頼関係と力関係によるとしか言えません

(略)

日本的労使関係が素晴らしいというその代表選手のはずの現場レベルの労使協議制と、国鉄の現場をずたずたにしてしまった現場協議制は、一体何がどう違うのか、どこで歯車が狂ってこうなってしまったのか、同書は当時の国労や動労の使っている言葉に沿って、それを簡単に「階級闘争主義」と称していますが、そういうできあいの言葉で簡単に理解してしまってはいけない何かがあるように思います

実は、日本型雇用の原点の一つには終戦直後の生産管理闘争があります。日本の労使関係を深くその本質まで突っ込んで考えるということは、実はそれほどキチンとされてきていないのではないか。というようなことまでいろいろ考えさせられました。

戦前から経営家族主義の伝統を持ち、民間企業に先駆けて工場委員会を設置するなど、日本型雇用のある意味で先進選手であった国鉄の労務史は、もっといろいろなことを検討すべきではないかと語りかけているように思われます。そういう感想を抱かせてくれた本書は、やはり名著と言えましょう。

牧久『昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実(2017年7月 9日 (日))』(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))

戦後の日本的ポツダム組合が掲げた「階級闘争主義」というのは、上記の通り言葉としては間違いではないと思うのですが、その「階級闘争主義」が一方では「現場レベルで自主的に仕事を進めていくから、日本型労使関係は強い」という日本型雇用慣行礼賛を巻き起こし、その一方では「国鉄の現場をずたずたにしてしまった現場協議制」を生み出したことは、歴史の事実として銘記すべきなのでしょう。

そして、hamachan先生が上記エントリで「ブラック企業を、その形は全くそのままでその主体だけ見事に入れ替えて作ったフェッセンデンの宇宙という感じ」とおっしゃるような職場環境から始まった国鉄の分割・民営化は、それをきっかけに連合の結成など日本全体の労使関係を変化させ、1990年代以降経営者が主導する形でさまざまな改革が進められていきます。その流れの中でバブル崩壊も相まって、非正規雇用への置き換えだったり、1995年に日経連(当時)が公表した「新時代の日本的経営−挑戦すべき方向とその具体策」における雇用ポートフォリオだったり、成果主義型賃金体系の流行などを経てブラック企業花盛りの時代を迎え、やっと長時間労働是正を主眼とした「働き方改革」が政治的イシューになったというところでしょう。

そしてそれは、hamachan先生が現代から当時の国鉄の現場を評して「主体だけ見事に入れ替えて作ったフェッセンデンの宇宙」とおっしゃる状況を、現代に戻ってもう一度180度ひっくり返して(元に戻して)、職務無限定で長時間労働も転勤も厭わず働く(男性型)正社員をデフォルトスタンダードとした日本型雇用慣行の堅牢さの基礎ともなっているわけです。そうした状況にあって、労働者のミカタと称する方々や「経済左派」を自称される経済学通な方々が「可処分所得を増やすために正社員化を進めろ!」とか「景気がよくなればブラック企業が淘汰されて賃金も労働条件も改善されるから財政出動を強化しろ!」とかおっしゃる風景は、まさに「逆機能的に作用してしまったことの皮肉の意味は、実は今日に至るまで必ずしもきちんと総括されきっているわけではない」ことの現れなのですね。

こうした状況については、牧久氏があとがきで述べていることが象徴的です。

 しかし、150年近い日本の鉄道史にとって、「国鉄解体」は新しい時代への出発点にすぎなかった。「国労、総評、社会党潰し」を狙った中曽根政権にとって、「分割・民営化」は大成功であったが、新しく発足した六旅客会社や貨物会社にとっては、多くの経営課題を残したままの“見切り発車”でもあった。新会社の経営陣や、それぞれの会社に“採用”された社員たちの悪戦苦闘が始まった。幸い本州三社ははやばやと上場を果たしたが、JR九州は上場(2016年10月)までに30年近くを要し、JR四国、JR北海道の二社と貨物会社の鉄道事業部門は、今なお赤字に苦しみ続け、ことにJR北海道では全路線の半分が「維持困難」に陥っている。また、コペルニクス的転回を遂げて分割・民営化に協力した松崎明が率いた「動労」は、分割・民営化後もJR東日本を中心にその影響力を発揮し、経営にさまざまな影響を与え続けている。「分割・民営化」という国鉄改革は今なお“道半ば”なのである。JR各社それぞれの「三十年史」が、新たな視線で書かれることを期待したい。
p.499
製品名 昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実
著者名 著:牧 久
発売日 2017年03月16日
価格 定価 : 本体2,500円(税別)
ISBN 978-4-06-220524-5
判型 四六変型
ページ数 520
ページ

日本型雇用慣行が逆機能的になった組織は解体されなければならなかったとしても、その組織が担っている(公共交通機関としての)役割も同時に維持しなければならない場合に、その手法として「分割・民営化」が適切であったかどうかはまた別問題のはずですが、当時はそれしか選択肢がなかったという事情も理解できないではありません。労使双方が採りうべき選択肢が狭まっていった経緯もまた、上記のような「階級闘争主義」の結果であるならば、現代の日本の選択肢が狭まっていないかを検証するために、「現場の強さ」に重きをおいた日本型雇用慣行を「総括しきる」ことの重要性が依然増しているといえるのではないでしょうか。

2018年04月21日 (土) | Edit |
今年はずっとパワハラを取り上げてきたところですが、ここ数日は財務省事務次官によるセクハラが話題となっているようでして、パワーだろうがセクシャルだろうがハラスメントが認められるこんな世の中じゃPOISONと言いたくなる気持ちもわかりますね、ただまあ、拙ブログではいつも繰り返している通り、パワー・ハラスメントは、パワー(指揮命令権)とハラスメントを峻別する必要があると考えていますが、その一方、セクハラはパワー(指揮命令権)そのものを問題とするより、その性差をことさらに利用して心身にダメージを与えることを問題視しているといえましょう。と考えてみると、パワハラとセクハラは似て非なるものであると整理しておく必要がありそうです。

いやもちろん、雇用契約なり請負契約なり派遣契約なり、およそ労務の提供を授受する関係においてあらゆるハラスメントを認める必要はないというのが原則であろうと考えます。その上で、そのハラスメントの根拠がパワー(指揮命令権)であるのか、あるいは態様が性差をことさらに利用したものなのかという分類の仕方によって、その対応が変わるという理解が素直ではないかと。

その前提に立つと、パワハラについてはこれまでパワハラクソ野郎について書いてきたとおり、

つまり、OJTが試行錯誤をさせてその取組の中で職務遂行能力を向上させるものであることを目的とするものであることから、当然の帰結として、部下はかなりの割合で「錯誤」することになります。それに対して上司は、試行錯誤の「錯誤」の部分について助言・指導を行う必要があり、その際に、人格を否定して人権を侵害するような暴言を吐いたり、ときには暴力を振るったりしてその「錯誤」を攻め立てることがハラスメントになるわけです。

(略)

つまり、大規模な組織において「論理的」なるものは、実は誰にとっても都合よく読める程度には玉虫色のものにせざるを得ないわけでして、その玉虫色の決着を有利に形成する際には、「あるときは徹底的に論理的に、あるときは表向き論理的に」という使い分けが有効ということになります。

そしてこの状況で最も事を有利に進めることができるのが、まさに論理的と非論理的を使い分けてパワハラを駆使するクラッシャー上司であり、だからこそクラッシャー上司は高評価されて出世もするのですが、その結果として、一見論理的に見えてもその実上司が自分の思い込みで判断した結果にすぎないということが頻発し、その組織における「論理的」なるものが内実を失っていくのではないかと思います。というか、大企業病とか役人病というものの大半はこれで説明可能ではないかとも思うところでして、この国の意思決定をまともな方向へ進めたいと思う方々は、まずパワハラを駆使するクラッシャー上司という社会的害悪を何とかしないといけないのではないでしょうかね。

パワハラを駆使するクラッシャー上司(2017年08月06日 (日))

というように組織の意志決定を歪める社会的害悪であって、それを認めるような組織風土や企業文化を排除できない組織は早晩行き詰まるだろうと考えておりますが、セクハラについても、場合によってパワハラと同じような社会的害悪となりうるということが今回の件で明らかになったことではないかと思います。

ただし、パワハラとセクハラでやや様相が異なるのは、パワハラでは、パワハラする側が自らの地位や気分を害すると思う相手に対して一方的な罵倒や人格否定を行い、パワハラの対象者には一切の利益がないのに対し、セクハラは、する側とされる側双方にそれなりの対価がある場合に発生しやすいという点です。

前々回エントリでも取り上げた厭債害債さんのところで重要な指摘がされている通り、

しかし前のエントリーにも書いたように、本来は自社の女性社員を守るためにこれまで何らの行動をとらず、むしろネタどりなどのためにあえてセクハラを受けやすい女性社員を、わざわざ夜の席で一対一になることを許容してきたそのメディアのほうも大いに糾弾されるべきであり、仮にその行為を(本人が嫌がっているのに)営業のためにやらせていたとしたら、そちらの方も全く同罪なのです。福田次官が辞任するとしたら、そのテレビ局の担当部長や役員クラスが処分されるべき事案だと思います。むしろそのプロット自体が女性の犠牲のもとにビジネスを遂行するという陰湿なプランに裏打ちされているため、非常に嫌悪感を感じる部分です。

ただ、女性担当者は、さっきも言ったように仕事にまじめであったり功績をあげたいという強い気持ちで、そういうリスクを犯したり、あるいはもっと踏み込んだ行動に出かねない。保険会社での枕営業というのも昔から言われていることです。そういう事実があるということを踏まえて、単なるきれいごとで本件を扱ってほしくないなぁというのは正直なところです。

「マドンナ作戦(2018/04/19 02:09)」(厭債害債(或は余は如何にして投機を愛したか))

セクハラの被害を受けたご本人の自発的な行動なのか、あるいは会社の指示であったのかはともかく、セクハラの対価として「ネタ取り」が企図されていたことは否定できないでしょう。もちろん、女性に対してならネタを提供してもいいと考える(特に重要な情報を持つ地位にある)男性がいればそのこと自体が糾弾されるべきですが、そのこと自体を糾弾するでもなくむしろ利用して「ネタ取り」しようとした側にも非があると言わざるをえません。

もしかすると、今回の件が財務省の高官によるセクハラ行為を告発するための仕掛けであり、セクハラ被害の現場を押さえるために敢えて「わざわざ夜の席で一対一になることを許容してきた」というのであれば、それはそれで効果はあったといえるかもしれません。しかし、どうやら被害を受けたご本人の所属する組織では「ネタ取り」を優先してその被害を取り合わなかったようですし、そもそも現時点ではセクハラをしたとされる側が全面否定しているので、その「ネタ取り」の目的や成果が明らかにされない限り、逆に財務省の高官を陥れるためのトラップだとする主張にも理由を与える結果となっています。

冒頭に書いた通り、「雇用契約なり請負契約なり派遣契約なり、およそ労務の提供を授受する関係においてあらゆるハラスメントを認める必要はない」という原則に立ち返って、セクハラを認めるべきではないと考えますが、厭債害債さんが「マドンナ作戦」と呼ぶような行為があることもまた現実である以上、「マドンナ作戦」を仕掛ける側からすれば、それがうまくいって対価が得られれば自らの業績として活用し、対価が得られなければセクハラとして告発できることになるわけでして、「マドンナ作戦」にも規制が必要となってくるのではないでしょうか。まあ、とはいえ、人間が性差を持つ生物として生きている以上、「マドンナ作戦」を規制することは事実上不可能だとは思いますがね。

2018年04月15日 (日) | Edit |
前回までエントリまでで3月末からの書きかけは一通り書いたところですが、ついでに常々思っていたことを書いておきますと、この国の「陰謀論」好きはすでに見境がなくなっているんではないかと。

こちらのtweetそのものには特に異論はないのですが、私が見聞きしているこの国のエンタメも陰謀論ばかりではないかと思うところです。

といいつつ、私自身は定時で帰るなんて仕事上の飲み会のときぐらいの職場におりまして、平日にドラマを見ることもなく、録画しても土日に面白そうなものをかいつまんでみる程度ですし、小説もここ数年真面目に読んでないので、まあその程度の印象論です。さらに多分に自戒を込めておりまして、というのは、「「言うこととやることが正反対であっても、発話の内容のみに着目して議論するのが論理的に正しい」という主張は、感情を持った人間同士が議論するという現実を無視した机上の空論だろう」と考えておりますので、批判すべき議論について批判する際には、その議論そのものよりも発話者の普段の行動だったり発言を重視しておりますが、ここの加減を間違えると「○○の立場だから自分の都合のいい議論をしている」という陰謀論との境を超えてしまいかねないからです。

という自戒を込めつつ、この国の政治や行政をめぐる議論はもちろんのこと、特に刑事ものとか医療ものというドラマは、一部の権力者が私腹を肥やしたり野望を抱いて陰謀を張り巡らし、それに気づいた正義の下っ端が陰謀を暴くというプロットが多くて辟易することが多いんですが気のせいでしょうか。というより、そもそも政治や行政の意思決定の現場そのものをテーマにしたドラマというのはほぼ皆無で、刑事ものや医療ものでは政治家や役人が必ず出てくるものの、大抵は主人公の邪魔をするか、政治家や役人が主人公であっても上層部に巨悪がいてそれに楯突くような位置づけが多いんですよね。

一方で、海外ドラマもそれほど多く見ているわけではないのですが、アメリカでいえば「ザ・ホワイトハウス(原題:The West Wing)」では大統領とその側近たちが主人公のドラマで、人間くさい些事(浮気や見栄)に振り回されながら国の政治が動いていく様子が描かれています。イギリスでいえば、「官僚天国!〜今日もツジツマ合わせマス〜(原題:The Thick of It)」でかなりカリカチュアライズされてはいますが、何の見識もなく大臣になった政治家をこけにしながら振り回される官僚スタッフが主人公のドラマで、たとえば大臣となって引っ越した政治家が自分の子息を地元の学校に転校させる際に、周囲から便宜を図ったと言われないよう内密にしてほしいと学校に伝えたところ、その子息が登校していることがバレてしまい、結局「内密に転校したのは何か便宜を図ったからに違いない」と野党に追及され、その辻褄合わせに官僚スタッフが奔走するエビソードなどがあります。アメリカやイギリス本国での受け止め方はよくわかりませんが、どちらも長く続いたシリーズで放送終了後も人気があるようですので、そうした人間くさい些事に振り回される政治家や役人が意思決定の現場にいるということが視聴者にも違和感なく受け入れられているといえそうです。

飜ってこの国のエンタメを見てみると、正義の義憤に駆られた主人公が、悪に染まった権力者や腐りきった組織の上層部による陰謀を暴き、その首謀者を懲らしめるというプロットしかないというのは、それが実態を反映したものなのか、そうしたプロットしか視聴者が受け入れないということなのかはわかりませんが、これもまた日本型雇用慣行との差として認識しておいてもいいのかもしれません。