2017年05月03日 (水) | Edit |
このテーマを引っ張るつもりはなかったのですが、憲法の日に関連していつもの議論が繰り返されているようですのでメモ。

安倍首相 憲法改正し2020年施行目指す意向を表明(NHK NEWS WEB 5月3日 15時02分)

さらに安倍総理大臣は「70年前、現行憲法の下で制度化された、小中学校9年間の義務教育制度、普通教育の無償化は、戦後の発展の大きな原動力となった。70年の時を経て、高等教育についても全ての国民に真に開かれたものとしなければならない」と述べ、高等教育の無償化なども改正項目として例示しました。「教育無償化」は義務教育以外にも授業料を取らない範囲を広げていこうという考え方で、日本維新の会が去年発表した憲法改正原案に盛り込んでいます。


経済学方面からは「所得再分配の拡充」というと「可処分所得を増やせ」の一点張りで増税など愚の骨頂と徹底して批判されるところですが、「教育の無償化」はれっきとした所得再分配政策でありながら可処分所得は直接的には増えるわけではありませんね。つまり、教育という財・サービスの需要側が、現行の憲法に定める教育を受けさせる義務を果たすため、自らの支払能力に制約されることなく必要に応じて需要できるように政府がその費用を拠出するのが「教育の無償化」の目的であって、それによって需要側の可処分所得が増えたとしてもそれは間接的効果にすぎません。なんとなれば、可処分所得の増加は教育を受ける子弟のいる家庭に限られるわけでして、ある一時期を捉えれば「教育の無償化」は子弟のいない家庭から子弟のいる家庭への所得再分配であり、高齢者層から若年層や中高年齢者層への所得再分配となります。つまり、人口一定の前提でそれが貨幣的現象であるならば「教育の無償化」は景気には中立となるはずです。

となると、「教育の無償化」という所得再分配政策には経済学方面から強烈な批判があるかと思いきや、「教育の無償化」を財政政策の拡充ととらえて「だから我々は財政政策の効果を否定していないし、むしろ緊縮財政を批判してきたのだ」と賛同する意見が多いようにも見受けます(特に喧嘩を売るつもりはないので引用はしませんが)。おそらく経済学的な観点からいえば、「教育の無償化」で個人の能力を公平に高められ、それがスピルオーバーして経済成長につながるという「正の外部性」の効果と、教育従事者の雇用や所得が増加することによる総需要増加の効果が評価されているのかもしれません。いやまあ、後者については消費増税による増収によって医療介護の分野ではすでに雇用増加の効果が現れているのですが、「失業率の低下や有効求人倍率の上昇は医療介護の分野で年寄りと女が低賃金で働いているだけで、「オレの」景気がよくなったわけじゃない」と一斉に叩かれ、さらに、その効果が現れない要因となっている低賃金構造については「最低賃金1500円とか騒ぐ暇があれば働け」と言われるわけで、再分配政策に関する議論というのはいろいろと厄介ですね。

ということで、「教育の無償化」の効果を、前者の個々人の能力向上による正の外部性に絞って考えてみようと思うのですが、そうはいっても、これもまたいろいろと厄介な問題でして、昨年のサプライズだったトランプ米大統領の発言をめぐってこんな議論を拝見しました。

 たとえば、2017年3月30日のニューヨークタイムス誌に掲載されたニコラス・クリストフ(Nicholas Kristof)の記事では、人文学を軽視するドナルド・トランプが大統領になってしまったアメリカの状況をふまえた上で、歴史上で文学や哲学などの人文学がどのような利益を社会に与えていったか、ということを論じている。

 この記事でクリストフが論じていることの一つは、文学を読む習慣が普及したことは人々を道徳的にさせた、ということだ。例えば、アメリカで奴隷解放運動を支持する人を増やしてやがては運動を成功させた要因の一つは、ハリエット・ビーチャー・ストウの小説『アンクル・トムの小屋』が広く読まれたことであった。最近の心理学実験においても、フィクション作品を読むことが人々の他者に対する共感を強くさせる、ということが示されている。

(略)

 例として、奴隷制にまず最初に反対したのは哲学者であることをゴールドスティンは挙げている。物事について考える学問である哲学は、私たちの間で常識となっていたり標準となっている慣習や規範についても考え直すのであり、「現在では奴隷(や女性や外国人や同性愛者など)を虐待したり迫害したり差別したりすることは当たり前となっているが、よくよく考えると、それは誤りかもしれない」という考えを生み出すきっかけとなり、それがやがては社会の慣習や規範を実際に変えてしまうのだ。

「人文学は何の役に立つのか?(2017年03月31日)」(道徳的動物日記)


個人的にこうした理路で文学とか哲学が「役に立つ」という議論には大変賛同するところですが、一歩引いて、トランプ米大統領が批判しているのはそういうことではなく、給与所得者として、あるいは経営者として必要なスキルを会社が教え込まなければならないような状況では、その人材育成にかかるコストや、そもそも人材育成の失敗(誤り)によるスキル不足によって経営が危うくなるという事態が生じる可能性があり、それに対する懸念を極めて過激に(不適切に)表現したものではないかと推察します。

というところで、前回のエントリの最後の部分につながるのですが、

さて、このような懸念を示されている人材育成機能といえばアカデミズムの世界がその本務を担っているはずですが、この状況下であっても「学校は就職予備校ではない」とかいう念仏を唱え続けるのか、あるいは上記のような懸念を示す方々(引用したゲンダイクオリティの記事ではほとんどが経営者層ですが)が就職予備校ではないアカデミズムの世界からの新卒を人材育成するためにどのようにその「手腕」を発揮されるのか、はたまたメンバーシップ型におけるメンバーとしての青天井の出世のための努力を正規労働者全体に求め続けるのか、各方面の対応に注目したいと思います。もちろん、労働者(その予備軍としての学生)にとってもどのような能力開発や働き方が望ましいのかを考える貴重な機会ですし、その際に職場の労労対立を包摂しながら議論を集約していく労働組合の役割は重要性を増していくものと思います。

「どのような能力開発や働き方が望ましいのか(2017年04月24日 (月)) 」

「就職予備校ではない」高等教育(アカデミズムの世界)を無償化する際、それを裏付ける理路はどのようなものになるのか、大変興味深くヲチしていきたいと思いますし、それは、その無償化された教育を受けた新卒者を受け入れる使用者側が引き続き青天井の正社員として採用し続けることが適当かという判断にも左右されることになります。さらに、そうした教育をアカデミズムに委ねるのか使用者側に委ねるのか、はたまたトレードユニオンとして労働組合が担うのかを労働者の主体的な判断として労働組合が練り上げていく努力も必要となるでしょう。日本国憲法の第26条、27条、28条はこうしてつながっているのですね。

2017年04月24日 (月) | Edit |
前々回のエントリに追記した部分ですが、ちょっと広げてみたいと思いますので一部再掲します。

(2017/04/19追記)
(略)
まあそれはそれとして、入職した時点でそれなりのスキルを持った労働者が仕事をすれば、当然のようにはじめから仕事は効率的に進むでしょうけれども、日本型雇用慣行はそうした効率性ではなく、仕事を知らない新卒学生上がりが試行錯誤する中で経験を積むことに重きを置いているわけです。つまり、非効率な試行錯誤のために労働時間を費やし、その試行錯誤の経験が職務遂行能力として評価されて職能給が上がっていくというのが日本型雇用慣行である以上、試行錯誤する時間を有することこそが正規労働者としての資格を意味します。

そしてその試行錯誤の結果、運良く効率的な業務の進め方が構築されたならそれはそれでラッキーですが、場合によっては試行錯誤の結果が極めて非効率的なやり方になる可能性もあります。そしてその非効率なやり方が一度定着してしまうと、そこには制度の慣性の力が働いてしまい、次の担当者はそのやり方を改めるために新たな試行錯誤を繰り返し、さらに次の担当者がその試行錯誤を再現しつつそのやり方を身につけていく…という無限ループをこなして初めて、正規労働者として認められていくことになります。時間がいくらあっても足りないわけです。

(略)

さらに問題を難しくしているのは、そうした残業に対する認識が根強い状況においては、取引先から「こんなんじゃ使い物にならないからもっと勉強してくれよ」とエキストラな対応を求められても、「社会人として乗り越えなければならない貴重な成長の機会だ」などと美化されてしまうことになり、結局お互いがそれを押し付け合うことで際限のない残業が発生してしまうという状況です。制度というのはその趣旨を超えて都合のいいように活用されるのが常でして、誰かが抜け駆けすればそれがスタンダードになっていくわけですから、「働き方改革」によって日本型雇用慣行を改めるとしても漸進的に進めるしかないだろうと思います。その過程では悲喜こもごもありつつも、その方向性が示されただけでも大きな前進と捉えて、しゃかいじんとしてせいちょうしていきたいとおもいます(棒)

職務遂行能力の習得に必要な追加的労働時間(追記あり) (04/16)」に2017/04/19追記


というわけで、残業の多くは正規労働者が試行錯誤するための時間であるならば、試行錯誤が要らないような専門的・熟練的スキルをはじめから有する労働者を雇えばほぼ解決できます。では、「専門的・熟練的スキルをはじめから有する労働者」はどこから調達するかというのが次の問題になるわけですが、これもまた日本型雇用慣行はメンバーシップ型だからとか欧米ではジョブ型だからとか単純な切り分けはできないとしても、大雑把に言えば、その専門的・熟練的スキルを外部で身につけていることを前提として採用するのが欧米のジョブ型であり、内部で身につけさせるのがメンバーシップ型ということができるでしょう。

いやまあ、日本でも

だいぶ前のhamachan先生経由ですが、「その組織に必要な資質や技術、経験を持っている人間を外から採用する。本来ならばこれが正しい形です」というのは、拙ブログでも議論させていただいたことのあるラスカルさんが指摘されるように、

 こうした「際物ども」は別にしても、一見、自由な経済活動を行っているグローバル企業が、支払うべき「コスト」を支払っておらず、結果的に、社会から「補助金」を受け取る存在になっているのではないか、ということが、本書の問題提起となっている。ひとつに、地球環境に関わる外部不経済の問題があり、貿易における関税や補助金の問題があるが、こうした視点は、特に目新しいものではない。しかし、本書の範疇はこれらにとどまらず、社会の中の信頼や、インフラについても言及し、グローバル企業が、地域住民の「負担」によって利益を得ている、という視点を多面的にえぐり出している。*2

*2:以前、グローバル企業とはいえないまでも、ある中堅規模の経営者が、海外企業から原材料を買い付けるバイヤーを採用したいが応募がない、ということについて不満を漏らすのを聞いたことがある。不思議なことに、この経営者には、自社でそうしたバイヤーを育成したいとの意向がまったく感じられなかった。自社で育成せず、他社で経験を積んだバイヤーを採用するのであれば、育成のためのコストを支払わない分、それ相応の負担をする必要があるだろう。この経営者には、自社のために社会が支払う「負担」というものへの感度がないらしい──バイヤーは、どこで誰によって育成されるのであろうか?

「デイヴィッド・ボイル、アンドリュー・シムズ(田沢恭子訳)『ニュー・エコノミクス──GDPや貨幣に代わる持続可能な国民福祉を指標にする新しい経済学──』(2011-08-14)」(ラスカルの備忘録)


ここで取り上げられている経営者と同様、渡邉美樹氏も社会が支払う「負担」というものへの感度は持ち合わせていないようです。

「ブラック企業の作り方(2012年02月28日 (火))」


というようにアメリカ型のジョブ型雇用を夢想しているようですし、アメリカでも

グローバル経済を持ち出してチームプレーを根拠に休日出勤を指示するというのはアメリカに進出した日本企業にありそうなエピソードですが、休日出勤を指示したのがアメリカ企業の社員で、それを拒んだのがオランダ人労働者だったというのはちょっと意外でした。この本ではこのほかにも、アメリカ人の(エグゼンプションではない)普通の労働者が時間に追われていることが何度も指摘されています。その比較として北欧をはじめとするヨーロッパの労働時間やその規制がいかに有効かという例が挙げられるのですが、その中に日本が混じっているのが何とも違和感がありますね。

日本化するアメリカとアメリカ化する日本(2013年08月11日 (日))


というように日本型のチームプレーを根拠とした超過勤務を奨励する働き方も徐々に浸透しているようですので、それぞれがいいとこ取りしようとしていると見ることもできるとは思います。もちろん、そのいいとこ取りで今よりも改善されるのであれば望ましいのですが、逆にそれぞれの矛盾を抱え込んでしまい、却って状況が悪くなるのであれば本末転倒という批判もまたやむを得ないでしょう。

つまり、日本型のメンバーシップ型のいいとこ取りして、残業も厭わず仕事に打ち込むことで試行錯誤しながら経験を積むことこそが人材育成だという主張と、欧米のジョブ型のいいとこ取りして、人材を外部から調達することで育成コストを節減し、少ないインプットで多くのアウトプットを引き出すことで生産性(とかいう何か)の高い経営が実現できるという主張をする方々が、それぞれの立場で自分の信奉する雇用形態を推しながらお互いを批判し合うという状況で形式的に残業が規制されると、人材育成機能を誰が担うかという点が曖昧なまま会社内部の人材育成機能がスポイルされるのではないかという懸念が生じるわけです。

前出の小野氏が言う。

「'80年代は日本人の年間の労働時間が2100時間くらいあり、世界の平均は1800時間程度だったので、日本人は働きすぎだとバッシングを受けました。

そこで労働省(当時)が音頭を取って、半ば強制的に年間労働時間を1800時間に近づけました。ちょうど韓国のサムスンやLGが台頭し、日本の家電産業が衰退し始める時期と重なります。

さすがに高度経済成長期のがむしゃらな働き方が人を幸せにするとは言いませんが、現状の残業時間の規制には問題が多いのもたしかです。

人生に目標を持たず、仕事は生活のための手段に過ぎず、より福利厚生が充実していて楽なほうの仕事を選ぶ若者が増えている時代において、労働時間を規制してしまえば、これからの時代が求める人材を育てるのは容易ではないでしょう

労働者の賃金をカットし、働きたくない若者を増やす――政財官が結託して進める「働き方改革」は、まさに亡国の政策なのである。伊藤忠商事元会長で中国大使も務めた丹羽宇一郎氏は現状の日本人の働き方に対して、こう言い切る。

「もっと昔のように汗を出せ、知恵を出せ、もっと働けと言うしかない。それに尽きます」

かつての日本人たちが寝食を忘れて働いた末に今の日本の繁栄がある。それにあぐらをかいて、「これからは一生懸命働かないようにしよう」などと言っていれば、あっというまに三流国に転落する。

政府の言うことに踊らされて、やれプレミアムフライデーだ、ノー残業デーだなどと浮かれる前にやるべきことがある。

働かざる者食うべからず。

この言葉を忘れると、日本人の末路は本当に哀れなものになるだろう。

「日本人はすでに先進国イチの怠け者で、おまけに労働生産性も最低な件(4)」(「週刊現代」2017年4月29日号より)


まあさすがのゲンダイクオリティの記事ではありますし、既に炎上気味になっているようですが、上記のような観点から見ればここで示されている懸念にも一理はあると思います。

さて、このような懸念を示されている人材育成機能といえばアカデミズムの世界がその本務を担っているはずですが、この状況下であっても「学校は就職予備校ではない」とかいう念仏を唱え続けるのか、あるいは上記のような懸念を示す方々(引用したゲンダイクオリティの記事ではほとんどが経営者層ですが)が就職予備校ではないアカデミズムの世界からの新卒を人材育成するためにどのようにその「手腕」を発揮されるのか、はたまたメンバーシップ型におけるメンバーとしての青天井の出世のための努力を正規労働者全体に求め続けるのか、各方面の対応に注目したいと思います。もちろん、労働者(その予備軍としての学生)にとってもどのような能力開発や働き方が望ましいのかを考える貴重な機会ですし、その際に職場の労労対立を包摂しながら議論を集約していく労働組合の役割は重要性を増していくものと思います。

2017年04月19日 (水) | Edit |
震災から6年を過ぎて業務で被災地支援に当たることも減り、拙ブログでも震災関連のエントリは激変しているところでして、被災した沿岸部から遠く離れた内陸部からは窺い知れない部分も増えてきました。そんな中で被災された地域から貴重な情報発信を続けていらっしゃるhahnela03さんの最新エントリでは、復興の進み方(進め方)が引き起こしている問題が鋭く指摘されています。

 大槌町の復興の遅れは、防潮堤建設の際に共産党系の反対する方たちの「巨大な防潮堤ガー」ということによるものです。地下水脈が豊富に流れる町内を嵩上げせずに再建させるには震災前より大きい防潮堤整備と非難道路の整備を行うことで、自然環境を温存しつつ町内再建者を増やし、人口流出を抑制するという考え方によるものです。ですが、当時、反対派は安倍首相夫人が城山体育館に来訪されて際に、「安倍首相夫人も疑念があると発言した」と政治利用をしたのです。上手に利用されたわけですね。
 それにより大槌町の復興計画は狂いこの6年で住民の流出はとどまるところを知らず、復興後の予測でも人口は半減する方向へ反対派によって誘導されていったのです。嵩上げの選択が復興を遅らせることは当初から分かっていたことで、これを後押ししたのが、メディアによる報道でした
 明治・昭和の津波の際の高台移転の事例や津波石などを取り上げ、住民を誘導して言ったのです。それをさらに利用したのが東京のNPOによる「桜植樹」「鎮守の森」等の植樹募金ビジネスです。浸水地域という穢れた土地という設定の下に、復興計画が住民の意思から乖離して行き復興はどんどんずれ込んでいくようになりました。

「津波被災の記録146(2017-04-09)」(hahnela03の日記)
※ 以下、強調は引用者による。


大槌町については、拙ブログでも3年ほど前にNHKの番組での議論の様子を取り上げたことがありました。

番組では住民の皆さんが真摯に向き合って話し合う中で、様々な立場から意見が述べられていました。番組を見た範囲で私なりに大きく意見を分類すると、防潮堤の高さを低くすべきという意見としては、

  • 高い防潮堤があると景観が損なわれる。
  • 高い防潮堤が町を守るという安心感から防災意識が低下して、津波警報が出されても逃げない人が増える(今回の震災ではそのような状況で命を落とされた方も多くいた)。
  • 奥尻島でも町を囲む防潮堤を完成させて復興宣言もしたが、重要な地場産業である漁業が衰退し、人口減少が止まらない。
  • 防潮堤の高さを下げることによって予算を浮かせ、高台移転や避難路などの防潮堤に頼らない防災対策に予算を使うべき。
  • 防潮堤などの規模が大きくなると、維持管理・補修などの後年負担が大きくなる。

というところだったと思います。これに対して、計画通りの防潮堤とするべきという意見としては、
  • 防潮堤を低くすると浸水区域が広くなり、避難するのに時間がかかって足腰の弱い高齢者などが逃げ遅れるおそれがある。
  • 防潮堤の高さを前提として、避難路、公共施設の設置場所などの計画が作られており、防潮堤の高さを変えると計画全体を見直す時間がかかる。
  • すべての計画を作り直すために時間をかけるより、早く復旧させることを優先すべき。
  • 高齢者などの足腰の弱い住民が安心して暮らせるようにすべき

というところだったと思います。

「守るべきもの(2014年03月15日 (土))」


震災後3年の時点の上記のような議論からさらに3年が経過した現時点では、後者の意見の悪い点の方が目立っているということかもしれませんし、あるいは前者の意見で優先された点の利点がまだ顕在化していないということもいえるかもしれません。しかし、これらを組み合わせて考えてみたときに、後者の立場で懸念していた事態が発生している(と思われる)現状から、前者の立場から主張された利点が今後それを補うだけ顕在化していくのかは、より長いスパンで評価しなければならないように思います。というより、その長いスパンがかかるということ自体が後者の立場からの懸念だったわけでして、まさに守るべきものの評価は多様であり、それこそが意思集約の困難さを物語るものだろうと思います。

そのほか、ラグビーワールドカップに向けた競技場建設が建設地の復興事業の進捗を妨げているというご指摘も重要だろうと思いますが、もう1つ気になったのはこのご指摘です。

 みなし仮設に居る方達も含め医療費無料化が続いています。民進党と共産党によるものではありますが、これは事実上の県立病院対策でもありますが、それにより被災者は生活保護相当の扱いを継続していると言うことでもあります。生活保護と違い所得の把握をしないため、貯金が随分たまったと言う声もあるようです。そのため被災地の住民からもあまりよく思われていないです。これが住民対立へと向かうことになるんでしょう。
 県立病院以外の民間病院も恩恵は受けていますが、昨年から患者数が減ったということなので、転換点に来たのかと感じる出来事です。
 生活保護相当の扱いを受けた方達が、そのまま生活保護へ向かうのか、その際の所得管理等の把握のためマイナンバーが機能するかどうかということも含めいろいろと転換する動きを感じる6年と約1ヶ月です。

「津波被災の記録146(2017-04-09)」(hahnela03の日記)

医療費の無料化はいわゆる所得再分配に相当するものですから、生活保護相当の扱いというのはその通りだと思うのですが、それがミーンズテストを伴わないものであるため、所得がある層であっても可処分所得としてではなく貯蓄として積み重なっているとのこと。医療そのものは現物給付であるとはいえ、その無料化による現金給付相当の再分配が行われた場合、可処分所得の増加によって消費が増えるというどマクロな方々の想定通りに事が運ぶわけではなく、相当程度は貯蓄に回るのが実態なのでしょう。

その説明として、経済学方面からは将来の増税に備えて将来不安があるからというリカードの中立命題を持ち出して、だから永久国債などという威勢のよい主張がされているようですけれども、こうした実態を見るにつけ、必要な医療・介護・保育などの公共サービスの供給体制が公費で賄われ、その利用が必要原則に応じたフリーアクセス(この「フリー」はいつ誰でも自由にという意味ではありません。為念)を確保することのほうが優先だろうとは思います。まあ、こんな「経済学的に正しい」とは認められない議論には誰も振り向きもしないでしょうから、この状況は相変わらず続いていくのでしょうけれども。

2017年04月16日 (日) | Edit |
さて、再び1か月以上間が空いてしまい、過労死認定レベルの超過勤務ですっかりネタが貯まってしまっていたところではありますが、実はこの間に私淑している某先生にお会いする機会があるなどありつつも、この社畜ライフの中ででいろいろと考えたことがありましたので、忘れないうちにメモしておきます。

というのは、その過労死認定レベルの超過勤務が許容される日本型雇用慣行では、その大きな特徴としてOTJ挙げられるところでして、今更ではありますが、そのOJTが日本型雇用慣行における長時間労働の根源ではないかと思うわけです。もちろん、こうした指摘はこれまでにもhamachan先生や海老原嗣生さんをはじめ、日本型雇用慣行の実態を踏まえた議論をされている方々から散々されていたものではありますが、「働き方改革」をめぐる議論を見ていていると、その辺は華麗にスルーされているのだなあなどと思うところです。まあ簡単に言えば、現在の長時間労働を削減しなければならないとなったときに、どんな業務が真っ先に削減されるかと考えれば、自分以外の従業員に業務を教えたり指導したりする業務だろうと。

日本型雇用慣行はメンバーシップ型だからとか欧米ではジョブ型だからとか単純な切り分けはできないとしても、大雑把に言えば、「白地の石板」たる無垢な新卒採用による正規労働者が基幹業務を担うメンバーシップ型と、ある程度の職業能力を前提に入職するジョブ型を比較すれば、入職後にその職業能力を高めるための労力は前者の方が多く必要となるはずです。つまり、「白地の石板」が職務遂行能力を身につけていっぱしの業務を担える「メンバー」になるためには、通常の労働時間に加えてその職務遂行能力を身につけるための追加的な労働時間が必要となる場合が多くなるわけです。

この点不利だと言われるのが、結婚前なら気を遣って時間になれば早く帰れと言われ、結婚して育児が始まると否応なく早く帰らなければならない女性労働者であったり、何らかの事情や疾病などの影響により、8時間を超えて(場合によっては8時間以内でも)就労することが難しい障害者や難病患者であって、そのために就労支援などが行われているのですが、hamachan先生の言葉をお借りすると、その就労支援はあくまで追加的な「第2次ワークライフバランス」でしかありません。日本型雇用慣行で必要とされる職務遂行能力そのものには全く手がつけられておらず、従ってその習得に必要な労働時間が組み込まれた正規労働者の「第1次ワークライフバランス」は相変わらず長時間労働を前提としたままとなっています。

結局のところ問題は、正規労働者の「第1次ワークライフバランス」が実現できない要因であるところの職務遂行能力の習得のための追加的な労働時間と、主に正規労働者とはみなされない「第2次ワークライフバランス」で支援されている追加的な労働時間短縮が対応していない、言い換えるなら、メンバーシップ型のメンバーとなるためには労働時間短縮による「第1次ワークライフバランス」なんかやれるはずがないという点にあります。そして、正規労働者の「第1次ワークライフバランス」が実現できないまま労働時間短縮が強制されたときに、肝心の職務遂行能力の習得に必要な追加的労働時間が削減される可能性が高く、そのことに危惧を抱くメンバーシップな正規労働者(その中にはなんとか正規労働者として認められたいと考える女性労働者や何らかの事情により長時間労働しなければキャッチアップできない労働者も含まれるでしょう)からは、労働時間削減に対する反対の声があがるという、何重にも倒錯した事態が生じることになるのでしょう。

このような現実を前にしてどのような実務的対応が可能なのかは、我々のような現場の下っ端労働者が考える羽目になるわけですが、現状に対する慣性の力というのは想像以上であることが多いわけでして、「働き方改革」の前途は多難と言わざるを得ませんね。

(2017/04/19追記)
このエントリをアップしたタイミングを計ったかのようなエントリを発見しましたので、こちらに貼っておきますね。

理由1: 一定の知識と技術がなければ、NZではプログラマになれない

まず、「プログラマ」という職業に求められる要素が、日本とNZでは大きく異なる。

日本では、学問的なバックグラウンドや経験の有無を問わず、誰でもプログラマになれる。文系出身で1行もコード書いたこと無いけどプログラマになりました、という人は珍しくない。また、人材派遣の世界では「簡単な研修を受けただけで経験1年のプログラマとして派遣された」なんて話もある。
(中略)
一方でNZでは、情報系の学部を卒業していなければプログラマになるのは難しい。また卒業しているだけでは不十分で、企業でのインターンを中心に、ある程度の経験を積む必要がある。採用の過程では、NZ国内の学生だけでなく、世界中からやってくる移民たちとの競争にも勝ち抜かねばならない。

(中略)

まとめ ー 技術を磨けば定時で帰れる! ー

NZのプログラマが毎日定時で帰れるのは、必要な知識と技術を身に着けており、かつ企業がそのスキルにじゅうぶんな給与を払っているからだ。NZの社会や文化に関係なく、残業せずに仕事が終わるのには、それなりの裏付けがあった。

これは、とても希望の持てる結論だと思う

日本に住んでいても、技術さえあれば毎日定時帰りの生活を手に入れることができるのだ。

残業がなかなか減らないのは、あなた自身の技術力が不足しているか、もしくは、技術に見合った職場で働いていない可能性が高い。

「ニュージーランドのプログラマが毎日定時で帰れる本当の理由(2017-04-17)」(NZ MoyaSystem

こちらのブログ主さんは「まとめ」の部分で「これは、とても希望の持てる結論だと思う」と指摘されていますが、「白地の石板」として新卒で入職してから日本型雇用慣行で働いている我々にとってみれば。むしろ希望どころではなく絶望しかないような気もします。

まあそれはそれとして、入職した時点でそれなりのスキルを持った労働者が仕事をすれば、当然のようにはじめから仕事は効率的に進むでしょうけれども、日本型雇用慣行はそうした効率性ではなく、仕事を知らない新卒学生上がりが試行錯誤する中で経験を積むことに重きを置いているわけです。つまり、非効率な試行錯誤のために労働時間を費やし、その試行錯誤の経験が職務遂行能力として評価されて職能給が上がっていくというのが日本型雇用慣行である以上、試行錯誤する時間を有することこそが正規労働者としての資格を意味します。

そしてその試行錯誤の結果、運良く効率的な業務の進め方が構築されたならそれはそれでラッキーですが、場合によっては試行錯誤の結果が極めて非効率的なやり方になる可能性もあります。そしてその非効率なやり方が一度定着してしまうと、そこには制度の慣性の力が働いてしまい、次の担当者はそのやり方を改めるために新たな試行錯誤を繰り返し、さらに次の担当者がその試行錯誤を再現しつつそのやり方を身につけていく…という無限ループをこなして初めて、正規労働者として認められていくことになります。時間がいくらあっても足りないわけです。

さらにいえば、上記エントリで

あるエンジニア情報サイトが実施した「残業に関するアンケート」では、「残業する主な要因」として最も多かった回答は「残業費をもらって生活費を増やしたいから」で、「非常に当てはまる」「やや当てはまる」の合計が34.6%だった。*1

という記述があり、その参照先を見ると確かに、

 エンジニア情報サイト「fabcross for エンジニア」は3月2日、会社員・公務員1万145人を対象にした「残業に関するアンケート」の調査結果を発表した。調査期間は2017年1月12~19日。

 調査によると、「残業する主な要因」として最も多かった回答は「残業費をもらって生活費を増やしたいから」で、「非常に当てはまる」「やや当てはまる」の合計が34.6%だった。次いで「担当業務でより多くの成果を出したいから」(29.2%)、「上司からの指示」(28.9%)、「自分の能力不足によるもの」(28.9%)という結果になった。

(中略)

 「日本は残業が多過ぎるか」という問いには77.9%が賛成する一方で、「社会人として成長するためには、残業が必要なときもある」という考えにも52.5%が賛成している。また、「自分の勤めている企業・団体で残業を減らすのは無理だと思う」という考えには賛成が45.9%、反対が20.5%と、長時間労働を認識しながらも、問題の解消は容易ではないという考えが多くを占めるようだ。

1万人に聞いた「残業する理由」、1位は「残業代がほしいから」[ITmedia]2017年03月02日 12時21分 更新

という記事が掲載されていました。残業代がほしいといういわゆる「生活残業」というのも、「賃金の上方硬直性」がある日本型雇用慣行ならではのものでしょうし、本エントリの趣旨を裏付けるように、「自分の能力不足のために残業せざるを得ないが、それは社会人として成長するために必要なものだ」という認識が根強いのも日本型雇用慣行のなせるワザなのでしょう。

さらに問題を難しくしているのは、そうした残業に対する認識が根強い状況においては、取引先から「こんなんじゃ使い物にならないからもっと勉強してくれよ」とエキストラな対応を求められても、「社会人として乗り越えなければならない貴重な成長の機会だ」などと美化されてしまうことになり、結局お互いがそれを押し付け合うことで際限のない残業が発生してしまうという状況です。制度というのはその趣旨を超えて都合のいいように活用されるのが常でして、誰かが抜け駆けすればそれがスタンダードになっていくわけですから、「働き方改革」によって日本型雇用慣行を改めるとしても漸進的に進めるしかないだろうと思います。その過程では悲喜こもごもありつつも、その方向性が示されただけでも大きな前進と捉えて、しゃかいじんとしてせいちょうしていきたいとおもいます(棒)

2017年03月12日 (日) | Edit |
既に日付も変わってしまいましたが、震災から6年、つまり72か月が経過しました。場合によっては昨年の5年目で終わるかとも予想していましたが、今年も政府主催の追悼式典が挙行されました。生前退位に向けた動きもあってか、天皇皇后両陛下ではなく秋篠宮ご夫妻が御出席されたとのことで、そのお言葉がこれまでの歩みを余すことなく拾い上げています。

東日本大震災6年 政府主催の追悼式(NHK NEWS WEB3月11日 15時42分)

東日本大震災の発生から6年となる11日、秋篠宮ご夫妻が出席されて、政府主催の追悼式が東京で開かれ、地震の発生時刻に合わせて、安倍総理大臣や遺族の代表ら出席者全員が黙とうをささげ、震災で亡くなった人たちに哀悼の意を表しました。
政府主催の「東日本大震災六周年追悼式」は11日午後、東京の国立劇場で開かれ、秋篠宮ご夫妻や安倍総理大臣、それに遺族の代表らおよそ900人が出席し、地震が発生した午後2時46分に出席者全員が黙とうをささげ、哀悼の意を表しました。
追悼式には、これまで毎年、天皇皇后両陛下が出席されてきましたが、6周年となるのに合わせて検討が行われた結果、ことしは秋篠宮ご夫妻が出席されることになりました。

この中で安倍総理大臣が、「被災地に足を運ぶたび、震災から6年を経て復興は着実に進展していることを実感します。インフラの復旧がほぼ終了し、住まいの再建や産業・生業の再生も一歩ずつ進展するとともに、福島においても順次避難指示の解除が行われるなど、復興は新たな段階に入りつつあることを感じます。復興の進展に応じた切れ目のない支援に力を注ぎ、さらに復興を加速してまいります」と式辞を述べました。

また秋篠宮さまは「避難生活が長期化する中で、年々高齢化していく被災者の健康や、放射線量が高いことによって、いまだ帰還の見通しが立っていない地域の人々の気持ちを思うと深く心が痛みます。困難な状況にある人々誰もが取り残されることなく、平穏な暮らしを取り戻すことができる日が来ることは私たち皆の願いです」とおことばを述べられました。

この後、追悼式では、岩手、宮城、福島の3県の遺族の代表があいさつしました。
岩手県の遺族代表の千葉陽さんは、「去年、今住む町で、台風による甚大な被害がありました。私にとって、津波を思い起こす出来事でした。災害からなんとか生き残った者として、精いっぱいに生きることを全うすること、そして、さまざまなことで起きる『つらさ』を『幸せ』に変えられるように、今の自分が持てる力が役立つのならば、少しでもできることをしていきたいと思います」と述べました。

宮城県の遺族代表の佐藤昌良さんは、「過酷な経験を後世に色あせることなく語り続けるため、あの悲しみを忘れません。あのつらさを忘れません。あの無力さを忘れません。あの寒さを忘れません。両親の無念の思いに応えるため、火葬を済ませてすぐに東京の職を辞し、父の背中を追い、現在は地域建設業の経営者として復興の最前線に立っております。全国から頂いた善意の力を借りながら、ふるさとの復興を必ず成し遂げて参ります」と述べました。

福島県の遺族代表の石井芳信さんは、「川内村は、比較的放射線量が低く、一部の地域を残し1年で戻ることができました。今では全村の避難も解除され復興も着々と進んでおりますが、若い人たちが子どもの教育問題などから村に戻らないという課題なども多く、以前のような村の姿には程遠い現況にあります。みんなで力を合わせ復興と再生を進めていくことが私たちの責務であると考えます」と述べました。

この後、追悼式では、各国の代表ら参列者が献花を行い犠牲者を悼みました。

秋篠宮さまのおことば 全文

6年前の3月11日午後2時46分、私たちが今までに経験をしたことがない巨大な地震とそれに伴う津波が、東北地方太平洋沿岸部を中心とした東日本の広範な地域を襲いました。そして、この地震と津波によって、2万人近い人が命を落とし、また2500名を超える人の行方がいまだ知られておりません。
ここに、本日、参集したすべての人々と共に、震災によって亡くなった方々とそのご遺族に対し、深く哀悼の意を表します。この6年間、被災地においては、人々が互いに助け合いながら、数多くの困難を乗り越え、復旧と復興に向けた努力を続けてきました
そして、そのことを支援するため、国内外の人々が、それぞれの立場において、様々な形で力を尽くしてきました。その結果、安全に暮らせる住宅の再建や産業の回復、学校や医療施設の復旧などいくつもの分野において着実な進展が見られました。また、原子力発電所の事故によって避難を余儀なくされた地域においても、帰還のできる地域が少しずつではありますが広がってきております。今まで尽力されてきた多くの関係者に対し、心からの感謝と敬意を表するとともに、復興が今後さらに進んでいくことを祈念しております
しかし、その一方では、被災地、また避難先の地で、困難な生活を強いられている人々が今なお多くいます。特に、避難生活が長期化する中で、年々高齢化していく被災者の健康や、放射線量が高いことによって、いまだ帰還の見通しが立っていない地域の人々の気持ちを思うと深く心が痛みます。困難な状況にある人々誰もが取り残されることなく、平穏な暮らしを取り戻すことができる日が来ることは、私たち皆の願いです。東日本大震災という、未曽有の災害のもとで、私たちは日頃からの防災教育と防災訓練、そして過去の災害の記憶と記録の継承がいかに大切であるかを学びました。この教訓を決して忘れることなく、私たち一人ひとりが防災の意識を高めるとともに、そのことを次の世代に引き継ぎ、災害の危険から多くの人々が守られることを強く希望いたします。様々な難しい課題を抱えつつも、復興に向けてたゆみなく歩みを進めている人々に思いを寄せつつ、一日も早く安寧な日々が戻ることを心から願い、御霊への追悼の言葉といたします。

※ 以下、強調は引用者による。


この国に住む住民の一人として深く共感して肝に銘じるとともに、多くの方とこの簡潔な言葉の中に込められた思いや願いを共有できればと思います。

さて、気が付いたら年明けから実質的なエントリをアップしないまま震災から6年目の節目を超えてしまいました。言うまでもなく、この数か月の超過勤務時間が月当たり三桁時間を超えて週休日って何それ?という激務のため更新できなかったわけでして、おかげさまで社畜ライフを満喫させていただき、なんとか作業も一段落したところで一応生存確認を兼ねてエントリをアップしようと思ったら、すでに震災から6年目のエントリとなってしまったという次第です。

でまあ、秋篠宮様のお言葉を共有したところで終わってもいいのですが、念のために、私自身は山口先生が震災から2年後に指摘されていた「「よりよく忘れる」ということ」に特に付け加えることはないと考えております。秋篠宮様のお言葉にあるとおり、忘れることなく伝えていくべきことは「私たち一人ひとりが防災の意識を高めるとともに、そのことを次の世代に引き継ぎ、災害の危険から多くの人々が守られること」であって、被災地そのものへの関心が薄れることはやむを得ないことだろうと思うとともに、ある面ではそれも必要ではないかとも思います。

「被災地」という意識が当事者にもその他の方にも強すぎると、支援する/されるべき対象という区分けがいつまでも残ってしまい、そのこと自体が新たな問題を引き起こす可能性もあるように思います。例えば数日前に炎上した案件ではこんなものがありました。
「なんか、『福島米食べてます』って言えない自分がいる」――。お笑いコンビ「クワバタオハラ」のくわばたりえさん(40)が漏らした福島産の食材に対する「本音」が、インターネット上で激しい賛否を広げている。

くわばたさんは、東日本大震災による「風評被害」を特集した2017年3月8日放送の『あさイチ』(NHK総合)に生出演。検査で安全が保障されていると理解しつつも、福島産の米に「抵抗」を感じてしまうことについて、複雑な思いを吐露した。

(略)

こうしたくわばたさんの「本音」をめぐり、ネット上では賛否の大きく分かれた意見が出ることになった。ツイッターやネット掲示板には、

「くわばた、福島の米は買わないとか。そんな人間をなぜ番組に呼ぶの? 風評被害をぶっ飛ばせ目的かと思ったら、逆の印象を与えそう」
「見損なった。福島の米を買わないからではなく、買わないことを公言してそれを自己正当化して、影響の大きなテレビ番組で言い放ったから」

と激しく反発するユーザーもいれば、その一方で、

「安心と安全は違うという典型的なやつで くわばたはまさにそこをしっかり説明してる」
「発言がネガティブに見えて実はニュートラルだよね。福島のものは大丈夫!みなさん食べましょう!!なんて歯の浮くようなこと言うやつよりはるかに信用できる」


とくわばたさんの発言に理解を示す声も数多く出ていた。

くわばたりえ「福島米食べてます、って言えない自分」 NHKで本音連発に複雑な反応(J-CASTニュース 2017/3/ 9 15:46)

いやまあくわばたりえ氏(というと堅苦しいですが一応敬称をつけます)の発言は引用しませんでしたが、その意図をネット掲示板のユーザーなる方々がどこまで理解しているのかという一抹の疑問はありつつ、ここで取り上げられているコメントはくわばたりえ氏のものも含めて、「福島県という被災地」をひとくくりにして個別に判断しようとするものではないように思います。

しかし、だからといってすべての住民が自分ですべてを調べて自分で判断すべきかといえば、それも絶望的に難しいのが実態だとも思います。

対話は活発だったし、なにより、参加者は熱心にメモをとっていた。
集会が終わった後、西澤さんと専門家は「これは成功だ。他の仮設住宅でもやるべきだ」と話していた。
ところが2012年1月末、集会に参加した住民の感想を聞いて、西澤さんは愕然とする。
「先生、この前の話、全然おぼえてない」と子育て世代の女性は話しはじめた。
「バナナにも(放射性物質が)あるって言っていたから、娘にバナナ食べさせるのやめたんだ」
比較のために、バナナの事例を出したが、バナナを食べないようにという話はしていない。西澤さんはもう一度、女性に尋ねる。
「えー。あれだけメモとってたじゃないですか」
「うん、でもあとはラドン温泉の話くらいしか覚えていない」
「そうですか……。わからなかったこと、次に聞きたいことあります?」
「先生、放射能の話は難しいんだよね。なにを質問していいのか、わからないんですよ」
専門家としては、住民の関心にあわせてわかりやすく説明したつもりだったが、住民は覚えていない。

(略)

西澤さん自身の言葉で、ズレが生じた理由を分析してもらおう。

いま思えば、当然のことですよね。
リスクは、科学的な観点からだけでなく、社会的な観点や、個々人の受け取り方という観点からも論じないといけない。
科学的な説明で納得できる人はいいけど、人の納得の仕方はそれぞれの状況でまったく異なる。
対話に参加してくれた人たちのなかでも、住民対象の説明会に参加して、専門家の説明を聞いた人は多かった。
そこでも散々、科学的な説明はあるんです。彼らは「専門家はどうせ、また村は安全っていうんでしょ」と思っているんです。
事故が起きてから、飯舘村が計画的避難区域に指定されるまでだいたい1カ月。人によっては、避難するまで、村に住み続けたことを強く後悔しています。
私がやった対面のインタビュー調査で、あがってきたのはこんな声です。

  • 「あのとき、孫を遊ばせた雪のなかにたくさん放射能がついていたんじゃないか」
  • 「避難前に外で遊ばせていた。もし将来なにかあったら、それは私の責任だ」
  • 「小さな子供たちは、自分は結婚できない、結婚しても子供ができないと考えている」

この不安に対して、専門家は「科学的には、この程度の放射性物質で影響はありません」「広島、長崎の研究を踏まえれば〜」と説明する。
これは科学的には正しい。でも、コミュニケーションとしては失敗しています。
彼女たちが求めていたのは、知識ではなく、まず自分がしてしまったことを受け止めてほしいということ。
自分が悩んでいることであり、知識を聞いてもどうしても消えない不安がある、と知ってほしかったんですね。
ここからズレているんです。

西澤さんは、原発事故後の対応では、行政だけでなく専門家も不信感を持たれた、と考えている。
インタビュー調査にある住民の声が「不信感」を象徴している。

「子供がいる世帯は避難したほうがいい、ともっと早く言ってほしかったのに、(2011年4月上旬に)質問しても『年間被ばく量がどうだこうだ』とか難しいことばかり言われて、答えてもらえなかった」

「大丈夫、大丈夫という科学者の声を信じてきたけど、結局、避難することになった。それなら、逆に事態が深刻です、という人のほうが信用できる。(講演会にいっても)どうせ安全というに決まっている」


いちど失った信頼は、容易には取り戻せない。

(略)

「住民が聞きたいことを引き出し、専門家が伝えたいこととすり合わせること。聞きたいことと、専門家が伝えたいことのミスマッチを可能な限り減らす場をつくること」
これが西澤さんの教訓だ。そして、ミスマッチを放置してはいけないのは、いまだ福島を巡って繰り返されるニセ科学やデマの素地になっているからだ、と指摘する。
人はどうしても、自分の仮説や信念に都合のいい情報ばかり集めてしまうバイアスがかかってしまう。
前述したように、いちど専門家に不信感を持ってしまったら、人はどんな情報を集めるようになるか。
「事態が深刻だという人」の声を集め続けることになるだろう。
不安につけ込むように、インターネット上に大量に、危険を訴えるデマや誤情報も入ってくる。例えば「福島県産食品は実は危ない。子供たちに食べさせてはいけないのだ」。

福島県産食品のデータを調べれば簡単に否定できる情報だが、よかれと思って善意から忠告する人もいる。

【東日本大震災】なぜ福島デマが残り続けるのか?専門家が勘違いしてたこと(BuzzFeed News posted on 2017/03/05 11:01)


人は知りたいことしか聞かないし見ようともしないというのは、私のような実務屋にとっても痛いほどよくわかることなのですが、「よかれと思って善意から忠告する人」には対処のしようがないというのも現実ではないかと思うところです。この現実にこれからも向き合っていくことが、復興の一つの側面でもあるのでしょう。