2017年08月16日 (水) | Edit |
震災後はお盆の時期にその時々に感じたことなどをアップしているところで、今年は東日本大震災で亡くなった方の七回忌となります。とはいえ、沿岸部から離れた内陸部に居住する私は身内に被害者がいるわけでもないのでニュースでその様子を伺うだけですが、その中にこんな記事がありました。

 東日本大震災の津波で流された写真や位牌(いはい)など「思い出の品」を持ち主に返す活動が、岐路に立たされている。国の財政支援を失ったり、問い合わせが減ったりして活動を縮小する自治体が相次いでいるのだ。そんな中、岩手県陸前高田市がこの夏、県外の東京、仙台で「出張返却会」を初めて開くことを決めた。震災から間もなく6年半。物理的な復興と違って、一人一人歩みの異なる「心の復興」の現場を歩いた。【石巻通信部/百武信幸、統合デジタル取材センター/小国綾子】

引用元: 「思い出の品」で心の復興を 東京、仙台で初の返却会(毎日新聞 会員限定有料記事 2017年8月15日)


有料記事ということですが、月5本まで読めるとのことなので本文の一部を引用しておきますと、

「写真を探しに行きたいが……」と県外避難者ら

 陸前高田で震災後に泥や潮水から回収された写真は20万~30万枚に上る。写真約7万2000枚、位牌やへその緒などの品々約2500点がまだ残ったままだ。

 実は三陸沿岸の自治体はどこも持ち主に返しきれない「思い出の品」を抱えている。写真だけでも、仙台市の約16万枚など、合計100万枚前後になりそうだ。しかし、どこも復興事業で忙しく、返却作業にまで手が回らない。役所に足を運ばないと写真を探せない自治体も多く、問い合わせが減ったことや保管場所がないことを理由に、電子データ化した上で現物を焼却処分した自治体もある。

(略)

 陸前高田市はこれまで、市内だけでなく、県内陸部の盛岡や一関などでも「出張返却会」を積極的に開いてきた。今年4月からの3カ月間だけでも223人が返却会に訪れ、923枚の写真が持ち主や家族、遺族らの手に返された。

 今なお海や泥の中から新たに写真が見つかることがある。昨年、市内で泥の中から見つかった写真アルバムは今年になって持ち主に返却された。

 今回初めて東京や仙台での開催を決めたのは、県外避難者や実家を流された県外在住者らの「写真は探したいが、高田までは行けない」という声を受けてのことだ。

 「まだ生活に余裕がなく写真探しどころではない方、つらくて写真を見られない方、今年、七回忌を終えてようやく写真をゆっくり探す気持ちになれた方などもたくさんいます」。同市から返却事業を委託されている一般社団法人「三陸アーカイブ減災センター」理事の秋山真理さんは語る。

引用元: 「思い出の品」で心の復興を 東京、仙台で初の返却会(毎日新聞 会員限定有料記事 2017年8月15日)

とのことで、七回忌を迎えてやっと遺品探しができるという方もいらっしゃいます。しかし、その遺品を預かる立場の自治体の中には、人手や経費、さらに場所の問題からデジタル化して現物を焼却処分したところもあったようです。遺品は現物だからこそその意味があると思われるところでして、当然自治体の側でもそれは痛いほど分かっている(自治体職員の多くも被災した当事者ですし)はずですが、それでもなお焼却処分せざるを得なかった事情を推察すると、被災した地域の自治体が置かれた状況の厳しさを改めて考えてしまいます。

思い出の品を返す活動を縮小する自治体が相次いでいる大きな理由は、冒頭の引用部分にある通り「国の財政支援を失った」ことにあるでしょう。役所の仕事の特徴として、先におカネがあってそれに基づいて仕事が発生するという経路があるわけですが、これを裏返すと、おカネがなくなれば仕事が無くなるということになります。おカネがあるうちは継続できた活動(役所的にいえば事業)が、その財源を失ったことによって継続できなくなるというのは、良し悪しは別として役所の仕事の実態です。そしてその財源拠出の可否は、少なくとも建前上は財政民主主義に基づいて国民が決定することになります。

東日本大震災後も日本各地で相次いでいる大規模災害は、(言葉は不適当かもしれませんが)それぞれが競合してしまい、予算とそれに付随する仕事と人手を奪い合う事態となっている面は否定できないでしょう。さらにいえば、東京オリンピックなどの大規模イベントに予算とそれに付随する仕事と人手を割いている状況で、その競合の度合いがより高くなっていきます。その中にあって思い出の品を返すという、大規模公共事業に比べればニッチな事業に予算が付けられるか否かは、この国の空気を知るために何らかのヒントになるのかもしれません。

2017年08月06日 (日) | Edit |
10年ほど前に拙ブログで取り上げた香西先生の著書についてのこちらのtweetを見てピンときましたのでメモ。


画像部分のテキストを起こしておくとこんな内容です。

…だが、議論に世の中を変える力などありはしない。もし本当に何かを変えたいのなら、議論などせずに、裏の根回しで数工作でもした方がよほど確実であろう。実際に、本物のリアリストは、皆そうしている。世の中は、結局は数の多い方が勝つのである。
 論理的思考力や議論の能力など、所詮は弱者の当てにならない護身術である。強者には、そんなものは要らない。いわゆる議論のルールなど、弱者の甘え以外の何ものでもない。他人の議論をルール違反だの詭弁だのと言って避難するのは、「後生だから、そんな手を使わんで下され」と弱者が悲鳴を上げているのだ。そして、そのような悲鳴にすぎないものを、偉そうに、勝ち誇って告げるのも、また弱者の特徴である。


香西秀信『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』 pp,8-9

私も実務屋の端くれを自認しておりますが、実務の世界の「論理」とはまさにここで指摘されるような世界ですね。「本物のリアリスト」というとちょっとカッコよくなりますが、実はそれこそが「力にものをいわせる」上司のやり方でもあって、香西先生がこの後の部分で「いかに「発生論的虚偽」と非難されようとも、こんな場合には、邪悪な動機とともにその忠告を葬り去って、それで何ら生き方を誤ることはない。…もし人が非論理的な判断をして、それで痛くも痒くもないというのであれば、そのときは論理的思考の方が何か大きな間違いを犯しているのである」(p.22)と指摘されるように、現実とは往々にして論理的ではないといえましょう。しかし、場合によってはそれがクラッシャー上司となって組織を壊死させることもよくある話でして、それがパワハラの弊害といえます。

でまあ、パワハラを駆使するクラッシャー上司で、特に上層部まで昇進するような上司の多くはサイコパスであり高度に合理的であるのですが、だからといって常に論理的かというと必ずしもそうではありません。というより、出世するクラッシャー上司ほど論理的な場面とそうでない場面を使い分けるんですよね。松崎一葉『クラッシャー上司』でも紹介されているクラッシャー上司はこんな方だそうです。
基礎的な能力は高く、入社後から実績を上げ順調に昇進し、同期の中では最も早く管理職に登用された。しかし、仕事は確かにできるが、部下が業務上の失敗をすると、自室に呼び出し、2時間近くも「ネチネチ」と部下の失敗を遠回しに非難する。決して明らかなパワハラにならないように、初めは優しい口調で対応するが、部下が弁解をすると論理を構築して弁解の余地のないところまで心理的に追い詰める。部下が疲れ果てて「自分が全て悪かった、申し訳ありません」と平謝りするまで、非難は延々と続く。

しかし、部下に営業上の失敗があったとしても、最後は自分が直接に乗り出して、クライアントにうまく対応して商談をまとめる。本人は、気分の上がり下がりが激しく、時に、部下を引き連れて自分の好きな飲食店に連れて行き、ワインの蘊蓄を傾け大盤振る舞いをしたり、その一方で、原因もなく、何を言っても取り付く島のないほど不機嫌であったりする。そのため部下たちも、本人に対しては面と向かって本音が言えず、「しかたがない。逆らわずにいこう」と諦めていた。

引用元: 部下を潰して出世するクラッシャー上司は「人格の未成熟さ」を抱えた危険な存在 | 「会社のワガママちゃん」対処法 | ダイヤモンド・オンライン(2009.10.15)
※ 以下、強調は引用者による。
いやまあ身近にもよく似た行動をとる方がいて、特に本書37〜39ページに採録されたような決して答えが出ることがなく、上司が一方的に雪隠責めするやりとりはうちの職場では日常茶飯事でして、まあ働き方改革とか業務効率化なんてどこ吹く風ですかねえという思いを強くするところです。

とはいえ、そもそも上司はパワー(指揮命令権)を持っていますので、上司によるパワー(指揮命令権)の行使は通常の職務遂行にほかなりません。ただし、その行使の仕方がハラスメントになったときにはパワー・ハラスメントとなるわけです。そしてそのパワーの行使がハラスメントとなる源泉は、実はパワーそのものではなく、OJTにおける試行錯誤にあるのが日本的雇用慣行の特徴だろうと思います。

拙ブログでは、公務員の人事労務管理は民間のそれからはるかに遅れているという指摘をしてきているところでして、それはまあ私が総務省が所管する地方公務員法適用の地方公務員だからでして、つまり総務省の人事労務管理が稚拙であるという趣旨なのですが、国家公務員法を所管する人事院はさすがにそこまで稚拙ではなく、『平成28年度公務員白書』で日本型雇用慣行についても鋭い指摘をされています。

(3)OJTを取り巻く問題

 係員級職員や係長級職員を中心として、仕事のやりがいを高め、仕事を通じた能力開発や専門性習得を十分にフォローアップするためには、OJTの充実・強化が不可欠である。

(略)

 しかし、「OJTにおいては一般的に、部下に試行錯誤をさせて、その結果に対して上司が助言・指導を行うことから、その分、業務量が増加することは否めない」とされる。この点、「業務量の許容度」については肯定的な傾向が見られるものの、「業務量に応じた人員配置」については否定的な傾向が見られ、職員自身は何とか業務を処理できているが、これ以上の負担は許容できず、OJTを行う余力に乏しいという状況にあることが推測される。これは、平成27年度の年次報告書において指摘した国家公務員の年齢別人員構成の偏りによる若年層の能力開発不足と相談相手の不在等の問題の存在を示すものとなっている。したがって、業務量に見合った人員配置がなされない場合には、中長期的に見て、OJTによる職場における人材育成力を損なうおそれがあり、このことは、将来にわたる行政のパフォーマンスを維持する観点からも重要な問題である。

引用元: 平成28年度公務員白書(2017年6月9日)【第2部】魅力ある公務職場の実現を目指して(PDF形式:1,936KB)

つまり、OJTが試行錯誤をさせてその取組の中で職務遂行能力を向上させるものであることを目的とするものであることから、当然の帰結として、部下はかなりの割合で「錯誤」することになります。それに対して上司は、試行錯誤の「錯誤」の部分について助言・指導を行う必要があり、その際に、人格を否定して人権を侵害するような暴言を吐いたり、ときには暴力を振るったりしてその「錯誤」を攻め立てることがハラスメントになるわけです。

ところが、中には人格否定・人権侵害的な暴言・暴力で指導する方法しか知らない上司も存在するところでして、そうした上司の指導方法そのものが、さらにその上司から過去に受けたOJTによって獲得されていることが多く、それが「社風」とか「組織文化」となると負の連鎖が続くことになります。そうして形成された「社風」とか「組織文化」が、「厳しい上司だったけどそのお陰であの厳しい状況を乗り切れた」などの武勇伝とともに何らかの業績につながっていたりすると、その「社風」とか「組織文化」を修正することは著しく難しくなります。一度そうなってしまえば、かつての平社員であった新しい上司にも制御・介入はできず、パワハラが厄介な問題となっているのはそうした事情が背景となっているといえましょう。

まあここまでは、日本型雇用慣行におけるパワハラの発生過程やその対処方法が難しい要因の説明としてよくある話だと思いますが、問題はそれにとどまりません。そのOJTによる試行錯誤を上司が指導・助言するという日本型雇用慣行にいては、そのOJTにおける上司・部下の関係そのものが企業や官庁の意思決定にも影響しています。実務屋を自認する私からすると、人格否定・人権侵害的な暴言・暴力で指導する方法しか知らない上司によって、理論やデータではなく、その場の雰囲気で物事が決まるというのは前述の通り日常茶飯事だろうと思います。上記ダイヤモンドの記事にあるような「本人に対しては面と向かって本音が言えず、「しかたがない。逆らわずにいこう」と諦めていた。」という状況ですね。

そしてさらに、そうした状況を活用してパワハラ的な言動を意識して行う上司がいるのも事実でしょう。つまり、自分の経歴に傷がつく場面ではパワハラ的言動を封じ、自分の経歴に傷がつかない場面でパワハラ的に振る舞うことによって、周囲に対して恐怖による支配を徹底しようとする場合です。なんでそういうことをしようとするかといえば、自分の経歴に傷がつかない場面でそのパワハラ的言動を示しておくことで、「あの人の逆鱗に触れたら大変なことになる」という見せしめとすることができ、結果としてパワハラ的言動の対象となっていない部下までを支配することができるからです。

ここで冒頭のtweetに戻りますと、クラッシャー上司は論理的に見えても、上記のようなパワハラ的言動の使い分けを行うことが往々にしてあります。そして普段(自分の経歴に傷がつかないところで)論理的に振る舞うことで、パワハラ的な言動が非論理的であっても、「本人に対しては面と向かって本音が言えず、「しかたがない。逆らわずにいこう」と諦め」ざるをえないという状況が生まれます。その結果、その上司の下での意思決定は非論理的なものとなっていくという悪循環が生じることとなりますが、私見ではこうした環境は伝統的な日本企業や官公庁に特徴的ではないかと思います。

誤解を恐れずにいえば、中小企業の業務ではそれほど厳密な論理構成は求められないとしても、大企業や官公庁では関係者が多方面に及ぶために厳密な論理構成による業務遂行が求められることが、その要因ではないかと思います。つまり、大規模な組織において「論理的」なるものは、実は誰にとっても都合よく読める程度には玉虫色のものにせざるを得ないわけでして、その玉虫色の決着を有利に形成する際には、「あるときは徹底的に論理的に、あるときは表向き論理的に」という使い分けが有効ということになります。

そしてこの状況で最も事を有利に進めることができるのが、まさに論理的と非論理的を使い分けてパワハラを駆使するクラッシャー上司であり、だからこそクラッシャー上司は高評価されて出世もするのですが、その結果として、一見論理的に見えてもその実上司が自分の思い込みで判断した結果にすぎないということが頻発し、その組織における「論理的」なるものが内実を失っていくのではないかと思います。というか、大企業病とか役人病というものの大半はこれで説明可能ではないかとも思うところでして、この国の意思決定をまともな方向へ進めたいと思う方々は、まずパワハラを駆使するクラッシャー上司という社会的害悪を何とかしないといけないのではないでしょうかね。

2017年07月04日 (火) | Edit |
相変わらず乗り遅れ気味ですが、一部では障害者のLCC利用の是非をめぐって議論が盛り上がっているとの由。公的セクターの中の人としてみてみると、経済合理性と普遍的社会サービスの両面を追求しなければならない公共(交通)機関のジレンマが集約された問題のように思います。公的セクターの所得再分配機能の貧弱さが問題であるとすれば、それはその財源が貧弱であることの裏返しであって、それは公的セクターに経済的合理性を求めるあまりに、その拠出である増税への忌避がもたらした社会を反映したものといえます。

これと同様に、LCCが経済的合理性を追求すれば、その名のとおりローコストキャリア(Low-cost carrier)として差別価格により低サービスを低料金で提供することにより、それを選好する顧客を取り込むというビジネスモデルが成り立つとしても、公共交通機関としては、「選別的」の対象語としての「普遍的」な意味で、社会サービスとして安全の確保や交通弱者に対する配慮が求められるわけです。その線引は結局、その社会がどの程度の安全や配慮を「普遍的」に求めるかによって決まることになり、明確に決めることはほぼ不可能だと思います。

今回の件で障害者の行動とLCCの対応それぞれを批判する立場では、その依って立つ社会のあり方自体が異なるため、水掛け論に終止してしまっているように見受けます。障害者の行動を批判する方が思い描く社会では、サービスしてほしければその受益者がそれ相応のコストを負担することが求められているのでしょうし、一方、LCCの対応を批判する方(障害者に対する批判を批判する立場もこれに含みます)が思い描く社会では、LCCが障害者が利用するにあたって必要なサービスを提供しないのは公共(交通)期間として不公正な対応とみなされ、そのコストを会社が負担することが求められていると思われます。

では、どちらの認識が現状を捉えているかというと、2006年に採択されて2008年に発効された障害者権利条約に合わせて、障害者差別解消法が施行され、障害者自立支援法が改正されて障害者総合支援法が施行されています。この現状においては、公共交通機関が「合理的配慮」をしないことは許されないと解するのが妥当でしょう。

とはいえ、その「合理的配慮」を実施するためにも、人件費やら設備費やらのコストがかかるわけでして、そのコストを賄う財源をどうやって調達するかまでは明確な規定があるわけではありません。そのコスト(障害者が事前連絡するというコストも含みます)の負担について、受益者である障害者当事者が負担すべきとする立場と、会社が負担すべきという立場がそれぞれのお好みの社会像を基に論争するのですから、水掛論に終止してしまうのもやむを得ないのではないかと。

つまり、ここで対立しているのは、障害者に対する合理的配慮の要否ではなく、障害者に対する合理的配慮は、経済合理性を追求することによりカットするべきコストなのかどうか、もしカットすべきではないと判断された場合に誰がそのサービスに要するコストを負担するのかという、コストの範囲とその負担の帰結に対する考え方ではないかと考えます。

こうした財源問題といえば所得再分配政策に行き着くわけですが、LCCで障害者が自由に搭乗できないのはけしからんとして、国が必要なコストを賄うべきだという議論もあるようです。とはいえ、LCCは経済合理性を追求して低価格に抑えることに存在意義があるはずでして、その利用者にとっての低価格を維持するために他の国民の富の一部を投入するというのはいかにも筋が通らない話ではありますが、まあそれを主張するのが左派と呼ばれる方々の流儀のようですから、それはそれとして主張自体はご自由にというところですね。

まあこれは公共交通機関とはいえあくまで私企業の話ですから、その財源は営業による収益で賄うべきでしょうけれども、所得再分配政策については、より繊細な議論が必要だろうと思います。

公共政策は繊細な議論ですので危険ではありますが、あえて模式化してみると、再分配や雇用・労働の制度に関する問題をAとして、Aの制度にまつわる問題をどのように解決すべきかという議論をしているのが拙ブログのスタンスでして、そのための財源の制度に関する問題をBとすると、本エントリで書いたような制度の裏付け(交渉と取り決めによるフロー支出はフロー財源で賄うという原則)を踏まえつつ、Bについては増税の必要性があると考えています(その理由は本エントリや上記エントリの参照先をご笑覧ください)。

(略)

私はBの議論に特化してその是非を論じているわけではありませんので、Aの問題が解決なり改善するのであれば、Bに関して増税にこだわるものではありません。そもそも増税が景気後退させることまで否定していませんし(中里先生がおっしゃるナローパスが重要だと考えています)、増税と現物給付との差引においていかに安定的に社会全体の消費を確保するかという経路が制度によって担保されることが重要と考えています。つまり、現状において制度による裏付けが弱いAとBの紐付けをいかに強化するかという点が私の関心なのですが、世の中にはBさえ何とかなればAは自動的に改善するとお考えの方がいらっしゃって、もしかするとそっちの方が多数派だというのが実態なのでしょう。

「制度をどのように変えるべきなのか(追記あり)(2016年12月31日 (土))」
※ 以下、強調は引用時(者)。

というようなことを考えていたところ、権丈先生が「子育て支援連帯基金」なるものを提唱されていました。

 その時、財源はどう調達するのか。先にも述べたように、医療、介護、年金保険の将来の給付水準は、将来の労働力の量と質に依存する。ゆえに、これら三つの制度にとって、次世代育成、子育て支援施策が極めて重要になってくる。だから3者が連帯して応分の責任を引き受け、子育て支援連帯基金に拠出することにより支える──という考え方もあっていいようにも思える。
 それは今後、消費税を予定通り引き上げ、さらにはその後も引き続き財政が健全化するまで税の問題を直視していく姿勢と矛盾する話ではない。ただ、現下の政治状況では、子育て費用の社会化が税財源をもとに進むのを待っていては、その間に高齢期の社会保障への攻撃が強まるのみならず、子どもたちへの投資が過少であり続け、そして少子化も進みかねない

「年金・医療・介護で「子育て基金」 老後を左右するのは次世代」『週刊エコノミスト』2017年7月4日号


しかも、自民党の小泉進次郎議員が中心となって取りまとめた「こども保険」について、「財源調達のあり方を検討するというのはうなずける 」と一定の評価をしていらっしゃっていて、これは正直なところ驚きました。

hamchan先生も紹介されていましたが、東京新聞の記事ではもう少し権丈節が顔をのぞかせています。

 少子高齢化への対応策として、小泉進次郎氏ら自民党の若手が提案した「こども保険」構想が注目を集めています。これをサポートする形で、権丈善一慶応大商学部教授は同党特命委員会で公的年金、医療保険、介護保険の三つの制度から拠出する「子育て支援連帯基金」創設の話をしました。子育て支援策の財源確保はどうあるべきか考えました。

(略)

権丈 僕は説得力を高めるためにそう言ったのではなくて(笑)、単なる制度上の事実を言っただけ。構想自体は簡単な話で、公的年金保険、公的医療、公的介護という、主に人の生涯の高齢期の支出を社会保険の手段で賄っている制度から、自らの制度における持続可能性、将来の給付水準を高めるために子育て支援基金に拠出し、この基金がこども子育て制度を支えるという話です。
 よく、子育て支援は、本来、税でやるべきだという声もあるけど、「本来」とか「そもそも」に続く話で、世の中、役に立った話は聞いたことがない

「子育て支援の財源、誰が負担? 上坂修子論説委員が聞く」(東京新聞 TOKYO Web 2017年6月24日)


こうした提言に至る背景には「現下の政治状況では、…子どもたちへの投資が過少であり続け、そして少子化も進みかねない」という危機感があって、それは私も共感するところですが、「「本来」とか「そもそも」に続く話で、世の中、役に立った話は聞いたことがない」とまで言い切る権丈先生は、ここで勝負に出たのかもという印象です。私が上記で書いたような「筋が通った」話が通る政治状況ではなく、そのままである限り財源が調達されることはないという現状において、保険の紐付けを基金という形でいったん断ち切るというのは一つの方策だとは思います。

つまり、社会保険に財源を求めつつ、その保険料に貼り付いた給付の請求権をいったんチャラにしたうえで、その使途を子育て支援連帯基金として主に現物給付により制限するというのは、制度として成り立つ考え方だろうと思います。特に、保険料に貼り付いた請求権をいったんチャラにする点で、自民党の委員会が提唱した「こども保険」とか、拙ブログで諸賢のみなさんと議論させていただいたような年金を狙い撃ちにした保険に比べても、その弱点が幾分解消されるだろうとも思います。しかし、保険料から拠出した財源を基金化するというのは、保険財源の流用に当たるのではないかとか、保険請求が想定を超えた場合のリスクヘッジなり再保険制度の構築など、その実現に当たって制度上検討すべき課題はいろいろあると考えます。まあ最終的には、その検討に要する制度設計の困難さと増税することの政治的困難さを比較してどちらが実現可能性が高いかという判断によることになるのでしょうけれども、私にはなかなか先が見通せないイメージがあるというのが正直な感想です。

2017年07月02日 (日) | Edit |
テレビでは大都市選挙の狂騒ぶりが面白おかしく報道されていますが、その地方自治体職員にとっては前々回エントリで取り上げた地公法改正がけっこうなインパクトを持っているもののいまいち盛り上がりませんね。

というところで、先週の総理の働き方改革についての発言が一部で問題とされていたようで、上西先生の重厚な反論と提言を拝見しました。

 最後に1つ、提案をしたい。
 安倍首相は座談会の時から、このイケアの事例に強い関心を示している。強い関心を持っていたからこそ、講演でもこの事例を取り上げたのだろう。
 このイケアの事例は、上記【反論4】に記したように、有期労働契約から無期労働契約への変更を含んでいるという点が重要だ。
 なぜなら非正規労働者(その多くは有期労働契約)は、処遇が低いという問題だけでなく、雇用が不安定であるという問題を同時に抱えているからだ。
 また、その2つの問題は絡み合っている。処遇が低いことに不満があっても、「声をあげれば契約の更新がされないかもしれない」という恐れから、声をあげることが難しい状況に、非正規労働者は構造的に置かれている。
(略)
 さしあたり、研究会の設置も法改正も必要とせずにすぐに行えることがある。
 有期労働契約で同一の使用者との間で反復更新されて通算5年を超えた場合、有期契約労働者の申込みにより、期間の定めのない労働契約(無期労働契約)に転換されるという「無期転換ルール」による無期転換権が、改正労働契約法によって2018年4月1日から発生する。
 そのことを安倍首相には、率先してPRしていただきたい。使用者には不当な雇止めをすることがないように、また労働者には積極的に権利行使するように、呼びかけていただきたい。
 賃上げには強いメッセージを出してきた安倍首相なのだから、無期転換にも強いメッセージを出すことはできるはずだ。

上西充子「安倍首相の「非正規のときにはなかった責任感」発言を「批判する方がおかしい」とする菅官房長官への反論」(Yahoo!ニュース 6/30(金) 14:01)
※ 以下、強調は引用者による。


やたら長い記事(人のことはいえませんが)ですが、安倍総理と菅官房長官の発言に反論しつつ、労契法の無期雇用規定が2018年4月1日から適用されることをPRすべきという比較的穏当な提言に収まっていて賛同する点は多いものの、後述するとおり法律で職務と責任で任期や給与などの処遇に差を設けると規定している公務員の世界もあるわけでして、話はそう単純ではありません。

上西先生は上記の記事の中で

 ここでは「やる気」が「大きく変わりました」と語られている。しかし、従来の働き方では「やる気がなかった」とは語られていない。
 また、ここで言う「正社員と同じ待遇」とは、給与面だけでなく、上記(C)の発言に見られるように、「有期から無期の契約に変わった」という変化を含んでいたことも見過ごすことはできない。
 安倍首相が進めようとしている「同一労働同一賃金」政策では、有期から無期への転換(非正規労働者の正社員化)を進めることはねらいとして掲げられていないが、この女性の場合は、賃金などの処遇の改善と、有期労働契約から無期労働契約への転換が同時に行われた例外的な事例なのだ。この点については、後述の【反論4】で改めて触れる。
 まとめると、この女性の場合、確かに短時間正社員に変わったことにより、責任のとらえ方ややる気に変化は見られたようだが、従来のパートの時に責任感がなかったとか、やる気がなかったとかと語っているわけではない

上西充子「安倍首相の「非正規のときにはなかった責任感」発言を「批判する方がおかしい」とする菅官房長官への反論」(Yahoo!ニュース 6/30(金) 14:01)


とおっしゃるわけですが、それはあくまで労働契約により働く労働者としての意識の話であって、労働契約の一方の当事者である使用者からすれば、労働契約の内容を改善した以上、その対価としてより一層の「責任」を求めることも無理からぬことです。

今回の地公法改正でも、常勤を要する職とそれ以外の職を区分する基準は職務と責任とされていまして、その具体的な基準は、期間と(1日当たりの)業務量であるとされています。したがって、地公法で想定している常勤と非常勤の区分は、職務と責任によって期間と業務量が決定されるという理路を前提としているわけで、その具体的な内容としてはこの報告書を踏襲することになります。

Ⅱ 基本的な考え方
④ 職員の任用については基本的には各地方公共団体において判断されるべきものであるが、その際には、就けようとする職の職務の内容、勤務形態等に応じ、「任期の定めのない常勤職員」、「任期付職員」、「臨時・非常勤職員」のいずれが適当かについての判断が必要となる。特に、今回提案する一般職非常勤職員制度の新たな仕組みにおいては、その職務の内容や責任の程度は、 任期の定めのない常勤職員と異なる設定とすべきである。

「地方公務員の臨時・非常勤職員及び任期付職員の任用等の在り方に関する研究会報告書(平成28年12月27日)」(PDF)


ふむふむなるほど、新設される一般職非常勤職員である会計年度任用職員は、職務と責任は任期の定めのない常勤職員と一緒にしていけないとおっしゃるわけですね。ところが、地公法で職務と関連して責任を定義しているのは第24条の給与原則のみでして、その帰結として、地方公務員に関しては常勤と非常勤の職員との「同一労働同一賃金」は現行の法律上は不可能ということになります。

ということで24条に関する逐条解説を確認してみますと、

…ここで「職務に……応ずる」とは職務内容の難易あるいは複雑さの程度に応じて差をつけることであり、「責任に応ずる」責任の軽重によって差を設けることである。職務といい、責任といっても、実質的には同じことを指しているといってよいであろう。この職務給の原則の趣旨は、できるだけすみやかに達成されなければならないものとされている(本条2)。この規定は地方公務員法が昭和25年に制定され、その当時は我が国の経済は未だ安定せず、生活給の考え方が支配的であった事情を反映しているものである。経済が安定し、国民全体の生活水準が著しく向上した今日では、この本条第2項の使命は、既に達成され、職務給の原則をいっそう強く貫徹すべき時代となっていると考えられる
 職務給の原則は、具体的には各給料表における級の区分によって実現されている。たとえば、9級は部長、6級は課長、4級は課長補佐というように(第25条の〔解釈〕3(1)参照)、職に応じて給料の級を異にすることによって職務給の原則を具体化しているのである。各級内の号給の区別は、生活給の要素を考慮したものであると同時に、同一職務における能率の向上に対応するものであるから、ここにも職務給の原則が一部反映されているといってよいであろう。(略)このように、現行制度の下では、職務給の原則が主であり、生活給の要素は従たる地位を占めている

橋本勇『新版 逐条地方公務員法 第3次改訂版』pp.357-358


ということで、「職務と責任」は実質的には同じという抱き合わせ販売をしているわけです。

余談ですが、この部分で「国民全体の生活水準が著しく向上した今日では、この本条第2項の使命は、既に達成され、職務給の原則をいっそう強く貫徹すべき時代となっている」としているのは、職能資格給が普及する前の1960年代ころであれば、政府や使用者側が推進していた職務給についての説明として妥当でしょうけれども、実際にはその後職能資格給が広く普及し、それが日本型雇用慣行として労働法全体の規範になって現在に至っていることからすると、いかにもお為ごかしな説明ではありますね。

余談ついでに、この職務給の原則の趣旨を説明した部分では、

  給与は職務と責任に応ずるもの、すなわち、地方公共団体に対する貢献度に応じて決定されなければならないとする原則である。これに対立する考え方として生活給の原則(給与は勤労者の生活の維持に必要な額を決定すべきであるとする原則)がある。給与は、勤労の正当な対価であることおよび労働力の継続性を維持するためのものであることを考えると、給与が生活の資として労働力の再生産を賄うに足るものでなければならないとする考え方も説得力のある見解であろう。我が国の場合も、戦後の経済の混乱期には民間の資金はもとより、公務員の給与も生活給の色彩が濃厚であった。その後、経済の発展と賃金水準の上昇につれて職務給、職能給の考え方が強まり、公務員についていえば、昭和32年の給与制度の大改正によって、それ以前の通し号俸的な給与体系が等級別の給与制度に改められたことに伴い、職務給の基礎が確立され、法律が要請する原則に適合する制度となって今日に至っているということができる。

橋本『同』p.352


とのことで、電産型給与体系からの転換を図るための職務給の原則だったものの、昭和32年の改正後に結局実現したのは職能資格給だったということでしょうか。

閑話休題。今年5月に成立した改正地公法では、第24条の規定の改正はありませんでしたので、この職務給の原則は文言上変わっていません。したがって、その内容は前々回エントリで指摘したような「会計年度任用職員の新設による常用代替防止の強化」ですので、冒頭で指摘した基準によって常勤を非常勤を区分することとされています。

地方公務員法の有権解釈として参照されている逐条解説において、「職務といい、責任といっても、実質的には同じことを指しているといってよいであろう」と断言されている地方公務員については、職務と責任はセットで考えられているわけでして、職務と責任によって給与を区別されている地方公務員が「同一労働同一賃金」で給与水準が等しくなるためには、職務と責任もセットで変わらなければなりません。とりわけ給与水準が上がるならば、その根拠となる職務と責任についても「難易と複雑さの程度」が上がらなければならないということになります。

という次第ですので、もしかすると今回の総理の発言は、普段ご自身の周辺で業務に当たる国家公務員を見ているために、こうした職務と責任をセットとした「任用」の理屈に感化されたのかもしれませんが、まあそんなこたぁない。むしろそれは、上西先生が指摘されるように公務員の世界が民間に先駆けて職務分離を率先していることの現れでして、それに違和感を感じることそのものはまっとうだろうとは思いますが、法律に規定されているものは運用ではいかんともし難いところです。公務員の世界が率先する職務分離が浸透するのか、民間の後を公務員が追うのか、興味深いところではあります。

2017年06月19日 (月) | Edit |
内閣府と文科省による責任の押し付け合いの様相を呈してきた獣医学部開設問題ですが、最近沙汰止みになりつつある大阪の私立小学校開設問題と同様に、「忖度」という言葉が一気にメジャーになっていますね。でまあ、我々地方公務員も国家公務員と同じく、定期的な選挙で選ばれた選良の方々がトップになるという組織で仕事をしていますので、どういうロジックで仕事が進むかというのはある程度共通の認識があるだろうと思います。

国家公務員法
(法令及び上司の命令に従う義務並びに争議行為等の禁止)
第九十八条  職員は、その職務を遂行するについて、法令に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。

地方公務員法
(法令等及び上司の職務上の命令に従う義務)
第三十二条  職員は、その職務を遂行するに当つて、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。


国家公務員と地方公務員では法律上の規定が若干異なりますが、地方公務員の場合は「条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程」が追加されているということですね。特に「規程」というのは事務手続きなどの内部的な決まりごとですので、地方公務員は法令だけではなく細かい事務手続きにも忠実に従う義務があります。さらに「上司の職務上の命令」にも従わなければならないとされていまして、この条文の解説は手っ取り早くwikiで済ませてしまいますと、

法令・条例等及び上司の命令に従う義務

職員は、その職務を遂行するに当って、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い、かつ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。(地方公務員法第32条)
ここでいう上司とは、職務の遂行についてその職員を指揮監督する権限を有する者をいう。
職務上の命令
職務上の命令とは、上司から、指揮監督下にある職員に対して発せられる命令をいう。その内容は、職務の執行についての他、職務の執行に関連した合理的な範囲内で必要となる身分上の義務(例えば、制服等の着用や、過度の飲酒を差し控えることなど)を含む。
職務命令が有効に成立するためには、次の要件を満たしている必要がある。
  • 権限ある上司から発せられる命令であること
  • 上司の職務権限内の事項であること
  • 実行可能な内容であること

職務命令に重大かつ明白な瑕疵がある場合は、無効であるから従う必要はない。ただし、当該命令が無効であるか否かは、客観的な認定によるべきものであり、部下が上司の職務命令について実質的な審査権を持つとまではいえないものと解される。また、当該職務命令を無効であると判断した職員は、その判断した結果について責任を負わなければならない。

「地方公務員(Wikipedia)」


ということになります。つまり、上司の職務上の命令に「重大かつ明白な瑕疵」がない限りそれに従わなければならず、それが無効であると判断した職員はその結果について責任を追う必要があると解釈されているわけです。

ということで、上司の職務上の命令に従う義務を負う公務員の世界は「忖度」にあふれているのが実態だろうと思うところでして、その「忖度」なるものが好ましいかどうかは、結局それぞれにとって好ましいかどうかによって評価が分かれるということではないかと思うところです。ものすごく卑近な例をとってみれば、例えば「コネ採用」がけしからんというのは、ほかにもっと優秀な人材を採用できたのに「コネ」があるというだけでロクでもない人材を採用するからというのがその理由となるでしょうけれども、では、「もっと優秀な人材」と「「コネ」があるというだけでロクでもない人材」をきちんと見分けることのできる人事担当者はどのくらいいるのでしょうかねえということです。

いやもちろん、学業と部活動を両立させながら優秀な成績を有して対人関係もそつなくこなすようなスーパー学生と、まともな勉強もしないで遊んでばかりで受け答えも満足にできないような学生を比較して、後者が有力者の子息だという「コネ」のみで採用されたならば、それは批判されてしかるべきでしょう。しかし、学業もそこそこ、部活動もそこそこ、対人関係も特にこれといって秀でたものがない学生の中に有力者の子息が紛れ込んでいる場合は、「コネ」採用とそうでない採用の差は限りなくゼロに近くなります。

つまり、当落ライン上の人材は「コネ」があろうがなかろうが採用の可否の判断は分かれるわけでして、最終的に「コネ」がある学生が採用されたとしても、その判断に「コネ」が影響したかどうかを客観的に判断することはほぼ不可能となります。そうなると、その人材に「コネ」があることを知っているという人が、「あいつが採用されたのは「コネ」があるからだ」と主張すると、それを客観的に否定する術はありません。あくまで結果を見れば、どちらが採用されてもおかしくないような僅差しかないわけですから、「コネ」を問題視する人からすればいくらでも攻撃材料があるということになります。

いま話題となっている事案と全く同じとはいいませんが、この採用の問題に関していえば、ポイントは「コネ」があるから採用が歪められたという点ではなく、特に日本型雇用慣行においては「空白の石板」たる人材を採用しなければならず、それは人事担当者の「一緒に働きたいか」という「官能的」な判断基準によるしかないという点にあるといえるでしょう。たとえばこういう状況を考えてみれば分かりやすいと思いますが、3人の面接官が100人を採用面接をし、その結果を悪い方から1〜5段階で評価したところ、Aさんは3人の面接官の評価がそれぞれ(4,3,2)、Bさんは(3,3,3)で、平均はいずれも3となりました。順番に並べてみると50人の採用予定のうちAさんとBさんはともに50番目で、どちらを採用するかを決めなければなりませんが、その判断は最終的に人事担当者かその上司の「この人の方が一緒に働きやすそうだ」という程度の直感に頼らざるを得ないというわけです。

「この人の方が一緒に働きやすそうだ」という判断は、他の人から見れば必ずしも納得できる判断ではないとしても、実務上はそうして何らかの決定をしなければなりません。そしてその採用決定の過程は、日本型雇用慣行における採用の考え方そのものに沿ったものです。すなわち、できるだけ「色」のついていない新卒を雇って、企業がその「色」をつけていくという日本型雇用慣行が堅牢であるうちは、上記のような「官能的」な採用決定の過程が変わることはありません。

というような採用決定の過程と、昨今話題となっている「忖度」に共通点があるとすれば、後者が「国家戦略特区」なる枠組みが先に決まっていて、その枠内に収まる限り、外部から見て曖昧な判断基準であっても正当な手続きとなってしまうという点にあるといえるかもしれません。日本型雇用慣行における採用ではコミュ力だの人間力だのが重視されるために、職務能力が軽視されて明確な基準たり得ないのと同じように、「国家戦略」とやらがそれありきとされるために、獣医師養成の必要性とか妥当性が軽視されて明確な基準たり得なくなっているのではないかと。そして日本型雇用慣行における採用のみを変えようと思っても、それを前提として職務能力とはかけ離れたアカデミズムに立てこもっている教育システムや、職能資格給制度による処遇が変わらなければ無理なように、「国家戦略」なるものがあってそれに沿った「特区」が存在する以上は、こうした手続き上の瑕疵が治癒されることはないだろうと思います。

まあ、日本型雇用慣行における採用にはそれなりに合理性があるわけでして、それは現に日本の経済成長にも寄与したわけですが、「国家戦略」とやらにおいては、規制改革とか既得権益の打破が絶対善とされて反論も許されず、偏った議論になりがちであって、既得権益の新たな付け替えにつながる可能性が高いという点を慎重に吟味したうえで議論を進める必要があるはずです。しかしそれをも包括して「国家戦略」という錦の御旗に包む仕組みさえ作ってしまえば、かなり好き勝手にできますよねえという感想でした。
(2017.6.20文意を明確にするため文言整理しました。)