2018年05月02日 (水) | Edit |
この時期はメーデーやら憲法記念日やらがあるので、拙ブログでも労働基本権についてのエントリをいくつかアップしているところですが、かねがね感じていた違和感をこれまで書いていなかったので、メモ代わりに。

高度成長期の日本的労使関係におけるメインイベントはいうまでもなく「春闘」でしたが、これは略称ですので、正式には「春季闘争」(連合は「春季生活闘争」と呼んでいますが)です。その経緯についてはいつもの通り菅野『労働法』から引用しておきます。

(ⅱ) 春闘争議の時代

…1960年代半ばから高度経済成長が本格化し、組合運動も生産性向上に協力して企業収益のパイを大きくしたうえ、その分配に預かる路線が主流となった。かくして、労使対決の大争議はほとんど発生せず、代わって高度経済成長の成果を社会全体に分配する「春闘」が発展し、そのなかでの賃上げ争議が典型的な労使紛争となった。(中略)また国鉄、郵政などの組合が春闘で相場確定の役割を担うに至り、争議行為が盛んに行われるようになった。1960年代後半から1970年代半ば過ぎにおける春闘では、産業間・産業内の賃上げ交渉を連携させるための交渉スケジュールに従って、鉄鋼、電機、自動車などの基幹金属産業における交渉=ストライキが行われ、最終段階で私鉄総連と公労協が組んだ「交通ゼネスト」が行われた。
p.803

法律学講座双書 労働法 第十版
定価: 5,724円(5,300円+税)
著者名:菅野和夫 著 出版社:弘文堂

注 以下、強調は引用者による。


菅野先生が「交渉=ストライキ」と指摘されるように「春に闘争を行う」というなんとも物騒な呼称が採用されたようでして、いや待てよ、ストライキには労組法、労調法で「同盟罷業」という訳語が与えられているのではないかとも思うところですが、マルクス主義の影響を強く受けていた戦後の労働組合からすると、「階級闘争」(日本大百科全書(ニッポニカ)によると英語ではclass struggle、ドイツ語ではKlassenkampfだそうですが)の意を込めて「闘争」という言葉を使う方がしっくりきたのではないかと推察するところです。

春闘が始まった当時の「闘争」の使用例について、金子先生の著書からも引用しておきますと、

春闘のはじまり

 …1954(昭和29)年に総評の事務局長戦で高野実と太田薫(合化労連)が争い、かろうじて高野が再選を果たした。太田は、政治的要求を経済的要求より優先させ、労組本来の闘争を地域住民全体に解消させている高野の「ぐるみ闘争」を批判し、「産業別統一闘争」を主張した。翌年の事務局長選では高野は岩井章に敗れ、あわせて賃金担当の副議長の太田薫が再選されたことで、いわゆる岩井・太田ラインが完成し、春闘を先導していくことになる。1954年末、産業別統一闘争強化をはかるため、炭労、私鉄、合化労連、電産、紙パ労連による五単産共闘会議が設定され、翌年の春には全国金属、化学同盟、電機労連(総評には未加入)が加わって八単産共闘が組織された。これを受けて1956(昭和31)年には総評は「春季賃上げ合同闘争本部」を設置し、組織的に春季賃金闘争を指導する体制が構築された。折からの神武景気のもとでの賃金闘争だったこともあり、平均10%の賃上げを獲得した。
p.155-156
日本の賃金を歴史から考える
著者 金子良事
ジャンル 単行本
■社会・労働・法律
■社会・労働・法律 > 労働
出版年月日 2013/11/01
ISBN 9784845113378
Cコード 0036
判型・ページ数 4-6・208ページ
定価 本体1,500円+税


いやまあ「闘争」のオンパレードですが、こうした用語法を持つ組織ならむしろ「闘争」でなければ違和感があるくらいですね。ちなみに、「strike」に同盟罷業という訳語を当てるのは1886年6月の雨宮製糸場の労働争議を伝えた山梨日日新聞の当時からのようですので、由緒正しい言葉のようですが、これを言い換える必要性は、ストライキ自体が風化している現代ではよく理解できないのが正直なところです。というより、労働組合が「闘争」するのが世界的に共有された用語法なのかよくわかりませんし、そもそもGHQ草案での憲法第28条では、

Article XXVI.
The right of workers to organize and to bargain and act collectively is guaranteed.


となっていたところでして、団結権や団体交渉権、さらに団体行動権にわざわざ「闘争」という訳語を当てるのはそれなりに思想的な背景があると考えたほうが自然なのではないかと思います。

そうした日本的ポツダム組合の歴史を描いた牧久『昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実』を題材にして、hamachan先生はこう指摘されています。

全てをトップで決めて下に従わせるのではなく、現場に権限を下ろし、現場でヒラの労働者も管理職と同様に創意工夫をこらして、現場レベルで自主的に仕事を進めていくから、日本型労使関係は強いのだ、日本型雇用が強靱なのだ、というのは、ある時期までの日本型雇用礼賛における定番の議論の筋道でしたが、その「現場の強さ」「現場力」が、経営体、事業体としての国鉄にとってかくも逆機能的に作用してしまったことの皮肉の意味は、実は今日に至るまで必ずしもきちんと総括されきっているわけではないように思います。

これは、日本型雇用システムの本質としての「職務の無限性」について、ややもすると一定の方向性でのみ理解する傾向が強いことととも関わりがあります。職務記述書に示される「職務の限定」とは、いうまでもなく、「これ以上の仕事はやらなくてもいい」という意味と、「ここまでは仕事をしなければならない」という両方向の意味があります。というか、欧米の人事管理の本には必ず書いてある常識ですが。

「職務の無限定性」とは、その両方の意味において限定性が曖昧化するということを意味します。それがどういう風に現れるかは、経営側と労働者側の信頼関係と力関係によるとしか言えません

(略)

日本的労使関係が素晴らしいというその代表選手のはずの現場レベルの労使協議制と、国鉄の現場をずたずたにしてしまった現場協議制は、一体何がどう違うのか、どこで歯車が狂ってこうなってしまったのか、同書は当時の国労や動労の使っている言葉に沿って、それを簡単に「階級闘争主義」と称していますが、そういうできあいの言葉で簡単に理解してしまってはいけない何かがあるように思います

実は、日本型雇用の原点の一つには終戦直後の生産管理闘争があります。日本の労使関係を深くその本質まで突っ込んで考えるということは、実はそれほどキチンとされてきていないのではないか。というようなことまでいろいろ考えさせられました。

戦前から経営家族主義の伝統を持ち、民間企業に先駆けて工場委員会を設置するなど、日本型雇用のある意味で先進選手であった国鉄の労務史は、もっといろいろなことを検討すべきではないかと語りかけているように思われます。そういう感想を抱かせてくれた本書は、やはり名著と言えましょう。

牧久『昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実(2017年7月 9日 (日))』(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))

戦後の日本的ポツダム組合が掲げた「階級闘争主義」というのは、上記の通り言葉としては間違いではないと思うのですが、その「階級闘争主義」が一方では「現場レベルで自主的に仕事を進めていくから、日本型労使関係は強い」という日本型雇用慣行礼賛を巻き起こし、その一方では「国鉄の現場をずたずたにしてしまった現場協議制」を生み出したことは、歴史の事実として銘記すべきなのでしょう。

そして、hamachan先生が上記エントリで「ブラック企業を、その形は全くそのままでその主体だけ見事に入れ替えて作ったフェッセンデンの宇宙という感じ」とおっしゃるような職場環境から始まった国鉄の分割・民営化は、それをきっかけに連合の結成など日本全体の労使関係を変化させ、1990年代以降経営者が主導する形でさまざまな改革が進められていきます。その流れの中でバブル崩壊も相まって、非正規雇用への置き換えだったり、1995年に日経連(当時)が公表した「新時代の日本的経営−挑戦すべき方向とその具体策」における雇用ポートフォリオだったり、成果主義型賃金体系の流行などを経てブラック企業花盛りの時代を迎え、やっと長時間労働是正を主眼とした「働き方改革」が政治的イシューになったというところでしょう。

そしてそれは、hamachan先生が現代から当時の国鉄の現場を評して「主体だけ見事に入れ替えて作ったフェッセンデンの宇宙」とおっしゃる状況を、現代に戻ってもう一度180度ひっくり返して(元に戻して)、職務無限定で長時間労働も転勤も厭わず働く(男性型)正社員をデフォルトスタンダードとした日本型雇用慣行の堅牢さの基礎ともなっているわけです。そうした状況にあって、労働者のミカタと称する方々や「経済左派」を自称される経済学通な方々が「可処分所得を増やすために正社員化を進めろ!」とか「景気がよくなればブラック企業が淘汰されて賃金も労働条件も改善されるから財政出動を強化しろ!」とかおっしゃる風景は、まさに「逆機能的に作用してしまったことの皮肉の意味は、実は今日に至るまで必ずしもきちんと総括されきっているわけではない」ことの現れなのですね。

こうした状況については、牧久氏があとがきで述べていることが象徴的です。

 しかし、150年近い日本の鉄道史にとって、「国鉄解体」は新しい時代への出発点にすぎなかった。「国労、総評、社会党潰し」を狙った中曽根政権にとって、「分割・民営化」は大成功であったが、新しく発足した六旅客会社や貨物会社にとっては、多くの経営課題を残したままの“見切り発車”でもあった。新会社の経営陣や、それぞれの会社に“採用”された社員たちの悪戦苦闘が始まった。幸い本州三社ははやばやと上場を果たしたが、JR九州は上場(2016年10月)までに30年近くを要し、JR四国、JR北海道の二社と貨物会社の鉄道事業部門は、今なお赤字に苦しみ続け、ことにJR北海道では全路線の半分が「維持困難」に陥っている。また、コペルニクス的転回を遂げて分割・民営化に協力した松崎明が率いた「動労」は、分割・民営化後もJR東日本を中心にその影響力を発揮し、経営にさまざまな影響を与え続けている。「分割・民営化」という国鉄改革は今なお“道半ば”なのである。JR各社それぞれの「三十年史」が、新たな視線で書かれることを期待したい。
p.499
製品名 昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実
著者名 著:牧 久
発売日 2017年03月16日
価格 定価 : 本体2,500円(税別)
ISBN 978-4-06-220524-5
判型 四六変型
ページ数 520
ページ

日本型雇用慣行が逆機能的になった組織は解体されなければならなかったとしても、その組織が担っている(公共交通機関としての)役割も同時に維持しなければならない場合に、その手法として「分割・民営化」が適切であったかどうかはまた別問題のはずですが、当時はそれしか選択肢がなかったという事情も理解できないではありません。労使双方が採りうべき選択肢が狭まっていった経緯もまた、上記のような「階級闘争主義」の結果であるならば、現代の日本の選択肢が狭まっていないかを検証するために、「現場の強さ」に重きをおいた日本型雇用慣行を「総括しきる」ことの重要性が依然増しているといえるのではないでしょうか。

2018年04月07日 (土) | Edit |
今年に入ってから拙ブログではパワハラクソ野郎関連エントリをアップしていたところですが、その後の動きをフォローしておきますと、大相撲方面ではとりあえず決着がついた形のようですね。

一定の区切りも予断許さず=貴乃花親方、5階級降格 時事ドットコム

 元横綱日馬富士による暴行問題が公になったのは、九州場所中だった昨年11月。弟子の貴ノ岩が被害を受けた貴乃花親方(元横綱)は、日本相撲協会との対立姿勢をかたくなに貫いてきたが、さまざまな違反、責任を問われ、3カ月足らずで「理事」から「年寄」まで5階級降格した。この大騒動の渦中にも不祥事が相次いで発生、発覚した中、同親方への新たな懲戒処分で一定の区切りはついた。

貴乃花親方、辛くも残った「徳俵」

 貴乃花親方は、弟子の十両貴公俊が春場所中の支度部屋で付け人の序二段力士に暴力を振るったことを受けて「全面降伏」。28日に開かれた臨時年寄総会では、謝罪を繰り返した。懲戒を科された29日には「真摯(しんし)に処分を受け止め、鍛錬に励む」との談話を出した。
 公益財団法人の相撲協会は2月に受ける予定だった内閣府の監査が先延ばしになったという。貴乃花親方が騒ぎを大きくしたために、角界はさまざまなところでダメージを受けている
 相撲協会は暴力問題の再発防止に向け、全力で取り組んでいくが、貴乃花親方と近い関係とされた元顧問と係争中。まだ火種が残っているともいえる。貴乃花親方は「今後は自分に与えられた職責を果たしながら、弟子の育成と大相撲の発展のためにゼロからスタートしてまいります」との姿勢を見せているものの、ある協会幹部が「また何かあるかもしれない」と声をひそめるように、予断は許さない。(2018/03/29-20:25)

※ 以下、強調は引用者による。

記憶では、当初貴乃花親方への同情的な記事もそれなりにあった気もしますが、自身の弟子が暴力事件を引き起こしたということですっかり悪役扱いのようですね。まあ弟子の指導に対して責任を取るというのはそれはそれとして必要なことだとは思います。とはいえ、相撲協会が「現場のエリートとそれを擁護する上層部に敵対的な行動を取った幹部については、現場のエリートを支える体制を維持するため上層部から排除する必要があると、理事会・評議員会ともに判断した」通りの結果となったわけでして、このことの是非は、貴乃花親方の弟子の暴力事件を含めて対応が適切であったかどうかの検証も必要だろうと思うところです。

と言っているそばからネタを提供するのが相撲協会の凄みでして、

救命処置の女性に「土俵下りて」、相撲協会が「不適切」と謝罪 CNN 2018.04.06 Fri posted at 17:12 JST

(CNN) 日本相撲協会は、京都府舞鶴市で春巡業を行った際、土俵上でのあいさつ中倒れた同市市長の応急処置にかかわった女性に対し、土俵から下りるよう促したことを謝罪した。大相撲では伝統的に女性が土俵に上がることを禁じているが、人命にかかわる状況でそうした価値観を優先させようとするのは不適切だとの批判が噴出していた。

(略)

日本相撲協会の八角理事長は談話を発表し、今回の問題について「行司が動転して呼びかけたものでしたが、人命にかかわる状況には不適切な対応でした。深くおわび申し上げます」と謝罪した。

行司の独断の行動かのような謝罪ではありますが、まあ不適切との認識はあるようですので、それはそれとして評価するべきでしょう。しかし、前回エントリで指摘したような「制度の不備は職員個人の心がけや自助努力で防ぎなさいという責任転嫁」をよしとする組織の体質はここでも健在なようでして、この国の組織行動を変えることの難しさを痛感します。

という最中、レスリング方面でもパワハラの告訴状が内閣府に提出されたとのことで、レスリング協会では第三者委員会を設置してパワハラがあったかどうかの検証を行ったそうです。拙ブログのスタンスは、以前からパワー(指揮命令権)とハラスメントは区別するべきと考えていますので、この報告書の定義はよく考えられているなと思います。

5 パワーハラスメントへの該当性の判断基準


 以上のような特色を有する協会において,オリンピックへの参加を目指す選手の強化体制を担う理事や本部長と,協会登録者たる選手及びコーチの間には,オリンピックその他の競技大会に参加する選手あるいはコーチとしての選任につき,協会の理事や強化本部長が優越的な地位を占めていることは明らかである。
 また,検討会報告書における②の「業務の適正な範囲を超えて行われること」との要素については,倫理規程第4条によって,本組織の上記特色を反映して,「フェアプレーの精神」や「公平性及び公正性」の観点に立脚して「スポーツの価値を損なう不適切な行為」か否かをもって判断基準とすることが,とりわけ「パワーハラスメント」については明示されているところである。
 こうしたことから,当委員会は,D及びDに関連する人のB・Cその他の者に対するパワーハラスメントが問題とされる行為につき,パワーハラスメントへの該当性を判断する際の基準は,「フェアプレーの精神」や「公平性及び公正性」の観点に立脚して,「スポーツの価値を損なう不適切な行為」であるか否かという基準をもって臨むべきと考える。
 そして,この判断には,パワーハラスメントが相手の尊厳や人格を傷つける許されない行為であることに鑑み,「敬意と思いやり」を考慮すべきである
pp.10-11

調査報告書 公益財団法人日本レスリング協会 第三者委員会(平成30年4月5日)


個人的には、引用した部分の最後の言葉だけあれば十分ではないかと思うところですが、この言葉につなげるためには、日本レスリング協会の既存の倫理規程と組織の特色を検証した形にすることが必要だったということでしょう。ちなみに倫理規程第4条はこうなっています。

(遵守事項)
第4条 本協会の役職員および登録者等は、フェアプレーの精神を尊重し、公平性および公平性を確保するため、スポーツの価値を損なう次の各号に定める不適切な行為を行わず、強要せず、黙認せず、許さず、その根絶に努めるものとする。
また、相互を尊重し、個人の名誉を重んじ、プライバシーに配慮しなければならない。
(1) 暴力、各種ハラスメント(セクシュアル・ハラスメント、パワーハラスメント等)、不合理な差別(人種、性別、障害の有無等)等の行為
(2) ドーピングや勝敗に関わる意図的な捜査等の不正行為
(3) 薬物使用乱用(大麻、覚醒剤など)や違法賭博等の反社会的行為
(4) 暴力団等、反社会的勢力と関わる行為

倫理規程 公益財団法人日本レスリング協会(25.4.1)

2013年の時点でここまで網羅的に遵守事項を定めているということは、それだけ社会的問題となっていた事情があるわけでして、積極的に規定していたことは評価されるべきです。そして、パワハラに関して、「フェアプレーの精神」や「公平性及び公正性」の観点に立脚して「スポーツの価値を損なう不適切な行為」か否かをもって判断基準とするということそのものが、調査報告書で指摘される「経緯と思いやり」を考慮することに他ならないはずです。

そのような観点からしても、この調査報告書の最後の部分は、すべての組織関係者に熟読玩味していただきたと思うところです。

6 最後に


 当委員会の委員は,いずれも,これまでの人生において,レスリングという競技とは何の縁もゆかりもない生活を送ってきた。レスリングについては,全くのズブの素人である。しかし,当委員会における活動を通じ,レスリングに関わる競技者,コーチ,監督など多くのレスリング関係者からのヒアリングを重ねるうちに,次のような思いを抱くに至った。すなわち,レスリングは対人競技であり,しかも柔道や相撲などと異なり,競技相手との対戦において,柔道着や廻しのような相手を掴まえるもの(手段)がない。強いて言えば,レスリングにおいて互いに掴み合っているのは,互いの魂であり,まさに人格と人格がぶつかり合っているのである。そうした場においては,互いに,相手に対し,「敬意と思いやり」を抱いてこそ初めて競技が成立するのだと思う。そうしたレスリング競技における崇高さ,潔さが見る人に感動を与えるのである。そして,そうであるからこそ,第3で引用した倫理規程は,レスリング競技に関わる人々に向けて,あえて,「フェアプレーの精神」や「公平性及び公正性」という概念を引き,こうした魂を掴み合い,人格と人格をぶつけ合うレスリングという「スポーツの価値を損なう」ことのないように戒めているのである。そうであるとすると,この倫理規程の下で,レスリング競技に関わる人々が常に心すべきは,相手に対する「敬意と思いやり」であることは論を俟たない
 そこで,振り返って本件をみると,いろいろな人が自分の思惑の下に行動し,互いに軋轢を生じさせている。どれ一つをとって見ても,小さい,せせこましいというのが正直な感想である。一人ひとりがレスリング競技の原点に立ち戻り,「敬意と思いやり」の心を取り戻してもらいたい。競技において勝つことが重要であることはいうまでもない。しかし,昨今,余りに勝つことにのみ眼を奪われ,勝つことのその先にあるものが見失われているように思う
 協会がレスリング競技の原点に回帰し,メダルの数によって国民からの賞賛を得るだけでなく,これまで以上に,レスリング競技そのものへの感動と感激を伝えることによって,国民からの信頼を獲ち得ることを切に望む次第である。
pp.36-37

調査報告書 公益財団法人日本レスリング協会 第三者委員会(平成30年4月5日)

いやまあ、調査報告書はレスリング競技に敬意を表してレスリングに特化した書き方になっていますし、個別の事実認定は細かすぎていまいちピンとこないところはありますが、個々で指摘されているように、私自身の狭い見識でも、パワハラ案件というのは小さくて、せせこましい話が多いんですよね。上司に限らず、同僚でも何でも、「お前の顔つきが気にくわない」とか「そんな態度で許されると思うのか」とか「俺はそんなことくらいすぐできたぞ」という気持ちが発端となって、細かいことに口を出すようになり、そのイライラが募って怒鳴りつけることは、組織で仕事をしている方には思い当たる節があるだろうと思います。組織の偉い方々は、「生産性を上げろ」とか「残業を減らせ」とか怒鳴りつける前に、「勝つことそのその先にあるもの」が何なのかぜひこの調査報告書を読んで考えていただきたいものですね。

(追記)
タイトルが中途半端な引用となってしまいまして、意味が変わってしまいましたので、修正しました。
調査報告書では「勝つことのその先にあるものが見失われている」と指摘しており、「小さい,せせこましい」問題が生じるのは、その「勝つことのその先」にあることが意識されていないからですね。「小さくて、せせこましい話の先にあるもの」ではなく、さらにその先にあるものが重要ということで、タイトルを「小さくて、せせこましい話の先の先にあるもの」と変更しました。

2018年03月04日 (日) | Edit |
前回エントリで書いた通り、オリンピックが終わって1週間も経つと、アスリートたちに対して「調子に乗っている」とか「かわいこぶっている」等々批判が巻き起こりつつあるようですが、その主体となるのがちょっと前までちやほやしていたマスコミであり、その視聴者であることは銘記しておくべきでしょう。わかりやすい感動は商売になりますが、それ以上にわかりやすいやっかみは商売になるんですよね。

その一方で裁量労働制をめぐる議論が盛り上がっているようでして、まあこれもわかりやすい敵失を狙った野党の思惑通りにコトが進んでいるわけですが、では裁量労働制とはどんな制度であり、その適用に必要な要件や手続きはどのように定められているのかを正しく知って批判されている方はあまり多くはないだろうと思われるところです。ということで、某世界的大企業(特に隠す必要もないだろうと思いますが)で人事労務に携わっていらっしゃったroumuyaさんがその議論のダメダメさを指摘されているので、この問題に関心のある方はまずは一読しておくべきですね。

ホワイトカラー・エグゼンプションや各制度についての考え方については過去繰り返し書いてきましたのでできれば事前にお目通し願えればと思うのですが(左上の検索窓にエグゼンプションとか裁量労働とか高プロとか入れて検索していただければ多数ひっかかると思います)、とりあえず現時点で簡単にまとめるとこんな感じでしょうか。

 ホワイトカラー・エグゼンプションは「目先の収入より、将来の仕事やキャリアのほうに関心が高い、「自分の仕事は時間の切り売りではない」というハイパフォーマーおよびその予備軍が、働き過ぎにならない範囲で、残業予算や限度基準といった事実上の労働時間の制約を気にせずに、思う存分仕事ができる制度」。

 議論において重要なポイントは以下の3点。ここを外した議論は基本的にダメ。


【1】ホワイトカラー・エグゼンプションは限られた一部の人たち(≒エリート)のもの

【2】ホワイトカラー・エグゼンプションは「残業代ドロボー対策」ではない

【3】ホワイトカラー・エグゼンプションで労働時間は短縮しない



おそらくは現在議論されているあれこれとずいぶん違うなあと感じられると思いますが、要するにその違うところがダメだという話です。でまあそんなんお前がそう思っているだけだろうというご感想もあろうかと思いますが、実は現行制度は制度としてはきちんと上記【1】【2】【3】にあてはまっているのです。迂遠な感じで面倒かもしれませんが、まずはそこの確認から入らないと次の話に進めませんので長くなりますがおつきあいください。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(1)(2018-03-01)」(吐息の日々)
※ 太字強調は原文による。


裁量労働制の議論なのになぜ「ホワイトカラー・エグゼンプションの議論」となっているかという点にも解説が必要かもしれませんが、この制度が設けられた経緯については、菅野『労働法』で確認しておきます。

2.裁量労働制
(1) 趣旨・沿革 従来の労基法は、管理監督者等の労働時間規制の適用除外労働者(41条)を除くすべての労働者について、始業・終業時刻、法定労働時間、時間外労働などの法規制下に置き、かつ労働時間の厳格な計算を要求してきた。また、いったん法定労働時間をこえる労働が行われた場合には、その労働について割増賃金の規定(37条)によって労働の長さに比例した賃金支払を要請してきた。しかしながら、近年における技術革新、サービス経済化、情報化などのなかで、労働の遂行の仕方について労働者の裁量の幅(自由度)が大きく、その労働時間を一般労働者と同様に厳格に規制することが、業務遂行の実態や能力発揮の目的から見て不適切である専門的労働者が増加した。これら労働者は、多くの場合に、労働の量よりも質ないし成果によって報酬を支払われるのに適している人々でもある。
 1987年の労基法改正(昭和62法99)は、このような社会経済の変化に応じて、従来の一律的労働時間規制を改め、一定の専門的・裁量的業務に従事する労働者について事業場の労使協定(102〜3頁)において実際の労働時間数にかかわらず一定の労働時間数だけ労働したものとみなす「裁量労働」制度を設けた。
p.376

法律学講座双書 労働法 第十版
定価: 5,724円(5,300円+税)
著者名:菅野和夫 著 出版社:弘文堂

(やや古いのですが手元にあるのが10版なもので)

ということで、一般の労働者と異なる「業務遂行の実態や能力発揮の目的から見て不適切である専門的労働者」に対する規制を実態に合わせるための制度であり、その専門的労働者向けの制度をroumuyaさんは「ホワイトカラーエグゼンプション」と表現されているわけです。そして、そのような労働者向けの裁量労働制の導入に当たっては、どこにも労働時間短縮を目的とするとは書いていませんね。いやもちろん、実際の日々の労働時間の中でやりくりしてある日は早く帰ることができるということはありうるでしょうけれども、それはあくまで個別の事情によるものであって制度の目的ではないわけです。

ではなぜ労働時間規制を緩和しなければならなかったかというと、日本の労働法では法定時間内の賃金の基準は特に規定がないものの、法定時間を超えた途端に時間給となってしまうため、日本型雇用慣行で正規労働者の多くが日給月給であって、特に高給な労働者に対しては、その高額な日給月給を基礎とする高額の時間外手当を支払うことの合理性も問われていたわけでして、再び菅野『労働法』から引用すると、

…裁判例においては、労働時間の管理を受けず高額の報酬(基本給と業績賞与等)を得て自己裁量で働く専門的労働者について、時間外労働手当は基本給の中に含まれているので別個の請求はできないとしたものがあるが(モルガン・スタンレー・ジャパン事件—東京地判平17・10・19労判905号5頁)、これは実質的には自己管理型労働者に関する時間外労働規制の適用除外を先取りした判断といえる。

菅野『労働法 第10版』p.380

という判断が示されたこともあったわけですね。まあこの事件そのものは、パワハラで懲戒解雇されたプロフェッショナル人材が、その懲戒解雇取消訴訟と合わせて所定外時間の会議分の時間外手当を払えと請求した事案ですので、hamachan先生も指摘されるように「あんまり筋のいい事件でもない」のですが、まあそうした判断も現行法で可能である事例があるにはあるといえます。

もちろんこれは特殊事例ではあるとしても、そうした判断が合理的である場合があるのに対して、現行法がそれを認めないというのであれば、それは現行法の改正によって対応することが必要であることは明白であるとは思うのですが、ではどうやって労働者の労働時間管理を実効性あるものとするべきかが問題となります。この点はroumuyaさんが指摘される通り、

【3】は今回の政府がダメだった(そして上記日経新聞もダメ)なポイントですが、ホワイトカラー・エグゼンプションが上記のような(エリートが)「思う存分働ける制度」であり、かつ(これは多かれ少なかれホワイトカラー労働全般に言えることですが)仕事のペースを自分で調整できる、「マイペースで働ける」制度である以上、常識的に考えて労働時間が短くなるわけがないわけです(もちろん個別には短くなるケースもあるだろうとは思いますが例外的でしょうし、ホワイトカラー・エグゼンプションか否かと独立の事情も多いだろうと思います)。したがって働き過ぎ防止と健康管理措置が重要になっているわけで、安衛法上の安全配慮義務とかいったものに加えて、それぞれの制度においてさまざまに追加的なものが定められていることは周知のとおりですし、重点的な監督も行われているわけです(今回問題になったデータについてもそうした監督にともなうものですね)。

(略)

ここまででかなりムカついている方も多いのではないかと思いますが、私が申し上げたいのは、行き過ぎた長時間労働や過労死といった問題を引き起こしているのは、要件も手続も満たしていないにもかかわらず「わが社は裁量労働です」とか言って長時間労働や不払い残業を強いるブラック経営者であり、ファーストフードの店長を管理監督者扱いして人手不足下での過重勤務の構造を放置しているブラック人事であり、残業予算を超える分はサービス残業での対応を強要するブラック上司なのであって、これらはすべてすでに違法です。悪事を働くのは人間であって制度には罪はないわけですよ。ここを踏まえない議論はなかなか建設的なものにはなりにくいのではないかと思います。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(1)(2018-03-01)」(吐息の日々)

「思う存分働ける制度」を導入するに当たって、「働き過ぎ防止と健康管理措置が重要になっているわけで、安衛法上の安全配慮義務」を追加的に盛り込んだのが今回の法案であったものの、わかりやすい「裁量労働制憎し」の声に押されてそうした健康管理措置についての議論が深まらないのは、現行法で働く労働者にとってもあまりいい影響はなさそうです。

さらにいえば、「残業代ゼロ」とかいって騒いでいる方々は、残業代さえ払えば労働時間が青天井でもよいという議論にも与することになるので、ちょっと慎重になるべきではないかとは思います。この点roumuyaさんは上記のエントリの続編で、

それと関連しますが、ホワイトカラー・エグゼンプションについて「効率化して短時間で仕事を終わらせても別の仕事を押し付けられるから早く帰れない」というようなことを鬼の首を取ったように指摘してドヤ顔になっている(いやなっているかどうかはわかりませんが。失礼しました)向きもあるらしく、これもあえて申し上げれば、ダメ。本来ホワイトカラー・エグゼンプションというのは昨日の【1】で書いたように少数のエリートのためのものであり、そういう人たちは空いた時間に新しい仕事を割り当てられることは基本的に歓迎だと思われるからです。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(2)(2018-03-02)」(吐息の日々)

と指摘されていて、「空いた時間に新しい仕事を割り当てられることは基本的に歓迎」とまではさすがに言い過ぎではないかとは思いますが、相当の給料を受け取りながら早く帰ってもいいということが制度として認められれば、それが一つのインセンティブになるとはいえるでしょう。もちろん、それは相当の給料を払うという前提に加えて、ノーワークノーペイの原則によらない給料負担を使用者側が引き受けるという取引によって成り立つ制度である以上、労働者にはそうした使用者側の引き受けた負担に見合う働きが求められるわけです。逆にいえば、裁量労働制の対象とならないような一般の労働者は、強大な人事権をもって配置転換しながら雇用を維持するという負担を使用者が引き受ける取引の代償として、どんな業務でも長時間労働によってこなすという働きが求められているわけですが、裁量労働制のように対象が限定されていないために、多くの一般の労働者に過重な負担を押し付ける原因となっていることを考えなければならないわけですね。

裁量労働制の運用が問題だからといって、専門的労働者が業務を効率化して新たなスキルを身につけようとするインセンティブそのものを否定してしまうと、上記の通り労働時間問題を健康問題ではなくゼニカネの問題に帰結させてしまい、結局一般の労働者が過重な負担を押し付けられる現状を肯定することにもつながるわけでして、今回の敵失でいきり立っている反対派の皆さんにおかれては多少自制されることが望ましいのではないかと愚考する次第です。

(追記)
roumuyaさんが完結編(?)をアップされていまして、大いに同意いたします。

前回、前々回のエントリには多数の反応があり(ありがとうございます)、中でも多かったのが「監督強化や厳罰化が必要」とのご意見でした。これについては、このブログを以前から読んでいただいている方はご存知のとおり、私もほぼ同意見であって監督強化については繰り返し訴えているところです(たとえばhttp://d.hatena.ne.jp/roumuya/20141130#p1http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20140430#p1http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20111129#p1http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20110822#p1http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20160401#p1あたり。他にもあると思います)。厳罰化についても悪質事案は送検すべきとは繰り返し主張しています。罰則の強化には慎重さが必要だとは思いますが、(どこかで紹介したと思うのですが)送検されて罰金を払ったほうが得だとかいう実態があるとしたらそれは罰則強化が必要でしょう。裁量労働制にしても、前も書いたように、例の「調査的監督」を見ても、現場は裁量労働の届出がされた事業所に対してはそれなりに頑張って監督しているわけですが、届出をしないブラック企業の監督までは手が回っていないというのが実情のように思われます(某大手不動産会社の過労死案件がニュースになっていましたが、このケースでも裁量労働の違法適用に対して特別監督が行われていることには注目してほしいと思います。かとくは頑張っているのです)。たしかに、裁量労働制がなくなればブラック経営者がそれをダシに使うことはできなくなるでしょうから、その限りにおいては制度にも罪はあるのかもしれません。しかし、裁量労働制がなくなればブラック経営者やブラック人事やブラック上司がすべてホワイトになるとは思えないわけですから、その撲滅には監督や罰則の強化が最重要であろうことは論を待たないものと思います。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(3)(2018-03-05)」(吐息の日々)

法規の世界で「実効性確保」といえば罰則とその監視体制を指すことが多いところでして、現場で実践すべき労働時間管理としての健康管理措置について、違反があれば適切にそれを摘発する態勢が必要となるわけでして、まさにroumuyaさんが「その撲滅には監督や罰則の強化が最重要であろうことは論を待たない」と指摘される通りです。

そして、roumuyaさんのこの一言には首が痛くなるほど首肯するところです。

もうひとつ、議論が始まった当時には関連法案すべての撤回を求めるという主張も見受けられ、「過労死」「命」を訴求しているのに労働時間上限規制まで撤回しろというのはどういうことなのだろうと思いましたが、さすがに現時点では裁量と高プロだけを撤回しろという話でまとまっているようです。上記連合事務局長談話もそういうスタンスですね。一方で、今回の上限規制を「過労死ライン容認法案」と呼んで撤回を求めているという人もいるらしく、まあ気持ちはわからないではないですが労使の努力をなめてるなとも思う。長年にわたってなかなか実現してこなかったものが、労使の大いなる譲歩によってようやくここまでこぎつけたわけですよ。しかもその背景には、個別労使が営々として限度基準に収まる時間外協定を締結し普及させてきた努力があるわけです。それに対してご自身の狭量な価値観で悪しざまに述べるというのは、まあどういう独善かなと思うわけですが、それが「信念」というものなのだ、ということなのかもしれませんが…。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(3)(2018-03-05)」(吐息の日々)
※ 下線強調は引用者による。

いやもちろん、法案に反対する意志をお持ちの方がその心情を吐露する際にどんな表現を用いようともその表現は尊重されるべきかもしれませんが、法案に反対(だけなのか反権力という信条なのかよくわかりませんが)できればその他諸々の関係者の努力の積み重ねや法案の改正そのものまで否定してもかまわないという言説に対しては、「労使の努力をなめている」と私も思うところです。まあ、この国の労組を支持母体とする政党が三者構成の労政審による答申を否定することはここ数年で何度も目にしている立場からは、それもある意味自業自得だろうとも思うわけですが。

2018年02月11日 (日) | Edit |
実質的な今年最初のエントリで「明日から仕事始めということでヘタをするとまた数か月放っておきかねない」とか書いておきながら1月はパワハラクソ野郎関連でいくつかエントリをアップしつつ、その後やはり1か月ほど放置してしまいました。国会審議が滞っているものの、今回の労基法改正で(一定の条件で)月80時間を超える超勤には罰則が適用される見込みとなっておりまして、まあここ数か月は改正法適用後には罰則が適用されるような働き方をしていたところですので、早いとこ法改正して罰則を適用してほしいものだなあと思うところです。

という働き方をしている中で、これも繰り返しになりますが日本型雇用慣行での業務効率化の難しさを改めて実感したところでして、TLで流れてきた3年前の記事でゆうきまさみ先生がその本質を指摘されていましたのでメモしておきます。

ゆうき:そう。たぶん日本人が苦手なのは目標設定なんですよ。そりゃ、会社とかでも売上目標とかはありますよ。でも、それが本当に達成すべき目標なのか?取り敢えず10億って言っておけば、半分くらいは達成できるだろう、的なことになっていないか(笑)。その辺が曖昧なんじゃないですか?

2002年に「パンゲアの娘 KUNIE」が打ち切りになってしまって、することがなくて日本で開催されたサッカーのワールドカップをずっと見てたんです(笑)。その時、日本代表がどこまで行けるか?ということにみんな不安だったはずなんですよね。その前のW杯では一勝もできなかったんですから。当初、監督や協会はグループリーグ優勝までを目標として体制作りをしていました。で、グループリーグを突破して目標は達成したんです。

――そうでしたね。

ゆうき:本来であれば「よくやった!」と監督やチーム、関係者を褒めるべきだったのに、その後トルコに負けて、ベスト8まで行けなかったので、叩かれてしまったんですよね。あれはおかしいんですよ!

――たしかに。想定外のラッキーだったわけですからね。

ゆうき:目標を立てて達成したら、そこで一回リセットというか、そこからは違う世界、予定外なんだという見方をしないと、ああいう事が起こっちゃう。一番良くない事として、目標を達成して欲をかく、ということが起こりがちなんですよね

(略)

――後藤さんなんかもそうですよね。目標達成したらさっさと撤収みたいな(笑)

ゆうき:とりあえず、もうそれで「お疲れさん」なんですよ。まあ、W杯の場合はそれで終わりって訳には行かないとは思いますけどね。それにしたってね。大会前とグループリーグ突破後の世間の掌の返しっぷりといったらね・・・・・・。

――それも、目標が軽く扱われているというか、単なるお題目に普段からなっているからかも。後藤さんは実は何が重要で何がそうでないかを明確に見定めている

ゆうき:そうかもしれないですね。マンガの終盤で泉がシリーズ終盤の敵となったレイバー「グリフォン」に対して「逃がさなければ勝ちだ」と喝破するシーンを用意したんです。それは彼女が後藤イズムを体得したことの現われだったわけです。 

――なるほど!でもそういう後藤さんのもと、目標を達成し続けるチーム第2小隊は組織としては傍流に置かれ続けるというのは皮肉ですね。

「負けた人列伝」を僕は描きたい

ゆうき:目標をきちんと定めて共有する。所与の目標が達成されたら、そこでちゃんと1回評価しましょう、ということですね。もっと小さなレベルで言えば、「じゃじゃ馬グルーミンUP!」で主人公の駿平が「親父が褒めてくれたことがない」って言い放つじゃないですか。あれですよね。

――父親は「お前はもっとできるはずだ」という信念のもと、良い成績を取っても褒めてくれないんですよね。そんな駿平にとって、牧場は馬を育てあげるという目標がとても明確で心地良い場所だった・・・・・・。小さなレースに勝っても、その度に祝勝会を開く様子が繰り返し描かれてましたね。

ゆうき:そういう場での「よくやった」という一言が大事ですよね。そこで「次へ、次へ」と休み無くやっていると疲れちゃうし、組織としての「遊び」が無くなって行ってしまう。あの牧場の目標はダービー馬を出すことじゃなくて、もっともリアリティのある目標として、生産馬を競馬場に送り出すことなんですよ。

――そこから先は主に調教師の仕事ですしね。

ゆうき:そうなんですよ。

――少年マンガにありがちな敵を倒したらまた更なる強大な敵が、という展開をある意味僕たちは刷り込まれて、望んでしまっているのかもしれないですね。

ゆうき:もちろん、そういう局面とか野望、野心も大事なことではあるとは思うんですけどね。後藤隊長みたいな人が主人公だと少年マンガとして成り立ちませんから(笑)。「オラもっと強い奴と戦いたい」と言う風に、自分が定めた目標なら良いんですよ。でもそれを評価する側は違う視点をもたないといけない

――でも、現実に次から次へより大きな敵(目標)を求めちゃうと。

ゆうき:疲れ果てちゃう人の方が多いでしょうね。どんな社会でも勝つ人よりも負ける人の方が圧倒的に多いんですよ。だから、負けたときどうするか、というのを僕はずっと考えているのかもしれない。

「日本の会社には「遊び」がない–パトレイバー作者・ゆうきまさみ氏が語る組織論(2015年07月30日)」(HRナビ)
※以下、強調は引用者による。

いやもう、首肯しすぎて首が痛くなるかと思いながら拝読して長々引用してしまいましたが、第二小隊の隊員のモチベーションの高さとそれに由来するパフォーマンスは、具体的な個々の目標達成を的確に評価するという上司の存在が大きいのだろうなと改めて認識した次第です。組織のパフォーマンスを確保するためには、組織の目標を具体的な行動にまで落とし込み、それを構成員全員が的確に理解して実行できるように伝えるマネージャー(上司)の存在が決定的に重要です。第二小隊では、そのようなマネージャーを通じて、構成員が組織の目標把握の考え方(ゆうき先生がいう「後藤イズム」ですね)を体得し、それによってその組織が果たすべきパフォーマンスが確保され、その経験や課題を基にして次の具体的な行動につなげていく…という好循環が回っているわけです。『パトレイバー』という作品が、歩行式の作業機械を駆使する警察部隊という(企画された昭和の時代では)荒唐無稽な設定でありながら、警察という組織においてその構成員が仕事を遂行するという点でリアリティを獲得しているのは、こうした組織マネジメントの要諦が織り込まれているからなのかもしれません。

飜って周りを見渡してみると、「目標が軽く扱われているというか、単なるお題目に普段からなっている」光景ばかりが目につくところでして、その象徴が年始以来拙ブログで取り上げているパワハラクソ野郎なわけです。ということを考えていたところで、ゆうきまさみ先生つながりで興味深い記事がありました。



(略)

勿論、ファンの声というのは創作者にとってエネルギーの源泉です。そして、悪評というものも、時には創作の糧になり得ます。それは間違いないんです。

ただ、ゆうき先生の発言に対して、冒頭まとめで時折みられる

「世に作品を出すなら叱咤激励を受けるのは仕方ない。」とか、

「(褒め言葉ばかりでは)いい漫画家が育たない。」

といった反応には、正直なところ「うーーん」と思うところがありまして。

というのは、世の中には、思った以上に「激励のつもりで罵倒しか出来ていない人」が多いんじゃないか、と私は感じているんですよ。

(略)

ただその時、「こういうのって嫌がらせみたいなものなんですかねー?」と言ってみたら、「いや、これで応援のつもりの人も結構いるんだよね…」という言葉が編集さんから返ってきて、それは結構私の頭の中に残っているんです。

つまり、それこそ「悪評が漫画家を育てる」的な信念の元、いわば愛の鞭のようなつもりで罵倒を投げてきている人もいるんだ、と。



そして、そういう人たちは、自分の罵倒が「創作の参考になる批評」だと考えているんだ、と。

はー、と思いまして。

例えばブラック企業では、パワハラ上司の言葉がしばしばやり玉にあがります。徹底的に新人を追い詰めて、辞めさせたり鬱にしてしまったり。ああいう話、結構みますよね。



ただ、ああいうパワハラ上司的な人達も、多くの場合「自分が単に罵倒をしていて、相手を精神的に追い詰めている」とは思っていないんですよね。少なくとも本人の主観的には、あれ、「叱咤激励」のつもりなんです。

自分の言葉を糧にして、相手が強く成長することを願っていたりする。で、言われた方が耐えかねて辞めちゃったら、「なんであれくらい耐えられないんだ」と首をひねったりするわけです。

「「激励のつもりで罵倒しか出来ていないファンの人」と「パワハラ上司」は同じ構図。(2018/2/10)」(BOOKS&APPS)

「世の中には、思った以上に「激励のつもりで罵倒しか出来ていない人」が多い」というのは、「パワーの行使がハラスメントとなる源泉は、実はパワーそのものではなく、OJTにおける試行錯誤にあるのが日本的雇用慣行の特徴だろう」と考える拙ブログの立場からしてもしっくりくるところです。ここ数回のエントリではサイコパス傾向とか一定の性向をもつ方に限定的なような書き方になっていましたが、日本型雇用慣行そのものが上司が職場で部下を指導するOJTを必須とするためにパワハラを誘発しやすい環境にあり、そうしたパワハラOJTで仕事を覚えてきた上司の多くはパワハラOJTでしか部下を指導できないことになってしまうわけですね。

上司-部下の関係における指導ではなく、組織のパフォーマンスを上げるためのマネジメントこそが組織にとって必要なことであって、だからこそ上司はマネージャーと呼ばれます。そのマネジメントに必要な理論をまとめたのが、海老原さんの『マネジメントの基礎理論』と『即効マネジメント』でして、こうしたマネジメントの理論を学んで指導とマネジメントの違いを改めて自問しなければならない方は多いのではないかと思います。まあ有り体にいえば、自分の部署の従業員が期待された成果を挙げていない場合には、その従業員のスキル不足やら姿勢やらを批判して罵倒するだけでは問題が解決しないということですが、さて日本型雇用慣行にどっぷり浸かった現在の上司の皆さんが自らそれに気が付くのはいつのことなのでしょうか。

2018年01月14日 (日) | Edit |
年明けからこの話題ばかりというのも気が引けますが、昨年度末に自治体業界でちょっと話題になったこの件も前回までのエントリの流れで見るといろいろ考えさせられます。

静岡県職員の自殺者が、2009年から2016年の過去8年間で41人に上ることが分かった。川勝平太県知事が12月18日の定例記者会見で明らかにし、朝日新聞等が報じた。

41人の内訳は、知事部局が17人、教育委員会や県警本部が合わせて24人。知事部局とは企業局とがんセンターを除く県庁内の部局の総称で、特定の部局を指すものではない。川勝知事は会見で「鬱積したものがあれば言える環境、言える職場の空気を作っていきたい」とコメントしている

「職員数100人削減」の目標は取り下げたが、人手不足は依然解消せず

自治体職員1000人あたりの年間自殺者数(2015年)は、全国の都道府県・政令指定都市の平均値が0.18なのに比べ、静岡県は0.34と約2倍だ。

過去8年間は、現在知事を務める川勝知事の就任時期と重なる。就任前の8年間(2001年から2008年)の自殺者数が12人だったことを踏まえると、就任後の仕事の進め方や方針転換が影響している可能性もある

県の担当者は会見で、「自殺の原因は本人の健康状態、仕事、家庭など様々」と語っていたが、静岡県職員労組はキャリコネニュースの取材に対し、「人員不足が大きいのでは」との見方を示した。

労組の担当者によると、2015年時点で、年間360時間以上の時間外労働をした職員は1000人を超えていたという。元々予算あたりの職員数が少なかった静岡県だが、ここから更に人員削減を進めたため、職員一人にかかる業務負荷が大きくなっていたようだ。県は昨年12月、行政改革大綱の中にあった「職員数100人削減」の目標を取り下げたが、人手不足は依然解消していないという

残業削減指導するも「声かけが行き過ぎ、かえって時間外勤務を申請しない人も増えた」

(略)
最近では電通の過労死事件を受け、管理職から部下へ、時間外労働を減らすよう指導していたというが、「声かけが行き過ぎ、かえって時間外勤務を申請しない人も増えた」と言う。組合の担当者は

「静岡県の労働環境が他と比べて劣悪ということはありませんが、人員不足は課題。長時間労働の削減方法も、現場から提案するだけでは限界があります。県には、減らす手法を考え提示するよう今後も対応していきたいです」


と話していた。

静岡県職員、過去8年で41人自殺という異常な事態 職員労組は「人員不足が大きな原因」と分析(キャリコネニュース 2017.12.20)
※ 以下、強調は引用者による。

で、これに対する具体的な方策としては、こちらの記事にちょっとだけ記載があります。

知事部局職員、8年で17人自殺 静岡、全国平均の2倍(朝日新聞 大内悟史 2017年12月20日09時16分)

 2009~16年度の8年間で、知事部局の静岡県職員の自殺者が17人いたことが分かった。川勝平太知事が18日の定例記者会見で記者団の質問に答えた。県によると、うち2人が公務災害に認定。県は職員向けの相談・通報窓口への連絡を呼びかけているほか、昨年度からストレス調査を導入するなど対策を講じている。

 県によると、職員数がおおむね6千人弱で推移する中、14年度は最多の5人、15年度は2人、昨年度は2人が亡くなった。15年度の県職員の千人当たりの自殺死亡率は0・34と、都道府県・政令指定都市職員の平均(0・18)の約2倍だった。知事部局が8年間で17人だったのに対し、教育委員会や県警本部などでも同時期に計24人が自殺した。

 今年度は11月末現在で2人が自殺したといい、18日の会見で藤原学・県職員局長は「亡くなった方の苦しい心の叫びを聞くこと、気づくことができなかった責任を感じる」と話した。

 県によると、公務災害に認定された2人は職責の重さや多忙が自殺した要因の一つとみられる。県は昨年度からストレス調査を導入し、ストレス度が高い職員に受診やカウンセリングを勧めているという

 川勝知事は「全国平均の2倍と聞いて驚いた。相談しやすい職場の空気を作っていきたい」と述べた。(大内悟史)

静岡県知事は「驚いた」とのことですから、ご自身にとってはこのくらい自殺するのが当たり前という認識だったのでしょうか。まあもしかすると、こちらの知事にとっては「俺は死ぬほど苦労して学位も取って経済学の分野で名をなしてきたのに、公務員程度の仕事で音を上げるなんてチョロいもんだな」ということかもしれませんが、そのような御仁には「日本型雇用慣行が「社会が要求するレベルの非現実的な高さ」の原因となっていることをもう少し丁寧に議論すべき」ということが理解されることはなさそうだなあと毎度ながら落胆させられます。

実は静岡県については、拙ブログでも8年前に取り上げておりまして、

 このSDOからは、伝票関係のマニュアルやQ&Aが参照できるので、ある程度の疑問は自席のパソコン上で自分で解決できる。もちろん、それで総務事務センターへの問い合わせがゼロになるわけではないが、総務事務の人員を削減する以上、職員が「自分のことは自分でやる」という環境を用意しておくことは、集中化の前提条件となる。さらに今後、電子決裁の範囲が広がれば、集中化のメリットはもっと出てくるはずだ(今のところ、総務事務センターの関連業務で電子決裁が導入されているのは旅費のみ)。
(略)
 総務事務の改革を行えば、これまでは身近にいた総務担当者にお願いすれば済んだことでも、必然的に自分でやるしかなくなる。これを「サービスの低下」と感じる職員もいるだろう。しかし、自治体財政が厳しい中で、“全体最適”を考えるなら「自分のことは自分でやる」という方向での業務改革は避けては通れない。

【静岡県】本庁の総務事務を集中化、アウトソーシング ルーチンワーク外注で県職員の生産性向上を目指す(4)[2002/12/27]」(ITpro


前段の引用部によると、この総務事務の外注化によって削減される人員は20名弱なわけですが、その人員を企画的な業務に就かせることによって生産性を上げる*2のが狙いとのことです。一方で、後段の引用部によると、総務担当にお願いすれば済んでいたことを自分でやるという「サービスの低下」の影響はすべての県庁職員に及びます。これを「トータルで見ての効果は十分上がっていると静岡県では考えている」とする静岡県は、どのような「現場」をご覧になっているのか大変興味深いところです。

「生産性」という言葉は時間当たりとか人当たりとか多義的に用いられるので、ここで静岡県が考えている生産性の定義は推測するしかありませんが、人を減らして生産性を上げるということであれば「生産性=業務/人員」のようなイメージでしょうか。分母の「人員」を減らすことによって生産性が向上するというシナリオですね。しかし、これまで各部署に置いていた総務担当者を削減してその事務を一か所に集中するとなれば、その分「現場」の担当者に事務が降りてくるのは前回エントリで指摘したとおりですし、議会や監査に提出する事務そのものが減少したのでなければ、それはトータルで分子の「業務」を増やすことにつながります。20名弱の人員削減の効果がそれによる業務の分散化に伴う業務増を補うかどうかは慎重な判断が求められるのではないでしょうか。

それよりも、そうした「ルーチンワーク」が総務担当者に集約されていたことが、どれだけ生産性向上に貢献していたかという効果が十分に検証されていたのかが気になります。むしろ、そうした「ルーチンワーク」を担当する職員を「外にも出ないで内勤ばかりしている使えないヤツ」と評価していたからこその外注化だった面があると思われるわけで、ノウハウを知る職員がいなくなるにつれて役所が回らなくなるのも時間の問題なのでしょうね。というか、この記事自体が8年前のものですから、もうそうなっているところもあると思いますが・・・

内部労働市場とキャリア形成(2010年05月16日 (日))
※ 引用部以外の強調は引用時

というエントリが既に8年前となっているということは、16年前から人員削減で生産性向上に取り組んでいる中で、さらに8年前からは現在の川勝知事が就任して「行政改革大綱の中にあった「職員数100人削減」の目標」を掲げていたということですね。まあ私自身は静岡県から遠く離れた自治体の下っ端公務員ですから静岡県庁の内実はよくわかりませんが、とはいえこの光景は公務員なら身近でよく見る光景ではないかと思うところですね。

(2018.1.15追記)
役所というか日本社会で静岡県のような考え方が何の違和感もなく受け入れられるのは、日本型雇用慣行(日本社会の雇用システム)でほぼ説明できることだというのが、ちょうどhamachan先生のところで取り上げられていますね。

会社とは社員と呼ばれる人間の束であり、その各人間に対して、採用当時はそもそもできない仕事を習い覚えてやれるようになっていくことを大前提に社員という身分を付与することが採用であり、労働者側からすれば(間違って「就職」と呼ばれている)入社である社会において、その入社当時には全然できない仕事をできるように努力することが正社員たるものの心得第一条であり、そういう心構えを教えるのが上司や先輩であるのもあまりにも当たり前の話なわけです。

どちらのシステムにもメリットとデメリットがあるということも、繰り返し論じてきたところ。

欧米型のデメリットは、そもそも新規学卒者という、仕事ができないことが大前提である人間は「できないことはできなと言え」という社会では、「ああ、仕事ができないんなら採用できませんね」で、なかなか就職できないということに尽きます。

逆に言うと、何にも仕事ができないことがほぼ確実な若者が労働市場で「仕事ができないなんて言わずに頑張ります」でもって一番有利な立場に立てるような社会は日本以外にはまったく存在しないということでもあります。

だからそれが雇用システムの違い(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳) 2018年1月14日 (日))

ことがスキルの話であれば、ここでhamachan先生が指摘されていることはまさに「当たり前の話」で済ますこともできるのですが、仕事の量とか分担が絡んでくると途端にきな臭くなります。というのも、このような思考回路しかもたない日本の労働者が仕事の分担を考えると、「これまでできないことはないと言ってやってきたんだから、どんな仕事でもどんな量でもできるはずだ」となりがちです。つまり、(正規)労働者が元々何もできない若者だったという前提がある限り、その(正規)労働者はどんな仕事でもどんな量でもこなすことができるはずだし、組織が新しい仕事に取り組むときも現存の(正規)労働者が超勤で試行錯誤しながら何とかしてくれるはずだということになり、結局(正規)労働者を増やすことなく仕事を増やすことができるという幻想が生まれることになるわけですね。仕事量が減らないのはこうした側面が大きいわけですが、さて静岡県はどのような対策を取られるのか生暖かく見守りたいところです。

(2018.1.20再追記)
こんなブコメをいただいたようで、

事情は理解した。しかし結論は「どのような対策を取られるのか生暖かく見守りたいところ」なのである。例えば「自治体の枠を超えて労働構造の変革を勝ち取ろう」などではない。人が死んでいるのにだよ。

morimori_68morimori_68のコメント2018/01/20 11:43

なるほど、本エントリだけをご覧になるとそのような感想になるのかと気づかされました。ご指摘ありがとうございます。

本エントリの冒頭にある通り、年明け以降のパワハラクソ野郎関連でアップしたエントリではありますが、拙ブログの主な関心分野である労働カテではそれなりにこれからの日本型雇用慣行が進むべき方向を考えてはおります。大雑把に言えば、日本型のなんでもできる正規労働者を前提とした慣行から、個々の労働者の制約に応じた職務限定型の労働と、自らが勤務形態(労働条件ではありません。為念)を決定する管理職型の労働を入口(新卒に限らず、全ての昇進は採用です。これも為念。)の段階で峻別する慣行へのシフト(というより、そもそも日本の労働法はこのような社会を想定しています)が必要であり、その実現のためには、労使間でそれを推進する原動力としての集団的労使関係の再構築と、個々の労働者の制約を社会的に保障する再分配政策の拡充が不可欠と考えております。とはいえ、現行の日本型雇用慣行を支える職能資格給制度により、特に企業内再分配の機能(端的に言えば生活給)が強くあまりに堅牢であるため、結論は上記の通り「生暖かく見守る」しかないのが現状だとの認識であることも事実です。われわれ公務員の雇用主(任命権者)は選挙で選ばれる政治家ですが、日本的左派の政党が公務員人件費削減を公約に掲げる現実がありますからね。
立憲民主党「公務員に労働基本権を認め人件費を削減する!!」に左右両方から非難