2017年06月06日 (火) | Edit |
現政権が長期化するにつれてさまざまな方面から問題が指摘されるようになっているようでして、その一つひとつの真偽とか是非についての批評は詳しい方にお任せするとして、我々地方公務員としてもよくわからない法改正がありましたのでメモしておきます。

地方公務員法及び地方自治法の一部を改正する法律案の概要

地方の厳しい財政状況が続く中、多様化する行政需要に対応するため、臨時・非常勤職員が増加(⑰45.6万人→⑳49.8万人→㉔59.9万人→㉘64.5万人)しているが、任用制度の趣旨に沿わない運用が見られ、適正な任用が確保されていないことから、以下の改正を行う。

1.地方公務員法の一部改正 【適正な任用等を確保】

地方公務員法及び地方自治法の一部を改正する法律案の概要地方公共団体における行政需要の多様化等に対応し、公務の能率的かつ適正な運営を推進するため、地方公務員の臨時・非常勤職員(一般職・特別職・臨時的任用の3類型)について、特別職の任用及び臨時的任用の適正を確保し、並びに一般職の会計年度任用職員の任用等に関する制度の明確化を図るとともに、会計年度任用職員に対する給付について規定を整備する。


(1) 特別職の任用及び臨時的任用の厳格化
① 通常の事務職員等であっても、「特別職」(臨時又は非常勤の顧問、参与、調査員、嘱託員等)として任用され、その結果、一般職であれば課される守秘義務などの服務規律等が課されない者が存在していることから、法律上、特別職の範囲を、制度が本来想定する「専門的な知識経験等に基づき、助言、調査等を行う者」に厳格化する

② 「臨時的任用」は、本来、緊急の場合等に、選考等の能力実証を行わずに職員を任用する例外的な制度であるが、こうした趣旨に沿わない運用が見られることから、その対象を、国と同様に「常勤職員に欠員を生じた場合」に厳格化する

(2) 一般職の非常勤職員の任用等に関する制度の明確化
法律上、一般職の非常勤職員の任用等に関する制度が不明確であることから、一般職の非常勤職員である「会計年度任用職員」に関する規定を設け、 その採用方法や任期等を明確化する。

2.地方自治法の一部改正 【会計年度任用職員に対する給付を規定】

地方の非常勤職員については、国と異なり、労働者性が高い者であっても期末手当が支給できないため、上記の適正な任用等の確保に伴い、以下の改正を行う。


○ 会計年度任用職員について、期末手当の支給が可能となるよう、給付に関する規定を整備する。

【施行期日】 平成32年4月1日

「平成29年3月7日 地方公務員法及び地方自治法の一部を改正する法律案 概要PDF【95 KB】」
※ 以下、強調は引用者による。機種依存文字をそのままコピペしています。


上記は法律案の概要ですが、(多少の技術的修正を経て)先月可決成立し、予定通り2020年度から施行されることとなりました。

自治体非常勤にボーナス=改正法が成立(時事通信社)

 地方自治体で事務補助などに従事する一般職の非常勤職員について、期末手当(ボーナス)を支給できるようにする地方公務員法などの改正法(参院先議)が、11日の衆院本会議で賛成多数で可決、成立した。待遇改善が狙いで、2020年4月に施行する。
 自治体では現在、一般職の非常勤職員は原則として期末手当の支給対象になっていない。これを「会計年度任用職員」という名称に改め、試験や選考で採用することを明記した上で、期末手当を支給できるよう改善。任期は採用日から年度末までだが、再度の任用も可能とする。(2017/05/11-13:25)


まあ要するに、新たな非正規(地方)公務員の採用区分として「会計年度任用職員」なるものを新設して、その「会計年度任用職員」にはボーナスの支給を可能にしますよという改正なのですが、これを見て「ああなるほどそうか」と事情が飲み込める方は、地方公務員にもあまりいないのではないかと思います。

非常勤職員に手当を支給できないとしているのは、地方自治法にこの規定があるからとされています。

第二百三条の二  普通地方公共団体は、その委員会の委員、非常勤の監査委員その他の委員、自治紛争処理委員、審査会、審議会及び調査会等の委員その他の構成員、専門委員、投票管理者、開票管理者、選挙長、投票立会人、開票立会人及び選挙立会人その他普通地方公共団体の非常勤の職員(短時間勤務職員を除く。)に対し、報酬を支給しなければならない
○2  前項の職員に対する報酬は、その勤務日数に応じてこれを支給する。ただし、条例で特別の定めをした場合は、この限りでない。
○3  第一項の職員は、職務を行うため要する費用の弁償を受けることができる
○4  報酬及び費用弁償の額並びにその支給方法は、条例でこれを定めなければならない。

第二百四条  普通地方公共団体は、普通地方公共団体の長及びその補助機関たる常勤の職員、委員会の常勤の委員(教育委員会にあつては、教育長)、常勤の監査委員、議会の事務局長又は書記長、書記その他の常勤の職員、委員会の事務局長若しくは書記長、委員の事務局長又は委員会若しくは委員の事務を補助する書記その他の常勤の職員その他普通地方公共団体の常勤の職員並びに短時間勤務職員に対し、給料及び旅費を支給しなければならない
○2  普通地方公共団体は、条例で、前項の職員に対し、扶養手当、地域手当、住居手当、初任給調整手当、通勤手当、単身赴任手当、特殊勤務手当、特地勤務手当(これに準ずる手当を含む。)、へき地手当(これに準ずる手当を含む。)、時間外勤務手当、宿日直手当、管理職員特別勤務手当、夜間勤務手当、休日勤務手当、管理職手当、期末手当、勤勉手当、寒冷地手当、特定任期付職員業績手当、任期付研究員業績手当、義務教育等教員特別手当、定時制通信教育手当、産業教育手当、農林漁業普及指導手当、災害派遣手当(武力攻撃災害等派遣手当及び新型インフルエンザ等緊急事態派遣手当を含む。)又は退職手当を支給することができる
○3  給料、手当及び旅費の額並びにその支給方法は、条例でこれを定めなければならない。


つまり、非常勤の職員(短時間勤務職員を除く。)には報酬と費用弁償のみ、常勤の職員並びに短時間勤務職員には給料、手当及び旅費のみが支給できるとされており、期末手当を含む手当は後者の常勤の職員に対してのみ支給されるため、前者の非常勤職員には支給できないという理屈です。

ここに至るまでには、非常勤職員への手当支給が違法だという茨木市や枚方市などの大阪方面での市民オンブズマンからの訴えがあったりと司法から法改正の必要性が指摘されていたわけですが、今回の法改正に至る流れについては上林先生の一連の労作が参考になります。

 第1に、両自治体に勤務し期末手当や退職手当を支給されていた非常勤職員は、自治法203条の2の「非常勤の職員」か、同法204条の「常勤の職員」か、いずれとみなすべきかである。自治法上は、「非常勤の職員」には報酬と費用弁償が支給され、「常勤の職員」には給料と期末手当や退職手当をはじめとする諸手当が支給されるというのが一般的な理解であり、「非常勤の職員」へ「常勤の職員」に支給されるべき諸手当を支給していれば違法な公金の支出とみなされる。したがって、両事件では期末手当や退職手当を支給されていた非常勤職員が「非常勤」「常勤」のどちらに該当するのか、いいかえれば「非常勤」「常勤」の区分を何に求めるべきかが争点となった。
 第2に、非常勤職員に諸手当をはじめとする給与を支給する場合において、自治法、地方公務員法(以下、地公法という)は条例にどこまで詳細に規定しておくことを求めているのかという点である。いかなる給料や諸手当、報酬や費用弁償も、条例に根拠を置くことなく支給することは許されない。したがって、個々の非常勤職員に適用される法律が求める給与条例主義の程度に則し、条例にどこまで詳細に規定する必要があるかが争点となる。これはまた執行側が制定する規則にどこまで委任することが許されるのかという、規則委任の範囲の問題でもある。
 本稿では、上記の「非常勤」「常勤」、「非正規」「正規」の区分の判断基準を何に求めるべきなのか、そして、いわゆる常勤的非常勤職員に期末手当や退職手当などの諸手当を支給する場合において、どこまで条例の規定の詳細性が求められるのかという2つの争点について両判決を中心に分析し、現段階における課題と問題点を明らかにしていくこととする(5)。

上林陽治「「非常勤」「常勤」の区分要素と給与条例主義~茨木市臨時的任用職員一時金支給事件・最高裁判決(平22.9.10)、枚方市非常勤職員一時金等支給事件・大阪高裁判決(平22.9.17)を例に~ 」(PDF)


このような経緯で法改正に向けた検討が進められたことそのものは大きな前進なのですが、この改正によって日本型雇用慣行が変化する胎動になるのかと思いきや、やはり堅牢な日本型雇用慣行を前にして現状維持に終始した改正となっています。

というのも、上記の改正案の概要にもある通り、今回の改正は非常勤職員や臨時職員の任用(まあ労働契約なんですけど)がいわゆる常用代替として運用されている実態が問題であるとして、その厳格化が目的となっています。つまり、以前の派遣法と同じく、正規労働者を「ジェネラリスト」という日本型雇用慣行の枠で括って保護するために、「スペシャリスト」や補助的業務に従事する職員を日本型雇用慣行の枠外に位置づける内容となっているわけです。

ただし、労契法改正によって非正規労働者の無期雇用への転換が義務づけられるなど、その壁を少しずつ低くしていこうというのがここ数年の労働法改正の方向性となっているところでして、この流れの延長線上に「同一労働同一賃金」の議論が位置づけられるといえましょう。この法改正の基となった「地方公務員の臨時・非常勤職員及び任期付職員の任用等の在り方に関する研究会」の報告書には、こういう文言があります。

4 給付
(1)給付体系
(略)
民間部門については、働き方改革実現会議において、本年 12 月 20 日に「同一労働同一賃金ガイドライン案」を取りまとめられた
 ガイドライン案は、同一の企業等において、いわゆる正規雇用労働者(無期雇用フルタイム労働者)と非正規雇用労働者(有期雇用労働者・パートタイム労働者)との間で、ア)基本給、イ)手当、ウ)福利厚生、エ)その他(教育訓練等)の各分野において待遇差が存在する場合に、それが不合理的なものであるかどうか等を示したものである。
 今後ガイドライン案をもとに法改正の立案作業を進めることとされており、ガイドライン案は、関係者の意見や改正法案についての国会審議を踏まえて、最終的に確定するものとされている。
 なお、「同一労働同一賃金」の基本的な考え方を明らかにしたものとして、厚生労働省及び内閣官房の「同一労働同一賃金の実現に向けた検討会」中間報告(平成28年12月16日)が公表されている。そこでは、ガイドライン案に基づき民間が具体的に取り組むに当たっては、「比較的決まり方が明確であり、職務内容や人材確保の仕組みとは直接関連しない手当に関しては、比較的早期の見直しが有効かつ可能と考えられる」とされ、手当の見直しに優先的に取り組むべきことが指摘されている

「地方公務員の臨時・非常勤職員及び任期付職員の任用等の在り方に関する研究会報告書(平成28年12月27日)」(PDF)


なんとも巧妙ですが、非常勤職員や臨時職員の運用の厳格化に当たって、給与体系については同一労働同一賃金のガイドライン案を踏まえて手当の見直しを優先するべきという引用になっています。同一労働同一賃金のガイドライン案はそもそも、「同一労働同一賃金の実現に向けた検討会報告書」の付属資料であって、報告書は同一労働に従事する労働者の処遇について非合理な差別を明確化して解消することを目的としたものです。ガイドライン案で手当を優先して見直した先には、報告書にもとづいて非合理な差別を解消することが求められるわけですが、今回の地公法改正は前述の通り非常勤職員や臨時職員の任用(労働契約)の要件を厳格化する一方で、「会計年度任用職員」という逃げ道を新たに設ける内容となっているわけでして、つまりそれって常用代替の防止だよねと思うわけです。

そうした逃げ道を作ることについては、同一労働同一賃金の報告書で「手当を優先的に」という段落の前提部分でしっかり牽制されています。

ガイドラインの考え方と適用に向けた民間の取り組み
(略)
 なお、後述する職務分離などの副作用や企業経営への過度な影響を避けるためにも、ガイドラインの制定・発効に際しては、このような民間側の取り組みのために必要な、過不足のない時間軸を確保することが重要である。一方、民間側にも積極的かつ着実に取り組みを進めることが求められる。場合によっては、そのような民間の取り組みを促すような対策も考える必要があろう。

職務分離を起こさないようにする
 上記のような民間側の取り組みが十分にできていないと、ガイドラインをつくっても適切に運用がされず、非正規社員に対して、形式的に違った職務を割り当てる形でガイドラインを形式的に守ろうとする動き(いわゆる「職務分離」の動き)が広がってしまうおそれがある
 そうなると、かえって非正規社員が低い待遇を与えられたり、職を失ったりして、結果として待遇がむしろ悪化してしまうことにもなりかねない。このような職務分離等を起こさないようにするためにも、上で述べたように、民間側での実効性ある体制づくりと併せて、ガイドラインを具体的に定め、適切な時期に発効させていくことが求められる。

手当を優先的に
 具体的に取り組むにあたっては、比較的決まり方が明確であり、職務内容や人材活用の仕組みとは直接関連しない手当に関しては、比較的早期の見直しが有効かつ可能と考えられる。基本給と手当の区別が明確でない企業も存在することから、その点に関する明確性確保等の対応が民間側に求められるが、早期に実現させ、非正規社員の待遇を改善させていくことが望ましい。

「同一労働同一賃金の実現に向けた検討会報告書」(平成29年3月)※PDF p.26(中間報告ではp.4)


ということで、日本型雇用慣行において同一労働同一賃金を不用意に進めると職務分離の動きにつながってしまうので、それとは直接連動しない手当を優先するべきというのが同一労働同一賃金報告書の趣旨です。この一部の論理を引用して、今回の地公法改正では、「地方の厳しい財政状況が続く中、多様化する行政需要に対応するため、臨時・非常勤職員が増加」しているので、正規労働者の常用代替を防ぐべく正面から非正規労働者を「会計年度任用職員」として職務分離することを規定して、民間に先んじて取り組むことにしたわけです。いやまあ民間の取組の参考になればいいですね(!!!!!)

2017年05月31日 (水) | Edit |
いろいろと書いておこうと思うネタがあるものの手がつけられず、気が付けば5月も終わってしまいますので、hamachan先生のこちらのエントリが最近考えていたことに関連していましたので反応しておきたいと思います。

・・・こうした日本的雇用慣行の存在は、日本の労働市場でルーティンタスクが他国よりも多く残されている理由の一つになっていると考えられる。というのも、技術革新によって正規雇用者のルーティンタスクが代替されうる状況にあったとしても、ルーティンタスクに従事する正規雇用者を解雇すると、解雇費用が生じるとともに、それまでに人的投資した費用が埋没化するため、企業にとって新しい技術で正規雇用者を代替することは必ずしも合理的ではないからである。

前章で述べたように、IT資本との代替可能性は、タスクの遂行能力だけでなく、新しい技術の価格が労働者の賃金を下回るかによって決まる。ただし、日本的雇用慣行によって既に企業特殊的人的投資を受けた労働者のタスクを新しい技術で代替する場合には、解雇費用や人的投資の埋没費用といった雇用の調整費用(あるいはスイッチングコスト)が生じるため、新しい技術の価格低下はもっと必要になる。このために日本ではルーティンタスクのITによる代替が必ずしも本格的に起こらなかったと考えることができよう。つまり、日本的雇用慣行のある企業では長期的な人材育成を行っているため、IT技術革新の影響が雇用には生じにくかった可能性が指摘できる。

さらに、日本的雇用慣行の下では正規雇用者がジェネラリストとして働くことが多く、一人の正規雇用者が多様なルーティンタスクとノンルーティンタスクを様々な組み合わせで遂行していると考えられる。日本の正規雇用者の仕事は、欧米と違って明確なジョブディスクリプション(職務記述書)が雇用契約で示されていないことが一般的であり、正規雇用者は様々なタスクを柔軟にこなすことが求められる。濱口(2013)などではこうした仕事の進め方を「メンバーシップ型」と整理し、遂行するタスクが予め決められている欧米の「ジョブ型」と
区別している。

ジョブ型の雇用システムの下では、タスクと労働者の対応が明確なため、技術革新によってルーティンタスクがITで代替できるようになると、そのルーティンタスクを担当している労働者を解雇してITを導入することが容易にできる。これに対して、日本の正規雇用のようなメンバーシップ型の雇用システムの下では、タスクと正規雇用者の紐付けが曖昧なため、雇用者をITにそのまま置き換えることが難しい。つまり、タスクと労働者との対応が複雑になっていることも、日本的雇用慣行のある企業でIT技術の代替が進みにくかった要因になっていた可能性がある。



情報技術革新と雇用の問題は今まで何回も議論がブームになったことがありますが、とりわけ1980年代のME(マイクロエレクトロニクス)が話題になった頃の議論の主流は、日本型雇用慣行はジョブを明確にしないがゆえに、それゆえにこそ、欧米と違って労働者が技術革新に抵抗せず、すいすいとロボットも導入できるんだ、日本型最強!というようなものでした。

日本型雇用システムの中身についての説明はその時と全く何も変わっていないのに、技術革新への適合性のプラスマイナスの符合が、符合の向きだけが、きれいに正反対になってしまっている点が、30年前頃の「日本型雇用こそ技術革新に適合的な未来型雇用だ」という議論も覚えている年齢の人間からすると、何とも言えず感慨深いものがあります。

「メンバーシップ型とルーティンタスク(2017年5月29日 (月))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))


hamachan先生が指摘されているように、ある分野で収益が見込まれなくなっても隣接分野や応用分野で新規事業を立ち上げ、そこに最先端の技術を投入できるような既存の人材を「人事異動」によってシフトしていくというのが日本型雇用慣行の強みであったわけでして、それを可能にしていたのが、メンバーシップ型の日本型雇用慣行における職能資格給制度でした。その職能資格給制度においては、職務遂行能力の向上を根拠として個々の労働者が昇進し、その過程において使用者側は将来の幹部候補を選出するという労使双方にとって都合のいいキャリアパスが肝といえます。

ところが、バブル崩壊後に経営の見通しが不透明となったため、固定費を削減するために日本型雇用慣行からの転換を図っていこうとする流れが強まった結果、その機能が低下しているのではないかというのが拙ブログではここ半年ほど繰り返し述べているところでして、山本勲氏の指摘は正直なところ腑に落ちません。まあ、山本勲氏の指摘の趣旨には賛同する点もありますし、IT資本とルーティンタスクの代替という文脈とは多少ずれるかとは思いますが、特に地方自治体では、間接部門のルーティンタスクをシステム化したり外部委託している経緯がありまして、それに伴って急激に正規労働者を減らしてきた実態があるので、いまいち私にはピンとこないのでしょう。

少なくとも自治体の現場における間接部門のシステム化や外部委託は、日本型雇用慣行において、特に新卒採用者がOJTをする格好の機会であるルーティンタスクを奪ってしまう結果となっています。このため、正規労働者がこなさなければならない試行錯誤が高度化して不確実性が高まり、その試行錯誤の結果が業務の効率化や質の向上に必ずしもつながっていないのが現状ではないかと考えております。

まあそれはそれとして、入職した時点でそれなりのスキルを持った労働者が仕事をすれば、当然のようにはじめから仕事は効率的に進むでしょうけれども、日本型雇用慣行はそうした効率性ではなく、仕事を知らない新卒学生上がりが試行錯誤する中で経験を積むことに重きを置いているわけです。つまり、非効率な試行錯誤のために労働時間を費やし、その試行錯誤の経験が職務遂行能力として評価されて職能給が上がっていくというのが日本型雇用慣行である以上、試行錯誤する時間を有することこそが正規労働者としての資格を意味します。

そしてその試行錯誤の結果、運良く効率的な業務の進め方が構築されたならそれはそれでラッキーですが、場合によっては試行錯誤の結果が極めて非効率的なやり方になる可能性もあります。そしてその非効率なやり方が一度定着してしまうと、そこには制度の慣性の力が働いてしまい、次の担当者はそのやり方を改めるために新たな試行錯誤を繰り返し、さらに次の担当者がその試行錯誤を再現しつつそのやり方を身につけていく…という無限ループをこなして初めて、正規労働者として認められていくことになります。時間がいくらあっても足りないわけです。

「職務遂行能力の習得に必要な追加的労働時間(追記あり)(2017年04月16日 (日))」


いやむしろ、人材育成のためには効率化を極めるよりも試行錯誤の余地をあえて残しておく必要があるというべきかもしれません。つまり、時間をかけて試行錯誤することによって職務遂行能力を身につけるという前提に立って、時間がかかるがゆえに経験年数をもって職務遂行能力とし、その職務遂行能力を資格として労働者個々人の賃金水準を決定する職能資格給制度が日本型雇用慣行の基礎となっているわけです。しかし、そうやって育成してきた労働者が職能資格を上げて昇進しても、実はそもそも管理職たり得なくなっているというのが現状の大きな問題点だろうと考えます。

本書は就活に焦点を当てているのであまり触れられていませんが、このような採用方法の違いは、就職後に会社で人材育成するか、就職までに(公的に)職業訓練を行うかという職業能力開発の在り方と密接に対応しているため、単に会社が横並びだとか怠慢だとか批判するだけでは的外れになるだけです。という職業能力開発の観点から見ると、日本型雇用慣行は広く「正規労働者という網」をかけて、その中から幹部候補生を育て上げていくという管理者養成機能こそが特徴とも言えそうです。

ところが、以前は課ごとに分かれた大部屋の中で、課長から課長補佐、係長、主任などの序列の中に新卒を受け入れ、徐々に管理者としての能力開発と選別を行っていた日本型雇用慣行が、「年功序列で責任の所在が曖昧でスピードに欠ける」との批判にさらされてフラット化しました。その結果、即戦力としていきなり見よう見まねで仕事をこなさざるを得なくなったのが、ちょうど我々のような団塊ジュニア世代ではないかと思います。私自身も痛感するところなのですが、既にアラフォーからアラフィフが見えている団塊ジュニアの世代は、小池和男先生がおっしゃるところの「長期化するトーナメント方式」でつい最近まで部下もいないような平社員として現場に出ていて、残り10数年という段階でいきなり管理職としての役割を求められるようになっています。

もちろん、それまでに管理能力を身につけられる職員もいますが、あまりに現場が長くなってしまうとそのやり方が身についてしまって、自分なら簡単にできる仕事を十分にできない部下に対して高圧的に接してしまってパワハラしてしまう管理職や、目先の目標にばかりとらわれて長期的な次世代の育成まで配慮できない管理職も多くいます。人事担当部署もこれまで強力な人員削減圧力にさらされてきたので、退職者不補充と新卒採用抑制の手法のノウハウはありますが、その少なくなった職員体制でどのように業務を効率化するかという手法は未だに取得できていないのが実態ではないかと。

「日本型雇用における管理者養成機能の衰退(2016年12月13日 (火))」


でまあ、半径5km程度の話になりますが、上記のとおりフラット化を進めた組織で特に管理職となる人材が育成できず、その結果として相応しくない管理職が乱造されているという実態に直面したお偉方の皆さんは、「現場を管理できる職員がいなくなる」という危機感を抱いているようでして、あちらこちらから「業務をシステム化するよりも、職員自らが手を動かして業務を覚えるようにしよう」という声が上がりはじめています。つまり、業務のシステム化による効率化を進めるのではなく、その業務を管理できる人材育成のほうに重点が置かれた結果、従来のような時間をかけて試行錯誤することによって職務遂行能力を身につけるという前提がさらに強化されてしまうという皮肉な状況が生まれつつあるわけです。

ただし、これはまた一方では、システム化や外部委託によって業務を切り分けていった結果、切り分けられないコアな部分だけを正規労働者が担うこととなり、システム化や外部委託された業務がブラックボックス化しているという現状に対する危機感でもあって、それはそれで理解できなくもありません。

特に外部委託によってその業務内容を管理できる正規労働者が不在になるという現象は多くの自治体が抱える問題だろうと思いますが、それはとりもなおさず専門的・労務的業務においては、その人材育成システムが日本型雇用慣行にマッチしないという理由で外部に委託されたことの結末というべきでしょう。特に専門知識や特殊技術を要する業務では、特定の業務(その多くはルーティンタスクです)だけに従事するため管理職相当の年齢でも最前線で仕事をする場合が多く、昇進させて管理業務に従事させる余裕がないのが実態です。このため、そうした業務に従事する労働者は昇進がないゆえに職能資格制度になじまず、したがって日本型雇用慣行に当てはまらず、したがって日本型雇用慣行における正規労働者を従事させることは不適切であるという理由で、外部委託が推進されてきたわけです。

ここで混同しないように注意しないといけないのですが、本来的に「昇進」とは別の業務に従事することであって(そもそもすべての職への「昇進」は採用とイコールです)、現在と同一業務に従事しながら昇進するということはありません。スキルが上がって生産性に応じて待遇がよくなるのは「昇給」であって、同一業務に従事する、つまり同じ職にとどまる場合は「昇進」に該当しないからです。日本型雇用慣行における職能資格給制度は職と結びついているため、平社員が上位の職能資格に該当すると認められると係長などの管理職に従事することができるようにになります。直接的にはこうして係長などの管理職に従事することが「昇進」ですが、それは同時にその職に対応した職能資格を有することを意味し、その職能資格は職能資格給制度により賃金水準に紐付けされています。ところが専門的・技術的業務では、上記のとおり、
 管理職に従事させる余裕がないため、管理職のポストを置かない
→長年従事してスキルが上がるため職能資格が上がって昇給してしまう
→職能資格給制度により管理職でもないのに賃金水準が高くなる
→他の管理職から管理もしていないのに同じ給料は不公平だとの不満が出る
(公務員の場合はさらに→住民から暇な○○業のくせに高給なのは税金泥棒だ!とクレームが来る)
という経路で、日本型雇用慣行から切り離されるべきという流れが大勢となり、上記のような現状に至るわけです。

となると、その業務を管理できる正規労働者がいなくなることは当然の帰結なのですが、往年の日本型雇用慣行で育ったお偉いさん方がそれに危機感を抱き、再び業務内容を日本型雇用慣行に合わせて手作業に落とし込もうとしているというのが最近の流れといえるかもしれません。

というこれまでの流れを振り返ってみると、長期にわたる人材育成のシステムを内包していた日本型雇用慣行の万能さと堅牢さを改めて思い知るわけですが、それはまたhamachan先生の言葉を借りれば「見返りのある滅私奉公」によって長時間労働や無限定の転勤を要求する雇用形態でもあったわけです。日本型雇用慣行の正規労働者を維持することを目的として、専門的・技術的業務やそれに従事する労働者を外部化したものの、それらの業務から切り離されてコアな業務に専念できるはずの正規労働者にとっては、ルーティンタスクに従事して試行錯誤する機会を奪われただけという面もあります。結局、管理職としてのスキルに結びつくか不明な試行錯誤が増えてしまい、まともな管理職が育成されないというジレンマに陥り、再び専門的・技術的業務のルーティンタスクに正規労働者が従事するという堂々巡りが生じつつあるのではないかと感じています。

そしてその堂々巡りの背景には、「白紙の石板」たる新規学卒者を採用して正規労働者は時間をかけて試行錯誤することによって職務遂行能力を身につけるべきという日本型雇用慣行の前提から抜け出すことができない現状があるのだろうと思います。現在進行している「働き方改革」もこの陥穽から逃れることはできていないように見受けます。長時間労働を是正するというお題目のもとで物理的な時間ばかりが制限されると、試行錯誤する時間が制限されるため、そこからはみ出した業務が本来仕事とは関係ないはずの労働者個人の私生活を侵食していくことを懸念する声があがる一方、時間制限なく試行錯誤を経験しなければスキルが身につかないという懸念を持つ声もあるのが実態ですね。IT資産がこの現状を打破するきっかけとなるのかは現状ではよくわかりませんが、何かそういう大きなショックがなければ変わりそうもないというのが実際のところなのかもしれません。

2017年05月03日 (水) | Edit |
このテーマを引っ張るつもりはなかったのですが、憲法の日に関連していつもの議論が繰り返されているようですのでメモ。

安倍首相 憲法改正し2020年施行目指す意向を表明(NHK NEWS WEB 5月3日 15時02分)

さらに安倍総理大臣は「70年前、現行憲法の下で制度化された、小中学校9年間の義務教育制度、普通教育の無償化は、戦後の発展の大きな原動力となった。70年の時を経て、高等教育についても全ての国民に真に開かれたものとしなければならない」と述べ、高等教育の無償化なども改正項目として例示しました。「教育無償化」は義務教育以外にも授業料を取らない範囲を広げていこうという考え方で、日本維新の会が去年発表した憲法改正原案に盛り込んでいます。


経済学方面からは「所得再分配の拡充」というと「可処分所得を増やせ」の一点張りで増税など愚の骨頂と徹底して批判されるところですが、「教育の無償化」はれっきとした所得再分配政策でありながら可処分所得は直接的には増えるわけではありませんね。つまり、教育という財・サービスの需要側が、現行の憲法に定める教育を受けさせる義務を果たすため、自らの支払能力に制約されることなく必要に応じて需要できるように政府がその費用を拠出するのが「教育の無償化」の目的であって、それによって需要側の可処分所得が増えたとしてもそれは間接的効果にすぎません。なんとなれば、可処分所得の増加は教育を受ける子弟のいる家庭に限られるわけでして、ある一時期を捉えれば「教育の無償化」は子弟のいない家庭から子弟のいる家庭への所得再分配であり、高齢者層から若年層や中高年齢者層への所得再分配となります。つまり、人口一定の前提でそれが貨幣的現象であるならば「教育の無償化」は景気には中立となるはずです。

となると、「教育の無償化」という所得再分配政策には経済学方面から強烈な批判があるかと思いきや、「教育の無償化」を財政政策の拡充ととらえて「だから我々は財政政策の効果を否定していないし、むしろ緊縮財政を批判してきたのだ」と賛同する意見が多いようにも見受けます(特に喧嘩を売るつもりはないので引用はしませんが)。おそらく経済学的な観点からいえば、「教育の無償化」で個人の能力を公平に高められ、それがスピルオーバーして経済成長につながるという「正の外部性」の効果と、教育従事者の雇用や所得が増加することによる総需要増加の効果が評価されているのかもしれません。いやまあ、後者については消費増税による増収によって医療介護の分野ではすでに雇用増加の効果が現れているのですが、「失業率の低下や有効求人倍率の上昇は医療介護の分野で年寄りと女が低賃金で働いているだけで、「オレの」景気がよくなったわけじゃない」と一斉に叩かれ、さらに、その効果が現れない要因となっている低賃金構造については「最低賃金1500円とか騒ぐ暇があれば働け」と言われるわけで、再分配政策に関する議論というのはいろいろと厄介ですね。

ということで、「教育の無償化」の効果を、前者の個々人の能力向上による正の外部性に絞って考えてみようと思うのですが、そうはいっても、これもまたいろいろと厄介な問題でして、昨年のサプライズだったトランプ米大統領の発言をめぐってこんな議論を拝見しました。

 たとえば、2017年3月30日のニューヨークタイムス誌に掲載されたニコラス・クリストフ(Nicholas Kristof)の記事では、人文学を軽視するドナルド・トランプが大統領になってしまったアメリカの状況をふまえた上で、歴史上で文学や哲学などの人文学がどのような利益を社会に与えていったか、ということを論じている。

 この記事でクリストフが論じていることの一つは、文学を読む習慣が普及したことは人々を道徳的にさせた、ということだ。例えば、アメリカで奴隷解放運動を支持する人を増やしてやがては運動を成功させた要因の一つは、ハリエット・ビーチャー・ストウの小説『アンクル・トムの小屋』が広く読まれたことであった。最近の心理学実験においても、フィクション作品を読むことが人々の他者に対する共感を強くさせる、ということが示されている。

(略)

 例として、奴隷制にまず最初に反対したのは哲学者であることをゴールドスティンは挙げている。物事について考える学問である哲学は、私たちの間で常識となっていたり標準となっている慣習や規範についても考え直すのであり、「現在では奴隷(や女性や外国人や同性愛者など)を虐待したり迫害したり差別したりすることは当たり前となっているが、よくよく考えると、それは誤りかもしれない」という考えを生み出すきっかけとなり、それがやがては社会の慣習や規範を実際に変えてしまうのだ。

「人文学は何の役に立つのか?(2017年03月31日)」(道徳的動物日記)


個人的にこうした理路で文学とか哲学が「役に立つ」という議論には大変賛同するところですが、一歩引いて、トランプ米大統領が批判しているのはそういうことではなく、給与所得者として、あるいは経営者として必要なスキルを会社が教え込まなければならないような状況では、その人材育成にかかるコストや、そもそも人材育成の失敗(誤り)によるスキル不足によって経営が危うくなるという事態が生じる可能性があり、それに対する懸念を極めて過激に(不適切に)表現したものではないかと推察します。

というところで、前回のエントリの最後の部分につながるのですが、

さて、このような懸念を示されている人材育成機能といえばアカデミズムの世界がその本務を担っているはずですが、この状況下であっても「学校は就職予備校ではない」とかいう念仏を唱え続けるのか、あるいは上記のような懸念を示す方々(引用したゲンダイクオリティの記事ではほとんどが経営者層ですが)が就職予備校ではないアカデミズムの世界からの新卒を人材育成するためにどのようにその「手腕」を発揮されるのか、はたまたメンバーシップ型におけるメンバーとしての青天井の出世のための努力を正規労働者全体に求め続けるのか、各方面の対応に注目したいと思います。もちろん、労働者(その予備軍としての学生)にとってもどのような能力開発や働き方が望ましいのかを考える貴重な機会ですし、その際に職場の労労対立を包摂しながら議論を集約していく労働組合の役割は重要性を増していくものと思います。

「どのような能力開発や働き方が望ましいのか(2017年04月24日 (月)) 」

「就職予備校ではない」高等教育(アカデミズムの世界)を無償化する際、それを裏付ける理路はどのようなものになるのか、大変興味深くヲチしていきたいと思いますし、それは、その無償化された教育を受けた新卒者を受け入れる使用者側が引き続き青天井の正社員として採用し続けることが適当かという判断にも左右されることになります。さらに、そうした教育をアカデミズムに委ねるのか使用者側に委ねるのか、はたまたトレードユニオンとして労働組合が担うのかを労働者の主体的な判断として労働組合が練り上げていく努力も必要となるでしょう。日本国憲法の第26条、27条、28条はこうしてつながっているのですね。

2017年04月24日 (月) | Edit |
前々回のエントリに追記した部分ですが、ちょっと広げてみたいと思いますので一部再掲します。

(2017/04/19追記)
(略)
まあそれはそれとして、入職した時点でそれなりのスキルを持った労働者が仕事をすれば、当然のようにはじめから仕事は効率的に進むでしょうけれども、日本型雇用慣行はそうした効率性ではなく、仕事を知らない新卒学生上がりが試行錯誤する中で経験を積むことに重きを置いているわけです。つまり、非効率な試行錯誤のために労働時間を費やし、その試行錯誤の経験が職務遂行能力として評価されて職能給が上がっていくというのが日本型雇用慣行である以上、試行錯誤する時間を有することこそが正規労働者としての資格を意味します。

そしてその試行錯誤の結果、運良く効率的な業務の進め方が構築されたならそれはそれでラッキーですが、場合によっては試行錯誤の結果が極めて非効率的なやり方になる可能性もあります。そしてその非効率なやり方が一度定着してしまうと、そこには制度の慣性の力が働いてしまい、次の担当者はそのやり方を改めるために新たな試行錯誤を繰り返し、さらに次の担当者がその試行錯誤を再現しつつそのやり方を身につけていく…という無限ループをこなして初めて、正規労働者として認められていくことになります。時間がいくらあっても足りないわけです。

(略)

さらに問題を難しくしているのは、そうした残業に対する認識が根強い状況においては、取引先から「こんなんじゃ使い物にならないからもっと勉強してくれよ」とエキストラな対応を求められても、「社会人として乗り越えなければならない貴重な成長の機会だ」などと美化されてしまうことになり、結局お互いがそれを押し付け合うことで際限のない残業が発生してしまうという状況です。制度というのはその趣旨を超えて都合のいいように活用されるのが常でして、誰かが抜け駆けすればそれがスタンダードになっていくわけですから、「働き方改革」によって日本型雇用慣行を改めるとしても漸進的に進めるしかないだろうと思います。その過程では悲喜こもごもありつつも、その方向性が示されただけでも大きな前進と捉えて、しゃかいじんとしてせいちょうしていきたいとおもいます(棒)

職務遂行能力の習得に必要な追加的労働時間(追記あり) (04/16)」に2017/04/19追記


というわけで、残業の多くは正規労働者が試行錯誤するための時間であるならば、試行錯誤が要らないような専門的・熟練的スキルをはじめから有する労働者を雇えばほぼ解決できます。では、「専門的・熟練的スキルをはじめから有する労働者」はどこから調達するかというのが次の問題になるわけですが、これもまた日本型雇用慣行はメンバーシップ型だからとか欧米ではジョブ型だからとか単純な切り分けはできないとしても、大雑把に言えば、その専門的・熟練的スキルを外部で身につけていることを前提として採用するのが欧米のジョブ型であり、内部で身につけさせるのがメンバーシップ型ということができるでしょう。

いやまあ、日本でも

だいぶ前のhamachan先生経由ですが、「その組織に必要な資質や技術、経験を持っている人間を外から採用する。本来ならばこれが正しい形です」というのは、拙ブログでも議論させていただいたことのあるラスカルさんが指摘されるように、

 こうした「際物ども」は別にしても、一見、自由な経済活動を行っているグローバル企業が、支払うべき「コスト」を支払っておらず、結果的に、社会から「補助金」を受け取る存在になっているのではないか、ということが、本書の問題提起となっている。ひとつに、地球環境に関わる外部不経済の問題があり、貿易における関税や補助金の問題があるが、こうした視点は、特に目新しいものではない。しかし、本書の範疇はこれらにとどまらず、社会の中の信頼や、インフラについても言及し、グローバル企業が、地域住民の「負担」によって利益を得ている、という視点を多面的にえぐり出している。*2

*2:以前、グローバル企業とはいえないまでも、ある中堅規模の経営者が、海外企業から原材料を買い付けるバイヤーを採用したいが応募がない、ということについて不満を漏らすのを聞いたことがある。不思議なことに、この経営者には、自社でそうしたバイヤーを育成したいとの意向がまったく感じられなかった。自社で育成せず、他社で経験を積んだバイヤーを採用するのであれば、育成のためのコストを支払わない分、それ相応の負担をする必要があるだろう。この経営者には、自社のために社会が支払う「負担」というものへの感度がないらしい──バイヤーは、どこで誰によって育成されるのであろうか?

「デイヴィッド・ボイル、アンドリュー・シムズ(田沢恭子訳)『ニュー・エコノミクス──GDPや貨幣に代わる持続可能な国民福祉を指標にする新しい経済学──』(2011-08-14)」(ラスカルの備忘録)


ここで取り上げられている経営者と同様、渡邉美樹氏も社会が支払う「負担」というものへの感度は持ち合わせていないようです。

「ブラック企業の作り方(2012年02月28日 (火))」


というようにアメリカ型のジョブ型雇用を夢想しているようですし、アメリカでも

グローバル経済を持ち出してチームプレーを根拠に休日出勤を指示するというのはアメリカに進出した日本企業にありそうなエピソードですが、休日出勤を指示したのがアメリカ企業の社員で、それを拒んだのがオランダ人労働者だったというのはちょっと意外でした。この本ではこのほかにも、アメリカ人の(エグゼンプションではない)普通の労働者が時間に追われていることが何度も指摘されています。その比較として北欧をはじめとするヨーロッパの労働時間やその規制がいかに有効かという例が挙げられるのですが、その中に日本が混じっているのが何とも違和感がありますね。

日本化するアメリカとアメリカ化する日本(2013年08月11日 (日))


というように日本型のチームプレーを根拠とした超過勤務を奨励する働き方も徐々に浸透しているようですので、それぞれがいいとこ取りしようとしていると見ることもできるとは思います。もちろん、そのいいとこ取りで今よりも改善されるのであれば望ましいのですが、逆にそれぞれの矛盾を抱え込んでしまい、却って状況が悪くなるのであれば本末転倒という批判もまたやむを得ないでしょう。

つまり、日本型のメンバーシップ型のいいとこ取りして、残業も厭わず仕事に打ち込むことで試行錯誤しながら経験を積むことこそが人材育成だという主張と、欧米のジョブ型のいいとこ取りして、人材を外部から調達することで育成コストを節減し、少ないインプットで多くのアウトプットを引き出すことで生産性(とかいう何か)の高い経営が実現できるという主張をする方々が、それぞれの立場で自分の信奉する雇用形態を推しながらお互いを批判し合うという状況で形式的に残業が規制されると、人材育成機能を誰が担うかという点が曖昧なまま会社内部の人材育成機能がスポイルされるのではないかという懸念が生じるわけです。

前出の小野氏が言う。

「'80年代は日本人の年間の労働時間が2100時間くらいあり、世界の平均は1800時間程度だったので、日本人は働きすぎだとバッシングを受けました。

そこで労働省(当時)が音頭を取って、半ば強制的に年間労働時間を1800時間に近づけました。ちょうど韓国のサムスンやLGが台頭し、日本の家電産業が衰退し始める時期と重なります。

さすがに高度経済成長期のがむしゃらな働き方が人を幸せにするとは言いませんが、現状の残業時間の規制には問題が多いのもたしかです。

人生に目標を持たず、仕事は生活のための手段に過ぎず、より福利厚生が充実していて楽なほうの仕事を選ぶ若者が増えている時代において、労働時間を規制してしまえば、これからの時代が求める人材を育てるのは容易ではないでしょう

労働者の賃金をカットし、働きたくない若者を増やす――政財官が結託して進める「働き方改革」は、まさに亡国の政策なのである。伊藤忠商事元会長で中国大使も務めた丹羽宇一郎氏は現状の日本人の働き方に対して、こう言い切る。

「もっと昔のように汗を出せ、知恵を出せ、もっと働けと言うしかない。それに尽きます」

かつての日本人たちが寝食を忘れて働いた末に今の日本の繁栄がある。それにあぐらをかいて、「これからは一生懸命働かないようにしよう」などと言っていれば、あっというまに三流国に転落する。

政府の言うことに踊らされて、やれプレミアムフライデーだ、ノー残業デーだなどと浮かれる前にやるべきことがある。

働かざる者食うべからず。

この言葉を忘れると、日本人の末路は本当に哀れなものになるだろう。

「日本人はすでに先進国イチの怠け者で、おまけに労働生産性も最低な件(4)」(「週刊現代」2017年4月29日号より)


まあさすがのゲンダイクオリティの記事ではありますし、既に炎上気味になっているようですが、上記のような観点から見ればここで示されている懸念にも一理はあると思います。

さて、このような懸念を示されている人材育成機能といえばアカデミズムの世界がその本務を担っているはずですが、この状況下であっても「学校は就職予備校ではない」とかいう念仏を唱え続けるのか、あるいは上記のような懸念を示す方々(引用したゲンダイクオリティの記事ではほとんどが経営者層ですが)が就職予備校ではないアカデミズムの世界からの新卒を人材育成するためにどのようにその「手腕」を発揮されるのか、はたまたメンバーシップ型におけるメンバーとしての青天井の出世のための努力を正規労働者全体に求め続けるのか、各方面の対応に注目したいと思います。もちろん、労働者(その予備軍としての学生)にとってもどのような能力開発や働き方が望ましいのかを考える貴重な機会ですし、その際に職場の労労対立を包摂しながら議論を集約していく労働組合の役割は重要性を増していくものと思います。

2017年04月16日 (日) | Edit |
さて、再び1か月以上間が空いてしまい、過労死認定レベルの超過勤務ですっかりネタが貯まってしまっていたところではありますが、実はこの間に私淑している某先生にお会いする機会があるなどありつつも、この社畜ライフの中ででいろいろと考えたことがありましたので、忘れないうちにメモしておきます。

というのは、その過労死認定レベルの超過勤務が許容される日本型雇用慣行では、その大きな特徴としてOTJ挙げられるところでして、今更ではありますが、そのOJTが日本型雇用慣行における長時間労働の根源ではないかと思うわけです。もちろん、こうした指摘はこれまでにもhamachan先生や海老原嗣生さんをはじめ、日本型雇用慣行の実態を踏まえた議論をされている方々から散々されていたものではありますが、「働き方改革」をめぐる議論を見ていていると、その辺は華麗にスルーされているのだなあなどと思うところです。まあ簡単に言えば、現在の長時間労働を削減しなければならないとなったときに、どんな業務が真っ先に削減されるかと考えれば、自分以外の従業員に業務を教えたり指導したりする業務だろうと。

日本型雇用慣行はメンバーシップ型だからとか欧米ではジョブ型だからとか単純な切り分けはできないとしても、大雑把に言えば、「白地の石板」たる無垢な新卒採用による正規労働者が基幹業務を担うメンバーシップ型と、ある程度の職業能力を前提に入職するジョブ型を比較すれば、入職後にその職業能力を高めるための労力は前者の方が多く必要となるはずです。つまり、「白地の石板」が職務遂行能力を身につけていっぱしの業務を担える「メンバー」になるためには、通常の労働時間に加えてその職務遂行能力を身につけるための追加的な労働時間が必要となる場合が多くなるわけです。

この点不利だと言われるのが、結婚前なら気を遣って時間になれば早く帰れと言われ、結婚して育児が始まると否応なく早く帰らなければならない女性労働者であったり、何らかの事情や疾病などの影響により、8時間を超えて(場合によっては8時間以内でも)就労することが難しい障害者や難病患者であって、そのために就労支援などが行われているのですが、hamachan先生の言葉をお借りすると、その就労支援はあくまで追加的な「第2次ワークライフバランス」でしかありません。日本型雇用慣行で必要とされる職務遂行能力そのものには全く手がつけられておらず、従ってその習得に必要な労働時間が組み込まれた正規労働者の「第1次ワークライフバランス」は相変わらず長時間労働を前提としたままとなっています。

結局のところ問題は、正規労働者の「第1次ワークライフバランス」が実現できない要因であるところの職務遂行能力の習得のための追加的な労働時間と、主に正規労働者とはみなされない「第2次ワークライフバランス」で支援されている追加的な労働時間短縮が対応していない、言い換えるなら、メンバーシップ型のメンバーとなるためには労働時間短縮による「第1次ワークライフバランス」なんかやれるはずがないという点にあります。そして、正規労働者の「第1次ワークライフバランス」が実現できないまま労働時間短縮が強制されたときに、肝心の職務遂行能力の習得に必要な追加的労働時間が削減される可能性が高く、そのことに危惧を抱くメンバーシップな正規労働者(その中にはなんとか正規労働者として認められたいと考える女性労働者や何らかの事情により長時間労働しなければキャッチアップできない労働者も含まれるでしょう)からは、労働時間削減に対する反対の声があがるという、何重にも倒錯した事態が生じることになるのでしょう。

このような現実を前にしてどのような実務的対応が可能なのかは、我々のような現場の下っ端労働者が考える羽目になるわけですが、現状に対する慣性の力というのは想像以上であることが多いわけでして、「働き方改革」の前途は多難と言わざるを得ませんね。

(2017/04/19追記)
このエントリをアップしたタイミングを計ったかのようなエントリを発見しましたので、こちらに貼っておきますね。

理由1: 一定の知識と技術がなければ、NZではプログラマになれない

まず、「プログラマ」という職業に求められる要素が、日本とNZでは大きく異なる。

日本では、学問的なバックグラウンドや経験の有無を問わず、誰でもプログラマになれる。文系出身で1行もコード書いたこと無いけどプログラマになりました、という人は珍しくない。また、人材派遣の世界では「簡単な研修を受けただけで経験1年のプログラマとして派遣された」なんて話もある。
(中略)
一方でNZでは、情報系の学部を卒業していなければプログラマになるのは難しい。また卒業しているだけでは不十分で、企業でのインターンを中心に、ある程度の経験を積む必要がある。採用の過程では、NZ国内の学生だけでなく、世界中からやってくる移民たちとの競争にも勝ち抜かねばならない。

(中略)

まとめ ー 技術を磨けば定時で帰れる! ー

NZのプログラマが毎日定時で帰れるのは、必要な知識と技術を身に着けており、かつ企業がそのスキルにじゅうぶんな給与を払っているからだ。NZの社会や文化に関係なく、残業せずに仕事が終わるのには、それなりの裏付けがあった。

これは、とても希望の持てる結論だと思う

日本に住んでいても、技術さえあれば毎日定時帰りの生活を手に入れることができるのだ。

残業がなかなか減らないのは、あなた自身の技術力が不足しているか、もしくは、技術に見合った職場で働いていない可能性が高い。

「ニュージーランドのプログラマが毎日定時で帰れる本当の理由(2017-04-17)」(NZ MoyaSystem

こちらのブログ主さんは「まとめ」の部分で「これは、とても希望の持てる結論だと思う」と指摘されていますが、「白地の石板」として新卒で入職してから日本型雇用慣行で働いている我々にとってみれば。むしろ希望どころではなく絶望しかないような気もします。

まあそれはそれとして、入職した時点でそれなりのスキルを持った労働者が仕事をすれば、当然のようにはじめから仕事は効率的に進むでしょうけれども、日本型雇用慣行はそうした効率性ではなく、仕事を知らない新卒学生上がりが試行錯誤する中で経験を積むことに重きを置いているわけです。つまり、非効率な試行錯誤のために労働時間を費やし、その試行錯誤の経験が職務遂行能力として評価されて職能給が上がっていくというのが日本型雇用慣行である以上、試行錯誤する時間を有することこそが正規労働者としての資格を意味します。

そしてその試行錯誤の結果、運良く効率的な業務の進め方が構築されたならそれはそれでラッキーですが、場合によっては試行錯誤の結果が極めて非効率的なやり方になる可能性もあります。そしてその非効率なやり方が一度定着してしまうと、そこには制度の慣性の力が働いてしまい、次の担当者はそのやり方を改めるために新たな試行錯誤を繰り返し、さらに次の担当者がその試行錯誤を再現しつつそのやり方を身につけていく…という無限ループをこなして初めて、正規労働者として認められていくことになります。時間がいくらあっても足りないわけです。

さらにいえば、上記エントリで

あるエンジニア情報サイトが実施した「残業に関するアンケート」では、「残業する主な要因」として最も多かった回答は「残業費をもらって生活費を増やしたいから」で、「非常に当てはまる」「やや当てはまる」の合計が34.6%だった。*1

という記述があり、その参照先を見ると確かに、

 エンジニア情報サイト「fabcross for エンジニア」は3月2日、会社員・公務員1万145人を対象にした「残業に関するアンケート」の調査結果を発表した。調査期間は2017年1月12~19日。

 調査によると、「残業する主な要因」として最も多かった回答は「残業費をもらって生活費を増やしたいから」で、「非常に当てはまる」「やや当てはまる」の合計が34.6%だった。次いで「担当業務でより多くの成果を出したいから」(29.2%)、「上司からの指示」(28.9%)、「自分の能力不足によるもの」(28.9%)という結果になった。

(中略)

 「日本は残業が多過ぎるか」という問いには77.9%が賛成する一方で、「社会人として成長するためには、残業が必要なときもある」という考えにも52.5%が賛成している。また、「自分の勤めている企業・団体で残業を減らすのは無理だと思う」という考えには賛成が45.9%、反対が20.5%と、長時間労働を認識しながらも、問題の解消は容易ではないという考えが多くを占めるようだ。

1万人に聞いた「残業する理由」、1位は「残業代がほしいから」[ITmedia]2017年03月02日 12時21分 更新

という記事が掲載されていました。残業代がほしいといういわゆる「生活残業」というのも、「賃金の上方硬直性」がある日本型雇用慣行ならではのものでしょうし、本エントリの趣旨を裏付けるように、「自分の能力不足のために残業せざるを得ないが、それは社会人として成長するために必要なものだ」という認識が根強いのも日本型雇用慣行のなせるワザなのでしょう。

さらに問題を難しくしているのは、そうした残業に対する認識が根強い状況においては、取引先から「こんなんじゃ使い物にならないからもっと勉強してくれよ」とエキストラな対応を求められても、「社会人として乗り越えなければならない貴重な成長の機会だ」などと美化されてしまうことになり、結局お互いがそれを押し付け合うことで際限のない残業が発生してしまうという状況です。制度というのはその趣旨を超えて都合のいいように活用されるのが常でして、誰かが抜け駆けすればそれがスタンダードになっていくわけですから、「働き方改革」によって日本型雇用慣行を改めるとしても漸進的に進めるしかないだろうと思います。その過程では悲喜こもごもありつつも、その方向性が示されただけでも大きな前進と捉えて、しゃかいじんとしてせいちょうしていきたいとおもいます(棒)