2016年10月26日 (水) | Edit |
香山リカ氏がいかにもなtweetをしたそうでして、震災後にこのエントリをアップした当時と何も変わっていないのだなとしみじみ感じ入るなど。

「公務員は絶対的な権力を持ち、絶対に折れない精神力を持ち、絶対に利得を確保する頭脳を持ち、絶対にそれを知られないようにする陰謀を張り巡らしている」というあり得ない虚像を描いて、「相手が絶対に倒れない」という安心感から無秩序な批判を繰り広げるのが我々の社会の「普通」であるならば、その虚像に祭り上げられた生身の人間は心身を病んでしまいます。それもまた我々の社会の「普通」なのかもしれません。

絶対最強の公務員なんているはずがない(追記あり)(2012年8月31日(金))


香山リカ氏のtweetは引用しませんが、タクラミックスさんのこのご指摘には全面的に賛同いたします。


これに対して香山リカ氏から、

あのー仕事全般ではなく「警備にあたる警察官の職務」の意味ということは前後のツイートからわかるはずですよね……。どんな仕事でもストレスはいっさいない、みたいなこと言ったかのようなミスリードはやめていただけますか?
https://twitter.com/rkayama/status/789867291701760000

というtweetがあり、さらにタクラミックスさんが指摘されている点も重要です。

承前)香山先生の見立てが正しいなら、警察官たちにいくら罵声を浴びせても、なんら効果は無いという事になります。では、あの罵声は何の効果を期待して発せられているのでしょう?警察官に何の心理的影響も与えることが出来ないなら意味がないという事になります。寧ろ逆効果かもしれない。
更に(続
https://twitter.com/takuramix/status/789896266348060672

承前)専門家である香山リカ先生のこの見立ては、
「警察官に何の心理的影響も無いなら、いくら罵声を浴びせても誰も傷つけない筈だ」
というお墨付きとなる可能性があり、活動を過激化する口実にされると思われます。
お見立てが間違っていた場合、その罵声は少なからず人を傷つける事になる…(続
https://twitter.com/takuramix/status/789898082703978496

承前)お見立て通りであったとしても、前述したとおり、その警察官に向けられる罵声には効果が無く、寧ろ、そうした罵声を浴びせ続け過激化する人々の姿が世間に印象づけられるばかりとなります。その場合、反対運動にとってはマイナスとなる可能性がある…
どっちにしろ、益は無いように思われます。
https://twitter.com/takuramix/status/789900148537110528

承前)以上、香山リカ先生の論理をトレースするよう努めて考察してみましたが、先生の論理だと、罵声は無駄という結論にしか至らないと思われます。効果が無いという前提により罵声が正当化される…不毛としか言いようがありません。
私は罵声に攻撃効果はあると考えます。それ故に問題視しています。
https://twitter.com/takuramix/status/789904070840422400


このように素直に考えれば矛盾するような理屈が堂々と繰り広げられるのは、最初に「反権力」という目的があるからと思われます。その目的を至上命題と認識してしまうと、「反権力」に沿わないようなものは、それがご自身の専門的見地のものであってもねじ曲げても構わないというほどに、それを信奉する方にとっては「正義」となるわけです。

というところで、最近こちらのtogetterが話題になっていたようですが、
「いじめられる側にも原因がある」に対するはるかぜちゃんの指摘が相変わらず鋭かった件
当事者からの一方的な申立てであることを割り引いたとしても、このtweetなどは「我々の社会の「普通」」の一面を的確に指摘していると思います。


権力関係に全てを還元しなければ気が済まないような「反権力」の方々にすれば、ご自身がその「権力」を思う存分批判する前提として「権力」の側の人間が完璧な絶対最強でなければ困るわけです。でなければ、ご自身が繰り広げる「批判」が、「権力」の側で仕事をしている人間の人格や人権を否定するような「罵詈雑言」でしかないことがバレてしまいますからね。
(補足)
読み返してみるとここで引用したtweetがやや唐突な印象でしたので補足しておきますが、このtweetで指摘されるように「完璧な人間などいないからいくらでもいじめる原因をあげつらいながらいじめることができる」ということと、「相手が完璧だという前提を置くことで、相手の人格や人権を否定してもいじめのような卑劣な行為ではないと言い張る」ということは、一見正反対に見えて表裏の関係にあるのだろうと考えます。いずれの場合も、「いじめ」「反権力」という目的が先にあって、その行為を目的でもって正当化しているわけですから。

まあそういう「権力」の側で仕事に従事する人間の人格や人権を否定することが「反権力」にとっては重要な戦術ですから、その活動にプライオリティを置く方からすれば、「権力」の側の人間が人格や人権を否定されて逆上することこそが必要な反応であって、だからこそそうした罵詈雑言が戦術として意味を持つわけです。結局は罵詈雑言がそれとして機能しているわけですが、そのことを批判されて、「権力」の側の人間は仕事である以上どんな罵詈雑言にも脅迫にも恫喝にも「心理的影響は皆無」であり、それで心が折れるような警察官は異動させれば無問題だとおっしゃる方が精神科医を標榜されてることに、改めてこの社会の現実を突きつけられる思いです。

なお一応念のため、「公務員の暴言」については以前のエントリの再追記に私の考えをまとめておりますので、ご参照いただければ。

結局、公務員であるか否かにかかわらず、「内心の自由」をはじめとした基本的人権は尊重されるべきものであって、どちらか一方が相手の発言を「暴言」といったからといって、具体的な損害やその発言との関連性、発言そのものの妥当性などを吟味しないまま、即座にその「暴言」を処罰できるということではないはずです。もしそれを本気で主張するのであれば、その方は、不特定多数に向けて行われた公務員についての「暴言」を公務員が「暴言」だといいさえすれば、それを即座に処罰することに賛同しなければならなくなります。憲法では当然そんなことは許されていませんし、私自身も許すべきではないと考えております。私が本エントリで「発言の内容の是非はともかく」としてその内容に言及していないのは、こうした水掛け論を避けるためです。

これも追記に書いたことの繰り返しですが、くろ (@kuroseventeen)さんがおっしゃるような「官僚に対する暴言がダメなのと同じように官僚も暴言言っちゃダメ」という理屈では、お互いが攻撃し合うだけになってしまうおそれがあります。結局は、いくらネット上であっても、最低限の品格を保ちながら言葉を使うべきという通常のマナーが必要ということに尽きるのではないでしょうか。「民間だったら公務員に何を言っても許される」という一方で「公務員がこんなこと言ったら処罰しろ」というダブルスタンダードな理屈は、回り回ってお互いの首を絞めるだけになるのではないかと考える次第です。

「暴言」が許されないのは誰?(再々追記あり)(2013年06月15日 (土))



2016年07月17日 (日) | Edit |
前回エントリで取り上げたやまもといちろう氏の増田氏へのネガティブキャンペーンの続編がありましたが、さすがのやまもといちろう氏だけあって、順調に増田寛也氏の支持が低迷しているようで、正直な印象が書かれています。

 増田寛也さんの問題点をいろいろと感じるので、都民有権者1,210万人にもきちんと知ってもらいたいという一心で、いろいろと記事を書いてきたんですが、告示日になって情勢が明らかになってみるとちょっと劇薬が効きすぎたようです。

(略)

 増田さんに関して申し上げるならば、このような「お座敷」に必要な肩書きを持った人を並べるという際に、会議芸人として芸を披露することにおいては優れているとしても、政治家として必要な筋の通った政治思想や哲学については、ついぞ垣間見せることが一度もありません。彼の政治思想は何なのでしょう。日本創成会議でも話題になりそうな社会的テーマに学術的なパッケージにくるみ、「地方消滅」などのおどろおどろしいワードで飾り立てて問題を世に問うだけの存在ではないかと思うわけであります。

(略)

 ただ… 私もここまで書いておいてなんですが、いま東京都知事選で選挙戦に臨んでいる有力候補者を横で並べてみたとき… あの、何というか、増田さんがまだまともなのかなー、とかちょっぴり思ったりもします。いやー。どうなんですかね。うまく趣旨替えをしてもらいつつ、東京都政の病理でもある一種の利権政治との決別をしてくれる、戦える実務家(ただし自称)として、まずは増田さんには全力で頑張っていただきたいと願う次第であります。

「「原発容認派」増田寛也は、東京都民のために働けるか(2016年7月15日 1時24分配信)」
※ 以下、強調は引用者による。

まあ、増田氏の本領は既定路線が敷かれていてこそ発揮されるわけでして、中身のないコメントで既定路線にお墨付き(らしきもの)を与えるという役割での利用価値は高いんですよね。

増田寛也×北川正恭

県民との契約を旗印に!―
北川 「実は、初めてマニフェスト(政権公約)選挙をやっていただいたのが増田知事だったんですよね」
増田 「北川さんにのせられましてね。マニフェスト選挙で、候補者を選ぶ判断基準が完全に変わりました。生活者基点というか、県民としっかり契約して、ダメなら4年後の選挙で落とすと。いままでだと、国民はあまりよく知らないんだ、自分たちが国を背負って立つんだ、という考えでしたが、今の国民、生活者は全体のことをよくご存知です。選ばれる候補者は早くそのことに気がつかなくてはいけないのではないかと思います」
北川苦い薬が入っているマニフェストでも、国民や県民はちゃんと理解して選択する能力があるんですよね

「THE GUEST VOLUME 01 ●北川正恭が改革派とよばれる知事たちと語り合った――」

いやまあ、そのマニフェストなる選挙公約もすっかり下火になりましたが、当事者たちがこの有様です。

なんと、自ら三重県知事としてマニフェスト選挙を広めて、現在では早稲田大学マニフェスト研究所所長を務める北川正恭氏が「国民もマニフェストを望んでいない」とかいっちゃってるんです。それを認めてしまったら、国民も現政権党がうそをついているのをわかって政権交代させたっていうことになってしまいます。まさに「まず政権交代」という「やってみないとわからない」的無責任な放言が現実のものとなってしまったわけです。

マニフェストという無内容(2010年11月21日 (日))


で、増田氏のホームページを拝見すると「マニフェスト」という言葉はどこにもなくて、堂々と「公約」と書いています。
増田寛也 オフィシャルサイト
なるほど、やまもといちろう氏が「政治家として必要な筋の通った政治思想や哲学については、ついぞ垣間見せることが一度もありません」と指摘されるのも納得の節操のなさですね。

なお一応念のため、増田氏が知事時代に増やした県債残高は国と都道府県の中ではそれほど突出して高いわけでもなく、私自身は増田氏の能力を「ほとばしる無能」とまで断じるつもりはありませんし、既定路線に乗っかって仕事を遂行する能力を有能とみるとか無能とみるかは有権者の判断だろうと思います。

2016年07月09日 (土) | Edit |
もはやリフレ派の隠れ蓑も取っ払った増税忌避な方々は「国債の日銀引受でオールオッケー」という誠にシンプルなディシプリンで無税国家への道をひた走っていらっしゃいますが、その一方で不思議なのが、そうした増税忌避派の中に「グローバリズムに毒されて小さな政府を礼賛する低学歴どもめ」という一見矛盾するような主張をされる方がかなりいらっしゃることです。

いやまあ、彼らに共通するのは増税忌避というよりも強固な私的財産拡大思想ではないかと思われるところでして、それが可処分所得不可侵論ともいうべき増税忌避だったり、景気の公共財としての側面を過大評価して人為的な再分配政策に対する異常な拒否反応につながっているのだろうと思います。というか、「税金は死荷重で社会的損失を生んで名目GDPを減少させる元凶だ」として増税忌避という思考停止に陥りがちな方々の傾向として、極端から極端に走る日本人の特性がよく表れているというべきなのかもしれません。

疑似エリート的な「正社員」になるか、しからずんば何の権利もない非正規しかないぞ、さあ、おまえはどうするんだ、と極端な二者択一を迫る日本の労働社会が、まさに「閉塞感を生んでいる」のではないか、という疑問は、しかしながら何の制約もなしに会社が使える正社員のみが唯一正しい生き方だと信じてやまない人々の脳裏には浮かぶことはないのでしょう。

「日本人の人生は極端な生き方以外ないのか@松本孝行(2013年3月 1日 (金))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))

「増税による財政再建で人が死ぬか、しからずんば国債の日銀引き受けでシニョリッジ益すれば無税国家にできるぞ、さあ、おまえはどうするんだ、と極端な二者択一を迫る日本の自称経済学クラスタ」が、その同じ口で「政府支出が足りないから財政出動しろ」とおっしゃるわけですから、その帰結は無税国家しかありませんね。

いやまあ、経済学のモデルが依って立つところの前提条件にここまで無自覚になれるのも、経済学的思考の成果なのでしょうけど、こちらのtweetのような理屈が成り立つには、少なくとも将来世代が政府支出の対GDP比を変化させないという条件が満たされる必要があります。つまり、「内国債が膨らむだけなら破綻しないし、効果なくインフレーションにもならないのだから無税国家にすればよい」というのがKFさんのtweetは財政破綻を主張する方への皮肉としての発せられたもののようですが、そのそれぞれがどんなモデルかはともかく、リフレ派と呼ばれる一部の方々トッププライオリティを置くデフレ脱却が達成されたとしても、その他の要件が変わらないのであれば、政府支出の対GDP比は現状のままであるはずでして、教育の無償化だの待機児童の解消だの医療行為に対する診療報酬の引き上げによる医療体制の拡充だのという再分配政策の支出構造は変わらないまま、インフレになるということです。そのようにしてインフレが達成された場合、ドーマー条件ギリギリまで国債の利払いを拡大している以上、将来世代が景気回復に浴することができたとしても、その景気回復による税収増のほとんどは過去に発行した公債の利払いに充てられます。
(2016.10.30 KFさんご自身からのこのtweetについてのtweetがありましたので、記述を一部修正しました。追記にKFさんご自身のを引用しましたので、ご参照ください)

ドーマー条件とかで国債発行しても問題ないとドヤ顔でおっしゃる方も多いのですが、そのドーマー条件ギリギリまで国債を発行するということは、「「将来の現役世代」がいくら頑張っても、過去の行政需要の財源となった公債費が歳出の大きな割合を占めてしまっているため、それにクラウディングアウトされて自分たちの行政需要に充てることができない」ということなのですが、まあこんなことをいってみたところで、「余談ですが、本書で登場する思考に関する例が非現実的だと感じるとすれば、その理由の一つは、あなたの興味において重要なものが、本書にとっての「その他」に入ってしまっているからだと考えられます。しかし、あなたと私が一心同体でない以上、これは避けることができない事態です」と切って捨てるのがリフレ派と呼ばれる一部の方々であって、隠れ蓑としてのリフレ派を取っ払った増税忌避の皆さんであってみれば、馬耳東風となるのも宜なるかな。

結局のところ、極端から極端に走る日本人の特性からすると、経済学的な思考の「型」こそが受け入れやすいのでしょう。どんなに極端な主張をして、「あなたの興味において重要なもの」なんてしらねーよといってしまっても、「経済学的に正しい」とお墨付きが得られますからね。いやもちろん、こうした陥穽の危険性を意識している権丈先生のような研究者もいらっしゃいますし、林貴志先生も

とおっしゃっているのですが、その一方で、

とおっしゃる方もいらっしゃって、頭を抱えざるを得ません。「制度についてのどの情報がある主張のどの部分を崩すか示せるなら」って、経済学のモデルの前提条件となる制度をきちんと踏まえないままでも、他者から指摘されなければ問題ないということにはならないでしょう。もちろん、単に「制度を知らない」というだけで具体的にどの制度のどの部分とモデルが異なるかを指摘しない批判は批判の体をなしていないというのはその通りだと思います。しかし、そうした制度との整合性を確認しないで構築されたモデルに政策的価値はほとんど見いだせません。上記のようなドーマー条件の実際の効果を度外視する議論が「経済学的に正しい」のは、「制度を知らない」ことも多分に影響していると考えられますし、「経済学的に正しい」と同じくらいバカバカしいのは、「制度を知らない」と指摘されても、自らのモデルの前提条件を知らないことに気がつかないことなのではないかと思います。

ついでにいえば、こうした極端な主張をする傾向はフェミニズムとかポリティカル・コレクトネスにも当てはまりそうなところもありますが、その行き過ぎたフェミやらポリコレに対する批判がさらに極端な主張になるところも「経済学的に正しい」ことへの絶対的信頼感のなせる技なのかもしれません。その意味では、行き過ぎたフェミやらポリコレへ極端な批判を繰り広げる方々というのは、「男性正社員が家計を支えているうちは社会保障なんぞ構う必要がないほど生活が保障されるというのが、日本型雇用慣行が有する世界的に特筆すべき優位性」のゆえにこそ存在しうるものといえそうですね。

(追記)
なぜか数ヶ月前のエントリにアクセスが増えていると思ったら、本エントリで引用させていただいた方からこのようなtweetが発せられていました。


この文章のみからは、KFさんがやめてほしいとおっしゃるのが「無税国家論者」として挙げることなのか、「無税国家論者の例」として挙げることなのか読み取れませんが、その直後に


ともtweetされてるので、KFさんご自身は「条件付き消費税増税容認論者」を自認されているものと推察いたします。クルーグマンも同じような主張をされていますが、それに対する私の考えは以前まとめたとおりです。

…クルーグマンのいう「ある時点」がいつなのか、そもそもそんな時点が実際にありうるのか、全く明言していない点で、実際問題としてほぼ「全否定」に近いだろうと考えております。

というのも、「デフレを脱却したら」「景気が回復したら」…こんなエクスキューズでもって、再分配政策としての公共サービスが担う生活保障の機能が、これまで20年にわたって貧弱なままに据え置かれている実態があるからです。いつもの繰り返しの議論ですが、かつては日本型雇用慣行の下での生活保障給や日本型フレクシキュリティ(男性正社員の収入により家庭が介護や保育などの生活サービスの現物給付を担う)がそれを代替していました。そのような役割分担を踏まえれば、バブル崩壊で景気が後退し、日本型雇用慣行が変容して生活保障の機能の縮小を余儀なくされた時点で、政府を通じた再分配政策、特に家庭で負担できなくなった生活サービスの現物給付が拡充されるべきでした。

(略)

で、バブル崩壊後もアジア金融危機、ITバブルの崩壊、リーマンショック、ユーロ危機等々、日本の増税(まあこれまで「増税」といえるような税制改革はなかったんですが)とは関係なく世界的な景気後退が繰り返されている中で、「デフレを脱却したら」「景気が回復したら」といって財源が確保できないまま、日本型雇用慣行下で機能していた生活サービス、特に現役世代向けサービスを政府が現物供給することなく20年が経過しています。その一方で、税収による一般財源にしか財源を頼れない生活サービスは、景気後退のたびによくて現状維持、悪ければカットされる状況が続いています。もちろん、医療や年金などは国民皆保険制度があるので財源としては安定していますが、全体では貧弱な社会保障費の中で現金給付である年金の総額が相対的に大きいために、一部の論者からは世代間の不公平感を煽る格好のネタとされてしまっています。

という状況で、「アベノミクス」といわれる経済政策によって景気が回復してやっと消費税率を挙げて財源を確保できると思ったら、「デフレを脱却したら」「景気が回復したら」といってまた先送りされてしまったわけでして、その決定打となったのがクルーグマンだというのであれば、いかにノーベル記念スウェーデン王立銀行賞受賞者であっても、特に次の点は批判されてしかるべきだろうと。

(略)

といっても、クルーグマン的政策論に影響を受けている方々は「再分配政策がそもそも実現できるわけないと考えている」からこそ一時的な借入による政府支出に望みを託しているともいえそうでして、それはそれでもっと深い問題があるわけですが。

財政政策の実現性(2014年12月10日 (水))


条件付きで増税を容認するのは、いみじくもKFさんご自身が「実には増税しても予算拡大せず財政再建に回されてるわけで、負担だけが増す状況なわけで反対せざる負えない」とおっしゃるように、その条件が達成されないことを所与としているからではないかと思います。条件付き消費税増税容認といいながら、その条件が達成されることを(事実上)否定するのであれば、つまるところ無税国家しかないのではないかと思いますが、KFさんの指摘を踏まえて本エントリを修正いたしました。

2016年07月05日 (火) | Edit |
前回エントリで元カイカク派知事同士の選挙戦にwktkしていたところ、一時は増田氏に自公と民進が相乗りか?という怪情報も流れていましたが、増田氏に対する不安が各方面から示されていまして、まあ拙ブログとしても概ね同意するものが多いものの、元切込隊長ことやまもといちろう氏のこの指摘はさすがにちょっとフェアではないのではないかと思います。

その後、ちっとも地域経済が伸びず、借金増やしてまで使った金に見合った地方税が上がらないので、慌てて「岩手県行財政構造改革プログラム」なるものを策定し、今度は全力でブレーキ踏ん張ったもんだから、そのアクセル踏んでた時代に潤ってた県内の事業者が全部死んで、仕事を失った岩手県からの労働人口が大量に流出、高齢者だけが地元に残って岩手県の産業が壊滅しただけでなく若者もいなくなって過疎化が進んだというのが増田さんの治世の概略であります。

「増田寛也「ほとばしる無能」を都知事候補に担ぐ石原伸晃&自民都連(訂正とお詫びあり)(2016年7月4日 23時49分配信)」(ヤフーニュース個人)

増田氏の知事時代の任期は90年代後半から2000年代半ばまでですが、90年代前半のGATTウルグアイ・ラウンド対策の公共投資と、90年代半ばのバブル崩壊後や2000年前後のITバブル崩壊後の景気対策としての公共投資が相まって、特に後半は「少子高齢化による生活サービスの現物給付需要の自然増が重なり、その穴埋めとして国と地方の債務残高が激増していった(一部は小渕内閣時の財政拡張も寄与していますが)わけ」でして、日本各地で同じような現象が起きていたというのが実態でしょう。

実は以前某所で駄文を書かせていただいた際に、ちょうどのその時期の地方債残高のデータを都道府県別に収集しておりましたので、増田氏の知事時代の任期である1995年度から2007年度の都道府県債の増加率で順位付けしてみましょう(下表の単位は千円です)。
 1995年度2007年度増加率順位
新潟県1,095,680,3392,679,403,989244.5%1
岐阜県614,769,2981,394,568,453226.8%2
茨城県769,975,6381,732,986,693225.1%3
広島県901,336,5061,865,220,318206.9%4
愛媛県465,149,583961,052,999206.6%5
石川県577,915,0811,186,919,871205.4%6
北海道2,791,134,8925,569,652,787199.5%7
埼玉県1,525,164,9383,003,282,744196.9%8
山口県589,429,3341,143,145,855193.9%9
岩手県759,880,5551,470,396,528193.5%10
香川県397,853,313768,502,643193.2%11
島根県531,139,7841,022,978,183192.6%12
京都府721,326,8691,385,228,807192.0%13
鳥取県321,832,461615,993,932191.4%14
青森県685,727,2161,291,322,765188.3%15
徳島県515,231,365968,591,828188.0%16
福岡県1,360,253,3282,556,383,123187.9%17
鹿児島県869,073,6711,625,773,204187.1%18
千葉県1,258,939,6622,340,656,437185.9%19
山梨県486,976,157903,426,838185.5%20
静岡県1,218,023,1412,229,995,946183.1%21
神奈川県1,666,928,8003,047,916,738182.8%22
宮崎県507,412,164919,024,727181.1%23
福井県453,527,467818,483,708180.5%24
奈良県571,563,9601,027,511,809179.8%25
愛知県2,132,365,3533,827,054,096179.5%26
群馬県550,059,995961,081,085174.7%27
和歌山県460,056,838803,318,679174.6%28
滋賀県520,673,400909,003,407174.6%29
佐賀県372,640,129641,629,324172.2%30
秋田県721,200,1341,230,824,222170.7%31
福島県703,183,6941,196,480,741170.2%32
兵庫県2,213,353,0623,754,717,349169.6%33
三重県589,203,401991,812,768168.3%34
栃木県599,275,603997,145,265166.4%35
山形県660,629,3961,095,727,815165.9%36
大分県620,990,713996,966,902160.5%37
長崎県682,611,7961,091,972,825160.0%38
大阪府2,716,200,5994,336,366,398159.6%39
宮城県894,806,4681,392,827,205155.7%40
富山県662,248,2431,010,579,908152.6%41
熊本県898,090,8661,358,719,983151.3%42
岡山県817,406,9191,231,168,225150.6%43
高知県554,949,256787,609,377141.9%44
沖縄県468,360,796658,188,369140.5%45
長野県1,190,962,4831,496,615,858125.7%46
東京都5,814,239,3316,292,585,832108.2%47
総計46,499,753,99779,590,816,558171.2%
なんと、岩手県は堂々の第…! 10位ですね。まあ、全体の増加率が171.2%なので岩手県の193.5%という増加率は確かに高い方になりますが、220%越えで表彰台を独占した新潟県、岐阜県、茨城県に比べればちょっとおとなしめな印象もあります。これとは対照的にほとんど債務残高を増やしていない東京都がダントツの最下位でして、景気対策としての公共投資が都市部ではあまり重きを置かれていないこともありますが、そもそも自主財源でまかなえる東京都の地方交付税の不交付団体としての強さが光りますね。

ところで、やまもといちろう氏の記事で引用されている参議院予算委員会会議議事録で、増田総務大臣(当時)に質問しているのがこちらも異色の元カイカク派知事であられた田中康夫氏でして、GATTウルグアイ・ラウンドが閉幕する1994年度前後からの県債残高を東北6県と長野県で比較してみたグラフがこちら。
zandaka
1998年の長野五輪に向けての債務残高の増え具合が他の追随を許さない状況ではありましたが、まあ確かに田中康夫氏が在任中の2000年度から2006年度まで急激に債務残高を減らしていることが分かります。とはいえ、2000年代に入って他県が軒並み増加率を鈍化させのと歩調を合わせるように、増田氏の任期の終盤にかけても伸びが鈍化している様子もうかがえます。むしろ、増田知事退任後の2007年度から再び岩手県の増加率が上向いていますが、東日本大震災が発生した2013年度以降は、宮城・福島両県が債務残高を増やす一方で岩手県は減らしています。

まあ、このデータをどのように解釈するのかはご覧いただいた皆様にお任せいたしますが、やまもといちろう氏が取り上げているその他の増田氏の「政策」などについてはなおさら、東京都の有権者の皆さんが判断するべきものと思います。特に、前回エントリで取り上げているとおり、2007年の都知事選に立候補した浅野元宮城県知事のような「地元の財源は地元で使うべきという小学生のような論理で民主主義を語る方だったわけで、我々地方在住者にとっては東京都知事にならなくてよかったというべきか、東京都民はスバラシイ知事候補を逃してしま」うのかどうかは、地方在住者としても生暖かく見守りたいと思います。

2016年06月13日 (月) | Edit |
ということで、前回に引き続いて今年の3月に向けて出版された震災関連本の一つですが、こちらは現役の復興庁事務次官(付記:福島復興再生総局事務局長への就任が6/14発表されました)である岡本全勝氏の編著となります。岡本氏については拙ブログでも何度か取り上げさせていただいているところでして(「岡本全勝」でググると上位に拙ブログのエントリが表示されるのは勘弁してほしいのですが)、その岡本氏は震災発生から1週間後に政府に設置された被災者生活支援本部の事務局責任者に任命され、そのまま審議官を経て2016年6月までは事務次官を務められています。被災された地域のために粉骨砕身ご活躍される姿勢には、心から感謝申し上げるとともに改めて敬意を表するところでして、本書ではご自身が陣頭指揮を執ってこられた官民の復旧・復興の取組が体系立てて整理されており、この5年間の動きを把握することができる内容になっています。

岡本氏がそのような要職に任命された理由についてのご自身の分析は、

 「岡本なら、この危機に対処できるだろう」と考えた人がいたのでしょう。(略)この仕事において、これまでの自らの経験を活かすことができた事項を列挙しておきます。
 私は旧自治省に採用され、自治体の現場を何度も経験してきました。(中略)
 政府では、総理大臣秘書官として霞ヶ関全体を見たことで、様々な指示や以来をどの役所にすれば効率よく動くか、見当がつきました。(中略)
 2001年に行われた中央省庁改革を担った、中央省庁等改革推進本部での勤務も、有用でした。そこで全省庁と付き合い、各省と民間からの混成部隊を動かす経験を積むことができました。
p.35
東日本大震災
復興が日本を変える
―行政・企業・NPOの未来のかたち
編著者名 岡本全勝/編著  藤沢 烈、青柳光昌/著
判型 四六判
体裁 単行本
定価(価格) 2,160円(税込み)
本体 2,000円
ISBN 978-4-324-10127-8
図書コード 5108234-00-000
発行年月日 2016年03月11日

※ 以下、強調は引用者による。

とのことで、自治体から霞ヶ関、民間まで一緒に仕事をしてきたという経歴が被災者支援にうってつけだったわけですね。そのような経歴を生かしてご活躍をされている岡本氏の編著になる本書を批判的に取り上げるのは、再び心苦しいものはありますが、霞ヶ関的に言えば、上記引用部で挙げられている1点目より2、3点目の方が評価されていそうな気もします。特に次のような記述を拝見すると、3点目の省庁改革の経験は、岡本氏の行政機構に関する視点に大きな影響を与えたのではないかと推察されます。

 先に1(1)(273ページ)で述べたように、西欧近代国家は、安上がりの政府から出発しましたが、都市化や産業化による社会問題が発生し、19世紀後半に社会問題に取り組む積極国家、サービス国家に転換しました。さらに生存権を保障することが国家の責任となり、20世紀半ばには福祉国家と呼ばれるようになりました。
 福祉国家は、次に「安心国家」に変化しつつあると、私は考えています。教育、衛生、公共インフラ、福祉など、国民の要望をひととおり充実させたら、違った不安と不満が見えてきたのです。それは先ほど述べたように、古典的なリスクが深化したり再発見されたりしたものや、新しく出てきたリスクです。すると政府の主たる任務が、サービスの提供から、安心の提供へと変化しているのです。

岡本ほか『同』pp.290-291

なにやら頭がクラクラしてきましたが、福祉国家が提供するような社会的インフラとしての社会資本とか各種の給付金や医療福祉などの現物サービスはすでに国民の要望を充実させているから、あとは「安心」を保障するのが政府の役割だとおっしゃるわけですね。うーむ、現金給付・公共サービスの対GDP比がフランスやスウェーデンの6割程度しかない中で、高齢化により高齢者向け支出(年金)がその約半分を占める日本で政府の役割が充足しているというのは、日本国民はなんて慎ましやかなんでしょう!

いやもちろん、岡本氏の主張は政府がすべての国民の要望をかなえるわけにはいかないという趣旨であって、そりゃまあそうだろうと思いますが、では(岡本氏の主張によれば国民の要望はすでに充実されているそうなので、もし仮にではありますが)満たされない国民の要望があった場合はどうなるかというと、例のアレが登場します。

 サービス提供がひととおり整備されたので、サービス提供という視点自体が、時代遅れになっています。これは、サービス提供が不充分で、それを充足するにはどうすれば効率的かという問題意識からの発想です。そのために行政自らがサービスを提供するほか、企業や提供者(例えば私立学校や保育園)に補助金を出し、業界団体を指導しました。これは提供者を育てる発想です。
 すでに提供する仕組みをつくり上げたのなら、これからは、サービスの受け手(顧客)である住民や生活者の立場に立って考えるべきです。例えば、提供者に補助金を出すのではなく、サービスの受け手の人に補助金を出して、サービスを選択させる方法が有効になります(バウチャー制度)。医療や介護の保険制度では、受給者が病院や介護書を選び、一定の負担をしてサービスを受けるという仕組みができています。

岡本ほか『同』p.295

政府の事務方トップからこんな言葉が発せられるとは、ミルトン・フリードマンも草葉の陰で泣いて喜んでいそうです。とはいえ、確かに医療や介護では既にそうした制度もあるにはあるのですが、政府の再分配政策としての介護従事者や保育従事者の低賃金が問題となっている現状を踏まえると、バウチャー制度がその解決策になるというのは私のような実務屋にはあまり想像がつきません。そんな実務屋の見ているようなせせこましい世界ではなく、政府の事務方トップには光り輝く未来が見えていらっしゃるのですね。

当然のことながら、本書の著者の皆さんは岡本氏と共通のご認識をお持ちのようでして、岡本氏のパートではありませんが、日本財団ソーシャルイノベーション本部上席チームリーダーの青柳光昌氏のパートでもこのような記述があります。

 「失われた20年」と言われて久しいですが、NPO法が誕生する前後から、社会の状況も大きく変化をしてきています。経済成長の鈍化と超少子化・高齢化の進展による人口減少などにより、政府の財政状況が切迫してきていました。こうした背景から、行政自身で提供する公共サービスを縮小し、小さな政府を目指す方向性になっていきます。そこで具体的に実現したことは、行政が提供するサービスの民間への外部委託です。この民間には、企業だけでなく、当然NPOも含まれています。NPOに予算を提供し、政府よりも効率的にサービスを提供してもらうことで、小さな政府を実現しようというわけです。先述したように、行政組織は機動性・効率性に欠ける傾向があります。そこで、専門性が高く、機動力のあるNPOへの委託が増加してきました。小さな政府を目指すことは、非営利セクターの発展にとっては、一つの転機であったともいえます。ちなみに、この状況は、日本だけではなく、欧米をはじめとして先進国においてはおおむね同じ傾向でした。
 そのような方針を進めていくなかで、社会的なニーズは増大し、NPOの数もそれに従って増加していきました。一方で、行政の財政が逼迫している状況が、中長期的には好転することはありませんでした。そのため、限られた財源の中で、多様化・増大するニーズに、行政やNPOは今後どのように対応していくのかが課題となっています。

岡本ほか『同』pp.215-216

うむむ、さらに頭がクラクラしてきますね。「失われた20年」では確かに「行政が提供するサービスの民間への外部委託」が進められましたが、そこで進められた「効率化」というのは、公的セクターの業務をより低賃金の労働者に担わせることで低賃金労働化することではなかったでしょうかと小一時間問い詰めたくなってきます。

ただ、私自身も、「「小さな政府」で縮小した事業分野に民間事業者を進出させようという思想が透けて見える」と考えていますので、青柳氏のご指摘は素直に現在の日本の現状を言い表したものといえましょう。そして、岡本氏のような考え方が政府内に浸透している事態こそが、この本から読み取るべき最大のメッセージだろうと思います。安定した収入を確保できなければ、将来の固定費となることが予想される人件費や回収に時間のかかる公共投資を削減しようとするのは民間も役所も変わるところはありません。いつもの繰り返しですが「リスクをプールするために、景気が減退しても国民の消費を下支えするように税金を誰のためにどれだけ使うかということが重要」です。まあこういう話をすると増税忌避という思考停止に陥った方々から一斉に批判をいただくわけでして、その状況を骨身に染みて痛感している政府の事務方トップからすれば、「安心国家になれば、あとは民間で自由にやれるからいいでしょ」と言いたくなるのも宜なるかな。

ということで、福祉国家なんて古くさいものは捨て去って、「安心国家」へ転換して「民間に任せれば万事うまくいく」というメッセージに敏感に反応する方もいらっしゃるわけでして、あのイケダハヤト氏が絶賛されていました。

昨日「国・政府は「最低限」何をすべきなのか?」という記事を書いたところ、助けあいジャパンの野田さんから素敵な記事を教えて頂きました。

被災地から見える「町とは何か」 ~NPOなどと連携した地域経営へ~ 岡本全勝・復興庁統括官(2012/08/31 13:11 【47行政ジャーナル】 )

国家の役割は、サービスの提供から安心の保障へ

記事を書かれたのは岡本全勝さん。復興庁統括官を務める官僚の方です。

(略)

今はとにかく何でも「行政・政治頼み」な構図がある気がしますが、政府がプラットフォームとしての側面を強めていけばいくほど、行政は何もしてくれなくなります。Appleに「こんなアプリつくってよ!」と言っても、Appleが相手にしてくれないのと同じです。サービスを提供するのはプラットフォームではなく、基本的にサードパーティのプレーヤーなのです。

こういう時代になると、「行政は何をしているんだ!」的な批判は意味をなさなくなってくるでしょう。行政が行うべきことは変質していきますし、財政事情も考えると、提供サービス自体も減少していくでしょう。「何をしているんだ!」と怒る暇があるぐらいなら、自分で何かをはじめるべき、という当事者性が求められる社会になるということです。

「「政府のプラットフォーム化」と当事者意識(2012年11月12日)」(まだ東京で消耗してるの?)

なるほど、財政事情があるから政府ではなく国民が自ら行動しなければならないよね行動しないような国民のことなんてしらないよ行動してうまく立ちまわった奴が勝者なのにそれもわからずにまだ東京で消耗しているの?プゲラ …と見えてしまうのは私の心が汚れているからですかそうですか。

いやまあそれにしても素晴らしき「小さな政府」礼賛者同士の邂逅でして、実は本書の第4章は、イケダハヤト氏が「素敵な記事」としてリンクしている47ニュースの記事を加筆修正したものとなっていますので、是非リンク先を開いてそのエッセンスをご堪能下さい(47ニュースでは図表がリンク切れになっていますが、イケダハヤト氏のブログに一部再掲されています)。そして、増税忌避が「行政自身で提供する公共サービスを縮小し、小さな政府を目指す方向性」を促進している現状に思いを馳せてていただきたいと思います。