2008年05月16日 (金) | Edit |
HALTANさんにトラバいただいたので、感想など。

・・・さて実のところ、これも個人的には醒めつつある話題。理由は上記のように「なんで政談系ブロガーで『地方分権さえ行われればいい、中央集権さえ解体されればいいなんて、それは違うだろう』という人が余り出てこないのかなあ?」というところで、自分だけこういうネタを書くことに飽きてきた部分が大きいんですね。これからどうやって失敗していくのかなあ、とそこにだけ興味がある。前にも書きましたが、有権者はいずれどうせ飽きます。「地方分権なんかしても、『地方・地域社会の自己決定』と称して自己責任を押し付けられただけで別に何もいいことなかったじゃん」とさすがに分かる日が必ず来る。
[床屋政談・ニュース速報]地方分権、終わりの始まり(2008-05-14)」(HALTANの日記


まあ、俺もこの点については「闇雲な地方分権には反対」としか表明してないので「『地方分権さえ行われればいい、中央集権さえ解体されればいいなんて、それは違うだろう』という人」にカウントされてないのかもしれませんが、現状の地方分権が闇雲(増田氏は本当に日本を壊すおつもりらしいし)なので、結果的にはカウントしていただいてもいいのでは? と参加表明してみるテスト。

あと、この点はそういう見方もあるのかなと思った点。

・・・問題は(3)以降で、具体的にどうなるか結局はここでも良く分からないんです。「中央集権解体」「カンリョー死ね」だけでどこまで誤魔化せるものか? もっともその頃でもサヨクや「市民」は以下のような寝言を言い続けているんだろうなあ、ということだけは容易に想像できるのが辛い。

自分が知らんかっただけでこんなことはジョーシキなんでしょうが、日本のその類のエリートさんには、日本の近代化(国民国家化)が大政奉還により天皇制の権威を利用して成し遂げられたことに対するコンプレックスや贖罪意識があるんでしょうねえ。王政を戴くことで近代化を成し遂げた明治維新は真の「市民」革命ではなかったんじゃないか、というあたりに妙なルサンチマンがあるのではないかと思う。この贖罪意識は戦前の日本の帝国主義に対する自省とも結びついている。だとすれば、中央集権解体→地域主義(地方分権)→多文化共生→東アジア共同体→世界共和国 と一直線に繋がるのも当然ということになるわけです。
2008-03-09■[TV(ドラマ以外)]『時事放談』第一九三回 鶴見俊輔 筑紫哲也id:HALTAN:20080309:p5

[床屋政談・ニュース速報]地方分権、終わりの始まり(2008-05-14)」(HALTANの日記


個人的にはむしろ、前回エントリで書いた旧自治省のアイデンティティが、天下国家を動かすことを夢想して意気揚々と霞ヶ関キャリアになったものの、霞ヶ関の現実は国会議員と圧力団体のご機嫌をいかに(結果はともかく)理論的な矛盾なく調整するかという仕事がメインであることに気がついて激しい絶望感に襲われ、抜本的カイカクしかないと盲信する「改革バカ」に成り果ててドロップアウトしたキャリアのそれと、「反霞ヶ関」をキーワードに融合してしまうところに源泉があるんだろうと思いますが、まあ細かい話です。

基本的に旧自治省キャリアのアイデンティティは、「俺は国家公務員だけど地方の現場で専門性にこだわらずにいろんな仕事をしている」という自負があって、それに導かれる「国は縦割りで専門性が高いけど、俺たちは現場に密着した総合的な仕事をしている」というジェネラリスト志向と、逆にそれを負い目に感じて「旧自治省や地方自治体が総合的に判断して仕事をしているのにもかかわらず問題が起きるのは、専門性が高くて縦割りの霞ヶ関に問題があるからだ」という反霞ヶ関志向でしかないというのが、うちのところに来た旧自治省キャリアの幹部なんかと接した感触。
旧自治省仕様(2008/05/10(土))


あと気になったのは、HALTANさんに限らず経済学について語られるブロガーの方々は、マクロ経済学とミクロ経済学をあまり区別されないで語られることが多いように思わること。HALTANさんは学者でもないんだから当然と言えば当然ともいえますが、経済学者でもブログではマクロの話に偏りすぎな気がしますし。

都会人(主に六大都市圏在住者)が地方分権に賛成するのは分かる。彼らの大半は(ネットリフレ派も含め)「田舎者が吸い取ったから自分たちは損をしている」と思い込んでいるので、「分権と称してカッペが自滅すればいい気味だ」程度にしか思っていない(2008-04-13■[床屋政談]挑発(笑) 大都市部在住ケーザイガクオタクの都合のいい脳内想定と身勝手な言い分にあらためてガッカリid:HALTAN:20080413:p1 ※このエントリはリフレ派からは非難轟々かもしれません) 
[床屋政談・ニュース速報]地方分権、終わりの始まり(2008-05-14)」(HALTANの日記


この点については、濱口先生のところで飯田先生がおっしゃっているように、リフレ派という括り方が意味を持つのはおそらくマクロ経済政策についてのみであって、そこからミクロ経済政策に降りていったときの対処法は、リフレ派と言われる方々の間でもかなりの開きがあるんだろうと。

まず,リフレ政策……というか拡張的金融政策の支持をケインジアン的な政策だと考えている経済学者はほとんどいないと思います.安定的なインフレの必要性はフリードマン(70年代のケインジアン批判の中心人物です)も主張しています.といいますか,現代の経済学において「ケインジアン」「新古典派」というのは学派と言うよりモデルの設定部分の違いで,どちらが妥当であるかは実証上の問題だというのが一般的見解と思われます.

次にリフレ派についてですが,世にリフレ派と呼ばれる人の共通点は「安定的なインフレによる景況の維持が必要だ」のみで,ミクロ的な経済政策については人それぞれです.
構造改革ってなあに?(2006年9月17日 (日))」コメント欄 投稿 YS | 2006年9月18日 (月) 14時59分(EU労働法政策雑記帳
(注:ご本人が「投稿 Yasuyuki-Iida | 2006年9月18日 (月) 15時16分」で報告されているとおりYS氏は飯田泰之先生です)


地方分権というような政府の行動について研究する経済学の分野としては、ミクロ経済学の手法を用いた公共経済学(日本では財政学とも呼ばれますが)だったり、公共選択論だったり(マスグレイブとブキャナンの論争(『財政学と公共選択―国家の役割をめぐる大激論』)もあったりしますが、慈悲深い政府とリヴァイアサン政府の議論は示唆的です)、ゲーム理論を用いたメカニズムデザイン(ハーウィッツらが2007年のノーベル経済学賞を受賞しましたね)といった分野になるので、リフレ云々というようなマクロの議論とは必ずしもシンクロしない場合が多いと思います(というよりシンクロするものでもないでしょうし)。

この辺は生兵法なので詳細はググって詳しい方のサイトでもご覧いただければと思いますが、例えば公共経済学では、公共財の供給などはリンダール均衡に対するサミュエルソンの悲観論によって「市場の失敗」が必然的に生じるので、それに対する政府の介入としてピグー税(補助金)はどうあるべきかという辺りから、ティブーの「足による投票」とかオーツの「分権化定理」といった理論に基づいて地方財政論を展開しているし、マスグレイブの財政の3機能でいえば、開放経済である地方財政は資源配分機能しか担えないということになったりします。

問題はこういう公共経済学者には一般向けの発言力がほとんどないというところでしょうか。前々政府税調会長の石弘光先生(『現代税制改革史―終戦からバブル崩壊まで』も読まなきゃなあ)なら名前くらい聞いたことがあるとか、前会長の本間正明先生ぐらいなら(別の意味で)少しは有名だと思いますが、神野センセイとか金子センセイといった○系から転向した反経済学組の露出には到底及びませんしねえ。地方分権については、公共経済学者という専門家が不在のまま議論が進むという異常な状態がデフォルトになっているのが、専門性を持たない旧自治省が主導する「地方分権」らしいといえなくもない。ただ、公共経済学者が露出を増やしたとしても数式とかグラフ使った時点で世の中の方は見向きもしなくなるでしょうし、難しいところではありますが。
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2008/05/17(土) 18:01:49 | HALTANの日記