2020年11月01日 (日) | Edit |
すっかり遅くなってしまいましたが、地元の書店に入荷されてすぐ購入したhamachan先生と海老原さんの共著『働き方改革の世界史』をやっと読了しました。
働き方改革の世界史
濱口 桂一郎 著 , 海老原 嗣生 著
シリーズ:ちくま新書
定価:本体840円+税
Cコード:0236
整理番号:1517
刊行日: 2020/09/07
※発売日は地域・書店によって
前後する場合があります
判型:新書判
ページ数:256
ISBN:978-4-480-07331-0
JANコード:9784480073310



といいながら、本書は海老原さんが発行している『HRmics』に連載されたhamachan先生の「原典回帰」をまとめたものですので、加筆された部分以外は一度読んでいるはずなのですが、改めて通しで拝読してみると、その深遠さに唸らされることしきりで時間がかかってしまいました(ちなみに拙ブログで「原典回帰」を取り上げたエントリをサルベージしてみたところ3つしかないことが判明し、そもそもきちんと読み込んでいなかったのではないかという疑惑も…)
組織内での人材育成機能の低下(2015年08月23日 (日) )
中小企業の採用の共同化(2018年12月23日 (日))
企業内組合の里心(2019年05月03日 (金))
ということで、これまでの連載部分については既に山下ゆさんが詳細にまとめられているので、そちらを参照していただくとして、本書で加筆された(と思うのですが、上記の通りきちんと読み込んでいない可能性もあるので見逃しがあれば申し訳ございません)部分を中心に考えさせられたことをメモします。

まず本書の軸を海老原さんが序章で説明されている部分から引用すると、

 こうして、社外と広く連携を果たして条件闘争をする仕組み(集合取引)と、社内では経営側と労働側がうまく対話する仕組み(共同決定)が出来上がっていきます。ドイツではこのどちらもうまく取り込んだために、労使関係の調整をスムーズに計ることができました。一方、集合取引を軸にした英米は、とりわけ労使の共同決定という機能を欠き、ゆえに社内統制で様々な問題が発生していきます。

濱口・海老原『同』pp.20-21
以下、強調は引用者による。

という形で、主に社外との連携において行われる集合取引と、社内の経営側と労働側が行う共同決定が本書の大きな二つの軸となっています。本書を読みながら考えたのは、産業革命以降、会社組織は株式会社という形態で所有と経営が分離されつつ大規模化していくわけですが、その会社組織の内部においては、さらに経営と労働が分離され、その分離された機能をどのように分担するかというのが、現在にいたるまでメインイシューであり続けているのではないかということです。それを現実の組織にどのように落とし込むかという作業において、各地域や各国の歴史的背景や地理的事情が複雑に絡み合い、さまざまな形態に発展していった経緯こそが、本書で辿っていく「世界史」ということになるように思います。

という世界史の観点からすると、アメリカ占領下で労働法制が整備された戦後日本においては、アメリカの労働運動の展開が重要と思われるところでして、『HRmics vol.35』の濱口・海老原対談が本書にも採録されているのですが、本書で加筆された部分に深く考えさせられました。これはhamachan先生の発言部分ですが、

 そこで、まず第一次世界大戦後の好況期にウェルフェア資本主義という形で、労働者を個別企業の従業員としてさまざまな福利厚生を与え、企業外部の労働組合とのつながりを断ち切ろうとしました。これは短期的には成功したんです。アメリカの1920年代は労働組合組織率が激減し、従業員は労働組合なんかより自分の働く企業を頼りにしていた時代です。ところがこれがほんの10年で崩壊します。
 一橋大学の森口千晶さんが強調する点ですが、大恐慌の中で、ほとんどの企業が従業員との暗黙の約束を破って片っ端から解雇した。ウェルフェア資本主義を信じていた従業員たちは裏切られたわけです。この会社側の裏切りに対する不信感が、その後のアメリカの労使関係の基本構造を作り出します。
 …もともと会社の側が事業運営のための仕組みとして整備してきた「ジョブ」というものを、労働運動の側がそれを拠り所として権利を主張する仕組みに読み替えていくのです。経営側が作り出した仕組みをそのまま労働側が使うしかなかったというこのアイロニーこそが、アメリカ労働運動の根幹をなしています。

濱口・海老原『同』pp.220-221

hamachan先生の功績により「ジョブ型雇用」が人口に膾炙するようになりましたが、当のhamachan先生もあちらこちちらで指摘されているように、そもそも「ジョブ」がどういうものなのかは日本では理解されにくい状況があります。もちろん、「ジョブ」という考え方がその本家であるアメリカでどのように形成され、どのように普及していったのかという点についての理解も必要ですが、それに加えて、現在の日本において本気で「ジョブ型雇用」を取り入れようとするならば、第二次世界大戦後、GHQによってそのアメリカ型の労働法制を基本として日本の労働法制が整備され、現在の日本型雇用慣行(特に労働委員会制度などの集団的労使関係法制)にどのように影響を与えたのかという視点も必要になるように思います。

という観点で上記引用部を見てみると、「労働者を個別企業の従業員としてさまざまな福利厚生を与え、…労働組合組織率が激減し、従業員は労働組合なんかより自分の働く企業を頼りにしていた」というのは、「どこの日本ですか」といいたくなるのですが、それが大恐慌であっさりと裏切られたとき、経営側が管理手法として取り入れた「ジョブ」を拠り所として、経営と労働の分離を徹底する方向で労働運動が展開されていった点でアメリカと日本に大きな違いがあることが分かります。

つまり、アメリカにおいて、労働者は「ジョブ」に紐付けられることによって労働条件を確保し、経営側が労働条件に恣意的に介入することを阻止する代わりに、その「ジョブ」の管理そのものは経営側の判断に委ねて口を出さないことにした(本書ではそれを「休戦協定」と表現されています)のですが、日本では「(男性)正社員」に生活給を原則とする労働条件を保障する(その代わり雇用調整は非正規労働者で行う)ことで、正社員たる従業員は「企業を頼り」にするという大枠を形成しました。そして正社員たる従業員を「企業を頼り」にするよう仕向ける仕組みとして、単に不況期に正社員の雇用を守るだけではなく、通常時には生活(=人生)を懸けて会社に奉仕することによって将来的な待遇改善を獲得する(これもhamachan先生の言葉で言えば「見返りのある滅私奉公」ですね)という「メンバーシップ型」(とそれを支える職能資格給制度)が必要だったわけです。こうして、わざわざ労働組合を作って待遇改善を要求するより、個々の労働者が「滅私奉公」を競い合ってよりよい待遇を得ることが日本の労働者の行動規範となっていったものと考えられます。

というような経緯からすると、本書で取り上げられている中ではサンフォード・ジャコービィの『会社荘園制』で取り上げられているコダックのように、「日本化」しようとするアメリカ企業もあることが腑に落ちます。

実は、私が本書で面白いと思ったのは、アメリカの労働者の実態として示される労働環境があまりにも日本と似かよっているところでした。employment at willなアメリカでは、解雇自由な代わりに、勤務時間が終われば仕事の途中でもさっさと帰ってしまうとか、残業するのは一部のエグゼンプションだけだとか、ジョブ型の雇用慣行が定着しているという印象があるのですが、どうやらそうでもないようです。
(略)
グローバル経済を持ち出してチームプレーを根拠に休日出勤を指示するというのはアメリカに進出した日本企業にありそうなエピソードですが、休日出勤を指示したのがアメリカ企業の社員で、それを拒んだのがオランダ人労働者だったというのはちょっと意外でした。この本ではこのほかにも、アメリカ人の(エグゼンプションではない)普通の労働者が時間に追われていることが何度も指摘されています。その比較として北欧をはじめとするヨーロッパの労働時間やその規制がいかに有効かという例が挙げられるのですが、その中に日本が混じっているのが何とも違和感がありますね。

日本化するアメリカとアメリカ化する日本(2013年08月11日 (日))

というように、アメリカでは日本型経営または日本型雇用慣行に対する憧れが未だにくすぶっているようですが、その本家である日本では、バブル崩壊後の不況期を経て、「メンバーシップ型」雇用を支えていた「見返りのある滅私奉公」と職能資格給制度が機能不全に陥っている状況といえるでしょう。その一方で、法によって規定される社会保障の分野において正社員を中心とした制度が形成された結果、正社員は相変わらず「企業を頼り」にせざるを得ず、家族に正社員がいない家庭では十分な社会保障を享受できない現状もあります。

というような「メンバーシップ型」の社会においては、本書の一方の軸である「共同決定」は、「見返りのある滅私奉公」によって職能資格を一歩ずつ上り詰めていくことによって実現されるわけですから、あえて従業員代表制を本格的に導入しようとは労働組合も経営側も本気で考えてはいません。実はこの点でこの2か月ほど本書を読みながら考えていたことがありまして、晴れて労働三権が制限されない身となったものの、地方の中小企業に労働組合などあるはずもなく、ではどのように労働者が経営に参画するかと言えば幹部会議に管理職が出席するという形がせいぜいです。まあ人数の限られる中小企業における管理職というのはプレイイングマネージャーにならざるを得ないので、半分は管理監督者であり、半分は労働者の立場であるものの、幹部会議において労働者の立場で発言することは経営者から「管理職としての自覚が足りない」との叱責を受けることが多いでしょう。さらにいえば、幹部会議において労働者の意向を反映することは端から想定されていないのが実態でしょうから、中小企業の経営と労働の距離は、その組織規模にかかわらず大きいというのが実態のように思います。

このような日本の中小企業の実態は、アメリカの労働運動のように経営と労働の分離が労働者の側から徹底されたわけではなく、パターナリスティックな「家族経営」から派生して、経営者は労働者に施してやっているのだから労働者は経営に口を出す立場にはないという階層的な考え方を色濃く反映しているものと思われます。ちょうど本書を読んでいる時期に政権交代がありまして、日本では小規模の中小企業が多すぎるというデービッド・アトキンソン氏の言説が菅政権で取り入れられそうな情勢ですが、

「菅首相はアトキンソン信者である」という噂が霞が関界隈で流れている。

 官房長官時代に小西美術工藝社社長のデービッド・アトキンソン氏と昵懇になったとされる菅首相が、アトキンソン氏の持論である「中小企業の再編」に乗り出そうとしているからである。
(略)
 アベノミクスを継承する菅首相の成長戦略の看板政策として注目されているのは、「携帯電話料金の大幅引き下げ」と「デジタル庁の創設」の2つだが、菅首相は官房長官だった9月5日の日本経済新聞のインタビューで「中小企業は足腰を強くしないと立ちゆかなくなってしまう」とした上で、「中小企業の統合・再編を促進する」ことを表明していた。

藤和彦「菅首相はアトキンソン信者なのか 中小企業再編という劇薬の問題点」(週刊新潮WEB取材班編集 10/13(火) 5:57配信)

まあそんなたいそうなことを言うまでもなく、「家族経営」で意思決定が経営陣に独占されているような組織は、大きくなろうにも大きくなれないというのが実態ではないかと思います。中小企業同士が統合したところで、統合した側とされた側がそれぞれ労働者の意向を反映する社内統制としての「共同決定」の仕組みを有していなければ、組織として機能不全に陥る可能性が極めて高いと考えます。というのが労働三権に制約のない世界で仕事をしてきたところで感じる中小企業の限界なのですが、本書で示されているhamachan先生や海老原さんのご提言について現場で実践できることはないか、本書で巡られている「世界史」を道標としてこれから模索していかなければとの思いを強くしたところです。
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