2020年05月12日 (火) | Edit |
hamachan先生が意味深なエントリをアップされていて、

政治家ってのはお互いに殴り合うのが商売だから大いにやればいい。それが民主主義。

でも、たまたまその時政敵の下に仕えているからといって、役人を同じくらい激しく殴ると、その恨みは残る。もっとも、君、君たらざるも臣、臣たるべしという吏道が身についた者であれば、いかに殴られた相手であろうが新たなご主人様に同じように真摯に仕えるかも知れない。スレイブ道。

でも、たまたまその時政敵に三顧の礼で迎えられたからといって、学識者まで同じくらい激しく殴ったりすると、そんな者から三顧どころか百顧の礼を尽くされても、うんとは言ってくれないでしょうね。

たぶん、自分が将来その学識者に三顧の礼でお願いに上がる立場になることなんか絶対にないと割り切っているからできるのかも知れませんが。

「殴る相手(2020年5月12日 (火))」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))

何のことかと思ったら、おそらくこれのことではないかと。

尾身副座長への国会質問に疑問続出 「#福山哲郎議員に抗議します」もトレンド1位に(J-CASTニュース 2020年05月12日20時16分)

政府の専門家会議の尾身茂副座長に対し、立憲民主党の福山哲郎幹事長が国会質問で答弁内容にクレームを付けたことについて、医療関係者らからツイッター上で批判も出ている。
(略)
感染者が10倍以上かどうかを、あくまで聞きたいという姿勢のようだ。そして、無症状や軽症の人たちまで捕捉しないと感染の全体像が見えないと強調していた。

このやり取りをテレビなどで見ていた医療関係者からは、福山氏の質問ぶりや野党からのヤジに対し、ツイッターで疑問の声が次々に出た。

ある内科医は、「話聞くために専門家を呼んだんじゃないのか?」と疑問を呈し、ヤジについては、「せめて文字化して記録に残してほしい。議事録に残さず、誰が言ったかも特定されず、好きなだけ悪口を叫べるのは、文化じゃない」と指摘した。

こちらの記事のある内科医がおっしゃったという言葉は、「議論」というものをその目的に沿って理解すれば当たり前のように思われそうですが、ところがどっこい、特に日本の国会(地方議会もそれを真似してますのでほぼ同じですが)ではそういうものの道理が通らない現状があります。

まあ国会というか日本の議会というのはかくも「不毛」な応酬が繰り広げられる場となっておりますが、そもそもなぜそうなったかという背景について、以前のエントリで取り上げた刊行当時現役の衆議院事務総長による解説を参照してみましょう。

 我が国国会が独特なところは、質疑というプロセスがあること、そして、それが審査の太宗を占めることである。他の国では、基本的に討論という形で審議が進められる。無論、我が国にも、議員間で議論を闘わせる討論のプロセスはあるが、各党の意見表明といったもので、議員間議論という要素は少なく、かつその時間も短く、採決の前に行われる一プロセスといった儀式的な性格を強く持ったものである。
(略)
 なぜ質疑が審議の中心になったのかというのは、帝国議会初期の政治状況が大きく影響したと言っていいだろう。我が国の統治のシステムは、天皇が統治権を総覧し、内閣は天皇を補佐するものであった。議会は天皇の立法権を協賛するものであり、それは具体的には、民の代表として、政府が進める政策に意見を述べることであった。
(略)
 しかし、政党、とりわけ野党的立場の政党からすれば、政府の政策を質し、その問題点、ひいては政府そのものを攻撃したいわけで、そうなると、大臣らを質疑の場に呼ぶしかなかった。
(略)
 だが、その後、内閣の方も議会の重要性を感じるようになる。(略)こうして内閣と野党双方の思惑が一致して、質疑の場が拡大し、審議の太宗を占めるようになったと考えられる。
pp.163-165

議会学
向大野新治(衆議院事務総長)著
ISBN:978-4-905497-63-9、280頁、本体価格:2,600円

私自身も諸外国の議員制度を実際に見聞きしたわけではなく、最近だとイギリスのBrexitとかアメリカのロシア疑惑とかのニュースで見る程度の知識しかありませんが、国会議員が与党の閣僚を通じて行政(の職員たる役人)をつるし上げる日本とはだいぶ異なる印象ですね。しかも、日本では政権交代があってもこの構図は変わりませんので、民主党政権時には自民党が同じようなことを繰り広げていたわけでして、まあこの国では役人が一方的に攻撃されるのが民意ということなのでしょう。
(略)
そして、諸外国では政策決定が主に討論で行われるのに対して、日本のように質疑が中心であれば、政策や制度の詳細について知らなくても(誤った解釈によっても)質問ならいくらでもできるし、政権批判につながりさえすれば政策以外のことも質問できます。合理的無知な有権者によって選ばれた国会議員にとって、政策や制度の詳細について知らなくても発言できる質疑中心の国会の方が都合がいいわけですね。

質疑中心の議案審査構造の「不毛」(2019年11月18日 (月))

いつもは「与党の閣僚を通じて行政(の職員たる役人)をつるし上げ」ている方々にとっては、「いつもどおりやって支持層にアピールすりゃいいんだろ」ということで、与党の閣僚を通じて世界的に顕著な実績を有する学識者をつるし上げただけなのでしょうけれども、そんなことをされる立場だということが周知されれば、普通の感覚をお持ちの学識者なら二度と関わりたくないと考えるのが道理でしょう。そしてそうした普通の感覚をお持ちで世界的に顕著な業績を有する学識者が政策に関与する道を閉ざすことが政治の目指すところならば、それは一体誰のための政治なのだろうと思わずにはいられません。

まあ、日本的選良の方々にとっては、誰がどうやっても答えられない質問とか政策以外の質問を投げつけて、それに答えない姿を衆目に晒すことが重要なアピールポイントでしょうし、「政策や制度の詳細について知らなくても(誤った解釈によっても)質問ならいくらでもできる」以上は、この構造は変わらないでしょうね。
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