2020年02月27日 (木) | Edit |
年明けからすっかり放置状態になっていた拙ブログですが、プライベートで大きな動きがありましてなかなか時間を作れない状況が続いておりました。というわけで、こうしているうちにも各方面で取り上げなければならない事案が発生しているものの、ここ数年考えていたことにヒントが与えられたような気がするので、忘れないうちにエントリに起こしておきます。

今年の頭には
■100分de名著シリーズのバックナンバー約100冊を読破したら人生変わった
という増田が話題になっていたようですが、私もここ1年ほどEテレの「100分de名著」を欠かさず見ているところでして、今月に取り上げられている名著はヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』です。正直なところ、チェコに関心があったわけでもなく、1989年に共産党一党支配体制が崩壊した後の初代大統領であったハヴェルという人物も初めて知った程度ですが、テキストを買って読んでみたら、先週月曜日の第3回目の放送分で大変示唆に富む言葉が示されていました。

ハヴェルは共産党一党支配体制に抗議する「反体制」ではありましたが、1970年前後のヒッピームーブメントのようないわゆる「反体制」には批判的です。

・・・1960年代後半にアメリカで盛り上がりを見せたヒッピームーヴメントの中から、西欧的な考え方とは異なる「パラレル」な世界を求めて、東洋思想へ傾倒する人も多く現れました。しかしハヴェルは、そうした動きを「ゲットーへの逃避」「孤立行為」と批判します。かれは、「並行構造」とはフィクションの中に閉じこもったり、どこかに逃げたりすることではなく、「本質的に世界に開かれ、世界が担う責任」を伴わなければならないと主張します。かれの試みた「並行構造」は、閉鎖的で結社化した組織で好きなことをする、というものではありませんでした。(略)

・・・伝統的な議会制民主主義が、我々よりも深淵な解決法をもたらしていることを示すものは現実には何もない。そればかりか、生が真に目指すものという点において、西側には我々の世界以上に多くの余地があり、危機は人間からより巧妙に隠れているため、人びとはより深い危機に直面している。

 ハヴェルは、西側の社会は、自分の生にとって本当に必要なものが非情に見えにくい社会だと考えていました。西側には消費社会があり、多様な選択肢があります。現代の私たちの生活にも、モノに溢れ、「どれを買おうかな」と迷いながら買い物をすることができます。しかし実は、巧妙な宣伝や膨大な情報に振り回され、自分で選んで買っているようにみえて、それが本当に必要なものなのか、本当に欲しいものなのかさえよくわからない、というようなことが起こってはいないでしょうか。
pp.83-84


100分de名著
ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』 2020年2月
[講師] 阿部 賢一
定価:576円(本体524円)
発売日 2020年01月27日



※ 以下、強調は引用者による。

あくまで私の問題意識に引き付けて読んでいるので指南役の阿部賢一氏の引用の趣旨とは異なると思いますが、上記引用部の前半でいう「責任」という言葉については、「地方公務員法の有権解釈として参照されている逐条解説において、「職務といい、責任といっても、実質的には同じことを指しているといってよいであろう」と断言されている地方公務員」としてはとても重要な指摘だと思います。というのも、法律において職務と責任がセット販売されている公務員にとっての「責任」とは、通常の意味の職務とは異なる「職務給の原則」により運用がされている公務員の世界にあって、「自分の職能資格を全うすること」に他なりません。

そしてその職能資格とは、以前のエントリから引用すると、

もちろん「職能資格」が同一組織内でのみ獲得されるものであるため、少なくとも採用時のスタート時点ではすべての正規労働者に等しく与えられますが、それを「長期雇用による経験」によってどこまで積み重ねられるかは正規労働者個々の適性と成果に応じて決まるわけです。しかもその「長期雇用による経験」は強大な人事権として使用者の裁量に任されているわけですから、積み重なる「職能資格」がつまるところジョブローテーションによって獲得される以上、人事異動を含むジョブローテーションによってどれだけ組織の規範を内部化するかが重要になります。平たくいえば、「デキる社員は出世コースを異動する」ということですが、これはメンバーシップ型がトートロジーによって成り立っていることを見事に示した言葉でもあります。

労働史観の私的推論(前編)(2018年11月10日 (土))

という形で、組織の規範を内部化することによって積み重ねられるものであり、したがって、公務員にとっての「責任」が自分の「職務」とイコールである限りにおいて、公務員が責任を果たすということは組織内部の規範に則って職務を遂行することになるわけです。

いやまあもちろん、職能資格給が広く普及している現状においては、特に大企業において同じような傾向が現れるわけでして、これを揶揄して「官僚化」などという方もいらっしゃいますが、日本型雇用における大組織に共通する点からすると「日本型大企業病」というほうが適切ではないかと思います。

さらに続く部分で、議会制民主主義において自ら決定することがその正統性を担保していることを前提としつつ、その決定は、実は自分が決めているともいえないのではないかと疑問が呈されています。日本型雇用において職能資格を積み上げて昇任を重ねることは、その人の努力や能力が評価された結果と思われがちですが、その実、組織規範の内部化度合いを評価されているだけということが判明したら、まあ昇任した人はあまり気分よくはないでしょう。しかし、組織の判断を自分が決めたと思わされているとしたらそれもまた気分がよろしくはないと思われるところ、どちらがいいのかは価値判断によるとしかいえないのかもしれません。

でもって、上記引用部に続く部分では、

 全体主義的体制は、実際には何よりもまず、合理主義の当然の帰結を拡大してみせる凸面鏡である。合理主義自体が深いところで持つ志向が、グロテスクに拡大された像である。  (同書)

 先ほどイロウスが「自分たちのほうがまだまし」と考えていたという話をしましたが、当時のチェコスロヴァキアのかれらの方が、選択肢が少ないだけで、「これは本当に必要なものか、今日買うべきものか」が分かっていたと思います。そして、この「自分が本当に欲するものは何か」という根源的な問いは、ポスト全体主義社会に生きる人の問題というより、技術文明におけるすべての現代人の問題に繋がっていくのではないでしょうか。
 それゆえ、ハヴェルの『力なき者たちの力』は、東欧あるいは全体主義という枠組みを超え、我々の現代社会に警鐘を鳴らす書となっているのです。
「同書」pp.86-87

という指摘がありまして、「合理主義自体が深いところで持つ志向が、グロテスクに拡大された」全体主義体制という指摘は、昨今の日本の状況を見ると深刻な問題ではないかと思うところです。日本の現場では長らく「全体最適」がマジックワードとなっていて、「それぞれが自分の担当に閉じこもってしまう部分最適ではダメだ。全体最適を目指すべきだ!」といえば、何か言った気になることができる風潮があります。おそらくそこには、専門的な見地は局所的な視点に陥りがちだから、全体を俯瞰して判断しなければならないという、それ自体は誠にもっともな理屈があるのでしょうけれども、その裏には「職能資格を積み重ねた上司の判断に従う」という日本型雇用への信頼があるものと思われます。しかしそれは、専門性を軽視し、「全体最適」なる合理主義にお墨付きを与え、「合理主義自体が深いところで持つ志向が、グロテスクに拡大された」全体主義体制に容易に通じてしまうという危険性を孕むものと思われます。

この上記のような「職務と一体となった責任」も「全体最適」なる合理主義を正統化する作用があるわけでして、新型コロナウィルスをめぐる昨今の政府対応などはとても参考になりますね。
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