2019年02月10日 (日) | Edit |
すっかり更新が滞っておりましたが、こうしているうちにもいろいろなネタが転がっているもので、人の世は無常なものですなあなどと感慨深く見守っているとネタが貯まる一方です。ということで、前々回に引き続き倉重公太朗弁護士の対談シリーズにhamachan先生が登場されていまして、特に集団的労使関係についてのhamachan先生のご指摘に首がもげるほど首肯したところです。

濱口:ちょっと話は飛んでしまいますが、今回の同一労働同一賃金に限らず、前々から企業の意思決定の安全性、言い換えれば、何をどういうふうにしたら合理的だと認めてもらえる可能性が高くできるのかという問題意識は、もう10年以上前から論じられています。十数年前の労働契約法制研究会の時に出された過半数組合や労使委員会を使う案です。あのときは労働条件の不利益変更の問題でしたが、過半数組合や労使委員会がそれを認めた場合には、その不利益変更は合理的と推定しようという案でした。あれは結局実現しなかったのですが、少なくとも、一つの合理的な制度設計のありようだったと思うのです。ところが、あれをつぶしてしまったために、何をどうやっても、例えば多数組合とじっくり協議して納得させたけれども、一部に文句を言うやつが出てきて、裁判所に持って行ったら、文句を言ったほうが勝つという可能性は、常にあるのです。

倉重:そういうことですね。よく分かります。

濱口:私は一連の話だと思っているのです。私が同一労働同一賃金について、労使団体などいろいろなところでお話をさせていただく時に、必ず言っていることがあります。それは、何が合理的で、何が合理的でないかという判断基準は、やはり集団的な労使関係の枠組みで決めるべきだということです。まずはそこで働いている人たちの多数が合理的だと認めることが重要です

もちろん、それが最終的というわけにはいきません。司法が最終判断を下すわけですが、司法が判断するときに、労働者の多数が納得しているのだから、それは合理的だと認定することが望ましいのです。個人的には、十数年前に挫折したこの問題を、今回やる機会だったのではないかと思っていました。

【濱口桂一郎×倉重公太朗】「労働法の未来」第2回(「日本型」同一労働同一賃金の欺瞞(後編))(1/21(月) 6:00)
※ 以下、強調は引用者による。


この辺の感覚は労務の実務の現場を見ているかどうかで変わってくるかもしれませんが、最終的な裁判所の判断に委ねなければ賃金制度一つも使用者として安心して規定できないような法制度は、あまりに紛争リスクが大きすぎるわけでして、その紛争リスクを根源的に軽減するための方策が、労使の団体交渉による労働協約や過半数代表者との労使協定による合意形成です。民法における私的自治の原則は、労使関係においては憲法第28条に規定する労働三権とそれを具現化した労組法・労調法によって労使自治の原則が保障されているところでして、実際に労使の団体交渉による労働協約の効力は法令に準じ、個別の労働契約や就業規則にも優位するとされているわけです。

という日本における現行の法令に基づいて考えれば、労使の団体交渉(それがない場合の過半数代表者との労使協定)が労使自治を担うのは本来の役割なのですが、そこにはスポットが当たらず、「労働者が個々に経営者と交渉できるように労働者自身がスキルを身につけなければならない」という意識高い言説が支持を得るのが、日本型雇用慣行の隘路を端的に示しているように思います。職能資格給制度によって処遇される正規労働者にとっては、自分の処遇に反映されるのは年に1回程度の人事考課による職務遂行能力の査定であって、集団的労使関係で労働者側の取り分を増やしたところで他の誰かのメリットになるなら所詮他人事なんですよね。これが隘路たる所以は、次の回でhamachan先生が指摘されています。

倉重:多分大学だけではないでしょうね。中高ぐらいから、関係しているのかもしれないです。中高大学、今の日本の教育システムと、新卒採用の方式が、ガッチリかみ合ってしまっています

(中略)

濱口:鋭いといいますか、実は戦後日本の雇用問題の鍵になる言葉は「能力」なのです。先ほども同一労働同一賃金のところでお話しましたし、高齢者のところでも出てきました。つまり、全ては、「能力」という融通無碍(むげ)でいわく不可解な概念の中にあるのです。いろいろな人が「能力」という言葉の中に、いろいろな、自分が読み込みたいものを読み込むことができます。それはもちろんメリットもあって、何でも全部「能力」ということにできるから、物事がうまく回る面が間違いなくあったのは確かでしょう。ですけれども、逆に言うと、その「能力」という言葉に振り回されて、何をどうしたら「能力」があると認めてくれるのか分からないというのが、若者が置かれている状況です。もっと言うと、能力を見て採用を判断しているはずの企業側が、「あなた一体何を見て判断しているのですか」と言われても、思わず絶句してしまうわけです

【濱口桂一郎×倉重公太朗】「労働法の未来」第5回(若者の雇用と「能力」)(1/24(木) 6:00 )


いやまあ企業内の人事であれば「職務遂行能力」という融通無碍なタームに全てを放り込んで、それに基づいて給与を決めてしまえば「何でも全部「能力」ということにできるから、物事がうまく回る面が間違いなくあ」るということになるのですが、それはやはり高度経済成長期に組織が拡大し、労働力人口も増えている時期に「うまく回る」ものであって、総人口が減って役職で処遇することが難しくなっていくこれからの社会で、それが「うまく回る」可能性は今後さらに低くなっていくものと思われます。ところが、「職務遂行能力」なるものが企業内で機能しなければならないのは、入社する前の段階の教育で「職務」に必要な専門能力を身につけていないことの裏返しであって、それが変わらない限りは「職務遂行能力」に頼らざるを得ないというジレンマがあるわけですね。

ということで最終回につながるわけですが、最後にhamachan先生のご発言からトリビア的な話を取り上げたいと思います。

倉重:全くですね。よくこういうことを、例えば、解雇に関する解決金みたいな制度のこと、法制化のことを言うと、「じゃあ、そのお金はどうやって払われるんだ」みたいな議論も結構あるのです。この技術的な点は置くとして、例えば、「何ならもう労基署がいったん払いますよ。それから事業主に対して取り立てる、そういう仕組みにすれば誰でも簡単に受け取れるだろう」と思っているのです。あくまで技術的な問題は置いています。例えばの話です。

要するに取り立ての手間を本人に与えるなという話です。あとは、設計的には、雇用保険などから徴収してしまえばいいだろうというふうに個人的には思っております。そうなってくると、やはりわざわざ訴えて、また、今の制度であればなおさらです。仮に、例えば「何カ月分支給する」みたいな制度になったとしても、その履行を求めて提訴するみたいなことは、手間であることには変わりません。その手間を何とかしてあげないと意味がないでしょう。それが面倒くさいから、「もういいよ。さっさと転職する」、「泣き寝入りする」など、そういう人が一定数どころか、むしろ大多数います。それをなんとかできないかなと、個人的に常に考えています。国がそこを、支払いに関しては失業保険的に、労働者のためにやってあげようとできないかと思います

濱口:その発想は未払い賃金の立替払いみたいな話ですね。

倉重:正にそのイメージです。

濱口:今聞いていて、そのような感じがしました。

倉重:おっしゃるとおりです。それを拡大してできないかと思うんですよね。そうすると、労働者は何も手間なく、解雇の保証金的なものを受け取れます事業主に対する徴収もよいでしょう。もし回収できないで倒産してしまったところがあれば、それは税金負担になります。それは国として雇用社会を支えるのだということでいいのではないかと、個人的には思っているところです。

濱口:今初めて聴いたので、法技術的にどこがどういう権限でもって、何をどういうふうにやるのか、なかなか難しいかもしれないです。しかし面白い話です。

【濱口桂一郎×倉重公太朗】「労働法の未来」最終回(労働法は何を守るのか?)(1/25(金) 6:00)


hamachan先生は「初めて聴いた」とのことですが、実を言えば拙ブログではおよそ10年ほど前に

追記:
念のため、個別労働関係紛争処理の経費を労働保険特別会計で負担することの是非はよくわかりませんが、さらに議論を進めて、労働局による個別労働関係紛争処理に係属した場合に限り、解決金の一部を労働保険特別会計で負担するというような話になれば、それはそれで興味深い論点のように思います。

知らないもの勝ち(2009年11月15日 (日))

というようなことを書いておりまして、制度設計としてはだいぶ異なりますが、労働保険特別会計で解雇の金銭的解決に要する財源を確保しよう点では私も議論の進展に注目したいところです。
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