2018年11月23日 (金) | Edit |
年に何度目かのデスマーチで既に疲弊しきっているところですが、前回エントリに引き続き「労働史観の私的推論」がどのような働き方をもたらしているのかを考えさせられる案件がありましたので、いつものように周回遅れですが取り上げてみます。


このtweetに関連してトゥギャられているのですが、
京都市民「バス運転手ごときが年収800万!?税金の無駄だ!」行政「民間に委託するか…」→民間企業が撤退して市民の足が壊滅へ?(Togetter)
いやもちろん、「バスの運転手ごとき」などという物言いそのものに仕事に対する貴賤の意識がにじみ出ていていて不快ではありますが、日本型雇用慣行からいえばそういう評価は実は正当化されうる点に注意が必要です。前々回エントリから引用すれば、

4 長期雇用と「職務遂行能力」

ここで注意が必要なのは、組織の規範とは別に独立しているスキルに習熟した労働者が、積極的に「職能資格」の枠の外に置かれたということです。それは長期に固定化する人件費を抑制したいという使用者側の思惑に応えると同時に、テンポラリーな労働者と常用労働者との代替を防止するというメンバーシップ型労働者(とそれを維持したい日本的左派の方々)側の思惑にも応えるものでした。

しかしこれによって、もともとメンバーシップ型雇用ではその仕事に必要なスキルや技能が軽視されていた傾向が、一気に加速することになります。つまり、職務を遂行するために必要なスキルは、強大な人事権による定期的な人事異動をこなすことにより、その組織における規範を内部化しながら身につけるものであって、専門職が長期に従事することによってスキルそのものを高めても、それは少なくとも「職務遂行能力」としては評価されないということです。

言い換えると、メンバーとして長期雇用されて規範を内部化した「職能資格」が最優先されると、スキルそのものよりも「職能資格」の根拠となる「職務遂行能力」が優先されます。そして、長期雇用によって得られるとされる「職務遂行能力」が基準となると、長期雇用の入口段階での選抜(新卒一括採用)を通過した正規(男性)労働者とそれ以外との格差は雇用が長期化するほど広がっていきます。

労働史観の私的推論(前編)(2018年11月10日 (土))
※ 強調は引用時。

というように、バスの運転という組織内での経験などとは関係なく取得されるスキルは、「強大な人事権による定期的な人事異動をこなすことにより、その組織における規範を内部化しながら身につける」とされる「職務遂行能力」とみなされず、したがって、「職務遂行能力」によって基礎付けられる「職能資格」には反映されないということになります。だからこそ、「強大な人事権による定期的な人事異動をこなす」こともなく、「組織における規範を内部化」する必要もないバスの運転手などが、「職能資格」を得て昇給することなんてけしからんという論理が生まれることとなります。

そういった批判を丹念に整理してみると、実は公務員であることを問題としているのではなく、給与体系が年功序列的に上昇していくことを批判していることに気がつきます。ところがここに注意が必要なわけで、給与体系が年功序列だという点に批判が集中してしまうと、不特定多数が利用する交通機関や、育ち盛りの子供たちの昼食や、親が面倒をみられない幼児の世話という高度な注意義務が要求される業務であっても、それに携わる方々については、民間だろうと公務員だろうと年功序列で処遇することはもってのほかということになってしまいます。そして、これらの業務を民間委託するなどして、年功序列ではないより低賃金の労働者に担わせるべきだという「経営者目線」の論理に「民意」が根拠を与えてしまうのですね。その「民意」の後ろ盾さえ確保できれば、まずは「民意」が究極のボスとなる役所から、人件費の削減が拍手喝采を浴びて実行されるというのが現在の流れといえるでしょう。

渡る世間はブーメランばかり(2009年12月28日 (月))

では、バスの運転手の運転技能を「職務遂行能力」と位置づけるべきかということが次の問題となるわけですが、実は、バスの運転技能を「職務遂行能力」とした時点で、それは「職能資格給制度」ではなく「職務給制度」になってしまいます。つまり、広く日本型雇用が浸透しており、現行の地方公務員法においてそれが規定されている現状において、バスの運転技能を「職務遂行能力」と位置づけることは、前回エントリで指摘したような「従来通り「青空の見える労務管理」によって「階段を上る」の層を限定する仕組みと、長期的に専門性の高い仕事に従事することを前提として、賃金などの処遇はその業務の難易度等に応じて決定するものの「階段を上らない」層という二つの仕組みを用意しなければならない」ということになるわけです。

ところが厄介なのは、前々回エントリで書いた通り、専門的なスキルを有する労働者を職能資格給制度の外に追いやることは、「長期に固定化する人件費を抑制したいという使用者側の思惑に応えると同時に、テンポラリーな労働者と常用労働者との代替を防止するというメンバーシップ型労働者(とそれを維持したい日本的左派の方々)側の思惑にも応えるもの」です。つまり、大半の正規労働者からすると、同じ社員の中に「職能資格給制度」のほかに「職務給制度」という仕組みを用意することは、自分が強大な人事権に服して苦労して積み重ねた「職能資格給」とは違う原理で処遇され、場合によってはそれが正規労働者よりもよい待遇になる正規労働者の存在を認めるということを意味します。果たして使用者と正規労働者はそれに耐えることができるでしょうか?

Togetterで冒頭のtweetに賛同している方がそこまでの覚悟を持って発言されているかどうかはわかりませんが、「バス運転手ごときが年収800万円!?税金の無駄遣いだ!給料減らせ!」という批判に対して向き合うためには、このような「職能資格給制度の外側にいる労働者を職務に応じて処遇することに合意できるか」という問いにまず向き合わなければなりません。そしてその職務給の水準は、効率賃金仮説に基づき生産性に紐付けするのか、生活給を基本として年功的要素を盛り込むのか、あるいは賃金所得だけではなく再分配後所得により生活を保障するべく社会保障制度を拡充するのか、…という選択肢の中からどれを選ぶかによって決まります。それはすなわち、どのような所得政策を構築するのかという政策論とも一体で検討する必要があるということです。

さらにいえば、効率賃金仮説に基づく生産性といった場合の「生産性」とは、就業者のうちサービス業が占める割合が増えている現代においては「付加価値生産性」を意味することになるわけですから、その「付加価値労働生産性」は市場で調達するサービスや公的に供給されるサービスに対してどの程度の対価を支払うかという支払い意思によって決まります。つまり、不確実性が高まる中で流動性選好が強まると、所得からストックとしての資産を確保しようとするためフローとしてのサービスに対する支払い意思が低下し、結果として付加価値労働生産性が上昇せず、それに伴って職務給が低下することになります。

バブル崩壊後のこの国においては、「年功序列」「護送船団方式」が高コストであり経済停滞の元凶だと目の敵にされ、一方で「規制緩和」「価格破壊」がもてはやされ、消費者の支払い意思を低下させることが賞賛されました。そしてその流れは現在も続いています。という意味では、冒頭のtweetにいう「バス運転手ごときが年収800万円!?税金の無駄遣いだ!給料減らせ!」という市民様の頭の中では、上記のような職能資格給制度の外側に追いやられたスキル重視の業種が昇給することを認めないという日本型雇用慣行にどっぷり浸かった感覚のほかに、支払い意思が低下し(させられ)続けてきたこの国の消費者心理も強く影響していることも忘れてはなりません。

デフレ脱却のために賃上げしろとか、人手不足だから賃上げできるはずだとか声高に主張される方々は、もちろん私もその主張の内容そのものには賛同するところはあるものの、この国の消費者の支払い意思の低下が賃下げを導き、それを正当化する日本型雇用にご自身がどっぷり浸かっている状況にまで考えが至っているのかよくわかりませんねえ。
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