2018年11月04日 (日) | Edit |
先日は某所の会合に参加させていただき、錚々たるご来歴と直接お話しする機会をいただいたところですが、その場で入手した海老原・荻野著『人事の成り立ち』を拝読いたしました。この10年間のHRmicsの歩みを象徴するような海老原さん、荻野さんの周到かつ思慮深い考察によって日本型雇用を論じた著作物を振り返る内容となっておりまして、7年前の『名著で読み解く 日本人はどのように仕事をしてきたか』に新録の4冊を加えたのが本書となります。その前著を取り上げた際のエントリから引用すると、

実を言えば、著者との往復書簡自体は、海老原さんが編集されている雑誌『HRmics』で「人事を変えたこの一冊」というコーナーで連載されていたものでしたので、私も一度は読んでいた(はず)と思います。ただし、この本の白眉は、戦後を6つの時代に分けてそれぞれの時代の生々しい状況の「振り返り」が各セクションの冒頭で解説されている点にあると思います。これによって、一度読んでいたはずの往復書簡についてもその時代性を理解することが可能となっています。正直なところ、連載を読んでいたときはピンとこなかった(というより単にその時代背景を理解していなかった)往復書簡についての理解も、この「振り返り」があることで「そういうことだったのか!」と目からウロコ状態でした。
(略)
というわけで、往復書簡についてはこれからの読書の指針とさせていただきたいと思いますが、私の目からウロコを落としてくれた時代背景については、各セクションの表題を並べてみるだけでよくわかります。

§1 戦中~戦後という奇跡的な時代環境が強調経営を形作った
§2 欧米型vs.日本型「人で給与が決まる」仕組みの正当化
§3 「Japan as No.1」の空騒ぎと、日本型の本質
§4 栄光の余韻と弥縫策への警鐘
§5 急場しのぎの欧米型シフトとその反動
§6 雇用は企業ではなく社会が変える


特に§3~5の「振り返り」は、当時の人事、労務政策を知るための一級の解説になっていると思います。繰り返しになりますが、一度往復書簡を読んでいた方でもこの部分を読むだけで本書を買う価値はあると思います。

名著は時代とともに 2011年11月17日 (木)


前著に対するこの評価はほぼそのまま本書にも当てはまりますが、新たに4つの書籍が追加された本書では、同時にこの振り返り部分が大幅に改訂されておりまして、前著を持っている方はこの振り返りを読むだけに本書を買っても十分に満足できると思います。特に序章では、日本型雇用慣行の来歴とその特徴が「職務無限定で誰でも階段を上る」構造を軸にあぶり出されていきます。

 ではどうして多くの日本企業は、強い人事権を悪用せずに、「誰もが階段を上る」という方向へ昇華させられたのでしょうか。
 それはまず第一に、戦後動乱期に奇跡的な流れの中で、もう戦前のような身分社会に戻るのはこりごりだ、という労使の堅い契りが生まれたからだ、ということを第1章で書いています。
 続いて、この仕組みはなぜ社会に根付いたのか。まだ農林水産業・自営業(家族経営)主体の産業勃興期に、お手本となる伝統企業がそれを導入したこと。そしてそれがあたかも「日本標準」であるかのごとく、世界に喧伝されたことがあります。だから、追随する新参企業が右へ倣えで皆この仕組みを取り入れていくことになりました。
(略)
 ところが2010年代になると、ブラック企業の登場や、女性や高齢者の社会進出により、この仕組みが、日本型の中枢に位置するホワイトカラー・総合職にも亀裂を生じさせます。ブラック企業は、「誰もが階段を上る」常識を逆手にとって若年労働者を使い捨てにします。一方、「誰でも階段を上る」仕組みは、自動的に長時間労働と転勤が必要となります。それは男性壮年期社員を前提にしたものであり、女性と高齢者は家にいる、という差別的な役割分担により成り立ちました。少子高齢化で、女性や高齢者を企業が積極的に受け入れ出すと、当然、ほころびが生じるのです。
 ここまでの流れがそのまま、本書の章立てとなっています。
 【黎明期】戦争と復興動乱が生んだ奇跡
 【完成期】欧米信奉の呪縛からの解放
 【順風期】安定成長が生んだ万能感
 【動揺期】ほころびと弥縫
 【転換期】純化=切り捨てと、そのしっぺ返し
 【不整合期】内部崩壊と新生の手がかり
pp.28-31

名著17冊の著者との往復書簡で読み解く 人事の成り立ち 新刊
「誰もが階段を上れる社会」の希望と葛藤
海老原 嗣生 著、荻野 進介 著
出版年月日 2018/10/26
ISBN 9784561227175
判型・ページ数 4-6・360ページ
定価 本体2,315円+税


念のため、前著のセクション立てと本書の章立ては、数は同じですが区切りが異なっています。前著の§1、2がそれぞれ第1章、第2章、前著の§3、4の一部が本書の第3章、前著の§4、§5のそれぞれの一部が本書の第4章、前著の§5の一部に八代他編『『新時代の「日本型経営」』オーラルヒストリー—雇用多様化論の起源』を追加したのが本書の第5章、3冊を新録して追加されたのが本書の6章となります。本書の章立てのタイトルをご覧いただいてお分かりの通り、新書とハードカバーの違いもあると思いますが、より系統立てて構成し直されていますね。

そして、この引用部分は本書のイントロではありますが、日本型雇用や労働の問題に関わる方々の共通認識ともなりうるイントロだと思います。労働法やら労働経済学(というより経済学全般)による雇用労働問題の分析は、前者は紛争解決のための利害調整システムとして、後者は制度に対する人間の行動の変容分析ツールとして、それぞれの場面で参照するべきものであって、その調整や分析の対象である労使関係や人事労務の実務からすれば、残念ながらそのままではほとんど使い物になりません。それを幾分かでも使えるようにするためには、上記のような歴史的経緯を共通認識とした上で問題を設定し、それぞれのアプローチにより対処方法を理論化し、それを利害調整しながら制度に落とし込むというプロセスが必要となるわけです。

抽象的な言葉を使ってしまうと難しくなると思いますが、シンプルに言えば会社というのは、使用者の立場に立つ人と労務を提供する人が契約を結んで、その提供された労務の対価として賃金を授受する場なのであって、法人や構築物といった抽象的なものではありません。だからこそ、交渉力の地歩に違いのある使用者と労務提供者間の交渉については、団結した労務提供者に対してその交渉権が憲法で保障されています。したがって、法人とか構築物といったイメージで語られるような制度に対する規制では、そのような当事者の交渉によって規定される労働問題(労使関係論としての集団的労使関係)に対処するには自ずと限界があるはずです。
集団的労使関係再論(2009年05月18日 (月))


既存のアカデミズムでは取り扱えないようなまさに「生々しい」現実を、アカデミズムの研究成果を交えた名著で辿るという海老原さん、荻野さんの業績は、当事者の交渉によって規定される労働問題がどのように生まれ、対処され、そしれ新たな問題が生まれていくかとう時代の変遷を的確に捉えていると思います。本書の「おわりに」で、海老原さんが「思いっきりジャーナリスティックな労働史観をぶち上げてみよう」とされる本書に込められた思いは、見事に結実していると言えましょう。

特に前著が発刊された2011年から7年が経過して新たに追加された第6章では、2010年代の振り返りが示されていますが、これは現在の雇用労働問題を考えるための共通認識とすべきものと考えます。

 2010年代に入ると日本型雇用システムに、それまでとは不連続な問題が頭をもたげだします。
(略)
 続く、第4章で描いた90年代と2000年代は、バブルが崩壊し、経済は安定成長からゼロ成長へとどん底に落ち込む時代でした。少子化の影響も相まって、その後の苦境の芽が全てそろってしまう時期と言えます。
 ここでは、「誰もが階段を上れる」仕組みを維持するために、二つの処方がなされました。一つは、仕組みを希薄化すること、誰もが管理職には必ずしもなれなくし、係長以下で定期昇給を続け、残業代も出る形で「昇給」を残す。だから「階段」は何とか温存できました。
 ただ、この程度のスリム化では、企業の経営は改善できません。そこで、二つ目の処方=第5章で書いた、ホワイトカラー以外をこの仕組みから排除する方向へと進んだのです。結果、製造・流通・サービス・建設で非正規雇用が強烈に増加し、2000年代に入るとそれが大きな問題となりました。
(略)
 そう、2010年代は最後まで守りぬいたホワイトカラー領域にまで、内部崩壊の芽が及んできました。改革は待ったなしの状態だという、その時代性を読み取っていただきたいところです。
 そもそも、みんなが階段を上るなんて無理だった。それができたのは、①経済成長、②女性と高齢者の切り捨て、③非ホワイトカラーの切り捨て、という条件があったから。そこに、少子化・高齢化で労働力不足が起きて、女性と高齢者がホワイトカラーで数を増すようになる。だから2010年代はそれまでと様相を異にするのです。
 そして、僭越ながら、ラストには拙著(海老原著)を置かせてもらいました。これからを考えるために、あえて「日本の良さ」と「欧米型のまずい点」を書いた本を締めに据えました。「日本型のまずさ」と「欧米型のメリット」は語り尽くされています。それに対してカウンターパンチを用意する形で、よりリアリティ溢れる改革を考えていきたい、という意図を込めました

海老原・荻野『同』pp.278-281

途中省略した部分を含めて、ここで示された経路を押さえておくだけでもお手軽労働政策論に陥らずに済むことができます。とはいえ、もちろんここで示された労働史観を批判してはならないということではなく、ここに至るまでに戦前から連綿と続く労使のせめぎ合いがあって、双方が妥協できるラインまでギリギリの攻防を繰り広げた結果として雇用システムが構築されてきたわけでして、それを理解するためには最低限この程度の時代背景は押さえておくべきという趣旨です。必要に応じて、この労働史観に対してアカデミズムから批判的検討や計量的な実証が加えられることもあるでしょうけれども、そうしたアカデミズムによる批判的検討が、現在にいたる労使関係のせめぎ合いの産物としての実務を否定するのは本末転倒ですし、アカデミズムによる批判的検討だけを根拠に実務をカイカクするのは禍根を残す恐れがあると考えます。

まあ、順番からいえば、先人達が歴史的経緯の中で築き上げてきた交渉や取り決めが制度化され、その制度化された世の中を主に行動の面から、時に数理的な手法を用いて分析するのが経済学という学問であることからすると、経済学が制度分析に理論を提供することはあっても、理論に基づいた制度設計が功を奏するのは、その理論がそれまでに築き上げてきた交渉や取り決めに匹敵するだけの利害調整機能を持っていることが必要条件となるはずです。つまり、いかにこれまでの制度が理不尽で整合性のないものであっても、その裏に営々と積み上げられてきた交渉や取り決めを取っ払うような制度改正は関係当事者の合意を取り付けることはできず、逆に制度として不都合であっても、当事者が合意している限りは制度として機能することになります。

このような取り決めによって形成されたものとして典型的なのは日本型雇用慣行でして、確かに職務無限定で単身赴任を伴う転勤が強要できて年功的な職能資格給を核とする働き方は、長時間労働を抑制することができず少子化の一因にもなっているものの、長期的に雇用を安定させつつ学校教育では習得できない職業上のスキルを身につけるための人事異動を可能にするのもまた、日本型雇用慣行なわけです。これを例えば欧米型のジョブ型雇用に一気に転換せよといっても、実際に就職している労働者の大半は就職してから年金保険料を支払いながら年金を受給するまでに40年程度の職業人生を確保しなければならないわけで、現在の就職先でそれを確保するのが合理的である以上それを前提として職業人生が設計されているのが現実です。その実態を前にすれば、結局漸進的に少しずつ働き方を変えながら労働者側と使用者側の利害関係を調整しなければなりません。

私も現在の雇用慣行には大きな問題があって持続可能的ではないと考えていますが、それを変えていくのは労働者の人生を流れる時間との根気強い付き合いの中でしか可能ではないというのが現実でしょう。

制度をどのように変えるべきなのか(追記あり)(2016年12月31日 (土))

私も「改革は待ったなしの状態だという、その時代性」を認識する者として、実務としての労働政策が「リアリティ溢れる改革」によって方向転換していくためのマイルストーンとして、海老原さんと荻野さんの業績が参照されながらこれからの議論が深まればこれほど喜ばしいことはありませんね。
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