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2018年08月18日 (土) | Edit |
震災以後、お盆の時期には戦争と震災を結びつけて考えてしまうようになっておりまして、3年前のエントリを改めて思い起こすなどしてみたりしたところ、ちょっと違う感覚を感じました。

その裏返しとしていえば、戦争や大きな災害の体験を共有しない世代にその体験が伝わるというのは、その世代がこの世からいなくなるに連れて一般的な家庭の中では次第に行われなくなるのだろうと思います。というようなことを考えていたところ、すず黄(yellowbell)さんの直近のエントリに共感することしきり。

それよりも、と言うとこれもばちあたりですがそれよりも、戦争時代こどもだった、そして終戦いいえ敗戦時代に青年だった人間たちが胸に抱いてきた、けして口には出さない出せない強烈な挫折感と劣等感、それを知る者がいなくなるという絶望です。
久々に酌み交わしながら、ふとテレビが流す敗戦時のフィルムを見て、玉音放送に額づく人々を見て、もういいじゃないかこんなこと、と目を伏せてチャンネルを変える父親を見ながら、彼の胸中にある「こんなこと」の具体的な意味を聞くことはおそらくこの一生のうちにはないんだろうな、と空になった酒を注ぐのです。

負けたら、何が残るか。
それが忘れられた社会が語る敗戦の空虚さ
に、ちょっと想像をめぐらすおセンチなお盆中日でありました。

http://h.hatena.ne.jp/yellowbell/81820371205138799(※リンク切れ)


うちの親族には「もういいじゃないかこんなこと」というまでの挫折感はないのですが、ご多分に漏れず敗戦後の貧困を味わった劣等感は強烈に残っていると感じます。そこにはおそらく、あの敗戦を経験して60年安保闘争で盛り上がった当時の若者と、集団的自衛権をめぐって盛り上がっている現在の高齢者と同じく、その世代の共通体験があったのだろうと思います。その盛り上がりが自分のことと感じられる場合には、そこに新たな世代が加わっていくのかもしれませんが、そこには共通体験の欠如という大きな差異があります。

世代の共通体験(2015年08月16日 (日))


ここで書いたことそのものは今もってその通りだなと思うのですが、その一方で、「共通体験」がないまま「盛り上がり」だけを共有するという事態はとっくの昔に現実のものとなっていて、その共有された「盛り上がり」があちこちで歪みをもたらしてしまっているのではないかとも思います。

というのも、戦後は新しい憲法の基で新たな制度を作って新しい社会を作った、と少なくともその当事者であった戦後直後に20〜40代くらいの世代は考えていたでしょうけれども、その方々の行動は戦時中の教育や社会において培われたものであって、いくら考え方を変えて制度も変えたと言っても、行動までは容易に変わらなかっただろうと考えられるからです。戦前の日本において名実ともに頂点にあったと考えられる軍隊組織の行動様式は、現在の世の中にはしっかりと残っているわけで、例えば呉海軍工廠で導入された生活給の考え方は、戦後の労働争議での労働者側の要求で実現した電産型賃金体系を経て、職能資格給制度として現在も強く根付いているのは(労働界隈では)周知のところですね。

さらに遡れば、戦時体制の前から始まって毎年その開催の方法や時期について物議を醸す高校野球も、スポーツ医学の概念もなかったような時代に開催された方法が、ほぼそのまま伝統として引き継がれています。今となっては確かに古くさいやり方ですが、むしろ戦時体制で大会が開催できなかった当時の高校生(当時は旧制の中学生ですが)やその関係者にとっては、戦後の新しい社会において、悪しき戦時中の制約を振り払って中止前の開催方法を復活させることこそが、戦後の復興を象徴することだったのでしょう。

とはいえ、戦争という共通体験を失った現在においては、その「盛り上がり」だけが共有され、世間の耳目のもとで、心身ともに発達途上の高校生が選手生命を削るような日程で身体を酷使しながら試合をこなすことによって、自らが所属する組織への忠誠と自己犠牲を強いられ、さらにそれを応援する同級生たちも熱中症の危険性にさらされながら、その熱闘に花を添えるというイベントが、今年で100回目を迎えるまで開催されているわけです。

いやもちろん、野球というスポーツが持つエンタテインメント性があるからこそ、技術的には未熟な高校生の野球であっても人気があるのでしょうし、その中で生まれるファインプレーや超高校級のプレーを見て「感動を呼ぶ」のも心情としてはわからないではないのですが、もはや戦後の復興の象徴としての意義が薄れている中で、戦前と同じ形態で開催する必要性も同時に薄くなっているというべきではないかと思います。

私自身は当然、戦後の「盛り上がり」は知る由もありませんし、その「盛り上がり」が戦後の復興の象徴となって日々の生活に励まれた方がどれだけいたかもわかりませんが、新聞の発行部数やテレビの視聴率を稼げるコンテンツとなって久しい現時点において、その仕組みを変えることに多大な労力を要することは想像できます。開始当初はそれなりに意義のあったものが、その意義が薄れても形だけ残っていくとことによって、却って手をつけられなくなるということなのかもしれません。以前も伊集院光氏の24時間テレビに対する評価を取り上げたところですが、今まさにこうした事態が進行しているのでしょう。

「トンチンカンっていうか…もうね、24時間テレビは俺の中で奇祭って感じだから(笑)もう決まりだから、っていう(笑)なんのためにマラソンとかするんだってことに関しては、『そういうもんだ』っていう。こどもの日に、なんで柏餅食ってるんだ?その柏餅の葉っぱを股間につけて、アダムとイブってなんでやるんだ?って(笑)全員が全員、なんでやるって、それが端午の節句なんですってことじゃないですか」

「ハロウィンの日に、なんでかぼちゃをくり抜くの?って言われても、なんか由来はあるんでしょうけど、そんなもんって流すもんだと思うんですけどね。今年の奇祭ぶりがすごいなって思ったのは、テーマの中に、ハンディキャップはあるんだけど頑張ってます、みたいな人を凄く応援してるってテーマが絶対にあるじゃん」

それとともに、地震以降、自分はこのことで勇気づけられて頑張ってます、ってことあるじゃないですか。それと、節電っていうのがあるじゃないですか。その三拍子が奇祭っぽくなってるなって思ったのが、この三拍子が辻褄が合わなくなってるなって思うのが、まず節電っていって、深夜帯も平均17%程度とってることって喜んで良いの?って思うんですよね。だって、テーマが節電だったら、我々はチャリティーをやってますがいったん、テレビを消しましょうってことでしょ?野暮な話をするようですけど。そこが平均の数字を上がりましたよってことと、どういう風に両立するもんなの?って思うことがもう一個」

「あと、ちょうど今、パラリンピックが開催されるでしょ。ちょうどパラリンピック直前って時期に、そこは良いの?そこは行かないんだ?っていう感じ。さらには、北海道で地震があったでしょ?しかも震度5弱っていう、北海道からしたら結構大きな地震がくるんだけど、そこの情報も行かないんだ?って思うあたりが、かなり24時間テレビの奇祭ぶりっていうか、なんか分かんないけど、もはや元々のこととか関係ないっていう

「ただただ、巨大な男根を街道沿いでワッショイワッショイって運んでる状態(笑)元々は、そこの先に神社があって、田んぼのどまんなかだったから、その頃は田んぼに神様が種付けをすると豊作になるってことで男根だったんですけど、今はもうすでに街道沿いにマンションがいっぱい建ってますし、農業がほとんどないんです。だけど、男根はいきます。ただ、素材が軽くなったんですよ、みたいな。そこ?そこなの?みたいな。外国人が見て『Oh!クレイジー、クレイジー!ビッグペ○ス、ビッグペ○ス!ハッハッハ(笑)』みたいな」

「ここの部分だけクローズアップされると、反対派みたいになりますけど、それでも二億八千万って額が困った人に行き渡るってことに対して、まぁそこはそれなんじゃないの?って思って」

「伊集院光が語る「24時間テレビの奇祭っぷり」(2012.08.29 (Wed))」
※ 以下、強調は引用者による。

いやまさに、どうしてこの時期に2週間程度の日程で全都道府県の代表校が一堂に会して(硬式の)高校野球の日本一を決めなければならないのかという問題に、主催者はどのように答えるのでしょうね。もしかすると、戦時中の制約を取り払って全国の予選を勝ち抜いた高校生が甲子園という聖地に集結して優勝旗を競い合うことが、ある時期は復興の象徴だったのかもしれませんが、それは、発達途上の高校生に世間の耳目を集めさせ、自校や都道府県のプレッシャーの中で自分の身体を酷使することを強いるだけの正当性を有するものなのか、主催者はどのように説明するのでしょうね。

(付記)
このエントリをアップする際に気になっていながら書き漏らしたのですが、これは上記の高校野球とは逆のパターンで厄介ですね。

 ヤノベさんが、立像を制作したのは2011年。東日本大震災と原発事故が起きた年だ。ヤノベさんは制作意図について「人々を勇気づけるような作品を作りたいと思った」とホームページにつづっている。完成した立像は、12年の福島現代美術ビエンナーレで福島空港に展示されるなどして県民を励ました。7年余前に制作した作者の気持ちに一度、思いをはせてみてもいいのではないか

 一方で、防護服姿で線量計を身に付けている立像について風評被害を心配する意見があるのも分からないわけではない。市は立像について「希望の象徴」として展示したとしている。木幡浩市長は「原子力災害の真実を心に訴える力をもって語り継ぎ、発信するのは、福島にしかできない」とコメントしている

 市は、立像を設置した理由や作品の内容について詳しく丁寧に説明する必要がある。今回の反響は、福島市の復興が進む現状や放射線に対する正しい知識を、国内外の人たちに理解してもらうチャンスと捉えて、さらなる情報発信に努めてもらいたい

「【8月18日付社説】サン・チャイルド/賛否を福島の未来への糧に(福島民友 2018年08月18日 08時28分)」

震災直後の放射性物質への恐怖を煽った方々は今もその考えを改めていないようですが、その当時に「人々を勇気づけるような作品を作りたいと思った」という作者の気持ちに思いをはせてみれば、まあ放射性物質への恐怖ということなんでしょう。それが7年経った現在でも「人々を勇気づける」のかどうかは、現在の状況に思いをはせる方が重要なのではないでしょうか。それにしても情報発信がお仕事の新聞社が市に対して「情報発信に努めてもらいたい」とおっしゃるのは、それはまあ立像を設置するに至った経緯等の行政情報であればわからないではないですが、「復興が進む現状や放射線に対する正しい知識」であるなら、それはマスコミのお仕事でもあるのではないのかと一度、思いをはせてみてもいいのではないか。

(再付記)
私自身は福島県在住ではないので「7年余前に制作した作者の気持ちに一度、思いをはせてみ」ることはできませんが、当時を思い起こした福島市在住の方が、福島市長へのメールをアップされていましたので、参考までに引用させていただきます。

2011年の秋ですから、まだ混乱は続いていましたが、福島市民は東日本女子駅伝の成功を願い、当日沿道にはたくさんの市民が応援に駆けつけました。フルーツラインでは果樹園経営者が豚汁をふるまい雰囲気を盛り上げ、お年寄りからお子さんまで、選手たちに声援をおくりました。

ところが、開催日の数日前だったと思いますが、防護服を着てガイガーカウンターを持った人たちが現れ、市内の側溝の上などの線量を測り始めたのです。福島市民は防護服を着る必要などまったくない環境にありました。そこに、突然現れた防護服姿の人たち。そして、防護服を着て線量を測っている姿を写真に撮り「こんなに高い!」とネットにアップしたのです。側溝の真上にガイガーカウンターを置けば、ある程度の数値は出ます。でも、その数値は1時間そこにいたときの数値であり、1時間いても問題は無く、まして、通り過ぎる選手に影響はありません。

しかし、その防護服姿のひとたちの中には、東日本女子駅伝を「殺人駅伝」と言って攻撃するひともいました。私は、あのときの悔しさは忘れられませんし、心の中に深い傷となって残りました。防護服とガイガーカウンターにはそういう苦しい思い出が重なるのです。まったく福島市では着る必要の無い防護服を着て現れたひとたちは、そこに普通に暮らすひとたちの尊厳を深く傷つけたと思います。その後も、間違った知識で「福島には暮らせない」と言われたりしました。そういう中で、7年かけて少しずつ心の傷を修復してきました。

ところが、それから7年後、突然、防護服を着て線量計を身につけた巨大な物体が福島市に登場しました。そして、それは復興のシンボルだと言われました。私には2011年秋の防護服姿とガイガーカウンターの再来に思えました。見たくない!それが正直な感想でした。やっと修復されてきた傷がまた開きました。

やっとやっと普通にもどれたのに、いやなことを忘れて暮らせるようになったのに「思い出せーー!」と肩を揺さぶられたような衝撃でした。福島市に暮らす人たちはいろんな形で傷ついてきたと思います。どうか、その傷口をえぐるようなことはしないでください。

2018.08.18 Saturday福島市長 木幡浩様(Restart)

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