--年--月--日 (--) | Edit |
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


2007年12月21日 (金) | Edit |
前回のエントリはムダに長いですな。このぐらいのことなら半分の量で書けるよなあと我ながら文才のなさに凹みます。

さて、この話にクビを突っ込んでいいものかどうか大変悩ましいんですが、池○先生と以前このブログにもコメントいただいたことのあるhamachan先生が何度目かの論争(?)を繰り広げられています。この論争を拝見するに、最近目にしたkikulogでの「血液型と性格もあります)」のエントリにおけるABO FAN氏のコメントと、bewaad氏の「法律家≠政治家」のエントリを連想してしまいました。

kikulogにおける議論では、血液型と性格には関係があるという説を主張(といえるかどうかもわかりませんが)しているABO FAN氏を巡って、すでに1800にも及ぶコメントが寄せられているんですが、ブログ主のきくちさんが当初から指摘されているように、このABO FAN氏は「程度問題」が理解できないように思われます。ABO FAN氏は、心理学者によるデータを探してきて「血液型と性格には関係があり、それが生活上も役に立つ」というようなことを自身のサイトで主張されているらしい(とにかく議論がループするのでABO FAN氏の主張が明確ではない)ものの、統計学的に見る限りそのデータは「膨大なサンプルサイズでやっと有意に現れる程度の微少な差」でしかありません(記述があまりに膨大で面倒なのでリンクは張りませんが、詳しくはABO FAN氏のサイトでどうぞ)。きくちさんをはじめ、多くの方が「何がどの程度関係があって、血液型が性格と関連するのか」という問いを繰り返しても、「その程度を定義してもらわなければ議論できない」という論理で結局これまでABO FAN氏の主張は示されませんでした(し、これからも示されないでしょう)。

もちろん博士号までもっている池○先生とABO FAN氏を同列に論じるつもりはありませんが、以前山形浩生さんとの論争を拝見したときにも「どっちが正しい/間違いかというより、結局仮定をどうおくか、どの変数を重視するかという程度問題なんじゃないの?」というのが正直な感想で、今回のお話もそんな感じがするように思われるのです。というところでbewaad氏のエントリにつながっていくんですが、そこではもとのmedtoolz氏のエントリの記載を
1. 政治家は「国民はこうあるべき」という仕様書を作って、経済学者に渡す
2. 経済学者は仕様書をもとにして、それを実装するための構造を考え出す
3. 法律家は経済学者が考案した構造をコーディングする
4. 仕様書は政治家同士が、構造は経済学者同士が、コードは法律家同士がレヴューする
ことを基本とする

法律家≠政治家」(bewaad institute@kasumigaseki

と書き直されています。

下っ端の地方公務員としては、このbewaadさんの書き直しにさらに一点付け加えて、
1. 政治家は「国民はこうあるべき」という仕様書を作って、経済学者に渡す
2. 経済学者は仕様書をもとにして、それを実装するための構造を考え出す
3. 法律家は経済学者が考案した構造をコーディングする
4. 仕様書は政治家同士が、構造は経済学者同士が、コードは法律家同士がレヴューする
5. コーディングされたプログラムの動作を購入者(国民とその対面サービス提供者である現場の国家/地方公務員)がレヴューし、類似のプログラムと比較して購入を決定する
というのが、(実態が伴わなくて最近は誰もいわなくなりつつある)NPMって奴の考え方に近いのではないかと思われます。いわゆる「民意」なるもので選任された政治家による仕様書の意図に基づいて経済学者が考えた構造が、その意図のとおりに帰着するかどうかってのは、もちろんその経済学者の考えた構造の精度にもよりますが、コーディングの仕方と購入者の行動によっても大きく左右されます。つまり、いくら経済学者が構造を精緻に組み立てても、法律家がそれを何らかの原因(政治家のポークバレルとか業者のレントシーキングとか、単に立法上の技術的な問題など)により忠実にコーディングできない場合や、購入者が誤って動作させてしまった場合には予期せぬバグが生じることが十分考えられます。

池○先生がおっしゃっているのは確かに経済学者としての正論だと思うんですが、それを現実の制度に落とし込む作業というのは、どうしても法律家の高度に専門的な知見を要するものになります。つまり、仕様書に示された意図を現実のものとして制度化できるかどうかは上記の1~5のすべてのプロセスを適切に運用できるかにかかっており、そのためにもそれぞれのプロセスのアクターが各々の役目をきちんと果たさなければなりません。今回の論争についても、制度の実効性(フィージビリティ)を考える際にこのような経済学や法学の知見の果たす役割をどの程度までウェイトをつけて評価するのかという問題ではないかと個人的には思われるので、やっぱり程度問題なのではないかと考えるわけです。あくまで野次馬的感想に過ぎませんが、池○先生の議論が上記でいえば2の部分だけを強調するあまりにほかのプロセスを過小評価してしまっており、そのような態度に対して、3と4及び(部分的に)5の責任を負っている(た?)hamachan先生が「をいをい」といいたくなるのではないでしょうか。

行政の末端にいてそれなりに住民の方と向き合う5に位置する身としては、ご自分の立場を2のプロセスに限定して、見ようによっては他のプロセスの役割を見下しているように見えてしまう池○先生よりは、歴史的な経緯や立法過程を踏まえて論じているhamachan先生の立法論のほうが現実的に見えます。まあこれも役人のひいきの引き倒しといわれてしまえばそのとおりかもしれませんが、少なくとも俺の住むところでは、雇用の流動性を高めれば資源配分が適切に行われるといえるほど市場が歪んでいないとは到底思えません。根元的に使用者と労働者に情報の非対称性がある以上完全競争市場にはなりえませんし、マクロ環境からいってもデフレ下で供給側の自己責任を追及することは縮小再生産にしかならないので、赤木さんのような「日本版」NEETに対する救済策は雇用の流動化ではないだろうと考える次第です。
(6/29一部記載を変更しました。)

(追記)

応報はまだ続いているようですが、私の読み違いがあったようなので一応補足。

このエントリで「程度問題」としたのは、hamachan先生が事実関係の誤りを指摘しているのに対して池○先生があまりにそういった事実の扱いを軽んじているという点を取り上げたつもりでしたが、hamachan先生はやはりそこを一番重視されていて、池○先生を一刀両断のもとに切り捨てていらっしゃいます。hamachan先生にとっては「程度問題」などではなかったということですね。

私自身はこのようなhamachan先生の態度に学問的な「真摯」さを感じて「現実的」と評したのでしたが、政策としてのfeasibilityはもちろん、学問としてのresponsibilityの意味でも池○先生の議論は「現実的」でない、と申しますか「真摯」ではないという点でhamachan先生の憤りもごもっとも。ABO FAN氏を引き合いに出したのもそういう意味だったんですが、この辺の機微を表現できないという文才のなさに(以下略)。

ただ、お二人の応報で使われる言説の「誠実さ」に関しては、お互いに売り言葉に買い言葉的な非生産性が十二分に感じられるので、私の基準からしてもどっちの「程度問題」かがぼやけてきているところが なおさら悩ましいところではあります。
スポンサーサイト


コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。