2018年01月03日 (水) | Edit |
新年のご挨拶エントリをアップするまで3か月近く放っておいた拙ブログですが、この間主に仕事方面で精神的にかなり追い詰められていた上に、休日もそれなりに仕事/活動していてブログに手が回りませんでした。でまあ、小ネタのエントリでもアップできないほど疲弊した/忙しかったわけでもないのですが、去年最後のエントリとなった「ループもの」に書いた内容が実はもうそれなりに拙ブログで長年書いていることの集大成的なものになっていて、これ以降エントリを書いても同じ内容の繰り返しだなあという感覚もあって疎遠になっていた面もあります。とはいえ、拙ブログは元々ストレス解消として始めたものでもありますので、まあその程度の内容でぼちぼち続けられればいいかなというところです。

ということで、明日から仕事始めということでヘタをするとまた数か月放っておきかねないので、ホントにどうでもいい内容をダラダラ書いておきますが、今日は『君の名は。』の地上波初放送だそうでして、以下ネタバレが含まれますのでまだ見ないという方はそのつもりでご笑覧いただければと。

私自身は去年1年遅れでネット配信で観たところでして、いやまあ国内興行成績5位という前評判(というのは私が未見だからですが)に違わず美しい画と音楽とテンポのよさに引き込まれて魅入ってしまいました。とはいえ、見終わった直後は、こちらでまとめられているのとほぼ同じ違和感に苛まれてしまうわけですが。
映画「君の名は。」に違和感を感じる人たち(ネタバレあり) - Togetter

で、その違和感はいろいろありながら、一番引っかかった点をもう少し具体的に言えば、こちらでSF・文芸評論家の藤田直哉氏が指摘されているようなところがどうにも飲み込めないんですよね。

藤田 あの隕石が落ちる事故の悲劇をそもそもなくしてしまうわけですからね。潜在的に、それは、過去に戻って震災をなくしてしまいたいという幻想に近い。…
「新海誠「君の名は。」に抱く違和感 過去作の価値観を全否定している 4(2016年9月3日 10時05分)」

……しかし、それなら、東京や地方を、あんなに美しく描いてはいけない。不穏な、現実の、事故の記憶を想起させ、そして美しい「物語」と「映像」と埋め尽くして、記憶を摩り替えてしまうような効果を出してしまっては、ダメなのではないか。最後にもっと残酷な結末があれば、映像などの「美しさ」は許せる範囲になったと思うのですが…… ぼくも、会えない、救えないほうがいいと思ったんですよね。でも、まぁ、「会わないで終わるんじゃないか?」っていう可能性を示唆するシーンを何回も繰り返してた上なので、逡巡というかな、そっちの可能性に行きかけては行かない、っていう構成にしてはあったと思いますが。うーん。やっぱり、「切断」が足りない気が。

飯田 僕は「ハッピーエンドだからダメ」じゃなくて「それやっちゃったらあなたの今までの作品なんだったんすかってことになりませんか、作家として」というところが引っかかっているので、その点は藤田くんとは評価軸が違いますが、言わんとすることはわかります。

藤田 炎上狙い的な言い方をすれば、「ニュータイプの歴史修正主義」の映画(笑) 神社が出てくるし、「国家神道」のPRをするオカルトアニメじゃないの、っていう意地悪な批判もできなくはない。
 あまりに美しく、理想的に物事を描きすぎていると思うのですよ。それ自体は悪いことではないですが、現実に起きた震災という、汚れていたり不愉快だったり残酷だったり理不尽だったりする悲惨な事態を、こういうエンターテイメントの材料として扱っているわけですから、その手つきの是非は問われなければならない。…
「新海誠「君の名は。」に抱く違和感 過去作の価値観を全否定している 5(2016年9月3日 10時05分)」

 その手つきについて、三分の二までは、何か必然性を感じて胸に来るところがあった。さっきも言いましたが、新海さんが編集もやられているようだし、構造や描写などに、必然性と言うか、言うべきこと、探りたいもの、自分でも解決したい何かに接近しようとする「本気」を強く感じた。でも、結末に向かう部分は、その必然性がなくなっていたように見えた。
 それまでは、観客に対して、裏切ったり、伏線や象徴のレベルなどで丁寧に驚きを与えてくれていたのに、最後は「それは誰でも思いつくことでしょ」って驚きのないままに時間が過ぎていった。「唐突さ」や「驚き」こそが〈リアリティ〉なんですよ。想定していないこと、想像していないことが「起きる」というのが震災後のリアルだとしたら、後半はその〈リアル〉の手触りを失っていた
「新海誠「君の名は。」に抱く違和感 過去作の価値観を全否定している 6(2016年9月3日 10時05分)」


私自身も、入れ替わりの時間差が明らかになってからの展開を固唾を呑んで見守っていたわけですが、そこからの予定調和的な大団円へ進む過程があまりにもあまりな設定で違和感を感じざるを得ませんでした。その上で、私の本作に対する評価としては、掛け値なしに「上質なエンタテイメント」を見せてもらって感動していたりもするわけです。これはどういうことか。

結論から言えば、美しい画と音楽とテンポのよさに魅入るということに感動した自分の気持ちを壊したくないんですよね。もちろん「ハッピーエンドがダメ」ではもちろんないですし、災害を題材にしたからといって悲劇的な結末である必要もないとは思いますが、上記のような違和感に加えてあまりに辻褄が合わない(一番困るのは、タイムトラベルで複数の世界線が発生しているのに、それぞれが微妙に交わってしまっていて最後に出てくるのがどの二人なのか判然としない)ために、いくらフィクションだとしてもそのストーリーを飲み込めないのも事実です。で、せっかくこれだけの美しい映画を見たという感動をなんとか壊さないようにしようとすると、ますますその違和感に苛まれるというまあしちめんどくさい状態になったわけです。

ということで、なんでわざわざ新年最初のエントリでこの映画を取り上げたかというと、美しい画とか音楽というのはそれそのものが魅力を持っているために、それをまとってしまえば荒唐無稽なストーリーであっても感動できてしまうし、その荒唐無稽さに気が付いてもせっかく盛り上がった気持ちがもったいないから感動するというねじくれた状況が起きてしまうということを、身をもって体験したことが衝撃だったからです。以前から拙ブログをご笑覧いただいている方には薄々感づかれていそうですが、まあこれこそが「経済学的に正しい」主張が多くの人の心をつかんでしまう理由なのだなあと思ったところでして、この映画を「キレイな理屈には重々気をつけなければならない」という他山の石として、今年の抱負としたいと思います。

(付記)
ついでに、この年末年始はEテレ率が高かったところでして、大晦日の『香川照之の昆虫すごいぜ!』から深夜の『ねほりんぱほりん』を挟んで元旦の朝は『昆虫すごいぜ!』特別編と夜は『大人のピタゴラスイッチ』まで(ほぼ録画ですが)満喫いたしました。どれも好奇心を刺激するという点ではさすがEテレだなあという番組だと思いますが、中でも『大人のピタゴラスイッチ』は、ある意味で一番深い内容だったのではないかと思います。

内容についてはこちらのtweetが要を得ていますが、


ピタゴラスイッチは番組の性質上物理的な作用についての解説が中心になるとはいえ、いずれも現実の社会における制度の作用を考える際に不可欠な視点ですね。ある制度が副作用を含めてどのような効果をもたらすかを考える際には、入口と出口だけを考えるのではなく「途中を丁寧に考える」ことが重要であり、当初想定した効果などの「枠組みにとらわれない」ように副作用を含めて十分にモニタリングするのと同時並行で、制度の周知や運用に当たっては「わかりやすい想像をさせることで扱いやすくなる」ように工夫しなければなりません。そしてこれらの視点は、ある特定の利益集団や学問分野からの考察だけによっては確保できず、社会や制度に関する「想像力」を総動員する必要があるわけです。とはいえ、現実の社会のみならず、学問の世界も唯我独尊的な考え方が蔓延していることについても「想像力」を働かさなければならないのが現実でして、いやこれは深いテーマですね。
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