2017年09月17日 (日) | Edit |
以前のエントリで10年前に取り上げた香西先生の『論より詭弁』の有用性を再確認したところですが、改めて読み返してみて名言のオンパレードでしたので今後のネタのためにメモしておきます。

 私はこの第一章に、「言葉で何かを表現することは詭弁である」という題を掲げた。が、こんな法螺が吹けるのは、詭弁と、そうでないまっとうな物言いを特別するのが、多くの場合、それほど簡単なことではないからである。すでに「順序」や「連結」の例で説明したように、ごく普通に言葉を使っているつもりのときでも、われわれはほとんど詭弁と違わないことをやっている。そして、今の例に見られるように、現実のモノ・コトと言葉とが本来的に一対一で対応しているのでない以上、それを表現するのに、自分にとって最も都合のいい言葉を選択して使用することもできる。つまり、われわれは、表現しようとする対象を、ある程度は自由に「名づけ」ることができる。そしてその程度が度を超したとき、われわれはそれを詭弁と罵るのである
p.44

論より詭弁
反論理的思考のすすめ
香西秀信/著
2007年2月16日発売
定価(本体700円+税)
ISBN 978-4-334-03390-3
光文社新書
判型:新書判ソフト

※ 以下、強調は引用者による。


権丈先生も「事実は価値判断とは独立に存在し得ない」と指摘されている通り、どんなに客観的に記述しようとも、それを記述するための言葉を選ぶこと自体に価値判断が織り込まれているわけです。

 つまり、事実と意見の区別を主張する人は、ある話題の表現がどのように選択されているかばかりを見ていて、そもそもその話題の選択がなぜなされたのかについてはまるで考えていない。例えば、Kが結婚適齢期にある、独身の大学教員だとしよう。ある人がKについて、「Kは次男だ」と発言した。もちろん、Kが次男であるかどうかは、事実として明確に検証可能である。だが、「次男」という事実を話題として選択肢、聞き手に伝えようとするその行為において、「Kは次男だ」は十分に意見としての性格をもっている。
 このあたりの事情は、テリー・イーグルトンが、序章で紹介した書物の中で的確に指摘している。

…このとき明らかになるのは、いま私が客観的な陳述のつもりで口にした言葉の背後にある、意識されざる価値判断の体系である。こういった価値判断は、「この聖堂はバロック建築の壮大なる典型である」といった判断と必ずしも同じではないが、にもかかわらず価値判断の一種である。つまりいかなる客観的な陳述も価値判断であることから逃れることはできないのだ。事実の陳述は、結局、事実でなく陳述である。事実の陳述もひと皮むけば、そこには数多くの価値判断がひそんでいる


香西『同』pp.53-54


事実の陳述に価値判断がひそんでいるのと同じように、定義付けもくせものでして、議論好きな方には次のような傾向がよく見られますね。

 何よりも、定義には、それを読む人に例外や矛盾を探させる衝動をもたらす妙な性質があるらしい。だから、私がうっかり詭弁を定義したりなどすると、全体の論旨などはそっちのけで、私の詭弁の用法とその定義とが合わぬ箇所を見つけ出し、鬼の首を取ったかのように凱歌を上げたりする。こういうのに付き合うのはうんざりなので、だから、ここでは詭弁の定義も虚偽の定義もしない。
 これはレトリックや論理(論理的思考)など、他の用語についても同様である。どちらの言葉もきわめて歴史が古く、さまざまな意味に用いられているので、通常、定義という操作で許容される形式と分量によって、そのすべての使われ方を統一するのは不可能なのである。自慢にもならないことだが、私があえてそれらを定義すれば必ず誤るだろう。
 だから質の悪い人は、相手に対する定義の要求を、論争での武器の一つとして使用することがある。論敵の発言から適当な言葉を拾い出し、「あなたは○○という言葉をどのような意味で用いられていますか」「あなたの使っている××という言葉を正確に定義してください」などと要求する。そして、相手が言葉に詰まったり、四苦八苦してずさんな定義を口走ったりなどすると、喜び勇んで襲いかかり、その揚げ足をとって勝ち誇るのである

香西『同』p.89


実はこうした「揚げ足をとって勝ち誇る」態度はけっして定義に限ったことではないわけですが、厄介なのはそうした議論を好む方の真意が外見上はわからない点にあります。

 言葉の定義や基準の明示を要求することは、それだけを見れば、十分に正当で、論理的な行為である。相手が使った言葉について、その意味や使い方がわからないと言い、それについて正確な説明を求める。この行為のどこにも、非難するところはない。問題は、こうした正当な定義の要求と、相手を引っ掛けるための定義の要求とが、外見上は全く区別がつかないことである。……論理的であろうとすることが、しばしば正直者が馬鹿を見る結果になる。相手の意図などわからないのだからと、定義の要求に馬鹿正直に応じ、その結果散々に論破されて立ち往生する。いつでも論理的に振る舞おうとするから、論理を悪用する口先だけの人間をのさばらせてしまうのだ。われわれが論理的であるのは、論理的でないことがわれわれにとって不利になるときだけでいい

香西『同』pp.92-93

香西先生も「論理的には邪道で、ルール違反と言われても仕方がない」としていますが、相手を貶めるためだけに論理的に振る舞う相手には、論理的である必要はないという割り切りも必要なのでしょう。とはいえ、現実問題として見てみれば、例えば仕事の場でそれが通用するかというと難しい現状があるからこそ、クレーマーがさまざまな社会問題を引き起こしているわけですが。

 ミルがここで言う、勢力がある/ないの区別は、必ずしも現実の権力の強弱を意味しない。かつて、政治勢力としてはまったく無力だったあるイデオロギーが、アカデミズムやジャーナリズムの世界では最も勢力のある側であった。その側の人間は、反対勢力に対して詭弁を弄し、罵詈雑言を尽くして口汚く罵ることが許され、反対側の意見は、それが彼に反対であるというだけで、無知、浅薄、愚問、狡猾、陰険、すり替え、揚げ足取り、などと評され、その意見を抱いた者はしばしば文壇や論壇から村八分にされたのである。
 もちろん、こうした現象は「かつて」に限ったことではない。次にわれわれは、格好の材料を例として、ミルの指摘した現象がわれわれの現実世界でどのような現れ方をするのかを見ていくことにしよう。すなわち、勢力のある側が勢力のない側に「法外の罵言を逞しくして」「反対意見を抱いている人々に防いで不道徳な人物という烙印を押」したりしたにもかかわらず、「誠実な熱意と正当な義憤をもっている人として賛辞を呈せされ」た例である。

チョムスキーの不満

 生成文法理論の創始者であるノーム・チョムスキーは、あるインタビューの中で、自分が新しい理論を提唱するたびに、すぐに「それをつぶしてしまおうとする」研究者が多いことを嘆き、言語学者のタイプを二つに分類している。

 知的興味を起こさせるような着想、間違っているかもしれないが、とにかく、知的興味をそそり、遠大で、大胆なアイディア、そういったものに言語学者が出会った時、その反応に応じて二つのタイプに分けることができます。まず第一のタイプは、そういう考え方を信じたくないので、とっさの直感的な反応として、まず反例を探そうとする。こういうタイプが言語学者の圧倒的大多数です


香西『同』pp.95-96

ここで例示されているチョムスキーは、他人事のように批判する第一のタイプにこそ当てはまると香西先生は指摘されているわけですが、その香西先生の批判の中には、学者や研究者に対する「論理的であるはずだ」という信用を利用している点でより悪質だという思いも込められているのでしょう。「現実の権力の強弱」ではなく議論に参加しているアクターが多数派であるかどうかに議論が左右され、それを学者とか研究者と呼ばれる立場の方が扇動するというのは、特にSNSを中心とするネット界隈でよく見る現象ですね。

そして、煙草を吸いながら「煙草は健康に悪いからやめろ」と他人に説教するような人は、その言説がいくら客観的に正しいとしても信用されないという議論に対しては、論理学の観点から、あるいは論理的であろうと振る舞う方々から「人に訴える議論」であると批判されることが多いのですが、その「論理的」な価値観に香西先生は正面から疑問を呈されます。

 しかし、開き直るようだが、論点をすり替えてなぜいけないのか。そもそも、「論点のすり替え」などというネガティブな言葉を使うから話がおかしくなるので、「論点の変更」あるいは「論点の移行」とでも言っておけば何の問題もない。要するに、発話内容という論点が、発話行為という論点に変更されただけの話である
 われわれの実社会でも、さまざまな事情を慮ることにより、議論の論点が本来のものから変更された例などいくらでもある。例えば、ある天才的な数学者が、電車内で女子高生に痴漢をして捕まったとする。そのとき、誰かが、痴漢をするようなやつの論文など信用がおけぬなどと言い出したとしたら、その人は、「人に訴える議論」(「悪罵」型)の虚偽を犯しているといえよう。数学者の痴漢という行為と、彼が証明した定理の正しさとは、それこそ何の関係もない。
(略)
…ここで、その数学者の論文が巻頭論文に選ばれた論点と、それが巻頭論文からはずされた論点とは、明らかに異なっている。つまり、論点の変更ないし移行が行われたのである。これに対し、尻の青い若手数学者が、たとえ痴漢をしようが殺人をしようが、彼の論文の価値は不変なのだから最初の予定通り巻頭に置くべきだと喚いたとしたら、その若手数学者は論理的かもしれないが、組織の中では彼の言葉は聞く耳を持たれない(偽悪的な−−悪を衒う−−文学者の組織なら、もしかすると別様の行動をとるかもしれないが)。社会では論理よりも常識が優先されるのである

香西『同』p.129

つまり、発話者に問題があったり、発話と発話者の行動に矛盾があったりすれば、発話そのものの真偽ではなく、発話者の行動との整合性に論点が移行するのが社会の常識であろうということです。個人的には「社会の常識」というのはやや言い過ぎの感がありますが、「言うこととやることが正反対であっても、発話の内容のみに着目して議論するのが論理的に正しい」という主張は、感情を持った人間同士が議論するという現実を無視した机上の空論だろうとは思います。

立証責任の移動

 先ほどの捕鯨の例を再び取り上げてみよう。もしそのアメリカ人が、本当に捕鯨は「悪」であると思い、それゆえに日本の捕鯨を批判するのであれば、彼には、なぜ自国の捕鯨は不問に付し、日本のそれだけを問題にするのかということについて説明する義務がある。すでに述べたように、伝統的な論理学では、「お前も同じ」型の議論は、「論点のすり替え」という詭弁(虚偽)に分類されていた。確かにこの場合も、論点は、日本の捕鯨は果たして是か非かということから、なぜ日本の捕鯨だけを問題にするのかということに「すり替え」られる。が、それは本来優先して検討すべき論点に「すり替え」られたのである。あくまでもこの問題を持ちだしてきたのはそのアメリカ人なのであるから、われわれが日本の捕鯨について弁明するよりも先に、彼が自らの首尾一貫していない態度について弁明する責任を果たさなくてはならない。これが正しい議論の順序である
 「お前も同じ」型の議論は、このように、立証責任を本来負うべき側に与えるという機能がある。

香西『同』p.133

最近は政治家に対して「自分の行動を棚に上げて他人を批判する行為」が問題とされているようですが、それは立証責任を負うべき発話者に当然の義務を課すものといえます。というか、自分の行為と発話が矛盾するということ自体は人間なら普通にあることであって、自身がその場面に遭遇したときにどういう行動をとる必要があるか、あるいはどのような立証責任を果たさなければならないかということは、「論理的」であろうとするなら常に考えていかなければならないのでしょう。
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