2007年12月17日 (月) | Edit |
めちゃイケで抜き打ち期末テストの誤答をイジリ始めた辺りから「おバカ芸人」が一つのジャンルを確立するようになったわけですが、本来なら生活に何らかの支障を生じさせるかもしれない知識や考慮の足りなさが「芸」としてある一定の価値をもつようになったことってのはどう評価したらいいんだろうかと、島田紳助が司会をするクイズ番組を見ながら考えてしまいました。

まあ確かに知識を取得してそれに基づいて考慮するっていうことはそれなりにコストがかかるし、そもそもそういった能力に個人差がある中で、誰もが最高水準の知的能力を持つべきだという極論を言うつもりはないけど、それなりの水準ってのがあってもいいよねということです。そもそも「おバカ芸人」がその知識や考慮の足りなさを芸にするっていうのは、その知識や考慮の足りなさに起因するデメリット(日常生活上の不都合や仕事などのミッションを遂行する能力の不足)よりも、それによって得られるメリット(芸人としての評価を得ることによる収入や知名度の上昇)がそれを上回っているからわけで、直接的にいえばそれが市場の中で価値として評価されるからに他ならない。

しかし、それってたとえば事務所が「おバカ芸人」の日常生活をサポートすることによって、その「おバカ芸人」が実生活上で被るデメリットを軽減していることが、その芸人が安心して「おバカ」でいることを選択することを可能にしていると思われます。というか、芸能人は日常的な常識には欠けていてもそれを補ってあまりある芸能があるから芸能人なんであって、むしろそんな生活臭のないところが魅力だったりもするし、昔から芸能界っていうのはそういうところだったんだろうとは思う。しかし、いまの「おバカ芸人」は芸能界が培ってきた「常識に欠ける社会人」を養うスキルを商売道具にしているように見えるわけで、事務所が日常生活をサポートすることが「おバカ」であることの相対的なコストを下げることになり、「おバカ芸人」達が積極的に「おバカ」であることを選択するようにしているとみるべきなんではないかと思われるわけです。

芸能界があくまでビジネスの世界であることを考えれば、「おバカ」だろうとなんだろうとお金を稼げる以上それを売りにした芸人を養成したりスカウトすることもアリだけど、それを需要する側を考えてみると、そうとばかりもいってられない。たとえば俺の周りなんかの普通の生活だったり、特に政治の世界に持ち込まれてしまうと非常に迷惑だなあと。その端的な例が反知性主義だったりするんですが、小学校レベルまでは「勉強なんかより遊びの方が好き」ぐらいだったものが、中学校辺りから「勉強マジうぜえ」とか「勉強したって何の役にも立たなくね?」とか言い出して、高校ぐらいは卒業したとしても学校の勉強にはほとんど意義を見いださず、専門学校で直接仕事に結びつく(ように思える)勉強をするようになるのが、結構一般的なルートとなりつつあるところも「教養」とかいうものに対する信頼を体得できない原因になっているのかもしれない。あるいは、高校から大学に進学したとしても、大学では「純粋な学問」とやらを勉強したと割り切って、資格とかの実務に関する勉強はそれとは別にダブルスクールしたりするのも「教養」を信頼していない傍証になるんだろう。つまり、そこには学校で習うような歴史とか科学、もう少し専門的な法律や経済などについて知識や考慮が不足していることについて、それを自らの課題や欠点と自覚しなくてすむようなロジックが形成されていて、「おバカ」な芸能人がそのロジックにある種の免罪符を与えてしまっているように思われるんです。ある種の免罪符というのは、「おバカ」であることを積極的に評価することによって知識や考慮の必要性が相対的に低く評価される(必要性が低くなるというのは、上述の知識や考察の相対的なコストが高くなることで選択されなくなることも含みます)ようになってしまうだけじゃなく、知識を習得したりものごとについて考慮する努力を「悪い」ことのように評価することに根拠を与えてしまっているんではないかという意味です。

とはいっても、上に書いたとおり誰もが最高水準の知識を持つべきでもないし、そもそもそんなことは不可能なんで、結局はどのラインで線を引くかという問題に戻ってしまうんだけど、その線引きは画一的に決まるものではなく、人それぞれの立場やキャリアといったものが密接に関係するんだろうというのがこのエントリの趣旨です(相変わらず前置きがなくなってしまいましたが)。その線引きの基準となるのがいわゆる社会的責任ってやつなんだろうということをいいたかったわけですが、ここまで書いて「責任と義務は表裏一体なんだよ」「な、なんだってー!」なんて話に終わってしまう気もしますが、できるだけそっちにはいかないようにします。

知識や考慮の水準の線引きの問題として考えたとき、上で考えた「おバカ」であることが積極的に評価されるようになるということの効果は、最低限の水準を求められる層の下限ラインを引き下げ、一方で高い水準が求められる立場の上限ラインをも引き下げるものと理解することができる。日常の生活を支障なく送るために求められる知識や考慮の水準が引き下げられるというのは、字義のとおり考えれば世の中が簡単(?)になった場合に生じる事態なんだけど、これって実はそれなりの説得力があるんではないかと思う。いわゆる白物家電の性能の向上とかコンビニとかスーパーといった流通の集約化とかっていうのは、日常生活でそれなりの知識を必要としていた場面を大幅に減らしている(洗濯機があれば洗濯の仕方を覚える必要もないし、消費期限が記載してあれば食料品の鮮度を見分ける必要もない)わけで、知識の不足がそれほど深刻な事態をもたらさないようになっているとは言えるだろう。

しかし、その一方で現代の日本国憲法に規定された日本ってのは複雑に制度が絡み合った法治国家であり、市場における取引を通じた価値の配分を基本原理とする資本主義国家なわけで、市場の失敗を軽減すべく政府の介入が行われる社会にあっては、それ以前の社会と比べれば制度に対する理解の重要性は格段に増しているはず。つまり、日常生活における知識の相対的な重要性の低下とは逆に、何らかの制度に規定されている行動をとろうとするなら知っておくべき法律や経済の知識は増えていっているし、それに対する考慮もより高いレベルで求められることになる。ということは、主に家庭と学校でしか生活しない小学生が「勉強よりも遊びが好き」といっているレベルでは必要とされなかった知識が、次第に社会との接点が増えていくにつれ、その社会の制度(法定の硬性のものや慣行などの軟性のものを含む)やその背後にある思想や歴史、理論といったものを理解することが、その社会における自由度を獲得するためには必要になるということ。まあ、これも突き詰めていけば「怠けてきた負け組が悪い」とかいう話になってしまうので注意が必要なんだけど、原理的には間違いはないだろう。

となると、身の回りの日常生活を基準とした知識水準が下がっているにもかかわらず、社会的な接点が大きい行動をとる際に必要とされる知識水準が上がっているわけで、このギャップが結構深刻な問題をはらんでいると思われます。たとえば「プロ市民」といわれる市民団体が批判的なとらえ方をされているのも、反知性主義の文脈でとらえるなら「脊髄反射的に理想に燃える前に、制度とか法律とか経済をもっと勉強しろアフォ」という意識があるんだろう。そのことによるいわれのない差別には十分注意しなければならないとしても、その批判が間違っているとも言い切れない面はあると思う。もちろん、「市民の目線」とか「現場の感覚」というものを否定するつもりは毛頭ない。しかし、その「市民の目線」を実効性のあるものとするためには何らかの制度を構築する必要があるわけで、制度にコーディングするためには単なる技術論としての立法論だけではなく、法律や経済、歴史に関する知識を総動員してその実効性をチェックすることが不可欠だということです。

ここまで極端な例ではなくても、たとえば経営者が労働法規を無視した偽装請負で雇用したり、整理解雇の4原則に外れる解雇を行ったりすることは枚挙にいとまがないし、もう少し話を大きくすれば、地方財政制度を理解することなく地方分権を金科玉条のごとく主張したり、中央銀行がデフレ下にもかかわらず利上げを匂わしたりとか、朝からテレビに出ずっぱりで夜は銀座で飲んでいるキャスターが感情だけでズバッというのを見ていると、反知性主義は明らかに有害であると思わざるを得ない。反知性主義は小学生くらいの生活範囲でなら許されることもあるかもしれないが、少なくとも社会的に影響のある/を及ぼそうとする立場の人間が依るべき理念では決してない。自らの立場を自覚したなら、せめて謙虚に勉強していただきたいものです。

なんてことを考えたのも、この年齢になると同級生が会社でそれなりの地位についてたり、あわよくば政治家になろうとしたりするのが出てくるんだけど、そういう奴って「俺は勉強しなかったけど仕事とかボランティア活動で経験があるから、俺の考えは間違ってない」なんていうことが多いんだよねえ。それなりに成功体験があってその地位にいるわけだからこっちも反論しづらいとはいえ、そういう奴の部下がかわいそうです。あと、仕事柄大学の先生とか弁護士の先生なんかと話をすることもあるんだけど、法曹の世界って意外に制度に関して無頓着な印象を受けます。端的に言えば「俺は理論とかはよく分からないけど、この制度は問題だ」というなら法曹の現場の感覚からの問題提起として傾聴に値するとしても、「俺は制度は分からないけど」といった時点でアウトですな。特に大学の先生がこんなことをいうのを聞くと、権丈先生の苦悩(勿凝学問118 年金の国民的議論というのは有識者さんたちに制度を教えることなんだろう、この国では――それとバスタブに沈みゆく連合の年金改革案(注:PDFファイルです))を実感できます。
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