2016年12月31日 (土) | Edit |
ケインズの「一般理論」はその晦渋な書きぶりでいろいろな読み方をされているところでして、ケインズの名を冠した学派はオールド・ケインジアンや新古典派統合を経たニュー・ケインジアンから、マルクス経済学と接近したポスト・ケインジアン等々諸説が乱立していますが、その中にはケインズのつまみ食いで「ケインズ」を名乗る場合も多いように思います。クルーグマンは特にその場その場で議論を使い分けるので「つまみ食い」の印象が強いのですが、望月夜さんのコメントで教えていただいた講演録はまさにその典型のようです。

この講演でやりたいことを簡潔に言えば,まずケインズの読み方について――というか,ぼくが好むケインズの読み方について――お話することです.
(略)
『一般理論』でカギとなるメッセージとすべくケインズが意図していたことは,いったいなんでしょうか? ぼくの答えはこうです――「そいつは伝記作家や思想史家の仕事ですな」.べつに,「どうでもいい」とまでは言いませんが,なによりも重要なことではないでしょう.古いネタにこんなのがあります.美術館の来訪者が,ジョージ・ワシントンの肖像画をじっくり鑑賞して,守衛に「ほんとにこんな外見だったの?」と尋ねます.守衛が答えて,「いまの外見はそこにあるとおりだよ」.ケインズについても,ぼくの感覚はこれとだいたい同じです.大事なのはケインズからなにを引き出すかであって,彼が「ほんとうに」言わんとしたことではありません
(略)
ともかく自分の見解を言えば,ぼくは基本的に第1巻さんです.そこに第13章と第14章の中身もかなり加えます.その話はこのあとすぐしましょう.第12章はすばらしい読み物ですし,「市場は賢明で合理的だ」と仮定してかかる経済学者にありがちな傾向を調べるのにすごくべんりではあります.でも,ぼくがいつも経済学に求めているのは「直観ポンプ」です――つまり,言葉あそびや偏見にはまらず経済状況を考える方法,いくらか深い洞察をもたらしてくれそうな方法を求めているんです.

「クルーグマン「ケインズ氏と現代人」(2013年12月5日)Paul Krugman, “Mr Keynes and the moderns,” VoxEU, June 21, 2011.」(経済学101)
※ 以下、強調は引用者による。

長いので引用は省きましたが、引用部より前の部分で「まさしくケインズが75年前に格闘していたのと同じ問題がかかわっています」といいながら、そのケインズが言わんとしたことはどうでもよくて自分の好きな読み方を披瀝するというのは、場合によっては歴史修正主義との誹りを免れないでしょうけれども、天下のノーベル記念スウェーデン銀行賞受賞者にはそうした批判はされないんですね。

でまあ、ケインズの理解についてはケインズの言わんとしたことをきちんと理解した上で、その洞察に学ぶことが重要ではないかと考えているところでして、

 新ケインズ派のモデルは今回の危機であらわれた事実にかなりよく一致しているように思える。たとえば、銀行が融資を行った相手には、返済がまったくできない借り手が入っていたといった事実である。そのモデルの欠陥は、ローンの借り手や保険の買い手など、誰かが完全な情報をもっていると想定していたことだ。ところが今回の危機では、不確実性という問題があり、導く側も導かれる側も将来を理解できていなかったことが明らかになった。
(略)
ドナルド・ラムズフェルドの忘れがたい言葉を使うなら、「未知の未知」こそが躓きになるのである。誰かひとりが完全な情報をもっていれば、経済全体が危機に陥ることはない。だが、完全な知識をもっているのは神だけであり、神が株式市場で投資を行うことはない。
pp.82-83

なにがケインズを復活させたのか?―ポスト市場原理主義の経済学―
ロバート・スキデルスキー 著/山岡洋一 訳
定価(本体2,000円 +税)
四六判 上製 320 ページ
978-4-532-35402-2
2010年1月発売

信用創造はその過程において「信用」が不可欠となるはずでして、まあ国家というのは栄枯衰勢あるものでして、その信用がどの程度なのかはそう簡単な判断ではないと思うのですが、完全情報とは言わないまでも国家の信用がどの程度かというのは明示的にはわかりにくいものではないかと思うところです。

ケインズの理解でいえば、権丈先生はケインズの思想に至るまでの社会的・歴史的背景を吟味しながら議論されているので、その点を「信用」して参考にさせていただいているところでして、ケインズが投資と消費の関係をどのように考えていたのかについての権丈先生のご指摘を引用させていただきます。

We established in chapter 8 that employment can only increase pari passu investment unless there is a change in the propensity to consume.
(間宮訳「第8章でわれわれは、消費性向に変化がないとしたら、雇用の増加はただ投資の増加にともなってのみ起こりうることを確認した」)

僕は、「これなんだよなぁ。ケインズが線型の消費関数なんか定義するから、消費は所得で決まってしまい、需給ギャップを調整するのは投資しかないという妙な理屈がまかり通るようになってしまったんだよなぁ・・・」
彼「なるほど、そういうわけかぁ・・・」
と、ふたりで、投資の限界効率表なんてのは、あれは期待の話で、消費量が変われば期待としての限界効率表も動くに決まっているじゃないか、などなどと、iPad そっちので、『一般理論』の話で盛り上がる。

Consumption――to repeat the obvious――is the sole end and object of all economic activity.
(間宮訳「消費は、わかり切ったことを繰り返すなら、あらゆる経済活動の唯一の目的であり、目標である」)

この消費こそが、いま不足しているのである。
ところが、世の中の多くのひとは、ケインズが投資の話に論点を集中するために仮定した世界にとらわれてしまい、需給ギャップは投資で埋めると考えるばかりで、他の箇所ではケインズも結構論じている消費性向を高めていく政策には考えが及ばない。だから、需要不足があるんだから投資を増やさなければとばかり考える彼らと、現下の需要不足は主に消費が不足しているからと診る僕の話はかみ合わない――と言うよりも、彼らは間違い続けているように見える。

「勿凝学問 313 足りないのは、投資か消費か? 誤解の源はケインズの言葉だろうな(2010年6月8日 慶應義塾大学 商学部 教授 権丈善一)」


このようなケインズの「消費は、わかり切ったことを繰り返すなら、あらゆる経済活動の唯一の目的であり、目標である」という言葉が目に入らないような方々が世の中に増えてしまった理由を考えてみると、冒頭のクルーグマンの講演録の中にそのヒントがありますね。

ぼくが日々の仕事に使ってる経済学のブランドは――いまでも,これまでに登場してきたアプローチのなかでいちばん理に適ってると考えてるブランドは――その大部分を1948年にポール・サミュエルソンが確立したものです.1948年とは,サミュエルソンが古典的な教科書の第1版を出版した年です.このアプローチは,ミクロ経済学の立派な伝統とケインジアン・マクロ経済学を結合させています.ミクロ経済学は見えざる手のはたらきで一般に望ましい結果がもたらされる仕組みを強調します.他方,ケインジアン・マクロ経済学は,ケインズが言う「マグネトの故障」を経済がときとしてどのように発展させてしまうのかを強調します.この経済の「マグネトの故障」には政策の介入が必要となります.このサミュエルソンの総合では,おおよその完全雇用を確かなものとするのに政府をあてにしなくてはなりません.それが当然のこととなってはじめて,自由市場のおなじみの美徳は威力を発揮するのです.

これは実に理に適ったアプローチです――ただ,知的に不安定なアプローチでもあります.というのも,これには,経済に関する考え方になんらかの戦略的な不一致が必要となるからです.ミクロをやっているときには,合理的個人と急速にごたごたをととのえてしまう市場を仮定します.他方で,マクロをやっているときには,摩擦やアドホックな行動上の仮定は必要不可欠です.

それで? 有用な手引きを得ようとする際に首尾一貫しないことがあるのは,なんの悪徳でもありません.車を運転するときなら道路地図があれば事足りますが,ハイキングのときには等高線が入ったやつが必要でしょう.

「クルーグマン「ケインズ氏と現代人」(2013年12月5日)Paul Krugman, “Mr Keynes and the moderns,” VoxEU, June 21, 2011.」(経済学101)


クルーグマンはサミュエルソンの「新古典派総合」がもっとも理に適っているというわけですが、当のサミュエルソンはどうだったかというと、

さて,ここまでケインズの論を引用するサムエルソンは,さぞかしケインズの考えをしっかりと継承し,ケインズに心酔しているのかと思われるところであるが,どうもそうではないようなのである。サムエルソンのケインズ理解,ゆえに,サムエルソンの教科書『経済学』を通じて世界中に広まったケインズ理解は,間違った理解であったと攻撃する者は,ケインズから直接教えを受けた者たちをはじめ,現在に至るまで数多くいる。その一人ポール・デヴィッドソンは次のように言う。

1936年に『一般理論』を読んだ後でさえ,サムエルソンは,その分析が「好みに合わず」理解できないものであることに気づいたと述べていることである。サムエルソンはコランダーとランドレスとのインタビューの中で「最後にわたくしが納得したやり方は,ただそのことについて 〔ケインズの分析を理解することについて〕くよくよ悩まないことでした。わたくしが 自分に問いかけたのは,なぜ 自分は1933年から1937年までの上向きのルーズヴェルト景気を理解するのを可能にしてくれる理論枠組みを拒否するのか,でした。……わたくしは,ワルラスに代わるケインズの分析を有効なものにするのに十分な程度の相対価格・賃金の硬直性があると想定することに満足しました」 と言っている。言い換えれば,サムエルソンは,自分がケインズの分析を理解していなかったことを認めている。それどころか,かれは,ケインズが賃金と物価の硬直性が失業の原因であるような,伝統的な古典派の一般均衡モデルを提示していると思い込んでいたのである。
Paul Davidson(2009)/小 山庄三・渡辺良夫訳 (2011)『 ケインズ・ソリュー ション』183頁


ここで,サムエルソンの経済学で学んだ多くの人たちは,なぜ,ポール・デヴィッドソンは,サムエルソンを「ケインズが賃金と物価の硬直性が失業の原因であるような,伝統的な古典派の一般均衡モデルを提示していると思い込んでいたのである」と批判しているのかと思うかもしれない。
その理由は,ケインズは,貨幣を保蔵 (hoarding)したいという欲求がある社会,すなわち流動性選好理論が成り立つ貨幣経済 (monetary economy)を 前提に置けば,伸縮的賃金であっても硬直的賃金であっても失業は起こりうると考えていたからである。このことは,ケインズの次の言葉が端的に示している。

喩えて言えば,失業が深刻になるのは人々が月を欲するからである。欲求の対象 (貨幣)が生産しえぬものであり,その需要が容易には尽きせぬものであるとき,人々が雇用の口をみつけるのは不可能である。
Keynes(1936)/間 宮陽介訳 (2008)『 一般理論』上巻331頁

これは,将来,すなわち歴史的な時間の流れの中での「不確実性」に備えて価値保蔵手段としての貨幣に対する選好,他にも諸々の理由により貨幣を保蔵したい という欲求すなわち「金銭欲」が尽きず「物欲」に優る場合には失業が起こると言っているのである。ケインズの論の中では,失業発生の原因として硬直的賃金という条件は重要ではない。
権丈善一「社会保障—— サムエルソンと係わる経済学の系譜序説の経済学系統図と彼のケインズ理解をめぐって——」(三田商学研究 第55巻 第5号 2012年12月)


ということで、ケインズの理論は「好みに合わない」として、その提示する理論を勝手に読み替えていたわけです。サミュエルソンの『経済学』の教科書で学んだ経済学徒(クルーグマンもその一人のようですが)には、そのようなサミュエルソンの理解だけではなく、勝手に読み替えるという作法まで伝わってしまったということでしょうか。

さて、ここまでが私が望月夜さんと議論を共有できないと考える一つ目の理由です。長々と引用しましたが、消費性向を高める政策が必要とされるときに、直接的に消費を増やす政府支出の財源として、安定的に税収を確保すべきと個人的に考えています。これに対して、望月夜さん(が信奉するMMTやそれに類似する学派?)は、消費とトレードオフの関係にある貯蓄を増やすために投資としての国債を増発するべきと指摘されていらっしゃると見受けます。マクロではそういえる面もあることは否定しませんが、具体的に誰の貯蓄が増えて誰の消費が増えるのか、その調整はどのように実施するのかが不明であるためお伺いしたものの回答はなく、その過程で政府支出によって賄われる利払いを含めると迂遠で高コストな財政支出ではないかという私の指摘にも特に回答はないため、議論を共有することが難しいと判断するに至ったという次第です。

これに加えて二つ目の理由は、実はクルーグマンの講演録でちらっと言及されていることですが、「有用な手引きを得ようとする際に首尾一貫しないことがあるのは,なんの悪徳でもありません」ということです。一見すると、サミュエルソンのように勝手に読み替えることとの違いはないように思いますが、そうはいっても現実の手続きやら実務やらというのは、一貫した理論的背景があるわけではなく、その都度プレイヤー同士の交渉や力関係で決まるものでして、その当事者同士の利害関係などがわからない部外者にとっては理不尽だったり整合性がないように見えたりするのが実態であってみれば、整合性のない理論を組み合わせて現実の実務を理解することも必要になります。

まあ、順番からいえば、先人達が歴史的経緯の中で築き上げてきた交渉や取り決めが制度化され、その制度化された世の中を主に行動の面から、時に数理的な手法を用いて分析するのが経済学という学問であることからすると、経済学が制度分析に理論を提供することはあっても、理論に基づいた制度設計が功を奏するのは、その理論がそれまでに築き上げてきた交渉や取り決めに匹敵するだけの利害調整機能を持っていることが必要条件となるはずです。つまり、いかにこれまでの制度が理不尽で整合性のないものであっても、その裏に営々と積み上げられてきた交渉や取り決めを取っ払うような制度改正は関係当事者の合意を取り付けることはできず、逆に制度として不都合であっても、当事者が合意している限りは制度として機能することになります。

このような取り決めによって形成されたものとして典型的なのは日本型雇用慣行でして、確かに職務無限定で単身赴任を伴う転勤が強要できて年功的な職能資格給を核とする働き方は、長時間労働を抑制することができず少子化の一因にもなっているものの、長期的に雇用を安定させつつ学校教育では習得できない職業上のスキルを身につけるための人事異動を可能にするのもまた、日本型雇用慣行なわけです。これを例えば欧米型のジョブ型雇用に一気に転換せよといっても、実際に就職している労働者の大半は就職してから年金保険料を支払いながら年金を受給するまでに40年程度の職業人生を確保しなければならないわけで、現在の就職先でそれを確保するのが合理的である以上それを前提として職業人生が設計されているのが現実です。その実態を前にすれば、結局漸進的に少しずつ働き方を変えながら労働者側と使用者側の利害関係を調整しなければなりません。

私も現在の雇用慣行には大きな問題があって持続可能的ではないと考えていますが、それを変えていくのは労働者の人生を流れる時間との根気強い付き合いの中でしか可能ではないというのが現実でしょう。同じく政府支出や税制を含む財政政策や金融政策も今のやり方に問題があるからといって、その裏に積み上げられてきた交渉や取り決めをひっくるめて制度そのものを潰してしまうやり方は、禍根を残すばかりで機能はしない可能性が高いと考えます。まあそれでもやるというならそれも一つの政治的考えではあります。結局また権丈先生の言葉を引用してしまうのですが、

「政策は、所詮、力が作るのであって正しさが作るのではない。」
http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/kenjoh/


経済学における「正しさ」とは、各学派がそれぞれ「正しい」と信奉する何かであるに過ぎず、現実の世界では利害関係の当事者の交渉や取り決めで少しずつ築き上げた制度があるのみです。経済学の各学派がそれぞれ経済学的な「正しさ」を競い合うのは、まあそれぞれの思考実験として邁進されることは素晴らしいことかとは思いますが、拙ブログでは今後とも制度をどのように(内容のみではなくその過程を含めて)変えるべきなのか考えていきたいと思います。

(2017.1.8追記)
年を越えて引っ張るのもなんですが、このエントリのきっかけとなったお二人のコメント(http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-711.html#comment)を拝見していると、公共政策についての議論の難しさを改めて認識いたします。公共政策は繊細な議論ですので危険ではありますが、あえて模式化してみると、再分配や雇用・労働の制度に関する問題をAとして、Aの制度にまつわる問題をどのように解決すべきかという議論をしているのが拙ブログのスタンスでして、そのための財源の制度に関する問題をBとすると、本エントリで書いたような制度の裏付け(交渉と取り決めによるフロー支出はフロー財源で賄うという原則)を踏まえつつ、Bについては増税の必要性があると考えています(その理由は本エントリや上記エントリの参照先をご笑覧ください)。

というところで、Bについて異論をお持ちの方から、Cという考え方があるとか不正確とかいろいろなコメントをいただきまして、ではそのCの考え方なり私の記述の不正確さを正すなりによって、Aの問題についてどのような制度的解決が構想されるかについてお考えをお伺いしたところ、「急に「公共政策はどうあるべきか」という全く別の議論を持ってきて」とか「私は広い視野など持ち合わせておりません」という回答しかいただけないのが現実ですね。

私はBの議論に特化してその是非を論じているわけではありませんので、Aの問題が解決なり改善するのであれば、Bに関して増税にこだわるものではありません。そもそも増税が景気後退させることまで否定していませんし(中里先生がおっしゃるナローパスが重要だと考えています)、増税と現物給付との差引においていかに安定的に社会全体の消費を確保するかという経路が制度によって担保されることが重要と考えています。つまり、現状において制度による裏付けが弱いAとBの紐付けをいかに強化するかという点が私の関心なのですが、世の中にはBさえ何とかなればAは自動的に改善するとお考えの方がいらっしゃって、もしかするとそっちの方が多数派だというのが実態なのでしょう。

現実の制度においては、「その他の要件が変わらないのであれば、政府支出の対GDP比は現状のままであるはずでして、教育の無償化だの待機児童の解消だの医療行為に対する診療報酬の引き上げによる医療体制の拡充だのという再分配政策の支出構造は変わらない」わけでして、そのために制度の裏側にある利害関係の当事者による交渉や取り決めを踏まえつつ、どのように政府の支出構造という制度を変えていくかを考える必要があります。その際に決定的に重要になるのは、生産物はストックできないということであって、「「共同体の構成メンバーは連帯して共通の規範を守るべきであり、メンバーの中に苦境に立たされる者がいれば協力して支えなければならない」というsocialな考え方を理解できるか、「効率的な現金給付」で事足りるとする経済学的な議論の問題点を理解できるかというのが、労働政策に裏付けされた現物給付による社会保障や再分配を議論する上で、問われている」のですが、こういう議論が共有される世の中というのはこれまでも、そしてこれからしばらくも期待できそうにありません。himaginaryさんがおっしゃるように「「労働政策や所得再配分政策に関する論争が前面に出てくる」状況を目撃することは贅沢なこと」なんですねえ。
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コメント
この記事へのコメント
繰り返すようで悪いのだが、「消費と貯蓄がトレードオフである」という理解それ自体が間違いであると、「再分配の高コストな構造」のコメントではきちんと指摘したわけである。「投資増→所得増→貯蓄増」というサイクルにおいて、消費もパラレルに上昇するわけだから、投資が増える分だけ消費の手控えが強いられるなどということは、起こらないのである。
つまみ食いだろうが、そうでなからろうが、そのことがケインズの重要なメッセージの一つであることは疑いないわけである。


権丈先生も、「消費を直接増やすという別の方向性」を示しただけであって、別に投資増が無効である(その分消費を減らしてしまう)と論じているわけではない。

消費を増やす方向としては、例えばスティグリッツが、累進税による再分配を提唱しているが、私はこれがある程度は有効であることは認める。認めつつも、すでに発行されているマネーサプライの配分をある程度変えるにすぎず、当たり前のことだが、再分配が進行すればするほど、総需要刺激効果は減衰する。

その方法を併用することそれ自体は有効だろうが、正攻法はやはりマネーサプライ供給それ自体が増えることだ。その方法として、政府投資の追加を行うか、給付金(可処分所得の追加)を行うかは、また選択となるわけだが。

2017/01/01(日) 04:10:07 | URL | 望月夜 #3DzPDrAs[ 編集]
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