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2016年09月23日 (金) | Edit |
更新頻度が低いので相変わらず流れに乗れていませんが、シン・ゴジラが大きな話題となっていたのでお盆休みに観てきた感想など。既に1か月以上前のことなので記憶が曖昧になりつつあるのですが、エントリにするまで時間がかかったのは、「会議室映画」とも呼ばれる内容に微妙な印象があったからです。ということで以下ネタバレが含まれていますので、テレビ放映などをお待ちの方はご注意ください。

震災前のエントリで、「事件は会議室でも起きているんだ」というようなことを書いておりましたが、まさに現場で刻一刻と進行する事態に対応するための会議が、組織的な意思決定においていかに重要かということが描かれていたことにまずは安堵しました。震災後のエントリで生活保護という再分配の制度に関連して「現場のための中央」についても書いた通り、組織として活動する中で現場が適切に制度の目的を果たすためには、その意思決定の場である「会議室の現場」こそが適切に機能することが必要不可欠です。

ゴジラが現れた当初の「会議室の現場」では、「想定外」を連発する閣僚とその意を受けて無難な意見しか言わない官僚のにらみ合いのような状況が続いていましたが、上陸後に蒲田くん(第2形態)から品川くん(第3形態)へ変態する経過の中で甚大な被害が発生すると、「会議室の現場」が変わりはじめます。つまり、会議で重要な事項が決まらなければ現場は活動することができないため、刻一刻と事件が起きている「事件の現場」に「会議室の現場」が適切に対応して意思決定しなければならない状況に追い込まれていきます。

この点について、震災前の上記エントリでは、

大規模かつ中長期的に取り組んでいかなければならない政策分野では、「事件の現場」で起きる事件と同様に、「会議室の現場」で起きる事件についても、それ(引用注:「「現場主義の徹底」とか「現場の権限を強化する」とかいって地方分権して「事件の現場」ばかりを強化してしまうと、権限を奪われた「会議室の現場」が弱体化してしまって適切な状況把握も政策決定もできなくなり、結局は「事件の現場」までもが機能不全に陥ってしまう」という事態)を防ぐ手立てを講じなければなりませんし、万が一事件が起きてしまった場合は適切に対処しなければなりません。そのためにも、「会議室の現場」の体制は強化される必要があります。

もし「会議室の現場」が「事件の現場」と乖離してしまって、適切な政策が決定されない問題があるなら、「事件の現場」が適切に機能しているからこその乖離でしょうから、この場合まずは政策を決定する「会議室の現場」、すなわち霞ヶ関や地方自治体の本庁を強化することが先決です。その上で、個々の「事件の現場」は情報を的確に「会議室の現場」に伝え、「会議室の現場」ではそれらを過不足なく収集し、全体の「事件の現場」と整合性のある政策決定ができる体制を整備しなければなりません

「事件は会議室でも起きているんだ(2011年01月10日 (月))」
※ 以下、強調は引用者による。

としておりましたが、震災後は「大規模かつ中長期的に取り組んでいかなければならない政策分野」に限らず、大規模災害などの緊急・非常事態においても、このような「会議の現場」と「事件の現場」が適切に機能することが必要であることが明らかになったと思います。

序盤での「会議室の現場」のヤマ場は、二足歩行した品川くんに航空自衛隊機が攻撃しようとした際に、攻撃範囲内に徒歩で避難する市民を発見した自衛隊員から攻撃の可否の確認があり、瞬時に総理大臣まで確認が伝達されて攻撃中止の判断が下される場面だと思いますが、そこでは「会議室の現場」と「事件の現場」が整合的に意思決定する過程が描かれていました。

ただし、「会議室の現場」が仔細に描かれるのは中盤までで、その後は災害対応や復旧に向けた「会議室の現場」は、現役閣僚がほぼ壊滅した後半でははほとんど描かれず、一対一の交渉や少数の閣僚や要人による「打合せ」(まあほとんどの閣僚が死亡して「人手不足」だったという事情もあるでしょうけれども)がメインになっていきます。この辺が、ちょっと微妙な印象になった理由でして、最終的には既存の組織が(実態上も機能上も)壊滅状態になって、出世に無縁なはぐれ者などによる「巨災対」がそうした既存の組織のしがらみがなくなってやっと機能するというプロットは、結局「会議室の現場」と「事件の現場」が適切に機能するという状況を実現させることを諦めたように感じてしまいます。

宇野氏の言説にはあまり共感することはないのですが、この指摘はなるほどと思います。

宇野さん:僕は今回の『シン・ゴジラ』はこの「平成ガメラ」シリーズの正当なアップデートだと思っています。

(略)

「平成ガメラ」シリーズの描写って現場の自衛官や技官に集中していて、特に権力もなく大組織も率いていない、もっといってしまえば政治的ではない現場の人々の物語なんですよ。僕はまあ、そこが好きだったりするんですが、彼らの「がんばり」を描くだけでは、ガメラが象徴する巨大な力、世界の問題にアクセスするのが難しかったんだと思う。公務員のおじさんはがんばっているんだぞ、的な自分の問題と、人類と地球環境はどうあるべきか、怪獣という巨大災害にどう対応するかという世界の問題がつながっていない。だから後者の、ガメラのほうが人間に歩み寄って心を開く、という展開が必要だったのだと思うんです。

「評論家・宇野常寛氏が語る『シン・ゴジラ』-この映画は99%の絶望と、1%の愛でできている(2016年08月11日(木))」(木曜日のシネマ)

このインタビューで宇野氏は、「事件は会議室で起きているんじゃない」という台詞を生み出した『踊る大捜査線』や『機動警察パトレイバー2』から『平成ガメラ』への流れの中で、現場の自衛官や技官などの公務員のおじさんのがんばりと巨大な力や世界とをつなげることが難しかった点を指摘し、シン・ゴジラはそれをアップデートしたというわけですね。

一方で、そのつながりをやはり「巨災対」のような既存の組織からちょっと距離を置いた組織に見いだしているのが、POSSE編集長の坂倉さんです。坂倉さんの「編集長の部屋」での熱弁(?)を拝見すると、宇野氏と同じように『平成ゴジラ』と『機動警察パトレイバー2』の延長線上にシン・ゴジラを位置づけていらっしゃいますが、

 だが、「真面目に働く人たち」であれば無条件に信用できるというわけではあるまい。「真面目に」働いた結果、国家の論理に取り込まれ、非人道的な軍事兵器の開発に取り組んだり、核兵器使用を決断したりする人だっているだろう。国家に取り込まれないための「可能性」は、どのように担保されるのだろうか。残念ながら、それは本作で明確にされているとは言い難く、危うさを孕んだままだ。

(略)

 このように、二重に強調される「出世との関係なさ」は、保身や組織優先の論理と対立する発想である。失敗や批判を恐れずに、自らの経験や能力、職業倫理に頼って思考し、仲間と議論し行動することができる自律的な職業人とその集団こそを、本作は「真面目に働く人」の核心として描いているのではないだろうか。このような職業倫理に基づく労働こそ、日本社会に広く求められるものであり、3.11の危機に対する本作の「回答」の根幹なのではないだろうか
pp.243-244
『シン・ゴジラ』評
「ゴジラ対日本人」の系譜
坂倉昇平(本誌編集長)
『POSSE vol.32 特集:絶望の国の不幸な奨学金』
A5判/256頁/本体1,200円+税/2016年9月15日発行

まあ、映画そのものがこうしたプロットで描かれていますから、その映画評が上記のような内容になるのはその通りだと思うのですが、「巨災対」のメンバーの大半は国家公務員であって、その職業倫理はまさに国家そのものによって養成されたものではないかと思うところでして、「巨災対」のメンバーが国家の論理に取り込まれたか否かはそれほど明確に割り切れる話ではないのだろうと思います。映画では、ヤシオリ作戦のために「巨災対」のメンバーが重機や化学工場プラントを有する企業に協力を依頼するという流れでしたが、出世に無縁なはぐれ者などによる「巨災対」のメンバーが個々にそうしたパイプを持っているというより、所属している組織の看板と、所属している組織が有するデータにアクセスできるというまさに政府の国家機関の「メンバーシップ」を最大限に活用したというのが実態(もちろんフィクションですが)というべきでしょう。

そして、そのような政府からの要請に対して、民間や地方自治体などの国家機関以外の組織が応え、やはりそのメンバーがヤシオリ作戦に従ってそれぞれの持ち場で職務を果たし、1回目の注入後には再び活動を再開したゴジラによって現場の作業員に多大な犠牲者を出してしまいながらも、ゴジラを凍結するという目標を達成することができたわけです。坂倉さんも指摘されるように、映画では避難を誘導する警察官や消防士、避難所で非難された方のケアに当たる保健師などの職業人のほか、「巨災対」の事務室で清掃などに従事する作業員(おそらく清掃は委託しているでしょうけれども)の姿も描かれています。それら一つひとつは取るに足りないような役目しかないかもしれませんが、その積み重ねがヤシオリ作戦の成就につながったわけです。

ヤシオリ作戦の実施を決定する場面での「会議室の現場」は、赤坂首相補佐官やカヨコ・アン・パターソン米国大統領特使などとの少数者による打合せや交渉がメインではありますが、矢口が窓口となって各要路にレクを入れながらサブとロジを同時にこなしているような流れでした。そして、そこで実施が決まったヤシオリ作戦を官民問わずに各組織が役割分担して実行していくという連携のチャンネルがあり、それが有事にも機能するということこそが、矢口の「この国はまだまだやれる」という言葉に込められた希望の中身ではないかと感じました。それはまた、私が東日本大震災の現場で「そしてそれらのシステムは、日本において各分野の専門機関や企業が存在しており、これら各者が持てるノウハウを存分に発揮するための環境を整備しなければなりません」と感じ、実際に震災からの復旧・復興にそれぞれが果たした役割を見て実感したことでもあります。もちろん受け取り方はそれぞれだと思いますが、いやまあ語りたくなる映画ですね。
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