2016年08月28日 (日) | Edit |
先日のエントリで、「障害者支援団体が「一般的に公表される被害者の氏名が、この事件に関して公表されないことは大きな疑問を持たざるを得ない」と主張すること自体は、障害者だけ違う扱いをすることが新たな差別を生むことを懸念したものであれば、その限りで意味がある」ということを書いたところでして、それがどのような意味を持つものかまではそのエントリで言及できませんでしたが、今日は年に一度障害者や難病と闘病されている方を大々的に取り上げる日ということで、楽しみにしていた「バリバラ」を拝見しましたよ。

【生放送】 検証!「障害者×感動」の方程式(NHK バリバラ - NHKオンライン)

放送日8月28日(日)夜7:00
再放送9月2日(金)0:00(木曜深夜)
出演者鈴木おさむ カンニング竹山 IVANほか

「感動するな!笑ってくれ!」というコンセプトで始まったバリバラ。しかし、いまだ障害者のイメージは「感動する・勇気をもらえる」というものがほとんど。「なぜ世の中には、感動・頑張る障害者像があふれるのか?」その謎を徹底検証!スタジオでは「障害者を描くのに感動は必須か?」「チャリティー以外の番組に障害者が出演する方法は?」などのテーマを大討論!Twitterで視聴者ともつながり、みんなで「障害者の描き方」を考える。


「バリバラ」に演されている障害者の皆さんは、この国の社会では「障害者だけ違う扱いをすることが新たな差別を生む」という状況を身にしみてご存じであるからこそ、こうしたテーマを正面から取り上げることができるのだろうと思います。個人的にこの番組で特筆すべきと思うのは、身体障害者や知的障害者だけではなく精神障害者も同じように取り上げているところでして、統合失調症と診断されて芸人活動を休業していたハウス加賀谷が主人公となり、食べれば障がいがなくなるが記憶もなくなるという果実を食べるかどうかで葛藤する「悪夢」というドラマまで作っています。健常者と障害者の境界はどこにあるのかとか、健常者であるか障害者であるかを問わずその生きてきた人生をどう考えるのかとか、短いドラマですが見応えがありますのでこのテーマに関心のある方にはおすすめです。

で、今日の番組の冒頭ではまず、コメディアン兼ジャーナリストであった故ステラ・ヤングさんの講演が引用されていまして、その講演の全体はこちらで読めます。

これらはほんの一例に過ぎませんが、こういったイメージは世の中にあふれています。みなさんも、両手のない少女がペンを口にくわえて絵を描いている写真や、義足で走る子供の写真を見たことがあるのではないでしょうか。 こういう画像はたくさんあり、私はそれらを「感動ものポルノ」と呼んでいます。 (会場笑) 「ポルノ」という言葉をわざと使いました。なぜならこれらの写真は、ある特定のグループに属する人々を、他のグループの人々の利益のためにモノ扱いしているからです。障害者を、非障害者の利益のために消費の対象にしているわけです。

(略)

障害者の生活には、実際それなりに困難がつきまといます。乗り越えなければならないことはいろいろとあります。でも私たちが克服しなければならないことは、みなさんが考えるようなたぐいのものではありません。身体の障害は関係ないのです。 私は「障害者」という言葉を意図的に使って来ました。なぜなら、私たちの身体と病名よりも、私たちの生きる社会のほうがより強く「障害」になっていると感じているからです。

「障害者は「感動ポルノ」として健常者に消費される–難病を患うコメディアンが語った、”本当の障害”とは」(logmi)
※ 以下、強調は引用者による。

これも当時話題になったので「感動ポルノ」という言葉も一部では認知されていると思いますが、マスメディアであるNHKがこれを正面から取り上げたことには意義があるといえます。番組でも引用されたこの部分では「私たちの生きる社会のほうがより強く「障害」になっていると感じている」との指摘がありますが、日本よりもノーマライゼーションが進んでいるアメリカですらこのような指摘がされるのであれば、この国の社会での障害者の位置づけがどんなものかは推して知るべしというところでしょう。

そうした現状を踏まえれば、相模原市の津久井やまゆり園での凄惨な事件に際して、手をつなぐ育成会が「事件で傷ついた被害者やご遺族が少しでも穏やかに過ごせるよう、特に報道関係機関には特段の配慮をお願いします」という声明文を表明し、「遺族による強い希望もあり、そのような判断をした」という神奈川県警が被害者の実名を公表しなかった理由が見えてくると思います。

つまり、健常者の事件でさえ、被害者やその遺族は家族構成や素性など大々的に公表されてしまい、マスメディアによって感動ストーリーが作り上げられてしまうこの国において、今回の事件で被害に遭われた方々が障害者であるという特異性が強調され、さらに大々的な感動ストーリーに仕立て上げられることは十分に予想されます。そこでSNSによる「検証」が始まって「ネタ」が発見されれば、誰にも制御できない状態が生じることはこれまでにも散々繰り返されたことです。そのような事態が予想される中で、実名を公表しないというのはやむを得ない判断だったろうと思います。

今日の番組での解説によれば、80年代に入るまではNHKでも「障害を背負ったかわいそうな子どもたち」とアナウンスしていたのが、1981年の国際障害者年などを契機に「明るく社会参加する障害者」として取り上げられるようになり、それらが組み合わされて「不幸でかわいそう×けなげにがんばる=感動」という図式がマスメディアに浸透していったそうです。

今年で39年目を迎える某24時間(以上連続して放送される)番組が始まった1978年は、ちょうどこうした図式が形作られていく途上だったのでしょう。その当時に「不幸でかわいそう×けなげにがんばる=感動」という図式がそれなりに意義を有していたことは否定しませんが、ドミノがマラソンになったりとか番組の構成を少しずつ変えながらも、その根幹にある「感動」の図式を変えずに40年近く続いていることは、日本の社会の変わらない部分を如実に示しているものといえそうです。

番組で紹介されていたイギリスでは、そうした図式で放送されていたチャリティ番組に当事者である障害者から抗議運動が広がり、BBCでは1990年代に「障害者を“勇敢なヒーロー”や“哀れむべき犠牲者”として描くことは侮辱につながる」というガイドラインを策定するに至ったとのこと。20年前の話ですね。

まあ、マスメディアというもの自体が報道やジャーナリズムのほかにエンタテインメントとしての機能を有していて、そのエンタテインメントの重要な要素が「感動」であることからすれば、マスメディアが「感動の図式」を簡単に手放すわけにはいかない事情もあるだろうとは思います。イギリスでも同じような議論があったということがその普遍性を示しているといえそうですが、抗議活動からガイドラインの策定にまで至るようなことが日本でも生じるかどうかが、この国の変化を読み取る鍵になるのかもしれません。日本の社会のノーマライゼイションが進まない理由を考えたときに、けだし「日本人の苦しみの原因が社会が要求するレベルの非現実的な高さにある」というのは名言だなと思います。

ついでに、障害者以外ではスポーツでこの「感動の図式」が典型的で、今年もオリンピックや高校野球の「感動の図式」に関していろいろと議論があったのは記憶に新しいところですね。スポーツのトップアスリートが全てをなげうって長時間練習する姿をドラマチックに取り上げ、金メダルを逃した選手がマスメディアを通じて謝ったり、野球留学してまで甲子園を目指した高校生が炎天下でけがを押して連投する姿が夏の風物詩となるような社会がその土壌となっているのであれば、イギリスのようなガイドラインの策定は望み薄ということなのでしょう。

欧米に比べて「感動」のハードルが高いというのが適切かよく分かりませんが、他人の人生に過剰な「感動ポルノ」を求める土壌がなんなのかを考えるのが、今日という日なのかもしれません。いやまあ、某24時間(以上連続して放送される)番組については、そもそも「はじめての○つかい」とか「○人間コンテスト」とか「感動の図式」を駆使する番組を擁し、今年のオリンピックでも箱根駅伝や巨人戦の中継で培った「ポエム実況」(レスリング吉田沙保里の銀メダルに水を差した日テレ河村亮アナの「ポエム実況」(Asagei Plus))でおなじみの放送局が製作していますし、かの放送局は視聴率も絶好調とのことで、震災2年目の2012年の放送の時点で伊集院光氏が「もはや日本の“奇祭”」と指摘されているのは、そうした現実を的確に表しているのでしょう。
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