2016年01月11日 (月) | Edit |
前回エントリに引き続き、女性労働についてはいろいろな言説が飛び交っているところでして、本書の歴史的な事実の積み重ねを読み進めるにつけ、女性労働に対する反感というのが同じところをグルグルと回っているのだなあと思わざるを得ません。本書で例示されているところでは、

 戦後のBG、OLに連なる女事務員の第一号は、1894年の龍ケ崎町役場と三井銀行大阪支店だそうです。これは男性陣にとって驚異に感じられたようで、1928年に『サラリマン物語』(東洋経済出版部)で「サラリーマン」の呼称を世に広め一世を風靡した前田一氏は、翌1929年の『職業婦人物語』(東洋経済出版部)で、こう悲鳴を上げています。

男性の就職地獄は年とともに深刻になってゆく。……
職業婦人! さうだ! 職業婦人の進出が、不知不識の間に男性の就職分野を狭めつつある事実を、誰れが否定出来やう。嘗ては女人禁制の神域と思われてゐた職業の分野すらも、ぢりぢりと女性の侵蝕を蒙って居る

 ちなみに前田一氏は戦後日本経営者団体連盟(日経連)の専務理事を務めた人物です。
pp.42-43

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働く女子の運命
濱口桂一郎
定価:本体780円+税
発売日:2015年12月18日

※ 以下、強調は引用者による。縦書き記号(ゝ)はひらがなで表記しています。

というのがあるのですが、書影にもある上野千鶴子氏のようなフェミニストに対する批判が高じて女性の社会進出こそが悪だと声高に主張される方も散見されますね。

この生物学的「自然」に逆らった社会を実現しようとすると、様々な歪みが生じることは避けられません。

出産した女が男並みに働く意欲が乏しいのが「自然」であるなら、企業や組織の上層は男が多くなるのが「自然」です。それを男女平等イデオロギーに基づいて男女をほぼ同数にすれば(クォータ制)、適材適所に反する上、男に対する逆差別になってしまいます。
(中略)
男女の役割分担の問題が厄介なのは、体格や体力と同様、集団としては競争心や稼得労働意欲の面で男>女であっても、個々では男の上位集団に食い込める例外的な女もいることです(例:西太后、角田美代子)。その一例が自称ワーカホリックのYahoo!のCEOマリッサ・メイヤーです。
(中略)
「1億総活躍」が、過大な負荷をかけられて潰される女と、逆差別されて潰される男を量産することにならないことを祈ります。*2

「北欧モデルの「1億総活躍」への懸念( 2015-10-30 )」(Think outside the box)

こちらのサイトでは欧米の労働事情を引き合いに出して「日本(だけではありませんが)の女性の社会進出」を批判されていまして、まさに「企業や組織の上層は男が多くなるのが「自然」」なのに「嘗ては女人禁制の神域と思われてゐた職業の分野すらも、ぢりぢりと女性の侵蝕を蒙って居る」との懸念をお持ちのようです。その理屈はもっともな面がなくはないのですが、いかんせん日本と欧米の労働事情を一緒くたに論じているので、批判があらぬ方向に展開してしまっているように見受けます。

上記引用のエントリでは、「体格や体力と同様、集団としては競争心や稼得労働意欲の面で男>女であっても、個々では男の上位集団に食い込める例外的な女もいる」ことが男女の役割分担として厄介とのことですが、集団的な傾向と個々の能力・意欲に差があることは当然だろうと思うところです。むしろそのような集団的傾向と個々の差を無視してしまうと「統計的差別」につながるというのが欧米の雇用における大きな問題となっているところでして、それをことさら問題にしなければならない理由がよくわかりません。

ただし、本書ではこの「統計的差別」を男女差別に応用するのは日本特殊事情によるものであるとのご指摘がありますので、そのカラクリを確認してみましょう。

 ジョブに基づく社会では、雇用も賃金もジョブとスキルに基づいて決まります。そして、かつてはスキルが高く評価されるジョブは男性に独占され、女性は低技能、無技能のジョブに押し込まれるのが通例でした。多くの場合、それは女性を組合員として受け入れようとしない労働組合自身の手によって行われました。そういう中で、労働者が男女同一賃金を主張するというのは決して女性のための運動ではなかったのです。
(略)
 これが切実なものになったのは第一次大戦により男子労働者が多数軍事動員され、一方で戦争のための軍需産業部門が急速に拡大し、労働力不足を補うために多くの女子労働力が投入されるという事態が進行したからです。ちょうど第二次大戦期の日本で女子挺身隊などの女子労務異動員が行われたのと同じです。これをダイリュージョンと呼びます。「希釈」(水割りすること)という意味です。女が男の職場に入ってくることを「水割り」と表現すること自体、当時の男たちのマッチョな意識をよく表しています。
 彼らは女なんかに俺たちの仕事ができるはずがないといっていたのに、やらせてみたら結構やれるので慌てたのです。安く調達できる女にもできる仕事だったら、同じ仕事をしている組合員の男達にも同じ引く賃金を払えば良いじゃないかとなってしまいます。
 ジョブとスキルに基づくジョブ型社会でそれを阻止するためには、男女同一労働同一賃金を主張するしかありませんでした。それは、できれば男の職場に女を入れたくないという気持ちに基づいた主張だったのです。
濱口『同』pp.144-146

まず確認しておくべきは、ジョブ型雇用である欧米では、女性のジョブそのものが低技能、無技能のジョブに押し込められていたという実態があり、それが女性の低賃金につながっていたのが、実は女性でも男性と同じジョブをこなせるとわかってしまったために、ダイリュージョンによる賃金低下を防ぐために男性の側から「男女同一賃金」が主張されたという欧米の歴史的経緯です。1960年代から70年代にかけてそれが法制化されていくのですが、そこで問題になったのはやはりジョブの区分です。

…同一労働同一賃金原則それ自体は、そういう男女間のジョブ分離に対しては何の力もありません。同じジョブには同じ賃金といっているだけなのですから、異なるジョブに異なる賃金を払うのは当たり前です。しかしそれでは低技能、低賃金ジョブに押し込められている女性を救うことはできません。
 ある意味では今日に至るまで、欧米社会における男女平等問題の悩みの種はこの性別職務分離(ジョブ・セグレゲーション)にあります。これを解決するために、欧米社会で進められてきたのが、賃金面では同一価値労働同一賃金であり、雇用面ではポジティブ・アクションです。
濱口『同』p.152

ポジティブ・アクションとかアファーマティブ・アクションと呼ばれて、具体的にはクォータ制などと呼ばれる女性を優先して処遇する政策は、洋の東西を問わず難しい問題ですが、hamachan先生によると、ここで日本独特の現象が起きます。欧米では人種などの外見的属性で雇用の可否や処遇を決定していまう「統計的差別」が、日本では「将来的な雇用可能性」で雇用の可否や処遇を決定していまう「統計的差別」に換骨奪胎されたとのこと。

 どちらも(引用注:ケネス・アローとエドマンド・フェルプス)主として人種差別を念頭に置いて理論を組み立てているのですが、労働者の能力(日本的な「能力」ではなく、端的にそのジョブを遂行する能力のことです)は外部からは見分けにくいので、その外見的な属性でもって雇用上の判断をしてしまうという現象を指しています。
(略)
 しかし、問題はむしろ価値判断以前に、ジョブ型労働社会を前提に、採用時の能力が見分けにくいことに基づくアメリカの統計的差別理論を、メンバーシップ型労働社会を前提に、将来の勤続年数が見分けにくいことに基づく特殊日本的統計的差別論に換骨奪胎してしまっている点にこそあるように思われます。アメリカでは不当なものという含意の強い統計的差別論が、日本では仕方がないとか当然だといった含意で語られがちになるのも、その議論の前提が異なっている(にもかかわらずそれがきちんと認識されていない)からなのではないでしょうか。
濱口『同』pp.171-172

つまり、人種差別による「統計的差別」はけしからんが、男女の勤続年数が見分けにくいことに基づく日本的な意味での「統計的差別」は当然のものであって、それから外れるような女性の扱いこそが厄介だという上記ブログの感覚は、まさに日本的なメンバーシップ型労働社会を前提としたものになります。個人的には上記ブログの引用部分の最後で「「1億総活躍」が、過大な負荷をかけられて潰される女と、逆差別されて潰される男を量産することにならないことを祈ります」と指摘されていることそのものにはある程度同意するのですが、そこに至る考え方は二重、三重にもねじれているように思われますね。

なお、引用部分の省略した部分で参考としてリンクされているエントリでの、

女は出産すると男と同じように働かなくなる傾向があるにもかかわらず、女に男と同じように働くことを求めれば、出産しなくなる女が増えることも予想されます(出産が男女分業を促す→男女分業しないためには出産しない)。男女共同参画は出生率上昇にはつながらないどころか、むしろ低下させる恐れもあるわけです。

どうしてもクォータ制を導入するのであれば、ヒエラルヒーの頂点(取締役や政治家)だけではなく、底辺にも適用するべきでしょう。たとえば「ブラック職種の40%以上は女にしなければならない」のようにです。レスキュー隊や潜水士、鳶職など危険な職種も同様です。さもなければ、論理が一貫しません。*2

差別のない「理想の社会」が実現するでしょう。

「クォータ制に関する記事のまとめ( 2014-09-08 )」(Think outside the box)

というご指摘の最後の部分は、次で引用するようにhamachan先生が本書で「マミートラックこそノーマルトラック」と指摘されていることと結果論としては同じなのですが、その思想がソーシャルではなく個人主義的なものであるため、さらにねじれた主張になっていると思われます。端的に言えば、直近エントリで引用されているガーディアン誌の記事についての評価が、

女の就業率を高めるのであれば、「男女平等」の美名のもとに男の収入を相対的に引き下げることが効果的です。経済的に頼りになる男の減少は、非婚化→少子化を通じて長期的には労働力不足を招くので、さらに「女の就業率上昇が必要」という主張を正当化します。*4
(略)
その帰結は歴史が教えてくれますが。*5

As women have poured into labour markets around the globe, state-organised capitalism's ideal of the family wage is being replaced by the newer, more modern norm – apparently sanctioned by feminism – of the two-earner family.
Never mind that the reality that underlies the new ideal is depressed wage levels, decreased job security, declining living standards, a steep rise in the number of hours worked for wages per household, exacerbation of the double shift – now often a triple or quadruple shift – and a rise in poverty, increasingly concentrated in female-headed households.

How feminism became capitalism's handmaiden - and how to reclaim it
Nancy Fraser(Monday 14 October 2013 06.30 BST The Guardian)


「安倍首相の「景気がよくなるから妻が働く気になる」(2016-01-10)」(Think outside the box)

となっていて、ちなみに女性に対する労働法規上の保護を外すというのは、これまで日本の均等法が順次辿ってきた道でして、現状である程度は男女関係なく就労させることができるようになっているのですが、上記ブログ主の方がどのような法制度を構想されているのかも興味深いところですね。まあそれはともかく、どうも「日本的リベラル」と欧米のリベラルを混同している印象がありまして、引用されているガーディアン誌の記事の結論部分では、

In all these cases, feminism's ambivalence has been resolved in favour of (neo)liberal individualism. But the other, solidaristic scenario may still be alive. The current crisis affords the chance to pick up its thread once more,

として、確かに全ての事例でフェミニズムは(ネオ)リベラル的個人主義に親和的な結果に終わっているが、社会的連帯につながるシナリオはまだ生きているので、この危機をもう一度チャンスとして解きほぐすべきと主張しているんですが、まあもちろん、「そんな戯言をほざいてるからフェミニズムはダメなんだよ」という評価もありうると思う(個人的にもそう思わないではない)ものの、その記事を引用して「だから男女平等なんてろくなもんじゃない」というご自身の主張に惹きつけるというのも、なかなかマッチョな考え方だなあと思う次第です。
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