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2015年11月03日 (火) | Edit |
しばらく前についったのTLで流れてきたネタなんですが、「editor」という月刊誌『KOKKO』編集者・井上伸氏のブログで後藤道夫先生の講演の一部要旨がアップされていまして、井上氏といえば国家公務員一般労働組合(国公一般)のブログ「すくらむ」管理人ですね。「すくらむ」は以前OECDのデータを引用した際に拙ブログでも引用させていただいたことがありますし、こちらのエントリのコメント欄では拙ブログのエントリが引用されていたりとご縁があるところですが、関心領域は似ているものの向いている方向が正反対な印象でして、後藤道夫先生の講演もそのタイトルとは正反対に見事な公務員disが展開されています。

「業界横並び体質」、官僚の「仕切り」による開発主義国家

膨大な国家財政を大規模な公共事業に投入して、業界と大企業を育成・援助し、同時に、企業間の競争を仕切って、指導しながら横並びで安全に成長させていく、そして保守政治家と一部のキャリア官僚がその関係を養分にして強い力を持つ。これが、「政・官・財癒着」、「業界横並び体質」、官僚の「仕切り」などと呼ばれている日本の社会システムです。こうした体質と構造を持つ日本を、私は「開発主義国家」と呼んでいます
(略)
…米国日本政策研究所所長で、カリフォルニア大学名誉教授のチャーマーズ・ジョンソン氏が著作『通産省と日本の奇跡』(1982年)の中で、日本を「開発志向型国家」と呼び、「国家主導型市場システム」における経済官僚機構の役割を強調しました。いずれも、日本が欧米型の自由市場モデルとは違う独自の国家と企業の関係を持っていて、日本経済の強い成長力の源泉はそこにある、という主張です。

「開発主義国家」のこうした役割をになうため、中央省庁も「開発主義的」な行政機構や体質を持っています。近年、官僚バッシングや公務員バッシング、行政への風当たりが非常に強いわけですが、それは、主に「開発主義」を支えてきた行政の機能とそれに適した行政機構・行政体質に向けられたバッシングだと思います

日本で激しい公務員バッシングが生まれる理由(editor 2015/10/5)
※ 以下、強調は引用者による。

リビジョニストであるチャーマーズ・ジョンソンを引用して、社会システムが「開発主義国家」だからそれを担う行政機構がバッシングを受けるというのは、リビジョニストが抱える矛盾点をそのまま援用することになるわけで、なんとも据わりの悪い議論ですね。念のため、拙ブログでは特に断りなくリビジョニストとしてのチャーマーズ・ジョンソンとしていますが、リビジョニストの考え方やその自己矛盾については、こちらの論稿が参考になります。

パッカードは,日本異質論には深刻な自己矛盾があると主張する。日本異質論者は,日本には世界を制覇し,米国産業を壊滅させる経済戦略があると主張する一方,日本には指導力も中枢部もなく,価値観も,将来の構想もないと主張する。しかし,日本に世界制覇や米国産業の壊滅のための全体的・長期的な方法があると主張するのであれば,日本にその方法を作り出す指導力や中枢部,価値観,将来の構想があると主張しなければならない。クモがいなかったらクモの巣はない。だが,日本異質論者が言っていることは,クモがいないのにクモの巣があるというのに等しい。日本異質論には,「戦略を作る人間がいないのに戦略がある」というに等しいきわめて大きな自己矛盾がある

【PDF】福島政裕「日本異質論研究 大論争」(東海大学紀要政治経済学部 第42号(2010))

私の記憶では、チャーマーズ・ジョンソンによる「開発志向国家」論については、高度経済成長には通産省の産業政策(「傾斜生産方式」など)はほとんど影響がなかったとするケント・E・カルダー『戦略的資本主義—日本型経済システムの本質』で反論されてしまっていたはずですが、まあビジョニストの考え方そのものが「敵を強大に描いておけば、持論が実現しない場合であっても「その敵が強大な力を有していて、あらゆる手段を使って陰謀を張り巡らしているから、俺は正しいことをいっているのに実現されないのだ」と言いつのることで、永遠に言い逃れをする」ための議論だったということかもしれません。

ということで、リビジョニスト的な日本社会論を援用する後藤先生は、その帰結としてご自身も自己矛盾に陥っていらっしゃるわけでして、

これまでの日本において、「福祉国家」が存在したことはありません。「福祉国家」とは似て非なる「開発主義国家」であったわけです。「開発主義国家」であった日本では、政府の財政力、行政力は、企業、業界、各種利益団体のところに注がれます。その結果として、国民の生活がなんとか良くなる、マーケットの状態が良くなる、雇用が増える、賃金水準が上がる――というふうにして国民の生活が、政府から社会保障として直接支援されるのではなくて、「開発主義」政策を通じて間接的に支援されるという構造を取ったのが日本の「開発主義国家」です。

後藤
※ 以下、「後藤」は上記ブログからの引用。

ふむふむ、なるほど男性正規労働者に生活給を保障していた日本型雇用慣行の裏側には、政府による生活保障の貧弱さが隠されていますよね。ということは、職務に限定がなく、長時間労働や異動の受け入れを前提とする日本型雇用慣行(とそれによる生活保障)の維持が難しくなっている現状においては、政府による生活保障の拡充、つまり、税収を確保して再分配を拡充しなければならないはずですね。

労働組合の努力も、企業の成長を前提とした上で、労働者への配分を確保する「春闘」を中心としたものとなっていきます。そうすると、企業の業績回復が何より優先されることになり、労働組合も「企業主義統合」に巻き込まれ、結局、人間らしい生活水準の確保は、労働者一人ひとりの努力、「自己責任」にまかされています。住宅や高等教育の費用を考えれば、そのことはすぐ分かります。日本は「自己責任国家」なのです。

「福祉国家」ではない日本の労働者にとって、日本型雇用の長期雇用と年功型賃金が頼りであるのに、「構造改革」「新自由主義」はそこを破壊対象とします。

日本の労働者は、「労働能力と労働意欲があれば市場収入で最低生活は可能という大前提」に立たされ、「企業主義統合」「日本型雇用」でしか人間らしい生活水準を確保できないのです。ですから、「派遣切り」など「非正規切り」、そして「正社員切り」などの横行で、労働者は、路頭に迷うほかないのが現状であり、日本全国が「派遣村」となってしまいかねない状況にあるわけです。

後藤

…え? 日本型雇用の長期雇用と年功型賃金が頼りなのであれば、後藤先生がおっしゃるところの「開発主義国家」における「企業主義統合」と「日本型雇用」のままでよろしいのではないかと思ってしまいますね。しかもそれらを破壊すると日本全国が「派遣村」になってしまうのであれば、なおさら「開発主義国家」を堅持すべきではないかと思うのですが、後藤先生は上記引用部で「開発主義国家」のために公務員バッシングが起きるからケシカランとおっしゃっていたはずですよねえ。

まあ、もしかすると後藤先生のおっしゃる「開発主義国家」は「自己責任国家」と同義であって、その中での「企業主義統合」と「日本型雇用の長期雇用と年功型賃金」も自己責任であるということかも知れませんが、そうなると今度は日本型雇用を擁護する理由がなくなるわけでして、いったい何がどうなればいいのか私の貧弱な思考回路では見当がつきません。

と思って読み進めると、最後はこう締めくくられていました。

そして、国民、労働者の側は、これまで「開発主義国家」と「企業主義統合」の中で暮らしてきましたから、国家行政と地方自治体などから生活を支えてもらっている実感がほとんどないわけです。行政サービスを受けているという実感のあまりない国民は、「開発主義国家」における官僚の腐敗などをマスメディアでみせつけられると、「官僚が日本をダメにしている」などという公務員バッシング言説にすぐだまされてしまうわけです。しかし問題の本質は、「政・官・財癒着」の社会システム、つまり、自民党政治とキャリア官僚と財界・大企業の合作政治・行政にあるわけで、その構造にメスを入れ、改革していかなければ日本社会を改善していくことはできないのです。

後藤

…うぅむ、結局最後は(キャリア)官僚バッシングですか。。いやまあ、公務員を擁護すると見せかけて盛大にバッシングするところは典型的な公務員バッシングですなぁと一本とられた気分です。さはさりながら、「「開発主義国家」における官僚の腐敗などを見せつけるマスメディア」という一連の流れが、「行政サービスを受けているという実感のあまりない国民」に受けがいいとのご指摘には全面的に賛同するところでして、拙ブログでも「男性正社員が家計を支えているうちは社会保障なんぞ構う必要がないほど生活が保障されるというのが、日本型雇用慣行が有する世界的に特筆すべき優位性」が障壁となって、公共サービスの拡充とその財源となる税収の確保が忌み嫌われるのだろうと考えております。

でまあ、上記引用部で「「企業主義統合」「日本型雇用」でしか人間らしい生活水準を確保できない」とおっしゃるのであれば、後藤先生は少なくとも「企業主義統合」とセットになった「日本型雇用」は維持することを想定されていると思うのですが、それと「「政・官・財癒着」の社会システム」を改革することはどのように関連するのでしょうか。後藤先生の講演要旨のタイトルからすると、「「政・官・財癒着」の社会システム」の構造にメスを入れれば「日本型雇用」が維持されて国民はハッピーになり、公務員バッシングはなくなるのかとも思ったのですが、結論そのものが公務員バッシングとなっていてその真意がよくわからないんですよね。

まあ個人的には、後藤先生のように政府を攻撃しなければ気が済まない日本的左派の皆さんが、マスメディアのみならずネットやら街頭やらで政府を攻撃し続ける限りは、(日本型雇用はともかく)公務員バッシングがなくなることはないだろうと思われます。というより、日本的左派の皆さんが上記のようなよくわからないレトリックでもって血道を上げて政府攻撃に邁進されることそのものが公務員バッシングを容認する現状につながっているわけでして、典型的な公務員バッシングである後藤先生の講演要旨を拝見して改めてその思いを強くしたところです。

(付記)
いわずもがなで省略してしまいましたが、もう一つの後藤先生の自己矛盾も取り上げておきますと、震災後の東電バッシングについて、hamachan先生が取り上げた河野太郎氏の言説と共通する認識を、後藤先生もお持ちのようです。

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20120502#p1(東電よ、値上げするなら賃下げせよby河野太郎先生)
(略)
労務屋さんの感想とはいささか違う角度からになりますが、ここで河野太郎氏が示しているものの発想には、東京電力株式会社という法人の労働力取引相手先である労働者たちを、当該東京電力の一味郎党として一緒に叩いてやらずんば済まぬ、という感覚が濃厚に表れていますね。
(略)
まあ、日本社会はみんなそうは思っていないから、政治家もごく自然にこういう発想になるわけですが。まことに、社会規範としてのメンバーシップ思想は、立法府の選良も含めて全ての人々に共有されているという良き実例でありました。

河野太郎氏のメンバーシップ型思想(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳) 2012年5月 3日 (木))

後藤先生は「開発主義国家」における「企業主義統合」(とセットになっている「日本型雇用」は擁護されているようですが)を批判されていて、公務員バッシングについても、「「開発主義」を支えてきた行政の機能とそれに適した行政機構・行政体質に向けられたバッシング」であると指摘されています。

であれば、「企業主義統合」を前提とした公務員バッシングを防ぐためには、「企業主義統合」を前提とした認識を改める必要があるはずです。言い方を変えると、政府の各省庁や都道府県庁、市町村の役所の労務提供者を、その勤め先と同一人格とみなして批判することそのものが批判の対象となるはずですが、後藤先生は「企業主義統合」は批判するものの、それを前提とした公務員バッシングは当然のことと考えているように見受けます。まあ公務員バッシングそのものは「企業主義統合」だけが原因ではないのかもしれませんが、少なくとも後藤先生の論旨が一貫していないことは把握しました。
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コメント
この記事へのコメント
>その勤め先と同一人格とみなして批判することそのものが批判の対象となるはずですが

利益は受けるけど批判はダメよってふざけてる。ただの労働契約だから労働者に罪はないと筆者は言うのだろうが、「手厚く守られている人(東電)」と「全く守られていない人(派遣村・中小零細企業従業員)」が居るわけで、その保護のために税金が「特別に」使われていて「ただの労働契約では説明できない」から従業員含めて批判されているわけです。

仮に東電社員を擁護することが労働者の人権だというなら、労働者の99%は東電従業員より守られていないのだからそっちのほうが問題だろう。

東電社員は「差別された」などと言っているが、まさに同じ労働者という立場で東電従業員が税金も使われて手厚く守られている現状は「身分差別」でしか説明できない。

2017/01/02(月) 04:47:08 | URL | 自由主義者A #-[ 編集]
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