2015年10月26日 (月) | Edit |
一時期の繁忙期を過ぎたのでやっと積ん読をぼちぼち処理できるようになっていますが、何冊か読んだところでちょっと頭を抱えてしまったところです。というのも、拙ブログでは「増税忌避」という言葉を使っていますが、よりストレートに「租税抵抗」という言葉を使った本がありまして、すわ増税の必要性を指摘している拙ブログと同じ内容!?と思って拝読したところ、…うーむ、これは誰に向けて書いているのかよくわからないというのが正直な感想です。まあ、拙ブログではマルクス経済学の影響が大きい左派的な財政学には懐疑的な立場をとっているため、その直系の先生によって書かれた本書の記述に馴染めないというだけなのかもしれませんし、実際、本書で取り上げられている特に海外のエビデンスやデータは客観的な内容のものが多いと思います。特に、経済学を信奉する割に財政学とか公共経済学の議論をガン無視される方々は、特にこの部分などを熟読玩味されるのがよろしいかと思います。

 仮に国家が租税徴収の根拠として「公共性」を提示できない場合にいかなる事態が生じるのか。これが租税抵抗である。シュンペーターと同様、租税国家の生成について目を向けた社会学者のノルベルト・エリアスは、「公のこと」や「国家」という表現が、領主と王に対する抵抗の言葉でさえあったと指摘した(エリアス1978:317)。租税国家が成立して公共圏が形成されてから、国家権力の行為が不正に満ちていると感じられるのであれば、人民もまた同じように「公」の概念を持ち出すことで、国家に立ち向かい、抵抗するようになったのである。
 租税がかくも人民の抵抗を引き起こすのは、これがその本質として「強制性」を有しているからである。租税とは、「反対給付の請求を伴わぬ強制公課」のことであり、強制性とは無償制ないし一般報酬性を特徴としている(シュメルダース1967[1965]:414)。この点は、自発性と有償性ないし個別報償性とを特徴とする保険料や自己負担などの受益者負担といった財源調整手段とは明らかに異なる点である。自分の意思による支払いではないということ、自分に利益が帰着しないかもしれないということ、租税のこの特徴が国家嫌悪や租税抵抗を引き起こす原因となる
p.39

『租税抵抗の財政学―― 信頼と合意に基づく社会へ ――』佐藤 滋,古市 将人
※ 以下、強調は引用者による。

拙ブログでも、震災復興の財源問題について「社会保険料は拠出の義務に対して受給の権利が対応し、原則として国会の審議を経ずに個別の支給額が決まるため、もっとも「色」が濃い財源」と書いておりましたが、経済学ではない財政学ではきちんとその点は区別されて議論されているわけです。まあ、財源に色をつけるために行う「予算編成」という作業に携わっている役人にとってその困難さは自明であっても、特に経済学方面の方からすると、どんな財源でも予算は自由自在に組めると思われているようでして、本書の続きの部分も参考になりますね。

 実は、債務国家というのは、国家が公共的であろうとする努力をせず、租税抵抗を安易な形で回避しようとするところに生じるものである。リカードの等価原理は、租税と公債とが経済的に見て等価であることを説くが、施政者側の判断といても購買力を移転する側としても、この区別は実のところ極めて重要である。財政心理学という独自の領域を切り開き、租税抵抗問題を正面から取上げたシュメルダースは、「心理的にみると、租税と国債は対立物であって、火と水のようなものである」という(同:545-546)。
 それというのも、租税のもつ強制的性格によって、その不公正な賦課・割当が「あらゆる規模の租税抵抗を挑発する」が、一方、国家の保証が付随した資本証券たる国債は、人々の遊戯本能や名誉欲などを刺激し、自ら購買力を国家に移転するような積極的な反応を喚起することができるからである。「租税か公債か」を決定する基準は、「経済の領域よりも、むしろ政治的・心理的な領域に存在する」(同)。

佐藤・古市『同』p.40

リフレーション政策の手法として国債の日銀引受とか通貨発行益による財政ファイナンスを主張する方々は、ご自身はあくまで経済学的な議論を展開されているつもりなのでしょうけれども、一般の方にすれば政治的・倫理的な領域の問題だというのは大変示唆的な指摘だと思います。いつもの繰り返しですが、私自身はリフレーション政策をゆるやかに支持する立場ではありますが、同時に役人として再分配政策の拡充の必要性も痛感しているところでして、再分配というフロー支出は税収というフロー財源によって賄われるべきと考えております。しかし、当然ながらそうした再分配の制度化や予算編成は政治プロセスを経なければなりませんので、その実現は政治的なものに大きく左右されるということも理解しているつもりです。

そして、政治的なるものは理論的正しさやモデルの美しさで決まるものではないわけでして、権丈先生の言葉をお借りすれば「政策は、所詮、力が作るのであって、正しさが作るのではない」ということに尽きるのですが、経済学的な理論のみで議論される方々にはなかなかそうした側面が意識されることはなさそうですね。まあ、経済学者の方々は理論的な正しさとかモデルの美しさに並々ならぬこだわりをもつことが仕事という面もあるでしょうから、それはそれとしてお仕事に邁進されればよろしいのですが、それを一般の方が真に受けてしまったり、さらにはそれに気をよくしてか知りませんが自らの理論的正しさを即座に現実に適用できると考える学者もいるわけでして、それが回りまわって現実の政治的な攪乱要因となってしまうという事態が生じるに至ると、学者先生のご託宣に付き合うのも考えものです。

という理路からすると、ではそうした政治的なものの攪乱要因をいかに調整するかという点に議論が進むかと思いきや、日本的左派らしく本書の矛先は政府に向いていきます。主に第2章で1960年代から70年代の財政制度審議会の議論を引用して「保険料と税との徹底的な入れ替え」が進められたというのですが、いやまあ大蔵省主計局の戦略としてはそうかもしれませんが、本書でも指摘しているように厚生省は公的扶助や社会福祉の拡充を求めていたわけでして、政府といっても一枚岩ではありませんね。そうした省庁間の対立は官僚内閣制とか官庁代表制と呼ばれる政策決定プロセスであって、それぞれの背後の利益団体がその意向を反映させようとしのぎを削っているんですが、そうした政治的プロセスについて本書はほとんど言及がないところでして、それが「誰に向けて書いているのかよくわからない」という感想の理由です。その違和感は、この部分によく表れています。

 これまでみてきたように、日本の社会保障制度は人々の「共同の困難」に対処したものではない。それはむしろ、制度の分立状況やサービスが過小供給であることを前提に、受益者と非受益者という形で人々を分断させ、リスクを〈私〉化し、受益者負担を導くものである。受益の範囲が狭いために、反対給付を伴わない租税による財源措置では合意を得られない、という理由からだ。受益者負担の導入には、租税抵抗の回避がその根底にある。日本型負担配分の論理とは、このようなものだ。

佐藤・古市『同』p.72

…うーむ、この部分を読むと、政府の問題というより「租税抵抗」を示す国民が選別主義的な社会保障を志向しているという状況しか思い浮かばないのですが、本書は決して租税抵抗を示す国民を敵に回すことなく、その租税抵抗と選別主義的な社会保障を志向する国民を背後に利害調整に当たっている政府を批判するんですよね。プリンシパル=エージェント的な意味で政府の行動を批判するならまだわかりますが、「民意」から遊離した政策決定を称揚するのでなければ、政府の行動はきちんと「民意」を反映したものという評価が妥当ではないかと思うところです。

なお、本書では日本型フレクシキュリティに一切言及がないので、日本型雇用慣行が公的な生活保障機能の貧弱さを肩代わりしていたことや、バブル崩壊後に日本型雇用慣行の維持が難しくなって会社が肩代わりをしていた生活保障が機能不全に陥っている状況が考慮されていないようでして、この点からも、日本型雇用慣行のコロラリーである終身雇用と年功序列に手をつけられない日本的左派の限界を感じるところです。とはいえ、財政学的な観点から日本の「租税抵抗」について考える際に、海外の研究を引用した部分については、本書を読むと一通りの議論を押さえることができるのではないかと思います。
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