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2015年10月25日 (日) | Edit |
普段実務のことばかり考えている下っ端公務員としては、天下国家とかのたいそうな話はあまりピンとこないところがあるのですが、最近の(といっても旬は過ぎたようですが)の立憲主義をめぐる議論はさらにピンときません。まあ、個人的に政治学者の言うことは眉唾に感じるというのもあって、政治学者とか政治がかった学者の議論にはついていけないところがありますが、周回遅れでhamachan先生のご指摘には納得することしきりです。

アメリカにおける労働法の歴史をひもとけば、裁判所が、契約自由という至高の原理や共謀は悪だという法原理を掲げて、労働組合などという不逞の輩のやらかすあれやこれやを一生懸命叩いてきたことが分かります。民主主義原理に基づいて、クレイトン法を作っても、ひっくり返されるし、ローズベルト大統領の下で、NIRAを作っても、違憲だとひっくり返される。ワグナー法も違憲なるところを、ローズベルト大統領がむりやり最高裁の判事に自分の側の人間を押し込んで、なんとか合憲にしてしまったわけで、民主主義に批判的な立憲主義の立場からすれば、ほとんど民主的な独裁政権でしょう。

労働法という新たな法原理が産み出される場では、そういうある種の「非立憲」がありうるということは、実は形は違えど、多くの諸国で見られることでしょう。実は日本だって、「8月革命」という「非立憲」がなければ、このようなものにはなっていないはず。

いや、特定の分野の特定の事案についてあれこれ論ずるつもりは全くないのですが、そもそも論として、法と政治全般を広い歴史的観点で眺めるならば、立憲主義を掲げていさえすれば万事がうまくいくという話でもないというのが原点のはず

立憲主義と民主主義と労働法(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳) 2015年10月 2日 (金))
※ 以下、強調は引用者による。

もちろん私などは実務でほぼ関わりもない特定の事案を論じるほどの素養もないのですが、立憲主義に何よりも高い権威を与えようとする言説を拝見していると、民意至上主義とどこが違うのだろうなどと思ってしまいますね。いやまあ民意が間違うこともあるからこそ、代議制とか行政の継続性(公定力)とかが長い歴史の中で制度として確立してきたという現実を踏まえれば、「立憲主義」という制度についてはもっと慎重に取り扱うべきだろうと思います。

立憲主義という大きな話をしてしまうとまたピンぼけになりそうなので、もう少し目の前の問題に惹きつけていえば、震災後に吹き荒れたヘイトスピーチと陰謀論と実力行使の結びつきの強さも懸念されます。今回の騒動の中で陰謀論が唱えられたかどうかはよくわかりませんが、ネットでは「殺す」「市ね」などはもはや常套句となっているような印象ですし、国会周辺でも一部に暴力沙汰が発生したようですので、あながち無関係ではなさそうです。さらにいえば、賛成派・反対派双方に「相手が「知性」をもたないからお互いに理解不能な存在」とみなした論調が多く見受けられまして、陰謀論まではあと一歩というところかもしれません。

というようなことを考えていたところ、特に経済学方面の方々は、経済学的に正しい議論に対して疑問を抱くような経済学の素人を指して「御用一般人」呼ばわりされる方もいらっしゃるところでして、そんな方々と親交の深い山形さんがまたも意味深なエントリをアップされています。

…ぼくは、そんなはずはないと思っている。すばらしい成果はしばしば、実験したりモデルを組んだり作ったりしたら、思っていたのと正反対の結果が出てしまうことから生じる(クルーグマンのIts Baaackリフレ論文とか、卑近ながらぼくのたかがバロウズ本とか)。そのとき最初の直感や身体反応は「そんなバカな」というものだ。そういう脊髄反射的な肉体反応に委ねず、本当に何かおかしいところがないのかあれこれ考え、逃げ道を全部閉ざされて途方にくれ――そしてやっとそれまでの自分の考えの不十分さがジワジワわかってくる。それがある意味で自分の身体に取り込まれ、かつての安定状態から新しい安定状態へと遷移する。ぼくはそれが最も知的な態度であり、本当の学習だと思ってる。それをすべて否定するのは、ぼくは知的営為そのものを否定しているに等しいと思っている。そしてそういう主張をしている文が己を「知性」の側に立つと思い込んでいるのは、ぼくはこっけいだと思う。

(略)

人はみんな、常に予想/仮説をたて、それを証明/棄却しつつ人生を送っている。太陽が地球のまわりを回っているんだろうと思ったり、今日の宴会ではたぶん肉料理が出るだろうと思ったり、あるいはこのプロジェクトは少し工法を工夫すればコストが下がって採算ラインに乗るだろうと思ったり、気になっている女の子を映画に誘えばデートしてくれるかも、とか。そしてそれに基づき各種の行動を行う。さて、そうした予想の存在は、「わからないはずのことが先駆的にわかる」ことを示すのか? そんなバカな。というのも、その多くはまちがっているからだ。わからないことはわからない。それをわかろうとして、人は実際にそれが起こるまで待ってみたり、シミュレーションをしてみたり、モデルを組んだりする。 予想とか仮説はそのためのものだ。そして、それが大半は失敗する。なんか地球のほうが動いていると思ったほうがよさそうだったり、宴会は刺身だったり、頑張ってもプロジェクトは採算性がないままだったり、デートは断られたり。でも、それにより人はその分、賢くなる。それが人間の知的な営みのほぼすべてと言っていい。

反知性主義3 Part 1: 内田編『日本の反知性主義』は編者のオレ様節が痛々しく浮いた、よじれた本。(山形浩生の「経済のトリセツ」2015-10-16)

引用部の前半で山形さんが指摘されていることは、データやエビデンスで直感的な理解とは正反対の理論やモデルが導き出されても、自分の直感とか信念に頼るのではなく考え抜くことが本来の学習だということですよね。それに対して、引用部の後半では、どんなモデルや理論も絶対ではなく、現時点で把握できるデータやエビデンスで示されるものは仮説に過ぎないということを指摘されていると思います。さて、そのようにおっしゃる山形さんはクルーグマンが「知性」の側だと信じて疑っていないようにも思われるのですが、「そういう主張をしている文が己を「知性」の側に立つと思い込んでいる」というご自身のご指摘との関係をどのように理解すればいいのでしょうか。

まあ、浅学非才なチホーコームインごときに高度な経済学の議論が理解できるわけねーだろと言われればその通りでしょうけれども、経済学的な理論以外については、クルーグマンが目の前にいるアメリカ人を強く意識した論調を張っているせいで日本にはリビジョナリスト的な視点から都合のいい理論ばかりを押しつけていると思いますので、私はクルーグマンも十分に「知性」の側から外れがちではないかと思うところでして、山形さんのクルーグマン礼賛にはいささか鼻白むところがないとはいえません。

なお、私自身はここで山形さんが取り上げられている本は未読ですが、内田氏が「自分の意見と違うヤツは「反知性主義」なバカだからだ」という理屈を振りかざしているのはさもありなんとは思いますし、それに対する山形さんの批判も的確なものだと思います。ただし山形さんのこのご指摘は、本書で「反知性主義」という言葉を自分の都合のいいように誤用している方々だけに向けたものには、どうも思えないのです。

そして政治的な問題に就いての考え方はなおさらそうだ。いま目の前にいる相手を無視して、300年先にいるかもしれない人間を想定して、いつかだれかがわかってくれる、では意味は無い。いま目の前にいるこの相手を説得し、納得させて政治プロセスを動かさないと話にならない。そのために嘘をつくのはよくない、というのは規範として存在する。が、いま、ここ、目の前にいる相手を説得する、というのは別に特におかしなことではない。
(略)
つまり内田のこの文は、多少なりとも知的な議論をすべて拒絶し、自分の感情的反応だけを絶対として、自分の批判が自分自身にもあてはまるのではという疑念を一切持たない。それは、ぼくから見れば極度に反知性主義的な態度、それも最悪の意味での反知性主義でしかない。
「同」

「自分の感情的反応だけを絶対として」という部分に山形さんの最後の一線が引かれているようにも思うのですが、山形さんご自身が「いろんな分析はかなり的確。DSGEの概要とか、ゾンビの細かいところは入り込みたくないけれど大ざっぱなところを知りたい人にも有用。勉強になるいい本だと思う」として翻訳された『ゾンビ経済学』ではこんな指摘もあります。

 グリーンスパンの後継者ベン・バーナンキは1975年にハーヴァードを首席で卒業し、1979年にMITで博士号を取得した。したがって、長い戦後の好況期が崩壊した後にキャリアが始まった経済学者世代の筆頭格となる。そのキャリアはまた、グリーンスパン時代とも重なっていた。だから経済安定性の新時代というアイデアを広めるのに、いちばん貢献した人々の一人だったのも無理はない。
 バーナンキはまた、この新時代を指すのに「大中庸時代」という呼び名を広めた。この用語を初めて使ったのは、ハーヴァード大学のジェームズ・ストックと、プリンストン大学のマーク・ワトソンだった。バーナンキはそれを、2004年の大評判演説の題名として使った。
p.24
9784480864178.jpg
『ゾンビ経済学 ─死に損ないの5つの経済思想』ジョン・クイギン 著 , 山形 浩生 翻訳

ストック・ワトソンといえば計量経済学の教科書でも有名ですが、彼らが作った「大中庸時代」という言葉を広めたのはバーナンキであって、「これって一部のリフレ派と呼ばれる方々が居丈高に「世界の経済学の常識」とかいっていることそのものではないかと思うのですが、本書の訳者が山形浩生さんだというのが興味深いですね」と1年前と同じ感想を抱いてしまいました。山形さんの反知性主義シリーズはまだ続くようですので、どのような結論になるのか楽しみですね。
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