2015年05月30日 (土) | Edit |
先々週の日曜日はNHKが総選挙並みの特番を組んだりして大いに盛り上がった都構想の住民投票ですが、この結果を見てまあ住民投票とか、大きくいえば民主主義というものの一つの側面が如実に示されているなと思いました。

 現段階で我々が明確に言い切れる統計的な事実は、「今回の住民投票は賛成・反対・棄権のそれぞれが33%ずつ獲得し、小数点1桁の僅差で反対票がわずかに上回った」という点しかない。そして、この選挙結果から見えてくるのは、「賛成と反対と棄権の3つに分断され傷ついた大阪」の姿だ。ここまで傷つき分断された街を再び一つにまとめるには、長い時間と膨大な努力が必要とされるだろう。

曖昧な根拠で住民投票の結果を「分析」する愚<文/菅野完(Twitter ID:@noiehoie)>(HARBOR BUSINESS Online 2015年05月19日)

念のため、私自身はのいほい氏の主張にはほとんど賛同できないのですが、リンク先のグラフが分かりやすいので引用しました。そのグラフと表に具体的な数字が記載してありまして、「賛成」が33.02%、「反対」が33.53%で、投票しなかった「棄権」が33.17%となっていて、まあものの見事に3分の1ずつに分かれてます。ということは、各派の宣伝や報道などで見聞きしてメリット・デメリットにそれぞれ賛同した側も、それでもなおかつ賛否を決められなかった側(その少なくない部分は理解できなかった方も含まれるでしょう)もそれぞれほぼ同数だったということは、この住民投票は結局「都構想」なる言葉のイメージ投票でしかなかったというのが実態ではないかと思います。

というと、その「都構想」なる言葉にプラスのイメージを持つ方からすれば

 もちろん都構想をやったからといって、劇的な効果が期待できたという保障はありません。でも、既得権やしがらみをとっぱらえば、おもしろいことが起きる可能性もあったはずです。
 橋下さんがイラついてたのもわかります。こっちがなにかアイデアを出しても、否定ばかりして対案を考えない人が多いんですよ。じゃあどうすんの、もっといい案あるのと聞くと黙ってしまう。
 どっちに転ぶかわからないときは、「やってみなはれ」というのが大阪の気風だと聞いてましたけど、あれはやはり松下やサントリーだけのおとぎ話、特殊な例にすぎなかったってことでしょうか。
 結局、大阪の人たちは既得権と心中する道を選んだのだなあ……などというと、外野がやかましい、と怒鳴られるかもしれません。わかりました、黙りましょう。今後は、自分たちでも改革はできると豪語した反対派のみなさんのお手並みを、外野からとくと拝見いたします。

外野から見た大阪都構想(反社会学講座ブログ パオロ・マッツァリーノ公式ブログ 2015/05/18 20:25)

となるのも自然な流れでしょう。まっつぁんご自身はいつもデータをしっかり見ながら判断すべきというようなご主張をされているはずなのですが、そのまっつぁんですら維新の会がしかけたイメージ投票にコロッと引っかかってしまうわけです。そりゃまあ、普段はご自身の仕事や家庭のことで手一杯の住民の方々に、空いた時間でテレビのキャンペーンとかタウンミーティングとかでいくらすり込んだところで、その理解は限定的にならざるを得ないでしょう。もちろん、正しい政策(ナイトの不確実性の下でそんなものがあるかはまた別の問題として)であって、それを十分に理解できる住民が大多数という前提を置けば、住民投票なるものにも一定の意義はあるかもしれませんが、世界中どこを見渡してもそんな地域はおろか、国などないのではないかと思うところです。

逆にいえば、住民投票がフェアであればあるほど、賛否を問う住民投票はきれいに三等分されることになるわけでして、大阪では在阪メディアの偏向ぶりがネットを中心に盛り上がっているようですが、普段は「情弱だから雰囲気に流されてカイカクと叫ぶ橋下氏を支持している」と罵られていた高齢者のほうが、今回の住民投票では都構想なるイメージ投票に反対した割合が高かったそうですから、メディアの偏向ぶりはむしろ住民の方々の判断を惑わせて、結果的にフェアな住民投票に落ち着いたというなかなか入り組んだ状況があるのかもしれませんね。

とはいっても、高齢者の方々にこうした傾向があることもまた一面の事実でしょう。

福祉国家が産み出し、福祉国家のお蔭で移転所得を得られている人々が、それを市場による交換で得たものと思いなすことによって、その存立根拠を掘り崩していくという悲劇的でもあり喜劇的でもある逆説。

テレビ漬け高齢者のポピュリズム政治(2012年3月 4日 (日)  hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳))

とはいうものの、この点に関して高齢者をdisることができる方は多くないのではないでしょうか。「小さな政府」という物言いに象徴的ですが、「政府のお世話になんかなってない」という強固な思い込みがあればこそ、「政府を小さくしても自分の生活には影響がないし、むしろ政府支出にたかっている政治家とか官僚とか土建屋とか生活保護受給者とか粛正することができて気分がいいから政府にかけるお金は少なければ少ないほどいいし、その財源となる税金はいくらでも下げるべき」という論理がそれなりの説得力を持って受け入れられてしまうのではないかと思います。

たとえばアメリカではそういう風潮が強いため、クルーグマンなどはアメリカ国内の政策を批判する際はソーシャルな政策を主張する一方で、海外のソーシャルな政策を批判して自らの政治的姿勢への批判をかわそうとしたりするわけでして、「商人の町」と呼ばれる大阪でも同じようにソーシャルな政策を封印しなければ「既得権益」などと危険視される状況があるために、彼の地の選良の方々はヨーロッパ的な意味でのリベラル、日本的に言えばリベサヨの極北としてのネオリベな主張をせざるを得ないのかもしれません。というより、本心からそう思っているのでしょうけれども。

まあ、結局のところはカイカク派を標榜する方の習わしとして、他の分野のカイカクの手詰まり感を回避するため「「地方分権」のリスクヘッジ」としての行政機構改革に手を出したものの、そのカイカク案が公共サービスのカットを正当化するものでしかなかったのが、これまでのカイカクの経緯と相まって住民の方々にも直感的に伝わってしまったというのが、僅差での反対多数に繋がったというところでしょうか。もちろん、「使い勝手がよくなれば少ない財源でも効率的な公共サービスが供給される」という素朴な信念がこれまでのカイカク派を支えていたわけですから、またぞろ新しい行政機構改革を掲げたカイカク派が待望されていることには変わりなさそうですが。
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