2015年05月04日 (月) | Edit |
前回エントリで「その生活の距離の近さを嫌う方もいますし、障害者や要介護者を抱えた家族はなかなか地域に溶け込むことができないという現実」について触れたところですが、その具体的な状況については、こちらの本に生々しくまとめられています。
そのとき、被災障害者は… 取り残された人々の3.11そのとき、被災障害者は… 取り残された人々の3.11
(2015/02/24)
不明

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その障害の重さゆえに行政のサービスが行き届かない方々にとっては地域内でのサポートが重要となりますが、その地域との関わり合い方は様々です。地域との関わり合いの重要なチャンネルの一つが地元の公立小中学校ですが、宮城県では浅野史郎前知事が「共に学ぶ教育」を掲げ、障害者が地域の小学校に通学することを推進しており、地域との関わり合いを確保できた方もいらっしゃいました、しかし、その宮城県内の同じ石巻市でも次のような状況だったとのこと。

地域のつながりを意識的につくらないと

 被災した自宅をリフォームして住む予定です(2013年4月に入居)。2012年中に工事が終わる予定でしたが、いろいろあって延びました。自宅に戻るといっても、不安があります。
 たとえば近所とのつき合い。震災前はつき合いがあまりありませんでした。長女が地元の学校出身ならつながりができたのでしょうが、小学校卒業後に引っ越してきて(5年前)、次女は特別支援学校だったので、地域とのつながりが希薄なのです。
 震災目に要援護者登録はしていました。民生委員が訪ねて来たときに、登録したらどうなるか尋ねましたが、はっきりした返事が得られませんでした。地域防災に積極的な地区ではなく、わが家も地域の避難訓練も参加していませんでした。災害時の支援者についても、「決める予定はない」との返事。名簿登録は形式的なもので機能するものではありませんでした。更地になって、近所の人はさらに少なくなっています。
 自宅周辺では、教会関係の団体がボランティアをしていて、近くの貸家を拠点にして近所の人が集まる場所になっています。そこからつながることになりました。次女のことを心配して支援してもらえるようになったのです。拠点に出入りするようになってから近所の人たちともつながるようになりました。自宅の庭掃除をしてくれたりして、近くに住んでいた人と「近くにいたんだねー」と会話をするようになりました。
 伊勢知那子さん(本書で紹介)のところは地域の学校に通って地元とのつながりがあったけれども、わが家は意識的につくっていかなければなりませんでした。近所の人とは、「また津波が来たらどうしよう」と話をしています。大街道南地区は土地区画整理事業の指定を受けていますが、戻って来る人が多くて、区画整理が難しいようです。津波避難ビルの話も出ています。

「地域で当たり前に暮らせる街に(宮城県石巻市 新田理恵(重度障害児の母親))」東北関東大震災障害者救援本部共編『同』pp.16-17
※以下、強調は引用者による。

区画整理事業は、戻って来る方が少なければ少ないで問題になりますが、こちらでは戻って来る方が多くて問題になっているとのことで、どこでもデリケートな事業であることが伺えます。それはそれとして、日本型雇用慣行で職場に全人格的なコミットメントを求められているとはいえ、小中学校は住んでいる地区も近く、児童・生徒同士が仲がいいため貴重な地域とのつながりの場となっています。災害時に地元の教育施設に避難するのは、地域のつながりが希薄になりがちな現代において、そこにいけば誰か知っている人がいることが期待できるからという面もあります。実際に、上記の引用部で言及されている伊勢さんは子供が通った小学校でのつながりが重要だったといいます。

避難所に行っても孤独ではなかった

 わが家の場合、知那子も居住地の小、中学校に通い、隣近所や地域の方々と学校行事や子ども会行事で接することが多かったため、障害に対する理解が浸透していました。家族単位で地域の中で過ごしてきて、家族の生き方が知られていたことは強みでした
 避難所に入った時に、最も弱い立場、はかなげな命のことを守らなければということをみんなが思ってくれたのです。「障害者だから○○へ行きなさい」ということを言われませんでした。「行けと言われても、この夫婦は行かないだろう」と思われていたのでしょうけれど。

「地域のつながりがあればこそ(宮城県石巻市 伊勢理加(重度の障害児の母親))」東北関東大震災障害者救援本部共編『同』pp.22

念のため、このように避難所で受け入れられたのはかなり稀な事例で、本書に掲載されているほとんどの事例では、避難所には入れなかった障害者とその家族がどのように対応したかが綴られています。地域とのつながりがあったという伊勢さんもこのように記しています。

 わが家の場合は幸い、日ごろから勾留のある県内外の方々から、たくさんの食料や生活用品が届けられました。お金を持っていても買えない時ですから、大きな救いでした。ですから、知那子を訪ねて来てくれた支援者には、「避難所に入らなかった○○さんに届けてほしい」とお願いしました。支援者からは「こんな人はめずらしい!」と言われました。
 津波を経験した石巻でさえ、要支援者への対策は必要性は感じていても、まだ答が見つからないのが実情です。今また地震が来たら同じことを繰り返してしまうかもしれません。「公的な指定避難所で備蓄してくれ」と言っても、コストとリスクがかかりすぎて現実的ではないのでしょう。

「地域のつながりがあればこそ(宮城県石巻市 伊勢理加(重度の障害児の母親))」東北関東大震災障害者救援本部共編『同』pp.29-30

災害時にはお金がいくらあっても、介助してくれる人、介助するための機器を作動させるためのエネルギー源を買うことはできません。生活用品などを備蓄していたとしても、その備蓄場所が災害で被害を受けたり、それを使える方が被災してしまえば使うことができなくなります。その当事者であるからこそ何が必要かが分かるため、その支援を実効するために東北関東大震災障害者救援本部は障害者自らが運営して被災地の支援に当たったとのことです。たとえば、仙台市で障害者自身が運営するCIL(CILはCenter for Independent Living)たすけっとの事務局では、震災翌日から被災障害者に対する支援を始めます。

私たちにできることは

 CILたすけっとは長町という地域にあり、地下鉄が通っていることもあって、震災の翌日には電気が通りました。水も出ていて、ガスだけがなかなか復旧しませんでしたが、翌日の夜からテレビやインターネットやパソコンが使えるようになりました。
 環境がある程度整ったこともあって、今の状況がどうなのかを、この目で見ることができました。それまではラジオを通してしか情報を得られなかったため、「なんか津波がすごいらしいね」とか、そんなことを話ながら、一晩を過ごしていましたが、テレビを見ると、「これはちょと想像以上にひどいよ」ということで、「自分たちにも何かできることはないのか」、「自分たちでも何かしたいね」とか口々に話していました
 そんな時、たしかJIL(Japan Counsil on Independent Living Center「全国自立生活センター協議会」)から物資を被災地の方に送りたいという申し出がきていることをスタッフより聞き、私たちが物資を一旦受け取って、同じように困っている被災した障害者に配ろうということになりました。そこからCILとして、被災障害者に対する物資提供の活動が始まりました。

「「私たち」は避難所に避難できなかった(宮城県仙台市 井上朝子(肢体不自由))」東北関東大震災障害者救援本部共編『同』pp.58-59

そうして動き出した障害者による被災障害者支援ですが、その実際は次のような状況でした。

避難所まわり

 避難所となっているのは、たいてい学校の体育館や公民館でした。まず受付で被災した障害者の支援をしていることを伝え、チラシの掲示の許可をもらい、避難者の仲に障害のある方がいるかどうかを尋ねました。
 しかし、すでに福祉避難所や内陸の施設や病院・親戚の家などに移っていて、なかなか出会えませんでした。特に車いすを利用している方の姿は見えず、身体障害でも比較的軽度か、視覚障害や聴覚障害などご自分で移動できる方、知的・精神・発達障害の方たちでした。外見からわかりにくい障害の方は、受付で把握されていなくても、保健師さんから話を聞き、当事者につなげていただくようにしました。ただ、周囲に障害を隠している場合には迂闊に声をかけるわけにもいきませんでした。
 (略)
「人に迷惑をかけないように」とか「障害者は家族が世話をするものだ」という意識からか、家族が疲れていても助けを求めず、「大丈夫」と我慢しているように思えました。同様に、「家族が面倒をみられないのなら、施設に」と、災害時においても障害者は施設か病院に行くのが当然という考えで、避難所の環境を変えて、いっしょに過ごそうという意識にはなりにくいようでした。
 環境を変えてもらえるよう頼んでも、「この非常時に障害者も健常者もない」、「みんな大変なのだから、障害者だけ特別扱いはできない」と言われてしまうことがあり、結局、障害者が避難所を出て行かざるを得ない状況になることが多いようでした。
 一方、障害者と健常者が共に避難所で過ごすうち、避難者の間に障害者への協力態勢が生まれ、避難所を出た後でも、その関係が続いていくようなところもありました。そこは周囲が浸水して陸の孤島のようになっている避難所だったので、障害者が別の場所に移ろうにも移れない状況でした。
 避難生活は、障害者と健常者が密に時間や場を共有する貴重な機会でもあると思います。そこから共に生きる工夫が生まれる可能性があります。障害者は福祉避難所へ行くのが当然という考え方からは、生まれる工夫も生まれません。福祉避難所は選択肢の一つにとどめて、基本的には障害者と健常者が共に避難することを前提とした避難所が整備されることが必要だと思いました。

「手がかりをたよりに障害者を探す(被災地障がい者センターいわて 2011年度活動報告)」東北関東大震災障害者救援本部共編『同』pp.167-169

災害時に障害がある方が遠慮しなければならないというのは、平常時においては「なんて非情な物言いだ」と思われるかもしれませんが、緊急時に自分の身が不安定になるとそうも言ってられなくなるのが現実です。さらに、そこには地方の再分配機能の貧弱さが追い打ちをかけました。

都市部と地方の福祉状況の違い

 東日本大震災では、都市部と地方の違いがあり、地方が震災前から抱えている課題が震災により浮き彫りになった面が数多く見られました。
 阪神淡路大震災では、被災した多くの地域が神戸や西宮のように大都市であり、人口が多い地域です。福祉制度においては、障がい者運動の成果に加えてそれぞれに独自の予算で競い合い、他の地域よりも進んだ制度を作り出す傾向がありました。
 一方、今回の被災地域の沿岸部では、年々人口の流出が進み、十分な福祉基盤が整備されていない状況があります
 主な特徴として、東北沿岸部では障害者福祉を担う事業所が大きな社会福祉法人一つというところが多くあります。地域に多様なホームヘルパーやガイドヘルパーなどの利用者、福祉サービス事業所がないことで、さまざまなニーズに対応しにくい面があります
 全体として、知的障害者、精神障害者に関わるサービスのわりには身体障害者へのサービスが不足しているように思いました。
東北関東大震災障害者救援本部共編『同』p.120

大都市が近接していればヤードスティック競争による福祉の磁石が働く余地もありますが、財政力のない地方部ではほぼ社会福祉法人の独占状態となっています。そんな状況で給付金があっても購入すべきサービスが供給されていない以上、生活に必要なサービスを受けることができず、震災によってその実態が浮き彫りになったといえます。ここから何が必要かを、社会政策として考えていく必要があると思います。
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