2007年05月13日 (日) | Edit |
特待生をめぐる高野連の迷走ぶりは一貫性のかけらもなくてもう笑うしかないんですけど、当の高校生にとっては笑い事ではないわけで、こんな事態を招いておいて「教育云々」を語る高野連の体質ってのはどこからくるんでしょう? さらに、表向きは高野連の対応を批判しつつ「高校野球の教育的機能」に何の疑問も呈しない朝日・毎日の各新聞社の姿勢も、教育的観点から見たら相当な問題ではないかと思わずにいられません。

この点の見解では俺は玉木正之氏にほぼ全面的に賛同するんだけど、スポーツというのはパトロネージュがなければ成り立たない文化活動であり、その興業によって成り立つ経済活動であると正面から認めなければ、この問題の本質を捉えることはできない。もしかすると、いまの団塊の世代の頭にこびりついているマルクス経済学が、投下労働価値説に立脚するが故にスポーツ選手の年俸を説明できないということも関係しているのかもしれないけど、高野連の見るからに頭の固そうなお偉いさん方にはそういう概念を率直に認めることに違和感があるんでしょうな。

大体にして「課外活動」であるはずのクラブ活動についてまで学校の責任を問うこと自体が、本来の教育機関としての機能を十分に逸脱しているはずなんだけど、戦前戦後を通じて特に中学校以上のスポーツが学校に独占されていたことが事態をややこしくしていると思われます。課外活動なんだから学校はとやかく言わず勝手に活動させればいいというのが筋論なんだけど、戦前は戦争に耐えられるだけの体力を付けるための「体育」がスポーツと同義に扱われたのを引きずって、「体力を付けることは教育の一環」とかいう信念が教育関係者に浸透してしまったというボタンの掛け違いがまずあります。一方で、戦後の教育環境の悪化による風紀の乱れに対し、生徒の自由な時間と校外で暴れる体力を奪うために、「しごき」と呼ばれる厳しい課外活動を半義務化することが教育の現場で暗黙の了解になっていたという話を聞いたことがあります。まあ、軍隊の訓練の厳しさを学校という教育機関を通じて行っていた戦前の因習がそのまま残っているのが課外活動というところなんでしょう。

もちろん、俺自身もそういうまさに体育会系のクラブに所属して絶対的な上下関係のもとで徹底的にしごかれて、そのときに体験した厳しさや人間関係が自分を成長させてくれたことには感謝しております。しかし、今考えれば、朝の6時半に集合して朝練やったり、夜は毎日9時まで練習したり、土日も休みなく練習するというのに付き合わされていた学校の先生というのは、いわば年中無休の残業続きだったことになるので、やっているこっち以上に大変だったんだろうなと思うし、そこで事故が起きたり不祥事があっただけで有無をいわせず責任を取らされるというのも過酷な話ではあります。当時はそんなことも思ってみなかったけど、ちょうど同級生が先生になってクラブの顧問をやっている話を聞くと、ふつうの会社勤めとは拘束時間も緊張感も違うなあとしみじみ思ってみたりするわけです。

で、高校野球の特待生問題についても、そんな身を削ってまでいわれのない課外活動をやっている学校とか生徒が一方的に罰せられる理不尽さはもちろんのこと、そもそもそんな課外活動は止めてしまえばあらゆる理不尽さは解消されます。念のため、そういう学校が責任をもたなければならない課外活動という位置づけを止めてしまうということであって、課外活動そのものを止めてしまうのではありません。あくまで学校の教科の一環としての文化活動は認めるとしても、スポーツを含め興業に結びつく文化活動は学校の外に専門のクラブチームなり団体を結成して、そこで指導体制の充実や資金集めをすることが一番スッキリする解決法ではないかと考えます。問題は誰がその団体を作るかということですけど。そうすることにより、学校が選手や指導者を集めることもないし、地元の子供たちが地元のクラブに所属して学校の先生が片手間で教えるような指導とは違う一流の指導を受けることもできるので、これまでプロ野球に人材を供給してきた一部の私立高校や有名公立学校に独占されていた人材獲得・育成のシステムを代替することは十分に考えられるでしょう。

特待生問題に絡んで高野連が批判している野球留学なんてのは、確かに地域代表を謳う高校野球の趣旨からすると本末転倒なわけですが、そもそもそういう教育機関でスポーツ興業を行うという本末転倒から始まっているので、上記のとおりまずはそこから見直すことが必要。しかし、別の見方をすれば、この野球留学が問題とされるのは地域代表によるトーナメントという考え方がそれほど正統なものかという点でもあるわけで、じゃあ「ふるさと」とかってのは何なんだというところも詰めて考えなければなりません。

俺なんかは大学以外は地元で生まれ育っているので単純なんだけど、それでもいまの仕事に就いたのは大学卒の条件があったから大学でお世話になった土地に納税しなければならないだろうかとか考えてしまうし、転勤族の子息でほぼ均等の期間にあちこちの土地に住んでいた人とか、いじめとか環境問題とかいろいろな事情で生まれた土地に住むことができなくなった人にとっての「ふるさと」ってのは一体どこになるんだろうと考えはじめたら、きりがありません。高校野球とかのスポーツイベントが地域代表制をとっているのも、せいぜいが指導者や交流戦とかの人的環境や、気候とか施設という物的な環境を共有しているという当たりが「郷土愛」なんていわれて、それを根拠にしていると思うんだけど、そもそものスポーツとしての公平性からいえば競技人口が充実していてスポーツに適した気候がある地域とそうでない地域ではかなり問題があるはず。それをスポーツで競うときの単位とすることについても、ある考え方によるなら当然見直さなければなりません。

というわけでとっても長い前置きでしたが、この「ある考え方」というのが地方分権です。つまり、スポーツで地域代表が公平に競うのであれば、競技人口や指導者や施設、気候にいたるまでを全国で統一した上でなければ不公平になります。同じように、地方分権をするのであれば、その行政基盤を一定のレベルでイコールフッティングすることが大前提になるわけで、財政面に関していえば財源保障機能と財政調整機能によってその格差を是正することが必要になります。ところが、いま地方分権を語ることが政治とか行政の中で流行っているので、この辺の議論を詰めないまま思いつきで「ふるさと納税」なんてものが導入されようとしているわけですが、ところで「ふるさと」ってなに?

ここでさんざん批判しているみのもんたという人はこういうときに便利なんですけど、ふるさと納税のニュースがあったときに、「出身地じゃないとだめなの? 好きなところでいいの? じゃあ箱根とかいいねえ」なんてコメントしていたとおり、こういう「ふるさと」の定義を厳密にしない限り、このふるさと納税って結局は人気投票になってしまいますよ。しかもその定義を厳密にしたところでその認定はどうやってやるんでしょうかねえ。戸籍を提出するのかな? 住んでいたところの住民票をさかのぼって交付してもらうのかな? 学校の卒業証明書を提出するのかな? お父さんの社員証を会社からもらって提出するのかな?・・ そんなことをやる人がいるとは到底思えませんけど税金だから強制するってことでしょうか。ホントにできるの?

そうやって厳密に定義した「ふるさと」を膨大な手続を経て認定しても、最終的に納税者の希望によって選ぶんだったら、その手続の意味はないですね。しかも、競争する基盤が揃っているなら納税者を獲得するために各自治体が競争することで効率的な行政運営ができるとかいいそうだけど、そもそもその競争する基盤を整えるための財源保障なり財政調整なわけで、そっちを整備する方が先決でしょ。「ふるさと納税」によって人気のある地方の税収が増えても、そもそも人気もなく出身者も少ない地方では税収増は見込めないので、格差は広がるばかりですけど、それでいいんですかね、自民党さん。

※そういう主観的ではなくて客観的な指標に基づいて配分するのが地方交付税制度なはずで、この配分に政府の恣意的な裁量が働いているのが問題じゃないかという当たりの方が現実的かつ喫緊の課題だと思いますよ。
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