2015年02月16日 (月) | Edit |
年明けからもいろいろ積み残しているところですが、fujiponさんのブログで「……さかもとさん、あなたは僕ですか?」という言葉があって、私も思い当たるところがあったのでさかもと未明『まさか発達障害だったなんて』を読んでみました…が、fujiponさんの言葉に付け足して「……さかもとさん、あなたの家族は僕の家族ですか?」と言いたくなってしまいました。

以前杉本医師の著書を取り上げたときに「私自身本書の記述に思い当たるところがあるので一定程度は発達凸凹なのだと思います」と書いたとおり、さかもと氏が子供の頃の思い出とか大人になってから「生きにくさ」について記述した部分に、自分の身に覚えのあることが多く含まれていました。杉本医師が「発達凸凹」というのは、「「発達凸凹」への対処法(代償行為というそうですが)を経験によって無意識に身につけている」状態とのことで、私の場合はある時点から運動機能については人並みにこなせるようになって、体育会系が幅を利かせる日本社会ではそれなりに社会的行動がこなせるようになったものの、対人関係での「生きにくさ」は常に感じているので、かなりの程度「発達凸凹」に該当するのではないかと思います。そしてさらに、さかもと氏の家族、特にご両親についての記述についても「発達凸凹」という程度でかなりの部分が当てはまるので、「……さかもとさん、あなたの家族は僕の家族ですか?」と感じたところです。

身元が割れてしまうので一部フィクションを入れますが、私は子供の頃左右が分からず、運動がほとんどできず、目に映る景色に遠近感がなく感じ、他の人が気にならない音に過敏に反応してものを持っていられないほど力が抜けてしまうことがよくありました。それでいて中学まではなんとなく授業を聞いただけで成績上位になれるくらいの知能はあり、上記のとおりある時点から運動機能もかなり改善されたのですが、現在でも左右は分かりませんし、そもそも対人的な「生きにくさ」は子供の頃からほとんど変わっていません。特に両親に対する距離感がまったくつかめず、本書のこの部分は自分の嫌な部分を突きつけられる思いがしました。

 自分に流れている血を次世代に伝える気にはどうしてもなれない絶望。親を呪い、家族の記憶をどうしても愛せなかった私は、小さな子供、とくにミルクの匂いがする赤ん坊がそばに来ると吐き気がした。泣きたくなった。
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 私は「幸福」のお手本を知らなかった。わずかなイメージさえつくれていなかった。母親になるためには、それを楽しいものとイメージして、自分の子供に会うことを幸せだと思っていなければダメ。私には嫌悪の記憶しかないのだ。だからムリ。でも夫は優しい両親と幸せな家庭で育った。だから私が出産にいだく絶望的な嫌悪なんて理解できないだろうと思った。
(中略)
 私はハリネズミみたいだった。そうでなければ毒毛虫。私の中身は食えなくて、ぷにぷに柔らかくて、踏めばすぐつぶれる弱っちい塊だった。本当は愛を求めて優しくしてほしいのに、優しさを与えられるとどうしていいかわからない。そして、頑なに拒否するふりをしたり、冷たくあしらったりした。相手が絶望してあきらめてしまうような素ぶりをするのが、じつにうまかった。相手の心がつぶれてしまうようなひどい罵倒の言葉がいくらでも口から飛び出した。
 自分で言っておきながら、どうしよう、取り返しがつかないとドキドキするのだけど、止められない。物事をどうしようもないくらいに壊してしまうことが、ある種の快感だった。ああ、どうしよう。もう終わり。そう思うと、なんだか体にハッカをかけたみたいな興奮が走った。自分が人から見捨てられたり、嫌われたとわかったとき、さらにその上塗りをする行動に出た。「ねえ、嫌いなんでしょ。はっきりそう言って」。私はそれを夫にしてしまった。その前は母にしつづけた。
 嫌われて当然だ。やりなおしたいと思って家族をもったのに、ほんとうに優しくしてもらった恩を仇で返した。涙が止まらない。
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…いやあ「発達障害」と診断されるような行動のすさまじさを感じる記述でして、さすがに私はここまで極端ではないですが、ごく最近まで自分の血が次世代に残ることに嫌悪感を感じていましたし、相手に優しくされるほどに冷たくあしらい、自分でもマズイと思っているのに優しくしてくれる相手を罵倒し出すと止められず、相手に辛い思いをさせたことは一度や二度ではありませんでした。いまこうして書いているだけでも吐き気がするほどの思い出ですが、数年前にそのことを自覚してからは、特に対人関係の対処法としての「代償行為」にはかなり気を遣うように心掛けています。しかし、仕事では何とかなっていても、プライベートでは「代償行為」もできずに昔のひきこもりがちな状態に戻ってしまいます。特にうちの両親とは、ちょうどさかもと氏のご両親と同じ年代で境遇も似たようなところがあって、しかも負けず劣らずのコミュニケーション不全のため、真っ正面から対立してしまうことがよくあります。本書のさかもと氏の家族についての記述を読んでいると、自分の実家の光景を見せられているようでした。

実は、前々回エントリで取り上げた中澤さんの『働く。なぜ?』の「しごとの穴」という考え方を拝見して、仕事での「代償行為」はおそらく仕事の「量」をこなすことで身につけたスキルなのだろうと思うようになりました。私は○○職員とか○○の担当という役割が与えられる間は行動量をこなして他者にも働きかけることができるものの、それらを一切外したプライベートではほとんど行動することができません。つまり、私が「発達凸凹」を抱えながら対人関係の「代償行為」を身につけることができたのは、仕事で行動が規定されていてそれをこなさなければ職場に居場所がなくなるという状況に追い込まれたからであって、まがりなりにも就職して目の前に仕事があるという環境がなければおそらくこの「代償行為」を身につけることはできなかったと思います。

となると、「発達障害」とまでいかなくても私のような「発達凸凹」を抱えた方はそれなりの割合で存在しているでしょうから、その「生きにくさ」をある程度解決できるのが仕事というスキル習得の場であって、世の中はそうした「発達に何らかの困難」を抱えた人が「生きにくさ」を解決しながら何とか成り立っているというのが実態ではないかと思います。まあ「発達凸凹」という言葉の定義そのものがそうした「代償行為」を身につけた(身につけうる)状態を指すので若干トートロジーのような気もしますが、仕事がそうした「生きにくさ」を社会生活に支障のない程度に変換する機能を有していると考えると、仕事をすることで人間としての尊厳を保つことができるというのは、特に私のような「生きにくさ」を抱えた者にとってはとても意義深いことだと思います。その対象を「発達凸凹」からもう少し広げていくと社会的包摂の考え方に近くなるという点でも、労働と福祉をつなぐ重要な概念といえるでしょう。

ただし、「発達障害」とか「発達凸凹」の傾向があっても知能レベルには問題がない、というかむしろ特定の分野では高い知能を発揮することが多いということからすると、逆にいえば、官民問わず高い知能を持つ職員が多い職場では、社会全体よりも「発達障害」とか「発達凸凹」の傾向がある方の割合が高くなるということもいえそうです。私なんぞは中学までは勉強しなくてもそれなりの成績だったのが、体系立てた知識の習得が求められる高校以降は平凡な成績でした(勉強したことがないので勉強の仕方が分からない)が、大学までトップクラスをキープできる方ももちろんたくさんいて、そうなると大学名がものをいう霞ヶ関や大手企業、さらに知能の高い研究者にはそうした方が一般的な職場より多くいるということになるのではないでしょうか。そしてそれは、個人的に感じる印象にも合っているように思います。

ということは、官民問わず日本の中枢にいる方々の少なくない割合は、「発達障害」とか「発達凸凹」の傾向がある方々が占めていて、しかも本書によればその傾向は遺伝する確率が高いとのことで、そのような方が占める割合は常に社会全体よりも高くなっているかもしれません。つまり、日本の制度を司る官僚や景気動向に大きな影響を与える企業の意思決定には、かなりの割合で「発達障害」とか「発達凸凹」の傾向のある方の行動が反映されている可能性があります。もちろんそれは、「発達障害」とか「発達凸凹」の傾向があるから問題があるということではなく、むしろビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズのように莫大な利益を上げる可能性もあるわけで、社会の発展に重要な要素であったはずです。しかしそのひととなりでは、傍若無人な振る舞いでAppleを追い出されたスティーブ・ジョブズのように、周囲からすれば迷惑千万な人も多くいたでしょう。さらにその影には、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズのようなめざましい成果を挙げることなく、さかもと氏のように一時期であっても輝きを放つこともなく、「発達凸凹」程度で「代償行為」を身につけることができればまだしも、周囲に疎まれて居場所をなくし、孤立して精神を病んでいく多くの方がいるわけです。

そしてそれは、遺伝によって「再生産」されていくことになるのですが、「再生産」された方々の居場所は、親の世代よりも確実に狭まっています。海老原さんの著書からの再度引用させていただくと、

 そう、かつては、対人折衝が苦手な心優しき人たちが、自営業で家族の中で働けるだけでなく、建設現場や製造部門と行った対人折衝が少ない仕事を選ぶこともできた。ところが現在は、こうした第二次産業も衰退したため、結局、対人折衝主流の三次産業でしか働けない。それが、彼らの居場所を奪っているのではないか。
p.208

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まあ私もいまの職場に居場所があるかと言われるとなかなか自信を持っては答えづらいですが、少なくとも「代償行為」を身につけることができる貴重な場であることは確かです。しかし私を含め「再生産」された方々の少なくない割合は、プライベートでは相変わらず引きこもりがちな状態のままですが、そうした「仕事ではそれなりに人付き合いするけどプライベートでは家族以外と会わない」というライフスタイルは、日本のここ数十年の一般的な家庭の姿のようにも思います。

そう考えると、長期育成をシステム化した日本型雇用慣行は、新卒一括採用という画一的な方法により画一的な人材を採用しているように見えて、実際には多少の「発達凸凹」の傾向があっても社会で使える程度の人材に育て上げ、むしろその特性を活かして「企業戦士」として活躍する場を与えたと評価することができそうです。つまり、日本企業の人材が画一的なのは新卒一括採用だからではなく、採用後に対人関係での「代償行為」を場合によっては過剰に身につけさせることによって、多少の無理も厭わない人材として画一化していくというのが実態に近いのではないでしょうか。その「代償」が、プライベートは家でゴロゴロしているモーレツサラリーマンの姿だとすれば、私もそのような「発達障害」とか「発達凸凹」の傾向がある家庭で「再生産」されたという点で、日本型雇用慣行の下での典型的な日本人なのかもしれません。その他にも、ネットやマスコミでよく見かけるような他人を攻撃する言動にも、私は同じような既視感を感じます。もしかすると、この問題は社会的な問題を考えるときに結構大きなインパクトを持っているのではないかと思う次第です。

(念のため)
本エントリでは「発達障害」とか「発達凸凹」の傾向のある方を、「付き合い方が厄介」というような書き方になった面があるかもしれません。誤解を与えてしまった場合はお詫び申し上げます。確かに付き合うには少々厄介な面はあるとは思いますが、周囲にそのような方がいたとしても、本人に面と向かって「あなたは発達障害だから○○なんだよ」とかいうのは控えるべきだと思います。この点に関して、jin-Jourという人事担当者向けのサイトで平岡禎之氏が参考になる記事をアップされています。

 私たち家族は今、月に数回ほど発達障がいの体験発表をさせてもらっている。ある日の講話の中で受講者から「今の話を聞いて同僚に、当事者に間違いないと思える人がいる。本人に教えてあげたいがどう思うか?」と尋ねられた。質問者は、なにかいいことを発見したような好意に満ちた笑顔だ。
 だが、私の助言は「やめた方がよい」だった。それはなぜか? この本文でお答えしたい。

(中略)

 例えば、彼ら彼女らの悩みと周囲の戸惑いを深くする一因は、その違いが見て取りづらいという点にある。やや極端な例だが、伝統的なマサイ人があなたの会社に入社してきたと想像してみてほしい。その人たちが真っ赤な民族衣装に身を包んで事務所に現れたら、文化の違いに身構えつつ慎重に接するだろう。アフリカでの生活様式のままに行動しても、私たちには思いも寄らないタイミングで跳躍をしたとしても決して叱り飛ばしたりはすまい。ところが同じマサイ人が、スーツを着た日本人そっくりの外見で同じような行動を取ったとしたら、きっとトラブルは避けられないだろう。
 高度サービス・高度情報化がもたらした便利で快適な文明社会は、世界観の異なる人々に大きな断絶をもたらしているのかもしれない。同じ世界観、同じ文化の中にあるという思い込みはしばしば摩擦の原因となる。加えて日本語の文化は侘び寂び、本音と建前、暗黙の了解など非言語コミュニケーションが主流で、発達凸凹タイプにはストレスが大きいものなのだ。発達凸凹な人々の行動と悩みを理解するためには、やや言葉はよくないかもしれないが、そこに文化の隔たりがあるようなもの、日本語の通じる異人種だと捉える感覚が大事だと思う。

(中略)

 ただ、専門知識のない者が職場で発達凸凹な人に気づくヒントがある。それは、当事者たちの大多数には、悪意がなく、それどころか、困惑している人が実に多い。周りの人々を困らせている発達凸凹人こそが、実は一番困っているのだ。ただ問題なのは、外見上はまったくと言っていいほどそう見えない上に、当事者本人が気づいていないことが多い。なぜなら客観的に自分の言動を把握して分析するのが苦手だからだ。本文の冒頭で当事者らしき同僚への告知は「やめた方がよい」と助言した根拠がこれに当たる。
 また、病院の受診をし、診断名がついたからといって、すぐに問題が消えるわけではない。特性は脳、性格は心と分けて考えることが大切だ。なおかつ、重要なのは診断を受けることよりも問題の解決だ。
 職場でのフォローの第一歩は、発達凸凹という特性より、まずは"職場で問題が起きている"ということに着目することだと考える。違いを受け入れ、問題を一緒に考えて乗り越えて行く姿勢こそが、困っている当事者を救い、なおかつ職場を活性化することになるのだと思う。

Point of view [2015.01.30]「第34回 平岡禎之 職場の中の発達凸凹な人々 その傾向と対策について」(jin-Jour)

もちろん、「発達凸凹」の傾向がある方にも「生きにくさ」はあるでしょうけれども、意見の違いや行動の違いを受け入れるだけの余裕がなくなっている現状が、回りまわって我々全員に「生きにくさ」を感じさせているのであれば、平岡氏の指摘は重要な視点だと思います。
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