2014年11月17日 (月) | Edit |
前々回エントリがクルーグマンdisといわれてしまいましたが、クルーグマンの本を読めば読むほど疑問が湧いてくるんですよね。どうやらクルーグマンの日本理解が私の理解と違うようなので、日本について書いた『恐慌の罠』をおさらいしてみましょう。まずはリフレ派と呼ばれる一部の方々にしっかりと受け継がれている日銀・財務省disから。

 日本のリセッションには、こうした構造的な要因(引用注:高い貯蓄率と労働年齢人口の減少)がある。ただ、それと同時に政策の失敗が重なったことが、現在の深刻な不況を招いたのである。政策の失敗に関しては、非難されるべき人は多い。だが、最も責任が重いのは、大蔵省(現在の財務省)である。なぜなら、91年に政策を決定できたのは大蔵省しかなかったからだ。日本銀行は実質的に独立しておらず、大蔵省の下部組織で会った。90年代初めにバブル経済に対する対応策が採られるべきであったが、実際には難しかった。なぜなら、まだバブルの余波が残っており、すべてが素晴らしく見えたからだ。そんなときに「もうブレーキをかけるべきだ」と言っても、誰も耳を傾けなかっただろう。
pp.8-9

恐慌の罠―なぜ政策を間違えつづけるのか恐慌の罠―なぜ政策を間違えつづけるのか
(2002/01)
ポール クルーグマン

商品詳細を見る

しょっぱなから疑問符だらけなのですが、「政策を決定できたのは大蔵省だけ」という指摘はその通りとしても、「「もうブレーキをかけるべきだ」と言っても、誰も耳を傾けなかった」状況でいち行政機関に過ぎない大蔵省に何ができたというのでしょうか。本書では折に触れて日銀・財務省disが繰り返されるのですが、そこでは、政策担当者(政治家なり官僚)のインフレに対する恐怖とか成功体験に対する固執みたいなもののために、「正しい」政策が採られなかったと指摘されています。それもまあその通りとして、世の中が「もうブレーキをかけるべきだ」と言っても、誰も耳を傾けなかった」ような状況があったからこそ、そうした政策担当者の意思決定があったと考えるのが自然ではないかと。

さらに、本書では「インフレターゲット政策を主張した最初の学者だ」という自負も繰り返し語られているところですが、そのインフレターゲット政策について当初はかなり弱腰の記述が散見されます。

 では、具体的にどのようにしてインフレターゲット政策を実現すべきか。インフレターゲット政策を提唱している伊藤(引用注:隆敏)教授にせよ、スベンソン教授にせよ、真剣な提案はすべて第一段階についてのものだ。つまり、長期的なインフレターゲットを発表すると同時に、経済を活性化するために従来型でないありとあらゆる金融政策を動員するという段階だ。しかし、これだけで自動的にスタートするものではない。インフレターゲットを掲げて、後はインフレが起きるのを待っている、というのでは駄目なのである。インフレターゲットを達成するためには、為替相場を円安に誘導し、長期国債の流通利回りを引き下げなければならない。その際、到達不可能な目標を掲げたらどうなるのか、あるいは政策が不充分だったらどうなるかという問題はある。その限りでは、危険な賭けである。
 例えば、為替の問題を考えてみよう。私はスベンソン教授を議論したが、彼は思いきった円安にすべきだと主張している。その粋人は1ドル=140円だという。だが、私は140円では十分に円が弱くなったとは思わない。160円程度まで円安にすべきである。もし日本が為替レートを140円にして、それがインフレターゲットを達成するのに不充分だったら、大きな問題が起こるだろう。インフレターゲット政策の要点は国民にインフレ期待を定着させることにあるから、効果に対する不信感を抱かせることは挫折を意味する。
 このように、インフレターゲット政策には、多くのリスクと問題が存在する。しかし、だからといって、何もしないことはもっと悪いのである。
pp.17-18
クルーグマン『恐慌の罠』

うーむ、岩田副総裁が職を懸けた(らしい)黒田総裁の異次元緩和から1年半以上が経過して1ドル=110円程度で止まっている現状は大きな問題なのでしょうか。その前に国際経済学者ともあろうお方が1ドル=160円まで円安にすべきとか公言しても大丈夫なのだろうかとも思うところです。まあいずれにせよ、日銀・財務省disをしたくなる気持ちはわからないではありませんが、クルーグマン自身が「多くのリスクと問題が存在する」というインフレターゲットを政策を、「「もうブレーキをかけるべきだ」と言っても、誰も耳を傾けなかった」状況で実施することの困難さについても考慮してあげて良さそうなものです。

で、本書でもクルーグマンは、汚職の温床になるとかムダな橋や道路ばかり作られているとして公共事業支出を否定しつつも、財政赤字削減の必要性は否定していません。

 その(引用注:公共事業)代替的な政策とは、金融政策である。インフレ的な金融政策が、公共事業支出に取って代わるしかないのである。
 この点、財政赤字を解消しようとする小泉首相の財政政策は適切である。しかし、現時点で、どの程度、財政赤字を削減できるかどうか不明である。小泉首相の政策が政治的に実現可能かどうかも知らない。財政赤字を縮小するというのは、一種のショック療法だという声もあるだろう。経済的にも、それは正しい政策である。それ以外の政策で構造改革を進めるには、時間がかかるからだ。私が理想的だと考える状況は、5年後に財政赤字支出は行われなくなり、構造改革によって新しい投資機会が生み出され、3%のインフレ率と1%の名目金利で実質金利はマイナス2%となるというものだ。そうなれば、日本経済はうまく回転しはじめるだろう。これが、日本が目指すべき未来図である。
p.30
クルーグマン『恐慌の罠』

このインタビューは2002年に行われたものでして、ITバブル崩壊の真っ最中なのですが、ここでもクルーグマンは公共事業支出を否定して金融政策の必要性を説く一方で、財政赤字削減が経済的に正しいとまで述べています。後の変節を考えるとこの部分も疑問符だらけになるのですが、金融政策のみでなんとかなるというイメージを広めた影響の大きさは無視できません。ITバブル崩壊時のこのインタビューから6年後には、リーマンショックでさらに世界的な景気後退が発生したわけですが、クルーグマンは無邪気なまでに金融政策の有効性を並べ立てます。

 不況に対する最初のディフェンスラインは金融政策である。つまり中央銀行(アメリカ連邦準備制度理事会、欧州中央銀行、日本銀行など)は、不況をソシするために金利を引き下げることができるのである。(中略)
 事実、ほぼ過去40年間、経済政策としての金融緩和の持つ唯一の深刻な問題は、金融政策があまりにも効果を発揮しすぎたために、世界各国が経済成長と雇用に対して過剰と思えるほどの野心的な目標を追求するようになったことである。各国がそうした政策を取ったとき、その結果としてインフレが発生した。すなわち、経済成長が行き過ぎ、企業はその絶好の機会を利用して製品の価格を引き上げ、労働者もより高い賃金を要求するようになると、賃金と物価の上昇スパイラルの脅威が現実のものとなる。(中略)
 最初のディフェンスラインの次に、二番目のディフェンスラインが控えている。財政政策である。金利引き上げが経済を支えるのに十分な効果を発揮しなかったなら、政府は減税や財政支出の増加にいよって需要を喚起することができる。経済学者の一般的な理解では、通常のリセッションに対応するためなら財政政策は必要なく、金利引き上げだけで十分なのである。別な言い方をすると、経済学者は、経済の安定化は連邦準備制度理事会(FRB)の仕事であって、財務省の仕事ではなく、財政政策の役割は常に補完的なものであると信じているのである。(中略)
…いずれの場合も、FRBがインフレを沈静化させるために、意図的に経済成長を鈍化させようとしたために景気後退が始まっている。ただ、いずれの場合も、FRBが狙った以上に景気は悪化している。金融政策はあまり切れ味が良くない道具だからである。しかし、いずれにせよ、FRBが政策を転換し、金利を引き上げると、リセッションは終焉を迎えている。したがって、金融政策の過去の記録は、政策担当者の自信を深めるものであった。最近の例は、リセッションは起こるかもしれないが、私たちはそれに対処できることを示唆しているように見える。
pp.88-90
クルーグマン『恐慌の罠』

金融政策が効き過ぎるのか切れ味がないのかよくわかりませんが、この主に中央銀行が金利で市場をコントロールすることによって経済を安定化することができるという「大中庸時代」の考え方は確かにゾンビ経済学というべきかもしれません。とりもなおさず、サブプライムローン、リーマンショックと金融機関から発生した経済危機を準備したのは、まさに「大中庸時代」の立役者であったグリーンスパンとその後継者のバーナンキであったわけですから。さらに、財政政策は通常のリセッションへの対応としては必要がないとまで言い切るとは、クルーグマンは本当にケインジアンなのかと疑ってしまいますね。

と思ったら、やっぱりクルーグマンは自らをアメリカン・ケインジアンだと認めて「大中庸時代」を謳歌しているようです。

…古典派経済学は、積極主義的な金融・財政政策によって多かれ少なかれ完全雇用を確保するという仮説に接木されることで生き永らえたのである。1950年代にポール・サミュエルソン(訳注:元マサチューセッツ工科大学教授で、新古典派総合の代表的な経済学者。ノーベル経済学賞の受賞者である)は、古典派的な完全雇用経済理論の復活を「新古典派総合」と名付けた。自由市場を評価するが、それを崇拝することはしない経済学者に対する評価は、今日に至るまで残っている。たとえば、次の引用は、私が2年前にインターネットで経済問題を論じているホームページ「ストレート」に「無教養なケインズ学者」と題して書いた原稿である。

 (中略)しかし、グリーンスパン(そして彼の前任者たち)を、構図の中に組み入れることで、マクロ経済学の古典学派的なビジョンの大半が復活することになる。期限を特定しない長期において経済を完全雇用にまで復活させる“見えざる手”に代わって、FRBが予測する向こう2年か3年の間に推定される非インフレ的失業(訳注:インフレを引き起こさない程度の失業率のこと。失業率が高すぎると、インフレが起こる)に向かって経済を舵取りするFRBの“見える手”が存在するのである。

 私のような「新古典派総合」の信奉者にとって、世界が直面している当惑するような状況が、新しい大恐慌に向かってスパイラル的に落ち込んで行く可能性はそれほど大きくないように見える。ただ、新しい恐慌は起こりそうにないし、過去数か月にそうした可能性は薄れてしまったように見える。むしろ、今起こっている問題は、新しい恐慌が起こるかどうかと言うことよりも、1930年代以来初めて、経済が需要を必要とするとき、政府が需要を増やすことができる、あるいは需要を増やす意思があるということに対して確信が持てなくなってきたことである。
pp.127-128
クルーグマン『恐慌の罠』

アメリカン・ケインジアンというのはいわゆる「新古典派総合」のことですから、当然ながらアメリカン・ケインジアンであるクルーグマンはあくまで「新古典派総合」のマクロ経済学を元に議論をしているわけです。そりゃまあ再分配とか社会保障のことなんて出てくるはずがありませんね。そして、やはりクルーグマンは日本の雇用慣行も財政政策もその中身はよくご存じではないようです。

 景気の変動を平均すると、1980年代に毎年ほぼ4%の成長を遂げてきた経済が、1991年以降、わずか1%程度の成長になってしまった。失業率は途切れることなく上昇し続け、1991年の2.1%から現在では5%にまで上昇している。それでも、その数字自体は欧米経済と比べれば、それほど悪くはない。しかし、日本の統計は事実を深刻なまでに過小評価しているのである。過去数か月で、ほぼ100万人の労働者が職を失ったが、そうした労働者のうちのわずか12万人だけが失業者として登録されているに過ぎない。おそらく、日本の労働市場は、深刻な景気後退の底にあり、失業率は実質的に10%に近づいていっているのかもしれない。
 こうした雇用の喪失の心理的な影響、それと1980年代では稀だったが、現在では異常なまでの高水準となっている企業倒産の心理的な影響は、通常、そうした荒涼とした事態を回避する努力を行ってきた社会では、特に厳しいものとなる。日本は終身雇用と、強い企業が弱い企業を生き延びられるように支援する“護送船団システム”の国である。そうしたシステムに支えられてきた日本の問題の状況を示す最も陰鬱な指標が、職を失った人々や、事業に失敗した人々の自殺の急増であったとしても、それは特に驚くことではないのかもしれない。
pp.92-93
クルーグマン『恐慌の罠』

慎重に断定は避けていますが、クルーグマンはどうもリビジョニスト的な日本像をお持ちのようで、終身雇用と護送船団というキーワードを使っているものの、その理解はかなり怪しいものとなっています。また、メンバーシップ型雇用慣行の下で失職のリスクにさらされている労働者の多くはアルバイトやパートなんですよね。クルーグマンのいう「職を失った労働者」とか「失業者」の定義はよくわかりませんが、1994年から2001年までの雇用保険の適用条件は、雇用期間が1年以上かつ年収が90万円以上かつ週所定労働時間が20時間以上でして、雇用保険が適用されないアルバイト・パートは、求職登録はしても、失業給付を受ける失業者としては登録されなかった(失業給付を受給するために求職活動をしなければならないので、失業者なら求職者ですが逆は必ずしも成り立ちません)場合が多そうです。

 たとえば、なぜ日本銀行は長期国債を買ってはいけないのだろうか。長期国債の金利はまだゼロにはなっていない。したがって、追加的な取引をする余地がある。あるいは日本銀行は紙幣を発行し、その資金を使ってドルを購入することもできるはずだ。それによって、円相場を引き下げ、世界市場で日本の輸出をもっと競争力のあるものにすることだってできるはずである。
p.111
クルーグマン『恐慌の罠』

これも日本のリフレ派と呼ばれる方々に大きな影響を与えた主張ですが、まあ財政のマネタイズに対する警戒は日本に限ったことではないだろうと思うところでして、さらに日本に対する指摘の矛盾が露呈してしまっていると思われるのがこちらの部分。

 では、なぜ日本で財政赤字支出が効果を発揮しなかったのであろうか。その一つの答えは、日本の消費者が現在の財政赤字は将来の増税につながると理解したことにある。そのため、減税で戻ってきた資金は貯蓄に回されたのである。そのため、公共事業支出の増加は民間消費の減少によって効果が相殺されてしまったのである。他方、ワシントンのシンクタンクである国際経済研究所のアダム・ポーゼンが指摘しているように、日本の財政政策の短期的な変動は、それなりの効果を発揮していたのである。1995年から1996年にかけて財政赤字が拡大したために、短期的ではあるが、顕著な成長の回復がみられた。だが、1997年に橋本龍太郎首相が誤ったアドバイスに基づいて増税をおこなったことで、現在のリセッションが誘発されたのである。
pp.143-144
クルーグマン『恐慌の罠』

財政赤字が将来の増税につながると考えたために民間消費が減少したというなら、1997年の消費税率引き上げ前の1996年までの公共事業支出が、短期ではあっても景気回復に効果があったのはどう説明されるのでしょうか。ちなみに、消費税引き上げが決まったのは1994年の村山内閣のときでして、それ以降はすでに増税が前提となっている状況なんですよね。もし、増税が決まった1994年から貯蓄が増加して民間消費は減少していたものの、同時に公共事業支出が増加したので景気が回復したというのであれば、1997年の消費税引き上げの際は増加させておいた貯蓄で対応が可能であり、可処分所得にも消費行動にも中立でないと辻褄が合わないような気がします。1994年からデフレが始まっているという指摘もありますので、もしかすると貯蓄が実質で目減りして1997年以降の民間消費が抑制されたということでしょうか。しかし、デフレを強調しすぎると1996年までの顕著な成長との矛盾が生じてしまいそうでして、まあ個々の主張を取り上げればそれなりに納得できるものの、全体の状況に当てはめてみるとあちこちに齟齬が生じているように思われるのは、私の思考能力不足によるものなのでしょう。といっても、これもまた一部のリフレ派と呼ばれる方々によく見られる現象のような気もしますが。

とりあえず目につくところをピックアップしてみましたが、もちろん本書の「Ⅳ 罠から抜け出せない日本」で展開されるモデルについての是非について、私ごときは何も言えないとしても、日本の雇用慣行とか財政状況についてのクルーグマンの理解には、疑問符をつけざるを得ない点が散見されるように思います。個人的にいろいろなデータや議論を拝見した管見ではありますが、日本の雇用慣行とそれに依存して家計にリスクを移転している日本の状況においては、雇用慣行の改善と現物給付を中心とした再分配政策の拡充が必要と考えるところでして、確かに金融政策による経済の安定化は重要だとしても、それだけで経済が回復して成長するというクルーグマンの主張には、眉につばをつけて聞かなければならなかったのではないかと思う次第です。
スポンサーサイト


コメント
この記事へのコメント
もう諦めてください。財政政策のところは、マネタリズムの影響を受けたニューケインジアンであれば、普通の不況でオールドケインジアンほど財政政策を強調しないでしょう。
でも、今回は大恐慌の二の舞になる可能性があるから、金融財政やれることはなんでもやれと言っているのです。日本の一部のインテリのネオリベは、クルーグマンの主張をうまく使っているだけです。
クルーグマンは長期的にはわれわれはということで、今生きている人のためになんでもすべき状況なのに何でこんなに何もできないのだと嘆いているのです。彼は不況時に就職する若者の生涯賃金が少ないことも嘆いています。どこまで大人げない恣意的な解釈を繰り返すつもりですか。
2014/11/19(水) 22:07:20 | URL | - #-[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック