2014年11月15日 (土) | Edit |
前回エントリで畏れ多くもクルーグマンの罪を指摘してみましたが、付記したようにクルーグマン自身けっこうな幅で主張が揺れ動いているように思います。今回はその辺の記述をメモ書きしておきます。

題材は、原著が1998年に発行された『グローバル経済を動かす愚かな人々』からでして、まずはクルーグマン自身は左派でも右派でもなく双方が間違っていると考えているとの由。

 ここに集めたエッセイは、1995年の秋から97年の夏の間に書かれたものである。それは激動の時期であり(常にそうだともいえるのだろうが)、左右の両派ともにナンセンスの多い期間でもあった。最も時期の早いエッセイは、共和党の下院院内総務に就任した者からの卑劣なナンセンスに応えて書かれた。最も新しいものは、社会党からフランスの新首相に選出された、心は温かいが、不幸にも同じように愚かな人物に応えたものである。いずれにしろ、右だ、左だ、というのは適切な分類ではない。本書で触れた問題のほとんどにおいて、自由主義者と保守主義者の双方の主張は間違っており、多くの場合、真実は誰も聞くことを望まないものであった。
pp13-14


グローバル経済を動かす愚かな人々グローバル経済を動かす愚かな人々
(1999/01)
ポール クルーグマン

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繰り返しの確認となりますが、クルーグマンは本来アメリカ的リベラルであって、ソーシャルな社会政策にはあまり関心は高くなさそうでして、アメリカの共和党に対する攻撃は欠かしませんが、民主党に対する攻撃も容赦がありません。まあ、クルーグマンにとっては「経済学的正しさ」が最優先であって、ソーシャルな政策はそのついでに考えているというところなのでしょう。

で、そういえばどこかのリフレ派と呼ばれる方々の一部が「似非ケインジアン」という言い方をされていましたが、クルーグマンもそんなことを書いていますね。

ちまたのケインズ主義者

 経済学もあらゆる学問と同じく、それを学ぶ子弟はいずれ減少する運命にある。偉大なる革新者には、若干の荒削りな側面があったとしても許される。もし彼の考えが当初は乱暴と思われるものでも、その洞察の斬新さが誇張されすぎていたとしても、さしたる問題ではない。磨きさえすれば、いずれ一つの体系としてまとまる。とはいえ、革新者の言葉に従いながら、その精神を誤解してしまい、その学問の主流派よりも急進的かつ独断的になる者が現れることは避けられない。そして、その教えは、広まるにつれてますます単純なものになっていく。一般常識ないしは「みんなが知っている」ことになった革新者の教えは、粗野でへたな模倣になるまで変形されるのだ。
p.37

 彼ら(引用注:サプライサイド・エコノミスト)は自らのイデオロギーに深く根差した、一見立派な予測を立てた。その結果、主流派エコノミストがほぼ事態の推移を的確に予測できたにもかかわらず、彼らは完全に的を外してしまったのである。しかも、サプライサイド・エコノミストの犯した過ちは、主流派エコノミストとまったくことなる予測をしたことばかりではない。彼らは、自説に反対する者を馬鹿だ、嘘つきだと罵倒していたのだ。そのようなことがあったのだから、誰もサプライサイド・エコノミストの言葉を真剣に受け止めなくなっただろうと読者は思われるかもしれない。サプライサイド・エコノミストはクリントンの増税が大惨事を招くと批判し、主流派のエコノミストはそうではないと反論した。それで、実際にはどうなったと思う?
 サプライサイド・エコノミックスは、もちろん、一夜にして消滅したりはしなかった。経済における誤った考えは決して死なない——うまくしても次第に消えていくだけである。
pp.68-69
クルーグマン『グローバル経済を動かす愚かな人々』

まさかクルーグマンも、ご自身の主張が日本で「広まるにつれてますます単純なもの」になり、「粗野でへたな模倣になるまで変形される」とは思ってもいなかったでしょう。とはいっても、クルーグマン自身が「金融政策だけで所得と雇用が上昇する」と主張してしまった以上、それは避けられない事態だったとも思われるわけでして、やはりクルーグマンの罪は小さくはないと思うところです。さらにそうした方々は得てして、クルーグマンが批判するような「自説に反対する者を馬鹿だ、嘘つきだと罵倒」するというサプライサイド・エコノミストの流儀もしっかりと受け継いでいるわけで、クルーグマンが書いてあることなら何でもまねしないと気が済まないのかもしれませんね。同様に、クルーグマンによる共和党に対する批判として

 ドール(引用注:共和党の大統領候補者だったボブ・ドール)は演説でまたもや、連邦政府が国民が苦労して稼いだカネを取り上げてしまい、ソーシャルワーカーだけが欲しがるようなものに注ぎ込んでいるというフィクションを訴えようとした。減税こそ有効な政策だと思い込んでいるせいか、サプライサイド・エコノミックスは保守派に無責任になる勇気を与えたようである。しかし実際、一般国民が保守派の主張を聞き入れた理由は、巨大な軍隊のような官僚組織のイメージと、生活保護を給付されながらキャデラックを乗り回す怠け者のイメージを受け入れたからであった。保守派がそのように主張できたのには、有力な理由が一つあった。自らが政権を握っていた時代に大きな政府を削減できなかった失敗を、常に議会をコントロールしていた民主党の責任にすることができたからである。
p.87
クルーグマン『グローバル経済を動かす愚かな人々』

というのもあるのですが、「減税こそ有効な政策だと思い込んでいるせい」で「巨大な軍隊のような官僚組織のイメージと、生活保護を給付されながらキャデラックを乗り回す怠け者のイメージを受け入れた」ような主張をする方もリフレ派と呼ばれる方々の一部にいらっしゃったように見受けます。

ということで、前回エントリから私がクルーグマンを批判しているのは、その経済学的なモデルの正しさとかではなく(そもそも私ごときがそんなことはできませんし)、クルーグマン独特の独善的な物言いがその信者たちにも無批判に伝播してしまっているのではないかということでして、たとえばクルーグマンのこの指摘は(経済学的な正しさはそのとおりとしても)悪影響が大きかったと思います。

…なぜ4%主義者たち(引用注:4%の経済成長を目指すべきと主張する一派)はもっと説得的な議論ができないのか? 彼らのモデルは何であろうか?
 答えは、もちろん、モデルなどないのである。フェリックス・ロハティンと他の遠くが信じる経済学のどこがおかしいかというと、彼らは原則を理解していないということである。(中略)政策はモデルから組み立てるのであって、その反対ではない。FRBのエコノミストが経済は4%も成長できないと考えるのは、低成長が好きだからでもなければ、正統派の考えにがんじがらめに縛られているからでもない。FRBには事実と整合する、アメリカ経済のモデルがあり、4%が完全に非現実的な目標であるということがわかるからである。
pp.154-155

 もう一点だけ強調したい。私が真剣な経済学と、口先だけの、洗練されているように聞こえるレトリックの違いについて話すと、すべてを知っていると思い込んでいる横柄な人間だとよく非難される。どうしてなのか、私には想像することができない。真剣に考えてみてほしい。フェリックス・ロハティンのような人物が実際言わんとしていることは、「私にはエコノミストの従来の意見や、大学の教科書のモデルなんか理解する必要はない。私はすごく頭がいいので、私自身のマクロ経済学を勝手に作ることができ、それはエコノミストの考えよりも勝れている」ということだ。そこに、この気にくわないエコノミストが現われ、彼の議論の穴を指摘したりする。大学の教科書を理解しようと努めていた者なら犯さない基本的なエラーを見つけ出す。すると人々の反応は、「あのクルーグマン、実に横柄である」ということになる。
p156
クルーグマン『グローバル経済を動かす愚かな人々』

こんなことをいえるのは、38歳でジョン・ベイツ・クラーク賞を受賞し、この後2008年にノーベル記念スウェーデン国立銀行賞を受賞するクルーグマンだからこそであって、まあ凡人ごときに批判されるいわれはないかもしれません。しかし、「モデルから政策を組み立てる」というのは、政治過程や実務的な手続きのフィージビリティを軽視したものであり、研究者の姿勢としてあまりに安易ではないかと思います。

そうしたクルーグマンの姿勢にも問題があるとはいえ、一般の読者がクルーグマンの啓蒙書を読んだ程度でその気になってしまい、それを受け売りして気に入らない主張をする経済学者をデフレ派だのと罵倒するのは、「実に横柄である」といわれても仕方ないでしょう。それより問題なのが研究者(経済学に限らず)でして、クルーグマンの言説を笠に着ながら、モデルだけで政策を語ることができるとして自説に対立する論者を罵倒する研究者は、その影響力からすれば一般の読者よりはるかに悪質ですね。まあこの現象は、この国のアカデミズムの程度を物語るものなのかもしれませんが。

一方で、確かにクルーグマンは経済学的におかしな主張をする論者は容赦なく批判しますが、この国のアカデミズムほどには軽率ではないようで、現実の政策の実現可能性についてはそれなりに考慮しているフシはあります。

 まず、税制改革について話そう。税制の一律化、付加価値税、全国規模の物品税などがよく議論されている。このような提案の熱心な提唱者は、現在の税制は経済の効率性という観点から二つの主な欠陥があると指摘する。最初に40%ほどの高い「限界」税率は払っている人がいるが、これは1ドル余計に稼ぐたびに40セントが国税庁に行ってしまい、これでは真面目に働く意欲を失ってしまうということ。第二に、国税庁は金利や利益にも課税するため、将来のために貯蓄することを思いとどまらせてしまうこと。そこで彼らはより高い勤労意欲と貯蓄率を可能にするような税制改革案をまとめ、それがアメリカ経済の拡大につながるかもしれないという。
 けれども、それによって得られるものは、どれくらいの規模のものなのだろうか? 多くの貯蓄がすでに無税である。退職年金口座の特別優遇措置のためである。それに税を全く廃止してしまうことはできない。好むと好まざるとにかかわらず、政府の行政サービスに対して人々は税を支払う必要があり、したがって限界率を減らすことには制限がある。たとえば、現在の所得税とほぼ同額の税収入を得るとなると、現実的な一律税制率は20%以上の限界率を保たなければならないだろう。それは現在の40%よりも低いかもしれないが、ほとんどの人はそんな額を払っていない。そしてその20数%も、住宅ローンの金利課税控除を排除する場合に限り可能である。つまり、経済全体としては新しい税から利益を得ることができるかもしれないが、何百万という中流家庭は損をする。
 そして実際、税金アナリストは税制の根本的な改正が行われたとしても、それによる純利益は控えめなものでしかないと結論している。彼らは、多くの人が得をするかもしれないが、同時に多くの人が損をするだろうという。中産階級が損をするかもしれないということの本当の意味は、つまり税の一律改案が、非現実的に低い税率を公約するものになる、ということである。そして現実的な税制改革ならば経済に良いかもしれないが、典型的な”政治的”税制改革案というのは、富裕層に大きな減税、そして中産階級には増税しないと約束し、大規模な財政赤字をこしらえてしまう。つまり、経済には得よりも損のほうが大きいということである。
pp.238-239
クルーグマン『グローバル経済を動かす愚かな人々』

ここは注意していただきたいのですが、クルーグマンがここで指摘しているのはあくまでアメリカのことであって、経済学の教科書に出てくるようなモデルのことではありません。さらに、上記で引用した共和党に対する批判のとおり、クルーグマンは減税が景気回復に与える影響はかなり小さいと見積もって、現実のアメリカの税制からすると、「政治的」な減税は得よりも損のほうが大きいとしています。まあ、クルーグマンの政治過程(政策形成過程)に対する軽視というか蔑視するような姿勢はここにも現れているように思いますし、政府による行政サービスも最小限でいいような書きぶりですが、少なくとも本書を発行した時点のクルーグマンは、「政治的」な減税による財政赤字は多くの人にとって損であると認めているわけです。

なお、中流階級の負担増の必要性を指摘している点は、本書の前年に発行された『クルーグマン教授の経済入門 』と同様の認識のようです。ところが本書では、そうした国民負担による再分配政策についても否定的な記述が散見されます。といっても、再分配政策一般というよりフランスの再分配政策に対する批判が繰り広げられるわけでして、この点からも、クルーグマンがあくまで「アメリカ的」リベラルであって、ソーシャルな政策には関心が低いことが伺えます。

 アングロサクソン・エコノミストにとって、フランスが現在抱えている問題は、特に不思議ではない。この国における雇用の問題は、ニューヨークのアパートのようなものである。アパートを供給する者は、政府による、居住者に有利な細かい規則に従わなければならない。フランスの雇用主は労働者に高い賃金を払わなくてはならず、手厚い福祉を与えなくてはならない。ニューヨークの借家人を立ちのかせるのと同様、労働者を解雇することはかなり難しい。ニューヨークは、借家人に有利で大変にいい条件を提供しているが、新しくアパートを探す者にとっては頭痛の種となっている。しかし、多くの人々、ことに若者は、職を得ることができない。失業手当が寛大なため、多くが職を得ようとさえしない。
pp.46-47
クルーグマン『グローバル経済を動かす愚かな人々』

いやまあ、池○ノビーか城○幸かと見紛うような解雇規制緩和論ですが、アクティベーションは確かに重大な問題ではあるものの、ソーシャルな論者であればフランスの雇用主の心配をするよりも労働者の福祉に関心を寄せるのではないかと思います。さらに、世代間対立についても池○ノビーか城○幸のお友達ではないかと疑ってしまう記述があります。

 国防と金利の支払い費用は別として、アメリカ政府は今主に——そう、主に——若者に課税し、老人にカネを与えているのである。このリスト(引用注:『アメリカの統計の要約』の連邦政府支出項目リスト)を目にすれば、税金をあまりにも多く支払いすぎているため、祖母が孫娘に電話をすることができないなどと平気でうそぶくドールがいかに破廉恥であるかわかる。その祖母は、同じ年の人々がこれまで生きてきたより、はるかに良い生活を送っているはずである。彼女と彼女の夫がおさめた税額を大きく超える社会保障によって、生活が保障されているのである。(中略)
 アメリカは高齢者を優遇しすぎると主張することは可能である。退職者に気前が良すぎ、とりわけ福祉がなくとも生活可能な高齢者には甘すぎる、と。けれどもそれを保守派が主張したことはない。小さな政府の真の提唱者なら、エリート官僚に対してではなく、不利だのマンションで隠退生活を送っている中産階級に対して抗議運動を繰り広げるべきだろう。だがなぜか、その点はドールの演説に欠けていた。
p.90
クルーグマン『グローバル経済を動かす愚かな人々』

ここはクルーグマンなりに慎重に中産階級の高齢者に的を絞っている記述になっています。しかし、そうであるならなおさら「(主に)若者に課税し、老人にカネを与えている」とか「アメリカは高齢者を優遇しすぎると主張することは可能」と言い切るのはいかがなものかと。実際に、本書の中でクルーグマン自身がそのような主張に対する反証を記述しています。

 想像してみよう。ある狂った科学者が1950年にタイムトリップして、中流家庭の人間に、下から25%のレベルになれるから、90年代の驚くべき世界に来ないかと誘ったとしよう。96年の下から25%のレベルは、50年代の中流に比べて物質的には明らかに進歩している。彼らはこの申し出を受け入れるだろうか? 否であることはほとんど確かである。50年なら彼らは中流であったが、物質的に恵まれるとしても、96年では貧乏ということになってしまう。人々は単に物質面だけを気にするわけではない。他と比べた自分の生活レベルにも配慮する。
p.256
クルーグマン『グローバル経済を動かす愚かな人々』

1950年よりも物質面で恵まれている現代(といっても本書は20年近く前ですが)には、1950年に若者であった高齢者も生活しているわけで、「他と比べた自分の生活レベルにも配慮する」以上、物価も生活水準も上がった現代において、若者の当時に負担していた税金や社会保険料以上の給付を受けるのは当然なんですよね。そうした主張の齟齬に違和感を感じたらしいクルーグマンは、残念ながらその考察を避けてしまいます。

…現代のアメリカは、しかしながら、非常に不平等な社会であり、誰でも驚異的な成功を収めることができるが、実際はあまり多くの人が成功を手にいれることのない社会である。その結果、多くの人々——いや、たぶんその大部分——が、いかにその人生が快適であっても、その挑戦に失敗したと感じている(中略)
 この考えを追求していくと、経済政策について非常に急進的な考えに辿り着く。それは現在の常識とはまったく異なるものである。だが、私はこのコラムでそのような考えについて真剣に取り組まない。率直に言って、私には時間がない。私は自分の研究に戻らなければならない——さもなければ、ほかの誰かがあのノーベル賞をとってしまうかもしれないからだ。
p.268
クルーグマン『グローバル経済を動かす愚かな人々』

うーむ、こう書いておいて10年後にノーベル記念スウェーデン国立銀行賞を受賞してしまうクルーグマンの有言実行ぶりはすごいと思いますが、再分配とか社会保障に関する議論に関していえば、この辺がアメリカ的リベラルであるクルーグマンの限界なのでしょう。
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