2014年07月21日 (月) | Edit |
またもや1か月以上のブランクで広告が表示されるようになってしまいました。ここしばらく本業の方がピークを迎えていたこともありますが、なんというか、いつも同じエントリばかり繰り返し書いている感覚が強くなっているところでして、本業の合間を縫ってまでエントリにしたいことがあまりなくなっているのも正直なところです。とはいえ、エントリにするまでではないにしろ書いておきたいことはそれなりにあるわけでして、ペースは遅くなりますがブログはぼちぼちと続けていこうと思います。

ということで、だいぶ前に読了しておきながら塩漬けになってしまっていたhamachan先生の『日本の雇用と中高年』の感想から再開したいと思います。昨年同じくhamachan先生の『若者と労働』については、「この本を読んでしっかりと若者と労働について認識を改めて実践するべきは、堅く言えば使用者側、ぶっちゃけて言えば「メンバーシップ型」の雇用にどっぷりと浸かってしまった大人の側」という感想を書いておりましたが、今回の『日本の雇用と中高年』はその名のとおり、その「大人の側」が自分のこととして「認識を改めて実践すべき」ことが満載です。同じエントリで、若者については「これからその世界に浸かってしまう若者にとっては、予防線として知るべき知識ではあっても、現時点では残念ながら実践すべき知識ではない」とも書いておりましたが、これとは全く対照的に、本書で書かれていることはまさに中高年の労働者が実践するべき知識というわけです。

という私自身が中高年にさしかかりつつあるところでして、じゃあお前は何をやっているんだと言われると、本業の方でぼちぼちとやっているつもりではありますが、いかんせん下っ端なものなのでそれがどれだけ実効性のあるものかは心許ないところではあります。

まあそれはそれとして、議論を精緻化するためやや法律的な言い方をすれば、雇用契約が民法上の典型契約として債権債務関係で定義されていながら、労働基準法などの強行法規が規定されている理由は、私的自治の原則に基づく民法だけでは契約そのものの瑕疵や使用者(需要側)の債務不履行の発生を防ぐことができず、賃金を生活の糧とする労働者(供給側)の生活が直接に脅かされるため、契約の内容を直接規制する必要があるからですね。

ところが、契約の内容を直接規制して契約の瑕疵や債務不履行の発生をある程度防いでも、私的自治の原則がある以上、交渉上の地歩の違いによって実態としての契約内容が定まってしまい、深刻な体調不良を招く長時間労働や生活が成り立たないほどの低賃金労働などによって、実態として労働者の生活や健康が脅かされることが生じ得ます。もちろん、現に生じた不利益については、現行法においても補償なり賠償なりを求めることができますが、そのためには厳格なデュープロセスオブローを確保する必要があります。となると、そのための時間的・金銭的コストが現に生じた不利益に見合わなければ、現実問題として泣き寝入りするほかありません。そもそも私的自治を原則とする現行法上は、現に不利益が生じてその当事者が法的手段に訴えるまでは第三者が口を出すことはできない(いわゆる民事不介入)ので、そうした事態を未然に防ぐことはできません。つまり、身体・精神的な疾患を発症したり過労死したりという目に見える不利益が生じない限りは、労働者は契約に基づく債務履行(労働供給)を事実上強制されてしまうわけです。

結局、現に生じた不利益については法律上の救済措置が可能ですが、基本的人権に積極的自由が含まれるとする現憲法において、法規範のみでは積極的自由の衝突による不利益を未然に防ぐことは事実上不可能です。そのため、制度(社会システム)によって積極的自由の衝突を調整しながら労働者の生活が脅かされる事態をどうやって防ぐかというのが、現代の先進諸国が福祉国家と呼ばれる体制を構築してきた歴史となるわけです。

というまたもやいつも書いていることの繰り返しを書いてしまいましたが、特に中高年の労働者には、自分だけではなく子どもなどの家族の生活がかかっているわけで、 hamachan先生も序章で中高年の雇用を議論するための視座を明確に述べられています。

 世界中どこでも、労働者のライフサイクルは似たようなものです。若い頃は独身ですが、やがて結婚して子供が生まれ、子供が次第に大きくなって教育費がかかるようになり、また住宅費もかさむようになっていきます。こうした養育費、教育費、住宅費といったコストは、社基が健全に再生産していくためには必要不可欠なコストですが、労働者の提供する労働の対価とは直接関係がありません。そこで先進諸国はいずれも、こうした現役世代向けの社会保障システムを確立拡充してきました。国が国民(国のメンバー)の面倒を見るのは本来の仕事です。
 ところが、日本型雇用システムとは、欧州諸国が公的に面倒を見てこざるを得なかったこの部分を、企業が年功賃金制度の中で対応する仕組みでした。逆にいえば、年功賃金制の下で教育費も住宅費も企業が面倒見ている状況を所与の前提として、現役世代向けの部分が欠落した社会保障システムが十全なものであるかのように維持されてきたということもできます。そうした社会保障システムをそのままにして、雇用システムだけを無理にジョブ型に変えたら何が起こるか。ここにも、相互依存的な関係を持つシステムの改革につきまとう問題が露呈してきます。
 雇用システム改革を論じるとは、こういう社会システム全体への目配りを絶やさずに、どこまで慎重かつ大胆な提起ができるかが問われるということなのです。表層的な損得論をもてあそんでいるような人々の手に負えるような生やさしいものではありません。
pp.18-19

日本の雇用と中高年 (ちくま新書)日本の雇用と中高年 (ちくま新書)
(2014/05/07)
濱口 桂一郎

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雇用システムを社会保障システム全体との関連で位置づけるという先進諸国では当たり前の議論が難しい現状はもちろん、その日本の雇用・社会システムを巡る議論が極めて表層的にとどまっている現状が、この部分で見事に描き出されています。私が上の方でグダグダ書いたことも、要は「雇用システム改革を論じるとは、こういう社会システム全体への目配りを絶やさずに、どこまで慎重かつ大胆な提起ができるかが問われる」ということに尽きます。

実は、労働政策のパターナリズムを取り上げた前回エントリ(といっても1か月以上前になりますが)は、本書を読む前に書いたものでしたが、第5章の末尾ですでに同じような問題意識がきちんと表明されていました。知らずにブログにTB送ってしまいお恥ずかしい限りです。。

福祉と労働の幸福な分業体制

 こうした流れをマクロ的に振り返ってみると、戦後確立した日本型雇用システムが企業内で労働者とその家族の生活をまかなうことを追求し、かなりの程度それを実現してしまったために、欧米諸国で同時代的に進んだ福祉国家の形成をかえって阻害してしまったということもできるでしょう。
 もちろん、傷病にかかったときの医療保健制度や労働市場から引退した後の年金制度などは、それほど遜色のない立派な制度が構築されましたが、現役生代の労働者に対する生活保障については、企業がすべて面倒を見るのが当然であって、公的な社会保障がしゃしゃり出るようなものではないという発想が牢固として屹立し、児童手当のようなその思想に反する制度は何とか生み出されても細々とやせ細っていくしかなく、あるいはせいぜい少子化対策か選挙目当てのバラマキとしてしか存在し得ないのが現実でした。

濱口『同』pp.236-237


現役世代の生活保障は企業が面倒を見るという前提がある限り、現役世代に対する給付(金銭・現物とも)はバラマキの批判を免れないわけでして、それによって生活を成り立たせている男性労働者とその家族にとっては、メンバーシップ型雇用システムを脅かすような主張(それが増税による財源の確保と社会保障の拡充であっても)をする輩は、シルバー民主主義の犠牲者であって新自由主義のシバキ主義で緊縮財政派のいいなりのアフォと認定されるわけですねわかります。

でまあ、かくも倒錯した議論がまかり通る現状において、筋道の通った議論をすべきアカデミズムですら(というかアカデミズムが率先して)いとも簡単に倒錯した議論に巻き込まれていくというのは、日本のメンバーシップ型雇用システムの堅牢さを示しているといえるのかもしれません。

 こうした流れは、アカデミズムにも大きな影響を与えました。現役労働者の生活保障はすべて企業内で解決されるべき「労働問題」であるとされてしまったことが、それまで存在していた広義の「社会政策」という問題意識自体を希薄にしたのです。かつては、労働問題を中核にそれと不可分の形で社会保障を論ずる社会政策という学問的枠組みが存在し、多くの学者が論を戦わせていたのですが、高度成長以後には(「社会政策学会」という名称の学会はそのまま残っているとはいえ)労働問題研究と福祉・社会保障研究とはお互いに異次元空間の存在ででもあるかのように別々に行われるようになっていったようです。
 日本型雇用システムでは、大企業の正社員を中心に企業単位の生活保障システムが確立し、公的な福祉を一応抜きにしても企業の人事労務管理の範囲内で一通りものごとが完結するようになったことがその背景です。福祉・社会保障政策はその外側を主に担当するという形で、福祉と労働の幸福な分業体制が成り立っていたわけです。
 これを逆に言えば、日本型雇用システムによってカバーされる範囲が徐々に縮小し、企業単位の生活保障からこぼれ落ちる部分が次第に拡大してくるとともに、この分業体制に疑問が投げかけられてくることになります。近年、社会政策分野で再び福祉と労働のリンケージが問題になりつつあるのは、この状況を反映しています(濱口桂一郎編著『福祉と労働・雇用』ミネルヴァ書房、2013年)。

濱口『同』p.238

学問に「社会政策」という分野がなくなった影響は、公務員試験に法律・経済と少しの政治学科目しか残っていない現状に端的に表れているように思います。国家Ⅰ種(今は総合職ですが)ほどの勉強もしていない地方公務員は特に、法律論やら(最近は地域経営論なども流行りですね)は得意気に語りますが、「労働って普通の地方自治体の仕事と関係ないからね」と平然とのたまうわけです。

そういえば以前雇用労働関係の部署にいたとき、所属部署の大ボスから「うちの役所からお前らがいる雇用労働担当をなくすのが俺の仕事だ」と面前で言われたことがあります。この発言は地方自治体の組織の特性が背景となっておりまして、地方自治体には商工(地域によっては農林水産業を含めて「産業」と一括りにしているところもあります)と観光と労働を一括で所管する部署があるのが普通でして、霞が関でいえばそれぞれ経済産業省、国土交通省(観光庁)、厚生労働省の業務を所管しております。華やかな業務が好きなその大ボスは、このうち商工と観光の振興が自分の使命だという意識が強いので、「商工業と観光を振興すれば雇用が創出されて雇用労働問題は解決するので、雇用労働担当は要らない」というナイーブな見解をお持ちのようでした。まあ、それが「チホーブンケン時代の労働行政は、ブラック企業にとっては水を得た魚のような心地」をもたらしているのだろうと思います。

hamachan先生の筋道の通った議論が政府内の議論にも反映されるようになって、「限定正社員」とか「メンバーシップ型」「ジョブ型」という言葉が人口に膾炙し始めたところですが、地方ではそもそも役所自体がそういう認識に到達していないという現状があります。職業的レリバンスの観点から言えば、公務員には「社会政策」について学んだ学生を採用すべきではないかと思うのですが、アカデミズムも役所もそんな学生を養成したり採用する気はないわけですし。本書で書かれていることはまさに中高年の労働者が実践するべき知識ではあるのですが、それが役所にまで波及してくるのはいつのことやら…と遠い目をせざるを得ませんね。

また長くなってしまいましたので(同じことを繰り返して書くから長くなるんですな…)、本書の内容については別エントリにしたいと思います。
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コメント
この記事へのコメント
hamachan先生に捕捉(?)していただきました。

> いつもながら目配りの聞いた的確な書評をいただき、ありがとうございます。
>http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-7891.html

書評というほどもない感想程度ですが、いつもブログを拝見しているとはいえ、書籍としてまとめられると理解が一層進むように思います。私の「目配り」はその理解の表れではないかと思いますので、引き続き勉強させていただきます。
2014/07/27(日) 21:55:46 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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