2014年05月29日 (木) | Edit |
前回エントリの発表の際には砂原先生の議論も参考にさせていただいたところですが、先日アカウンタビリティについて興味深いエントリがアップされていました。

1994年になってはじめて「アカウンタビリティ」という言葉が出てくる。この時点で説明責任という言葉はまだ。そして、転機が訪れるのが早くも1996年で、この年に制定された情報公開法や、社会問題となった住専問題に関係して「アカウンタビリティ=説明責任」という言葉が使われ始める。そしてこのまま順調にアカウンタビリティという言葉が使われ続けていくのかなあとおもいきや、アカウンタビリティという言葉は完全に失速し、2000年代に入るとほとんど使われなくなる。それに対して説明責任という言葉は隆盛を極め、2000年代には非常に広く使われる。

「■[雑感]アカウンタビリティと説明責任(2014-05-22)」(sunaharayの日記)


拙ブログでも「謝罪会見が急増しだしたここ10年くらいで一般に広まった言葉に「説明責任」というのもあります」ということを書いておりましたが、2000年代にはアカウンタビリティに変わって説明責任という言葉が隆盛を極めたことがデータでも示されているとのことです。そのエントリでも述べたことですが、「個人的にはこの「説明責任」が際限のない謝罪を求める際の理論的な根拠を与えてしまったのではないかと考えるところで」して、2009年の政権交代は自民党がまさにこの説明責任を取らされる形でもたらされのだろうと思います。さらに砂原先生の言葉をお借りすると、その政権を奪った民主党までも、

2009年には民主党が政権交代を起こして(その次の選挙でもきっちり責任取らされたので)、言葉の本来の意味での「アカウンタビリティ」が発揮され、あまり使われなくなったのかもしれない。


という状況に至ったのかもしれません。

この後砂原先生はジェラルド・カーティス氏の説明を引用されて、accountabilityとresponsibilityの違いを説明されるのですが、私の拙い理解ではありますが日本の仕組みに即して言い換えると、レスポンシビリティは行政機関が執行する政策の意図や効果について説明可能性を有すること、アカウンタビリティはそのレスポンシビリティについて、立案の権限に基づく説明可能性を有すること(立案した政策の修正の権限を有すること)というイメージだろうかと思います。つまり、政策の意図とか効果については、政策立案を担当した行政機関(端的にはその構成員である官僚や公務員)がレスポンシビリティを有するとしても、アカウンタビリティは、その政策が現実に意図した効果を発揮しているかを検証し、発揮していない場合に適切に修正又は新たな政策を立案する権能として観念されるものではないかと。そのアカウンタビリティは、執行を担当する行政機関ではなく、制度についての意思決定を司る立法府やその制度そのものによって担保される必要があり、執行する側に求められるレスポンシビリティとは明確に区別される必要があるのでしょう。

この点については、砂原先生が上記エントリのコメント欄で

「説明責任」という言葉が端的にまずいのは、その主体が委任を受けるエイジェントだからであると考えています。要するに、委任した本人に対して因果関係をうまく説明する(そして納得してもらう)という含意が強すぎるということです。
私の理解では、アカウンタビリティは、そのようにエイジェントが主体になる概念ではなく、本人あるいは制度が主体になる概念です。つまり、因果関係をうまく説明できるかどうかが問題なのではなく、(説明がうまくても下手でも)プリンシパルが因果関係に納得できないと判断したらエイジェントを辞めさせる、その可能性の程度について議論するための概念だということです。

sunaharay 2014/05/27 23:58

とおっしゃっているように、政策の意図や効果についての因果関係という身も蓋もない現実によってその去就の可否が判断される選良の方々にこそ、アカウンタビリティの重さを認識していただきたいところなのですが、日本の某二大都市に由来する政党がくっついたり離れたりするのは、どのようなアカウンタビリティを担っていらっしゃるのか小一時間ほど問い詰めてみたいものですね。
スポンサーサイト


コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック