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2014年03月15日 (土) | Edit |
前回エントリで住民自治の回路が機能し始めたかに見えた大槌町ですが、その大槌町でも「防潮堤に囲まれる町」として事業を進めることの是非について議論が行われていました。

防潮堤から考える町の未来 ~岩手県大槌町~

放送
【総合】2014年2月16日(日)午前10時05分~10時53分
まもなく震災から3年。今、新たに建設する防潮堤をめぐり、被災各地で計画の見直しを求める声が高まっている。「高すぎる防潮堤はいらない」「海が見える方が安全」などの声を受けて、国も去年12月、防潮堤建設のスケジュールや予算案については住民の意向を重視し、柔軟に検討することを促す姿勢を打ち出した。
岩手県大槌町では、震災前6.4メートルだった防潮堤を、ビル5階建ての高さに相当する14.5メートルで再建する計画だ。しかし、漁業者や水産加工業者をはじめ、住民にとっては利便性が悪くなると懸念を訴える声が相次いでいる。そこで、高校生を含む住民20人が「住民まちづくり運営委員会」を発足。町の防潮堤をどうするのか、住民で話し合いを重ね、みんなが納得する案を作って行政に届けようと活動を始めた。
番組では、防潮堤の高さによって町はどう変わるのか、専門家に提示してもらいながら、防潮堤と防災のあり方、未来のまちの姿を住民たちと共に考える。

NHK 復興サポート
※ こちらのサイトは年度ごとに更新されるようですので、引用した部分は2014年度以降に過去のページで閲覧できると思われます。以下、強調は引用者による。


番組では住民の皆さんが真摯に向き合って話し合う中で、様々な立場から意見が述べられていました。番組を見た範囲で私なりに大きく意見を分類すると、防潮堤の高さを低くすべきという意見としては、
  • 高い防潮堤があると景観が損なわれる。
  • 高い防潮堤が町を守るという安心感から防災意識が低下して、津波警報が出されても逃げない人が増える(今回の震災ではそのような状況で命を落とされた方も多くいた)。
  • 奥尻島でも町を囲む防潮堤を完成させて復興宣言もしたが、重要な地場産業である漁業が衰退し、人口減少が止まらない。
  • 防潮堤の高さを下げることによって予算を浮かせ、高台移転や避難路などの防潮堤に頼らない防災対策に予算を使うべき。
  • 防潮堤などの規模が大きくなると、維持管理・補修などの後年負担が大きくなる。
というところだったと思います。これに対して、計画通りの防潮堤とするべきという意見としては、
  • 防潮堤を低くすると浸水区域が広くなり、避難するのに時間がかかって足腰の弱い高齢者などが逃げ遅れるおそれがある。
  • 防潮堤の高さを前提として、避難路、公共施設の設置場所などの計画が作られており、防潮堤の高さを変えると計画全体を見直す時間がかかる。
  • すべての計画を作り直すために時間をかけるより、早く復旧させることを優先すべき。
  • 高齢者などの足腰の弱い住民が安心して暮らせるようにすべき
というところだったと思います。

個人的には、どちらの言い分にも説得力を感じますが、いずれもトレードオフの関係になっていて判断が難しいと思います。たとえば、経費をかけて防潮堤を高くすることで、津波の浸水区域を狭めて移動が困難な方の安全を確保しようとしても、維持管理などで後年負担が大きくなると、その他の公共サービスがクラウドアウトされてしまい、移動が困難な方にとっては、防潮堤があっても避難を助けてくれる人がいない、または避難できる施設を確保することができないという事態に陥る可能性があります。また、上記の意見の中では、奥尻島の事例から、防潮堤を高くすることで漁業者の仕事場が狭められ、漁場そのものにも影響が出て町の産業全体が衰退することに懸念が示されていますが、漁業を守るために防潮堤を低くすると、浸水区域が広くなって後背地の防災費用に経費がかかったり、津波で浸水するたびに補修する費用がかかる可能性もあります。

当然のことながら防災施設を作る目的は、その施設によって何を守るのかという点がいちばん重要だと考えておりますが、その「何を守るのか」というのは、範囲が増えて住民が増えるにしたがって多様性を増していきます。さらに個々の住民にとっても、住民の家族構成、住民自身の年齢などによっても守るべきものは変わっていきます。若年者にとっては自分自身を守ることができれば生きていけるでしょうが、子育て世代は子どもを守る必要があります。高齢となった両親を守必要もあるかもしれません。その高齢者や障害者は自分を守ることすらままならない上に、被災した後でも生きるためのサポートを必要としますので、そのサポートを確保するために守るべきものもあります。若年者や子育て世代にとって高齢者や障害者は他人事かもしれませんが、いつ事故で体の自由を失うかわかりませんし、あるいは歳を重ねるごとに体や知力の自由は失われていきます。もちろん、仕事をしている世代にとって、自分の仕事場とその基盤となる社会的インフラを確保しなければ生活そのものが成り立ちません。そのような多様な住民が暮らす地域をどのように守るのか、その答えは簡単ではないと思います。それに取り組まなければならない被災地の方々の心労は想像を超えるものがありますが、国や周辺自治体はその取組を支援していかなければならないと思います。

実は、その支援の前例ともいえる事例が岩手県宮古市の田老地区にあります。NHKの「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか」という番組がありまして、こちらで世界最大級といわれた田老蓄の防潮堤が建設された経緯を見ることができます。

昭和8年の大津波で911人がなくなった岩手県宮古市田老(たろう)。24年をかけて巨大防潮堤を建設し、その姿は「万里の長城」と呼ばれた。1960年のチリ津波特別措置法の制定にあたっては、津波対策のモデルとなり、その後、全国に多くの防潮堤が建設された。田老にも第二の防潮堤が建設されたが、東日本大震災では破壊され、多くの犠牲者を出した。戦後日本の津波対策を田老の防潮堤を軸に人々の証言で見つめていく。

戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2013年度「地方から見た戦後」第6回 三陸・田老 大津波と“万里の長城”」(NHK ONLINE


番組内容については、こちらのサイトの情報が詳しいです。

「津波太郎」。岩手県宮古市田老(たろう)は、そう呼ばれる。豊かな漁場にめぐまれた漁業の町は、繰り返し津波に襲われてきた。昭和8年の大津波では死者911人―三陸最悪の被災地であった。加えて、幾たびも山津波や大火に見舞われた。田老の戦後は、自然災害にあらがい、防災と取り組んでまちをつくりあげてきた歳月でもあった。
象徴的なのが、防潮堤の建設だ。昭和の大津波の1年後、村長関口松太郎の奮闘によって始まった大工事は、やがて県の事業となり、国費もつぎ込まれ、24年をかけて完成した。それは、波に逆らうことなく、二本の川に津波をそらす構造になっていた。
しかし、1960年にチリ津波が来ると、国は構造物によって、津波を防ぐという「チリ津波特別措置法」を制定。田老にも二つ目となる防潮堤が建設される。それは、波に立ち向かい、抱きかかえるような形だった。こうして、総延長2.4キロ、海面からの高さ10メートルのエックス字型の大防潮堤が完成。世界に例を見ないコンクリートの威容を、田老の人々は「万里の長城」と誇った。
しかし、東日本大震災では、二つ目の防潮堤は、津波により根本から壊され、地域に甚大な被害をもたらした。高さ10メートルの最初の防潮堤は崩壊を免れたものの、「防潮堤の2倍はあった」という津波は乗り越えていった。田老は、200人近い犠牲者を出した。
田老の人達は、巨大堤防でどのような町作りをめざしてきたのか。番組では防潮堤の建設の経緯を軸に、つねに自然災害と対峙して生きてきた田老の人たちの営みを証言で見つめていく。

「2014年1月11日(土)午後11時~翌0時30分 【再放送】2014年1月18日(土)午前0時45分~午前2時15分(金曜深夜) 第6回「三陸・田老 大津波と“万里の長城”」NHK ONLINE


この番組では、昭和8年の大津波で大きな被害が発生した田老地区で、当時の田老町長が国や県(念のため当時の県は国の出先機関です)の方針とは別に、独自で防潮堤を建設して漁業者の生活を確保しようとして、それが結局国を動かして国費で防潮堤を建設した経緯が述べられます。その後、昭和35年のチリ地震津波では防潮堤にも到達しない程度の津波しかなかったにも関わらず、当時のマスコミが「田老では防潮堤のおかげで被害がなかった」と大々的に取り上げ、その報道に接した他の津波被害を受けた地区の要望と国会議員の働きによって、三陸沿岸各地に大規模な防潮堤が建設されていきました。その流れの中で、田老地区でも昭和津波の際に建設した防潮堤のさらに外側に防潮堤を建設し、その地域でも住居などの建築が進みましたが、今回の東日本大震災の津波は、後から建設した防潮堤を根こそぎ破壊し、当初あった防潮堤も越えて甚大な被害が発生したという経緯があったとのことです。

後知恵的にいえば、マスコミが大々的に防潮堤の効果を報道したこと、それに国会議員が動かされて多数の防潮堤が建設されたこと、結果として完成した防潮堤に頼ってしまって防災意識が低下したこと、いろいろな要因が重なって今回の被害が発生したといえます。その時々の政策の判断もさることながら、それによって住民の意識が変わっていったというのも、政策の効果を考えることの難しさを如実に示しているように思います。人が住む地域には生業があり、その生業を成り立たせている地形的特徴があり、その生業を中心に共同体が形成され、近代以降はその共同体維持のために政策として社会的インフラや公共サービスが提供されてきたわけです。政策の目的は共同体の維持という共通のものであっても、その形は地域ごとに異なるのはそういう理由によるのではないかと考えております。

という観点からすると、こういう指摘は少しミスリーディングだろうと思うところです。

住民主導で他地域に 先駆けた合意形成

各被災市町村で行政と住民の合意形成が進む中、他に先駆けて復興計画が進む地域がある。岩手県釜石市唐丹(とうに)町の花露辺(けろべ)地区だ。同地区は昨年12月に岩手県内初となる、行政・住民間での復興計画の合意がなされ、釜石市の財源で高台移転に必要な2億2700万円が昨年度内予算で用意された。すでに公営住宅の設計図も提示され、本年度内での高台移転完了を目指す。

行政と住民、その前に必要なのが、地区住民の中での合意形成だろう。しかし、個々の事情と心情を汲みつつ話し合いで意見を一つにまとめるのは、当然ながら難しく時間がかかる。それが花露辺地区は、行政側が動き出すよりも早く地区住民内での意志がまとめられ、震災から3ヶ月経たない6月1日の時点で、市に要望書を出すに至っている。被災市町村からの復興計画が出揃ったのが12月であることを考えると、実に半年近く先行している。

このような早さを可能にしたのはコミュニティの結束と、自治会を中心とした強いリーダーシップにある。68世帯と小規模であることも大な理由だが、もともと他地区に「あそこは特別」と言われる程まとまりが強いことで有名だった。

復興計画に示された 暮らし方のビジョン

海に面した花露辺地区は震災前から防潮堤を作っておらず、今回の復興計画でも防潮堤を不要とした。標高16メートルの地点に道路を作り、その外側を盛り土することでこれが実質的な防潮堤の役割を果たす。住民の多くが生業にする漁業への利便性を失わずに、海が見える景観を保つまちづくりだ。
花露辺地区に学ぶ住民主導の復興まちづくり 自分たちらしい海の見える暮らし方へ(2012年4月11日)」(東北復興新聞

以前も田老と比較された気仙沼市唐桑町の舞根地区も同様に、釜石市の花露辺地区も小さな漁港で歩いて数分で高台(リアス式海岸ですので、崖のような山ですが)に到達することができます。そのような小規模な地区と、田老地区や大槌町の中心部のように、場所によっては高台まで歩いて数十分以上かかり、川があるために津波が奥まで浸水する地区とは、守るべきものの量の範囲も異なります。先日の震災特集番組でも防潮堤の問題が多く取り上げられていましたが、大槌町や田老の中心部と花露辺や舞根のような小さな地区を同列に並べて「防潮堤が要らないという地区もあるのに、国は住民の意向を無視して強引に事業を進めようとしている」という批判が目につきました。住民の意向を反映させることが重要であることは当然ですが、その住民の意向そのものが、冒頭で引用した大槌町のように規模も面積も大きくなると多様に分かれてしまうわけでして、在京マスコミが住民の代弁者を気取ってしまうために意思決定が攪乱されてしまうことが懸念されるところです。
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