2013年12月20日 (金) | Edit |
更新が滞っているうちに読みたい本もたまってしまい、空き時間でちまちまと読み進めているのですがなかなか追いつきません。その中でもぜひ読みたいと思っていた金子先生の『日本の賃金を歴史から考える』をやっと読了したのでメモ。

hamachan先生が「このタイトルは過小広告!賃金だけでなく日本の雇用の全体像を歴史を軸に描き出した名著」と評するだけあって、その起源についてはポラニー『大転換』と同じく産業革命期の労働市場の黎明期から解き明かしていきます。あくまで本書を貫くのは「賃金」ではありますが、その算定根拠、決定過程、企業内での実施状況やそれを取り巻く労働運動や経営者側の取組、さらにそれを実効あらしめようとする政府の施策が、主に明治時代以降の近代日本の歴史に沿って描かれていくため、見通しやすく読み進めることができます。もちろん、日本の労務管理がイギリスやアメリカで発展してきた賃金決定の考え方を取り入れてきたという国際的な視野も含まれていて、これだけコンパクトにまとめられた金子先生の業績は、初の単著でありながら「名著」と評されるのも宜なるかなと。

少なくとも、日本型雇用慣行の下で決定される賃金を議論するのであれば、ここで指摘される事情は把握しておくべきでしょう。したり顔で経済学的な需給関係から賃金を説明しようという歴史的視点を欠いた方にこそぜひお手にとっていただきたいところです。まあしないでしょうけど。

 日本的賃金論が形成されるまでには、二つの大きい流れがある。それは後に詳細にみるように、科学的管理法に裏打ちされた請負賃金(出来高給)と生活賃金である。出来高給と生活賃金の二つをめぐる議論は、年功賃金論で展開された仕事(≒能率重視)か生活かといった議論とも共通するところがある。これは時代を超えて何度も繰り返される二大軸であるといってよい。
 能率と生活は対立してとらえられることが少なくない。それは実際に、企業経営の効率(≒生産性の上昇)といった問題と従業員の便益(benefit)であるプライベート・ライフの充実という問題が現実の局面においてしばしば対立するからにほかならない。それは歴史的にも労使交渉の主戦場の一つであった。しかし、ここで見逃してはならないのは、近代において「生活」は「能率」と深く結びついていたという事実である。そのことを知るためには私たちは社会改良主義を知らなければならない。
 結論からいえば、社会改良主義は国民的効率(National efficiency)と結びついていた。友愛社の社会民主主義的労働組合のモデルであるイギリス流の労働組合についてはじめて体系的な著作『産業民主制論』(1897年)を書いたウェブ夫妻は、社会改良主義を国民的効率という観点から議論した代表的論客でもある。
(略)
 この一種の進歩思想は、アメリカの社会改良主義にも共通している。それが第3章でも紹介したルーズベルトの「国民的能率」の議論である。社会改良主義には、社会に不適合な者、ないし社会にいまだ適合していない者を矯正し、より社会の構成員として望ましい状態に適応させることを進歩ととらえる視点があった。
(略)
 日本における農村の地方改良運動や都市の感化救済事業もこのような社会改良主義の影響を受けている。地方改良運動のなかで重要な役割を果たしたのが、模範的人物や模範村(工場)などの表彰や過去の偉人(いまの人が生きるためのモデル)の顕彰事業などである。これらの顕彰対象は古今東西を問わなかった。逆にいえば、明治に入ってから忘れられていた日本人の顕彰もこの時期以降におこなわれ、新たに日本の伝統と理解されるようになっていった。このような歴史的現象を歴史学者のホブズボームは「伝統の発明」と名づけた。
 いずれにせよ、生活改良(生活指導)は労務管理における教育(統治)の問題とも重なり合っており、その背景には能率思想に裏打ちされた進歩主義が存在していた。こうしたことは生活賃金とも重なり合っていたのである。
pp.74-76

日本の賃金を歴史から考える日本の賃金を歴史から考える
(2013/11/01)
金子良事

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最近だと「生産性ガー」とかいわれて生活給に対する風当たりが強くなっていますが、一昔前は「給料ドロボー」(公務員なら「税金ドロボー」ですね)とか「ノン・ワーキング・リッチ」という言い方もありましたね。しかし、社会としての生産性を向上させるためにはその構成員の生産性を上げなければならないというのが社会改良主義で、それは実は生活改良を通じた生活給ともつながっていたわけです。というか、戦前の昭和初期までにはこうした議論に到達していたということにこそ注目すべきで、最近の賃上げをめぐる議論を拝見していると激しい周回遅れ感を感じてしまいます。

そのウェッブ夫妻が重視した労働組合による賃金決定の限界について、アダム・スミスのプロフェッション論を引用しながら職に対する社会の評価の重要性が指摘されます。

 トレードを考えるにあたって、19世紀初頭のイギリスまでさかのぼったのは、トレード・ユニオンを単に労働組合ととらえる以上のことを考えたかったからである。すなわち、使用者と労働者が明確に階級として分離される以前の19世紀初期のトレード・ユニオンはまだ同業団体の性格を色濃く残していた。逆にいえば、労働条件を挙げるのは、いつも労働組合とはかぎらない。一つのパイをどのように切り分けるかという局面(=労働分配率の問題)では使用者と労働者は対立するが、一つのパイをどのように大きくするかという局面では両者は協力するという考え方も一つの合理的な戦略であろう(これに反対する立場は、そこに労働強化がともなうならば、拡大戦略自体を望まないというものである)。(略)
 ある産業の労働条件は、労働組合(産別)、使用者団体、業界団体などの産業内の団体の力だけで決まるわけではない。むしろ、当該産業の外部とのかかわりあい、社会的認知や信用度によって決まるのである。つまり、社会のなかで高く評価されなければ、賃金も高くならないのである。この点で先に引用した非生産労働であるプロフェッションにたいするアダム・スミスの指摘は、いまなお有効であるといわざるを得ない。
 経済学的に考えれば、希少性のある財・サービスは高い価値を持つ。それならば、ある仕事に習熟するのが困難でアリ、その職種が希少な高度な技能を有する場合、その賃金は高くなる。もし技能が高いにもかかわらず、賃金が低い場合、その技能が十分に明らかでなければ、評価できないので、低くならざるを得ないかもしれない。しかし、技能内容を明らかにすることで賃金が上がるのかと問い返せば、必ずしもそうとはかぎらない。具体的にいえば、ソーシャル・ワーカーは高度な技能(支援技術)をもつ専門職であり、その技能内容の研究もブルーカラー研究以上に蓄積されてきた領域だが、その賃金は必ずしも高いとはいえない。そのほか、介護職・保育士などは同様に高い技能をもちながら低賃金におかれている典型的な職種である。これらの職種は少子高齢化社会のなかで今後、ますます重要性を増していくと思われるが、今後、報酬を引き上げていくように社会的に働きかけていく必要があると考えられる。
金子『同』pp.134-135

賃金が労使交渉だけで決まるわけでありませんし、そもそもその財源をどのように調達するのかというのがいわゆる「パイの大きさ」に大きく左右されることからいえば、公務労働によってまかなわれる介護職や保育士が低賃金に据え置かれていることは、結局社会がその程度の評価しか与えていないということの裏返しでもあります。少なくとも、その賃金原資となる社会保障費の拡充を目的とした消費増税に反対する方々は、結局のところ介護職や保育士などの公務労働の担う方々の生活には興味がないとしか思われませんが、まあ、あの方々は公務員人件費の削減を声高に主張する方々でもあるわけで、特に違和感はないというところでしょうか。

そうした個々の労働者に着目するのではなく、国全体の賃金政策に着目するとそれは所得政策でもあるわけですが、日本にも戦前は所得政策と呼べるものがあったものの、それが根付くことはありませんでした。

 賃金政策(ないし所得政策)について説明するのは困難である。なぜなら、日本における賃金政策といえば、いまでは賃金統計の作成と最低賃金を唯一の例外として存在していないからである(強いていえば、人事院勧告<公務員の給与水準>を含めることができるだろう)。また、所得政策にしても、議論の中心になるのは所得再分配政策、すなわち所得の高い人から徴収した税金をどのように所得の低い人に還元するかという話になってしまう。
 もちろん、賃金が経済の重要な変数である以上、労働市場政策、より視野を広げれば、マクロ経済でも取り上げられる。しかし、賃金そのものに焦点を当てた政策ということになると、歴史上、日本の賃金政策が存在したのは戦前期から敗戦直後、すなわち賃金統制の時期だけである。誤解を恐れずにいえば、戦時賃金統制のなかで発明された「賃金総額制限方式(平均賃金のコントロール)」が戦後、春闘などの労働組合による賃金交渉のなかに取り入れられたたため、結果的に賃金政策の必要性が薄れたのである。そうした代替機能が働いていたからこそ、1970年代に欧米で展開された所得政策が日本にもやがて必要になる可能性があると議論されたにもかかわらず、結局、見送られたのである。
金子『同』p.140

いかに生活給を測定して必要な賃金額を算定するかというのは、所得政策の不可欠な作業であって、戦前の友愛会という労働組合が家計調査を行い、それが生活給をモデルとする電産型賃金体系を原型とした戦後の賃金体系の基礎となっていたわけです。しかし、その生活給を基礎とした賃金体系が確立されたことそのものが、所得政策(とそれに基づく所得再分配政策)が日本に根付くことができなかった原因となっているといえそうです。

所得政策を代替した賃金政策では、上記の生活給と能率のせめぎ合いの中で、日経連が提唱した「生産性基準原理」によって労働生産性の議論が春闘に取り入れられていきます。労働生産性については戦後の生産性向上運動の拠点となった公益財団法人日本生産性本部に詳しい解説がありますので、まずはそちらをご覧いただくとして、本書のこの指摘は、デフレ克服のための賃上げが議論されている現在において大変重要だと思います。

 生産性基準原理は、より正確に理解するならば、賃金上昇率の上限を設けるものであり、賃金上昇自体を否定するものではない。しかし、このロジックは実際には1975年の春闘以降、経営側から賃金抑制の理由に使われ、そのため、物価が安定していた84年に佐々木孝男から「逆生産性基準原理」を提言されることになる。佐々木の提言を引用しよう。

「さしせまったインフレの危険がない現状において、生産性の上昇に見合う実質賃金の上昇こそ、国内需要拡大という要請にこたえる道だからである。中期的に考えた場合においても、わが国が自由市場を守り、経済大国としての責任を果たしてゆくためには、これまでの輸出主導型成長パターンに転換をはかることが基礎的条件なのである。そのためには、生産性の上昇に応じて、生活向上分を積み上げることが国内需要拡大のために不可欠であり、生産性上昇率を実質賃金上昇率に等しくさせるという意味での、生産性基準原理を貫くことが時代的要請にこたえる道である。」

 この主張のポイントはマクロ経済政策を基礎としている点である。輸出主導型から内需主導型への転回を唱えた前川レポートは1985年に書かれることになる。
 じつは逆生産性基準原理に十数年先んじて1967(昭和42)年に同盟は長期賃金計画を策定し、その発想がそれ以降の賃上げ要求の根拠になっていた。このとき同時に産業政策を制定している。長期賃金計画も同盟の河野徳三が佐々木に相談して作成した。
 生産性基準原理はデフレ経済のもとでは影を失い、経営側に残されたロジックは企業レベルの支払い能力になっている。ただし、そうなっていくと、生産性がナショナル・レベルのテーマであったことが忘れ去られ、支払い能力、すなわち企業レベルの問題にされてしまい、2000年代以降の生産性の議論が付加価値生産性になったことを考えると、本来目標とされた物価安定の意味がわからなくなってしまう。先に説明した数式は、自分で式をノートに手書きで写し、最終的には物的生産性と付加価値生産性の関係を他人に説明できる段階まで理解する必要がある。
金子『同』pp.168-169

実はこのエントリは、途中まで書いたところでブラウザがクラッシュして半分泣きながら書き直しているところなんですが、そのうちにちょうどhamachan先生のところで生産性のエントリがまとめられていますので、そちらを合わせてご覧になることをお勧めします。個人的には、所得政策を賃金政策が代替してしまえば、賃金政策が個々の企業の支払い能力に左右されることになるというのは、早かれ遅かれ時間の問題だったのではないかと思うところです。その結果、個々の企業の支払い能力に左右される所得の不安定さ(特に賃金切り下げによる所得の縮小)と、それによる消費の縮小によって経済そのものが不安定化し、さらに個々の企業の支払いを慎重にさせ…、というのはまさにデフレによる景気減退そのものでして、所得政策の不在の帰結ともいえそうな気がします。

個人的には、政府によって所得(現金給付だけではなく現物給付を含みます)を補填する所得再分配政策の必要性が改めて確認できるのではないかと思うところですが、金子先生にとってはそれは本意ではないだろうと思います。そのような読み方もできるということでご了承いただけると幸いです。

それはそれとして本書では各章の末尾にコラムがありまして、金子先生の熱い思いが伝わってきます。これを読むだけでも本書を読む価値はあるのですが、社会政策(マクロでも制度でも構いません)とか雇用とかについて何か発言したいという方は本書に目を通すべきですね。といっても、そもそも歴史的経緯とか制度の変遷をきちんと踏まえようとしない方々が多いからこその現状でしょうから、そのような「大人」な方が本書を手に取ることは難しいかも知れませんが、何よりお勧めしたいのは労働法とか経済学を勉強する学生の皆さんです。教科書の隣に本書(とhamachan先生三部作)を置いて勉強していけば、なぜ日本型雇用慣行がそのような法理を形成するに至ったのかとか、現実味に欠ける仮定をおいた経済理論がなぜ政策に反映されていくのか、それが現実の世界で慣行として形成されて法理を形成して…、という制度が響き合う機微を、賃金政策と所得政策の狭間で形成された日本型の賃金体系の変遷から感得することができます。いやマジで、大学の教科書にしてもいいくらいの基本書となりうる「名著」だと思います。

(追記)

診療報酬改定巡り詰めの調整(12月19日 4時33分NHKニュース)

医療機関に支払われる診療報酬の改定を巡って、厚生労働省は医療体制の充実を図るため引き上げを求めているのに対し、財務省は引き下げを主張し、来年度予算案の取りまとめに向けて、今週中の決着を目指した政府・与党内の詰めの調整が続いています。

医療機関に支払われる診療報酬は、医師の人件費などに当たる「本体」部分と、薬などの公定価格に当たる「薬価」部分からなっていて、さらに今回は、来年4月の消費税率の引き上げに伴う医療機関のコスト増を補填(ほてん)する部分も含めて、来年度予算案の編成で焦点の1つとなっています。
これまでの調整で、「薬価」の部分は、薬の実勢価格などを踏まえて1.4%弱引き下げるほか、消費税率の引き上げを補填する部分は1.2%程度から1.4%程度の間で引き上げる方向になっています。
一方、「本体」部分を巡って、厚生労働省や自民党は、医療体制の充実を図るため、消費税率の引き上げに伴う増収分のうち、医療に充てるとしている1000億円の一定程度を診療報酬の引き上げに振り分けるべきだとしています。これに対し財務省は、財政状況が厳しいうえ、さらなる家計の負担増は避けるべきだとして引き下げを主張しており、来週24日の来年度予算案の取りまとめに向けて、今週中の決着を目指した政府・与党内の詰めの調整が続いています

「財務省は省益のために国民に負担を押しつけようとしている」という陰謀論にドはまりされている方には新鮮かも知れませんが、ここで「さらなる家計の負担増は避けるべきだとして引き下げを主張して」いるのは財務省なんですね。「モノが売れなくなるから人件費を削るぞ」という誠に民間感覚にあふれた主張に対して、サービスに対する対価を引き上げるという「生産性を重視した」厚労省と自民党が抵抗勢力扱いされるというのは、この国の社会政策に対する理解の程度を示す好例ですね。
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コメント
この記事へのコメント
歴史を『現実』と捉えているなら間違いにすぎないし、現実から重要と思われる点を取捨選択して解釈したモデルにすぎないと認識するなら、それは需要と供給というモデルと何も立場は変わらない。過去の解釈に適したモデルか、まだ起きていないことを推測するのに適したモデルか、という得手不得手はあれど、モデルは所詮はそれをどう使うか使い手のうまさ次第。下手な使い方しかできないor使い方しか見ていないからといってモデルをさげずむ点で何か思い違いをしている。
2013/12/23(月) 04:46:59 | URL | - #-[ 編集]
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-285.html
爪の垢を煎じて飲んでもらいたいほど的確な指摘。
2013/12/27(金) 02:38:53 | URL | - #-[ 編集]
拙ブログのプロフィール欄に「不特定に使用されるHNでのコメントはご遠慮ください。」と書いておりまして、上記のコメントにはお応えしかねますのであしからず。

ということで、あくまで本エントリの補足として書いておきますと、拙ブログで経済学的手法について批判的なことを書いたりすると、テンプレ的に「複雑な現実を理解するためにはモデルで簡単化する必要がある」とか「モデルは一定の仮定の下で説明変数の推定量や確かさを確かめることができる」とかもっともなコメントがつくのですが、その多くは経済学的手法の限界を自ら認めつつも、モデルは使い方とか考え方次第で有用になるとかおっしゃるんですね。私も

後世の歴史家は、こう書くのかもしれません。

 二十一世紀に計量的な政策決定が発展しなかった原因を、猖獗を極めたカイカク病に帰す向きもあるだろう。だが、もっと強力な原因は、改革バカと彼の党派は政局的本能だけに基づいて、手探りで進んでいたということだろう。彼らはたしかに数々のスローガンを生み出した――だが、それらのスローガンは、経済や財政を計量的に正確に描いていない。そして、計量的に正確に表現するためには、政局的な天分を補足するもの、すなわち理論が必要だったのである。


「「敬うべきモデル」への回帰」
http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-326.html

というようなモデルを使った数量的な政策決定の重要性を指摘しておりますし、その一方で、

そりゃまあ、当面は困らない範囲なら深淵に見える問題をいったん脇においてもいいでしょうけれども、特にマクロの政策はあらゆる利害関係を調整しなければ実施できません。飯田先生が提唱される「思考の型」では、そのいったん脇に置いておいた問題について、現在の経済学が有効な政策を導くことはできないことを自ら示しているものと思います。

「陰謀論とレッテル貼り以外の道」
http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-561.html

なんてことも書いているところでして、そうした限界がありながらも現実の政策としていかにその知見を生かしていくかというのが、本エントリで書いた「なぜ日本型雇用慣行がそのような法理を形成するに至ったのかとか、現実味に欠ける仮定をおいた経済理論がなぜ政策に反映されていくのか、それが現実の世界で慣行として形成されて法理を形成して…、という制度が響き合う機微」というところなのですが、私の趣旨とは反対に理解される方がいらっしゃったようですね。わかりにくい描き方となったことをお詫び申し上げます。

なお、本エントリについて金子先生ご本人に取り上げていただいたエントリでは、その辺の機微について、

ここは本書の中でももっとも難しいところだったと思うのですが、代替されたのは所得政策と賃金政策というより、たぶん、平均賃金を開発した賃金政策が、春闘を中心とした賃金交渉で機能充足したという風に書いた方が正確でしょう。

「マシナリさんの紹介、所得政策と賃金政策」
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-286.html
というコメントをいただいております。今後とも、「爪の垢を煎じて飲」ませていただければと思います。
2013/12/30(月) 11:58:04 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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盟友のマシナリさんがブログに『日本の賃金を歴史から考える』の紹介文を書いて下さいました。ありがとうございます。最初に、 本書を貫くのは「賃金」ではありますが、その算定根拠、決定過程、企業内での実施状況やそれを取り巻く労働運動や経営者側の取組、さらにそれを実効あらしめようとする政府の施策が、主に明治時代以降の近代日本の歴史に沿って描かれていくため、見通しやすく読み進めることができます。も...
2013/12/26(木) 06:41:29 | 社会政策・労働問題研究の歴史分析、メモ帳