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2013年07月28日 (日) | Edit |
消費税の税率引き上げについて騒がしくなってきましたので、「名ばかり○○」の追記として書いた部分ですが、こっちに移動しておきます。

(追記)
本エントリでは省略しておりましたが、ドラマで指摘された「思想的純粋さ」「妥協を弱さとし聖書を絶対視する原理主義」で思い出したのがこちらのエントリでした。

「現実をネタにはするけど問題を解決するのにはまったく関心がない」といいながらテレビや雑誌に出る経済学者(若手、一流)

「言い方が気にくわないのでリフレをやめました」

部署が変わったのでリフレをやめました(官僚系)

長く時間がかかったので、昔は支持してましたが、いまは野口悠紀雄や水野和夫を支持してます

支持する政党がリフレに批判的になったのでリフレ支持やめます

支持していない政党や政治家がリフレ政策を採用したので、リフレ支持をやめます

「防衛支出を増やす」というのでリフレ政策に慎重です(憲法改正、原発容認などとかいうし)

「僕はリフレ派ですが、期待で実質金利って下がらないと思います」

「ブレイク・イーブン・インフレ率が下落したすぐに追加緩和だ」

「日本は三日続けて株価が下落してますが、同じ時期に米国は二日続けて上昇、日本の金融政策に問題があります」

「ブロックされたのでリフレ支持やめます」

……あなたがたたは、最初からリフレなんか(その目的も効果も)微塵も理解してないんだよ。敬愛する暗黒卿が、「(リフレを)支持する確信犯は1割、反対する確信犯も1割、残り8割は日和見」という名言を吐いたがまさにその通りだと思う。

■[話題]なぜかように“薄っぺらい”リフレ主張者を輩出したきたのか?(2013-06-27)」(Economics Lovers Live ReF

こちらの先生の議論には、教科書とか理論的・実証的な学術文書の類いを「聖書」のように絶対視する一方で、実際の政策の歴史的経緯や所得再分配の実務の過程についての政府公表資料は無視するかあら探しするだけという特徴がありますね。歴史的経緯については「財務省の思惑どおり」とか「日銀のデフレ信仰」という「行動原理」で説明を済ませ、社会保障については説明を諦め、社会保障の財源調達手段としての租税政策を「マクロ経済の停滞を招く」という教科書レベルの議論で済ませてしまうというライフハック的な思考停止も特徴的です。さらに、その「行動原理」や「マクロ経済の停滞」はなぜ生まれるのか、そもそもその「行動原理」や「マクロ経済の停滞」が指摘されるとおりの問題なのかという点を追求されると、「既得権益を守るため」とか「省益を守るため」という誰にも証明できないマジックワードで思考停止されてしまいます。

こちらの先生が指摘される点で「「現実をネタにはするけど問題を解決するのにはまったく関心がない」といいながらテレビや雑誌に出る経済学者(若手、一流)」というのは全く同意するところなのですが、では「言い方が気にくわないのでリフレをやめました」「ブロックされたのでリフレ支持やめます」といわれてしまう点について、ご自身に問題がないのかと顧みられることはないようですね。「思想的純粋さ」「妥協を弱さとし聖書を絶対視する原理主義」に加えて、「身内びいき」「反対意見への不寛容」「政府に対する憎悪」というのは、増税忌避の隠れ蓑としての「リフレ派」とティーパーティーの類似性を見事についていると感心した次第です。


でまあ、こちらの先生のブログをチェックしているわけではないのですが、何となくフォローしているTwitterで流れてくるので目についてしまい、そのたびに残念な気分になってしまいます。無視すればいいだけなのでしょうけど、Twitterで流れてくるということはそれだけ影響力があるわけでして、それが拡散していく様子をみてしまうと、場末のブログではありますが一言申し上げておきたくなるものです。

何度か書いていますが、私が経済政策を勉強するきっかけとなったのが稲葉先生のWiredの連載でして、現在は『経済学という教養』として刊行されていますね。その連載からほぼ10年が経過し、仕事の上ではありますが、経済政策決定の現場を経験し、(学術的なものではありませんが)経済学のトレーニングを受け、日々政策の実務にまみれながら仕事をしている中で、当時のネット界隈で「世間知」と「専門知」という対立で描かれていた経済政策に関する議論が、実は「専門知」と「実務知」の対立ではないかと思うに至っております。個人的には、その「専門知」と「実務知」の間に立ちはだかる壁は、所得再分配のための社会保障制度についての理解の違いだろうと考えております。

つまり、「所得再分配」であれば経済政策の範疇で議論できるのですが、それを実際の政策として実施するための社会保障制度を議論するためには、社会の産業化に対応するための福祉国家が形成された経緯や、その具体的な政策の制度化の歴史的経緯とか社会保障制度の執行の実務についても理解が必要となります。経済学界隈の議論が、所得再分配を意識しつつも、制度の適否を裁量性の有無(「官僚が天下り先を確保している」とか「省益を守るため」とか)とかで判断してしまうのも、そうした理解が不足していることの証左と考えるべきではないかと。

たとえば、稲葉先生は『経済学という教養』でこうおっしゃいます。

「不況・不平等・構造改革」
 以上での三題噺で新古典派経済学入門を、という本書の試みは一通り達成されたわけである。三題に絡めてまとめ直すと−−
 市場経済に対する「不平等をなくせない」という批判、そして新古典派経済学に対する「市場経済を弁護している」という」批判に対してどう応えるか? ここで批判者の多くが「不平等」の中身について、いま一つ詰めて考えていないことに注意しよう。不平等な状態にも二種類あって、一つは「弱肉強食」、恵まれた者の富は弱者からの搾取によって賄われていて、弱者の状態が絶対的に悪化しているようなものであり、いま一つはそれとは違い、富者の富は貧者からの搾取によっておらず、富者がより豊かになったからといってそのせいで貧者が(絶対的な水準では)貧しくなることはなく、かえってより豊かになることもある、という、いわば「共存共栄」の状態である。新古典派経済学が正当化する「不平等」とは後者のタイプのものである。新古典派経済学によれば、市場経済は不平等それ自体は回避できないものの、それを「共存共栄」の範囲にとどめるシステムなのである(思想史的に言えば、スミスがすでにここまで述べていた)。
 しかしながら現実には、市場経済は「弱肉強食」状態に陥ってしまうことがある。代表的なものは「不況」である。この不況を引き起こす原因は多々あるが、おそらくその中で最も重要なファクターは貨幣、市場経済という場を支えるメディアである貨幣の存在、それ自体である。貨幣が適切に供給されていなければ、市場経済は不況に陥り、「共存共栄」を実現できなくなる。そしてこの貨幣供給というタスクの責任を、個人や一企業などの個別の経済主体に負わせることはできないのだ(この問題提起がケインズの貢献である)。
pp.217-218

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稲葉 振一郎

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「思想史的に言えば、スミスがすでにここまで述べていた」とおっしゃるとおり、「新古典派経済学によれば、市場経済は不平等それ自体は回避できないものの、それを「共存共栄」の範囲にとどめるシステム」ではありますが、それではうまくいかないことがあるからこそ、ケインズがマルサスやマムマリーの総需要の概念を用いて有効需要創出を政府の役割として提起したのではなかったでしょうか。そのケインズの問題意識の前提には、産業化してたびたび不況に陥いる社会において、市場を通じた企業活動からの賃金だけでは個人の生活を保障できないという目の前の現実があったはずです。まあ、「三題噺で新古典派経済学入門を、という本書の試み」からすると、稲葉先生がこうした結論に達することは不思議ではないのですが、一部のリフレ派と呼ばれる方々がこうした認識であれば、所得再分配の視点を欠いたアベノミクスがもてはやされるのもやむを得ないのでしょう。

そしてこのような認識から導かれる「公共財」について稲葉先生は、

…ところが、「公共財」「みんなのもの」のケースでは、まさに不平等の背後に「搾取や略奪、詐取の存在」を高い確率で推測できてしまう。ナチュラルな「公共財」のケースであれば、それは誰かが不正にも他人の利用を妨害している可能性が高いだろうし、これに対して政策的に公共化されたサービスの場合には、むしろそのような状況の発生を許した、政策当局のコントロールの不充分さが指弾されうるだろう。
(略)
 こうした「内部化」路線に人気が集まってきていることには、もちろん正当な理由がある。一世代以上前の公共政策論では、「市場の失敗」イコール「政府の領分」という等式がまかり通っていたが、市場にうまく処理できないからといって、政府に市場以上にうまくやれるとは限らないということ、ことによると「市場の失敗」よりひどい「政府の失敗」にはまる恐れがあることが軽視されていた。しかし、社会主義の崩壊は、「政府の失敗」への恐怖を人々の胸に深く刻み込んだといえよう。

稲葉『同』pp.303-305

と、公的サービスにおける「政府の失敗」への恐怖を強調します。「政府の失敗」への恐怖を刻み込んでいるのは、それをそれとして強調する方々ご自身であることは、昨今の原発に対する運動の界隈を見ているとよくわかります。政労使の合意による政策決定に対して民主党の幹事長が「社会主義だ」と批判するようなこの国では、社会主義そのものが「悪」のレッテルとして機能していますから、「政府の失敗」を社会主義の崩壊と結びつけられれば、そりゃ政府が供給する公的サービスの背後に「「搾取や略奪、詐取の存在」を高い確率で推測できてしまう」でしょう。

この政府の失敗についての議論から「公共性の喪失」という重要な視点が示されます。

 要するに、昨今の不況論議においては、何かが欠けている。公共政策論はちゃんと存在する。個人や企業へのサバイバル指南もある。しかしこの両者をつなぐ環が、公共政策と個人の行動・生活とをつなぐロジックが、ことに後者から前者へのボトムアップのロジックが欠けているのだ。おそらくこういう切断は不況に限った話ではないが、先を急がないようにしよう。
 これをただちに--「公共性の構造転換」を通り越した--「公共性の喪失」と呼んで嘆くのは、早計かもしれない。スミス=ワルラス的な市場経済ビジョンにおいては、少なくとも経済における公共性とは、ミクロ的な経済行動の合算、総計以上のものではない。そこにおける「マクロ」とは、部分の総和としての全体に他ならない。そうだとすれば、ミクロ的な経済主体、個別の企業や個々人が経済全体のことを気に病む必要もない。個人の自己利益を求めてのがんばりが、ほぼストレートに公共の実現につながるのだから。
 しかしかりにケインズ的な経済ヴィジョンが正しく、そしていまがまさに不況--ミクロ的な最適化行動の相対的な結果としてのマクロ的な不合理--へとつながるような状況であったら? このような局面で、政策担当者ではないミクロ的な民間の経済主体、普通の企業や普通の市民には、何ができるというのか? ここにおいて普通の市民が無力な状態に追い込まれているのだとすれば、たしかにそれは「公共性の喪失」と言ってかまわないだろう。

稲葉『同』pp.319-320

「何かが欠けている」って、それこそ「所得再分配の視点を欠いたアベノミクス」が典型ですが、一部のリフレ派と呼ばれる方々が新古典派経済学的視点からリフレーション政策を強調するあまり、所得再分配のための社会保障やそれと連動する雇用・労働政策を理解する機会が奪われてしまったために、そう見えるのではないでしょうか。もちろん、稲葉先生はこの部分に引き続いて労働組合の役割を強調されていて、集団的労使関係の再構築を主張している拙ブログとしても賛同するところは多々あります。しかし、政府の役割を「公共財」の理論で理解している限り、「公共性の喪失」という視点まで到達しても、残念ながら社会保障政策に連動した雇用・労働政策まで議論が及ぶことはないでしょう。

この点では、いみじくも、稲葉先生が本書の第1章で指摘されいてることが一部のリフレ派と呼ばれる方々にそのまま当てはまってしまっていますね。

 こういうポストモダンの科学談義を、うんと矮小に戯画化するとこんな感じだ。まず「今日の自然科学は世界を支配する知的権力であってけしからん」となる。で「けしからん権力であるからには何かズルをしているんじゃないか?」と疑う。で、疑いの果てに「そうだズルをしてる! 自然科学は世界についての真実を人々に教えてくれてるんじゃなくて、逆に『これが真実だ!』と人々に思いこませることによって世界を支配しているんだ!」というトンデモな結論に行き着く。
 こんな風にマンガにしてしまうとただのバカだが、こういう疑いには、根も葉もないわけじゃない。実際問題、自然科学も所詮は人間がやることだから、いろいろ人間的、社会的な事情がつきまとう。科学者も人の子だから食わなきゃ生きていけないし、研究には暇とカネがいるし、仲間内の足の引っ張り合いもあれば世間との軋轢もある。そうやって科学外的な世間からの圧力が、科学を歪めてしまう。
稲葉『同』pp.13-14

 その過ちとは何か? マルクス経済学が「経済学」と「経済学批判」の二つの水準に分かれてしまったこと、これ自体はむしろ「進歩」と呼んでよかったのだろうが、その「進歩」が逆に、マルクス経済学者に「経済学批判」という逃げ道を与えてしまい、本来の「経済学」、現実分析がおそろかになるという結果をもたらしたこと、である。乱暴に言うとマルクス経済学者たちは、「資本主義に荷担することを避ける」という大義名分の下に、政策実践の場でその切れ味が試される本来の「経済学」から逃避し、「経済学批判」という安全圏に立てこもってしまったのだ。
 しかしもちろん、本当は「経済学批判」は安全圏などではないし、そもそも安全圏など存在しない。「ブルジョワ経済学者」が、資本主義社会の中に生きているおかげでその自明性の罠にはまっているのだとしたら、マルクスも、マルクス主義者もまた、別の罠にはまっていないという保証がどこにあるか? もちろんない。

稲葉『同』pp.22-23

前者で「自然科学」を政府(霞が関、日銀)又は公共サービスと読み換えて、後者で「マルクス経済学」を「リフレ派」と、「経済学批判」を「増税批判」と読み換えてみれば、冒頭で引用した先生と同様に、「増税忌避の隠れ蓑としてのリフレ派」の現状が浮かび上がってきそうです。
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コメント
この記事へのコメント
こういう批判を、さいぶんぱいがたいせつだ、しゃかいほしょうがたいせつだ、ろうしかんけいがたいせつだ、と言う界隈で良く見かけますが、じゃあ、どうすれば良いんですか?

世の中には完璧なものなど存在しないのですよ。
自民党は一応「保守」ですから、米国的に言えば市場経済第一ですよね。むしろリフレ政策のような事はリベラルな民主党が第一に主張すべきように思いますが、日本はいつもねじれているから・・・。

だから、パイを大きくしたいか、小さくしたいか、で決めるしかないと思います。パイの配分はパイを大きくした後で決めれば良い。

はっきり言って、象牙の塔のこもっているのは、「さいぶんぱい派」「しゃかいほしょう派」ですよ。

まず、現状の政治を理解していない。労組の現状を理解していない。そして何より「不幸の横並び」を第一とする国民性を理解していない。そして、自分たちの要求が叶わないと批判ばかりする。

結局、批判のための批判なんです。貴方たちは。
2013/07/30(火) 00:07:47 | URL | 名無しの投資家 #SFo5/nok[ 編集]
> 名無しの投資家さん

> 世の中には完璧なものなど存在しないのですよ。

とおっしゃる点については全くその通りだと思います。私も「政策は、所詮、力が作るのであって正しさが作るのではない」という権丈先生の言葉を、仕事の上で身にしみて感じている者ですので、「正しいこと」をいえばそれが実現すると考えるほどにはナイーブではありません。

その上で、政策実現についての現実的な制約についてわきまえることと、「正しい」と(自分が)考える政策についてその必要性を主張し、その「正しい」政策を実現するための障害となる現実(そこには実際の制度や歴史的経緯も含まれますが、その「正しい」政策を否定したり対極的な考え方に基づく主張も含まれます)に対して批判することは別のことだろうと考えております。

実は、本エントリに引き続いて、hahnela03さんが紹介されていた本について取り上げようと準備しているところです。
http://d.hatena.ne.jp/hahnela03/20130708/1373289650

せっかくご指摘いただきましたので、ドイツの「労使の共同決定」について書かれた部分を少し先取りして引用してみます。

> 驚くべきことには、この大胆な方策は、ドイツの強大な労組「IGMetall」などが考えたものではない。第二次世界大戦の敗戦後に、連合国、とりわけアメリカによってドイツに押しつけられたものである。戦勝国は、クルップ社など戦争中にヒトラーを支援した産業界の有力企業を罰したかった。しかしニューディールの信奉者の中には、他らしいドイツ経済を、アメリカでは政治的にとても不可能な「社会民主主義の実験」となり得ると見ていた人たちもいた。この「労使の共同決定制度」は、最初いくつかの産業に限定的に適用されたが、1974年にすべての大企業に拡大された。以前、ある英国人の歴史家がジョンに、「第二次世界大戦の真の勝者はドイツの労働者だ」と語ったことがある。まさに事実は小説より奇なりである。
>
> ジョン・デ・グラーフ,デイヴィッド・K・バトカー『経済成長って、本当に必要なの?』


世の中には完璧なものなど存在しないのと同様に、ある政策の結果がどのような結果をもたらすかを完璧に予測することは不可能ですが、ある条件下で目的に照らしてうまくいっている政策があれば(積極的な社会保障や労働政策を求めようとすれば北欧とかヨーロッパ諸国の制度が多くなるのですが)、それを日本でも取り入れるべきという主張することは、「批判のための批判」ではないと考えております。
2013/07/30(火) 08:24:18 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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