2013年06月15日 (土) | Edit |
前回エントリの続きとして書きかけだったエントリを備忘録でメモ。またもついった方面を見ていて、日銀のデフレの陰謀ガーとか財務省の財政再建の陰謀ガーとか、さらにはマスゴミの無理解ガーとかいうことを延々と言い続けている方々を見ていると、終わることのないループを感じるわけですが、それって「誰かが絶対正しい政策を知っていて、それを実施できないのは陰謀を張り巡らしている奴のせいか馬鹿な奴のせいかどちらかに違いない」という信念の表れなんだろうと思います。まあ、「陰謀を張り巡らしている奴」とか言う方々は、その陰謀の首謀者(とされる層)がなぜその陰謀を画策しているのか、首謀者に乗せられる(とされる)マスコミがなぜそんなバレバレの陰謀に荷担するのか、そもそもみんなが陰謀とか言ってる時点で陰謀じゃなくなっているよねという、陰謀論が成立する重要な点を説明できていないわけで、それでどうのこうの言われても説得力を感じませんけどねえ。国会でも政府の審議会でも堂々と議論されていることをもって陰謀ガーとかおっしゃる方にとっては、おそらく法案の立案も陰謀で、公開の場で法案を審議することも陰謀で、成立した法律を執行することも陰謀で、そのために予算をつけることも陰謀で・・・と世の中がすべて陰謀に見えているのかもしれません。陰謀論って便利ですね。

ところが、そうした日銀や財務省などの陰謀論を熱く語る方々の中には、一方で反原発とか脱経済成長とかの左翼的な立場の方々に対して「馬鹿な奴」とレッテルを貼って罵詈雑言を浴びせかける方も多いようです。いやまあ、反原発とか脱経済成長を主張する方の脳内が(自主規制)なんじゃないかとは私も思うところですが、反原発とか脱経済成長な方々が好む理屈も、「既得権益による陰謀論」とか「現場も知らない馬鹿な政府・役人」というレッテル貼りですね。向いてる方向が別々でお互いに敵視している同士であっても、持っている道具は同じものしかないというところに、日本の言論空間の貧困さを感じないでもありません。

以前からリアルではよく話をしているんですが、立場が違ってもその主張の道具立てが共通している理由として、日本の労働時間の長さが大きく影響していると考えております。時間がないから「誰かが悪いことを企んでいる」という陰謀論とか「馬鹿な奴がワケの分からないことを言っている」というレッテル貼りがライフハックとして強力な武器となるのではないかと。一部のリフレ派と呼ばれる方々の中には、ライフハックを自ら実践してそれを称揚している方が多くいますし、以前棚から落として買った飯田先生の著書から引用すると、経済学的な考え方にその陥穽が潜んでいるとも言えそうです。

 大変便利な「その他」ですが、一つだけ気をつけて欲しいことがあります。それは、重要な項目を「その他」に入れないことです。自分が考えたいと思っている項目を「その他」にいれて、関心度の低い項目とごちゃまぜにしてしまうと、せっかく問題を整理しようとしているのに、意味がなくなってしまいます。まずは、今自分が考えたいことをしっかりと羅列したのちに、「その他」を使うようにしてください。
 余談ですが、本書で登場する思考に関する例が非現実的だと感じるとすれば、その理由の一つは、あなたの興味において重要なものが、本書にとっての「その他」に入ってしまっているからだと考えられます。しかし、あなたと私が一心同体でない以上、これは避けることができない事態です。
 なお、「いつでも、誰にとっても大切なこと」という思考自体をあきらめることが特に必要である、という点については第3章の大きなテーマになっています。
pp.66-67

思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント (朝日新書)思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント (朝日新書)
(2012/12/13)
飯田泰之

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※ 以下、太字強調は原文。


で、その第3章では、飯田先生がこう指摘されます。

 客観的価値はあるかもしれないが、それを知らなくても特に困らない範囲では、主観価値説でよいではないか−−この一種あきらめにも似た割り切りによって、経済学はその後大きく発展していくことになります。私たちがビジネスや日常の問題について意思決定するときにも、同様の割り切りが必要なことは多くはありませんか? 非常に重要な「気はする」けれども知らなくても「当面は困らない」という課題は少なくないはずです。
 深淵に「見える」問題に足を絡め取られて身動きが取れなくなることのないように、経済学の出発点となる主観価値の考え方は割り切りという大きな勇気を与えてくれます。
p.109


まあ、客観的価値がある問題を自分の主観で問題でなければいったん考えなくてもよい、それによって経済学が発展したというのは、他の変数を定数と見なす偏微分を経済学に取り入れた「限界革命」を指していると思いますが、それはあくまで古典的なミクロ経済学の話ですね。それを克服するために合成の誤謬とか流動性選好でマクロの経済学を提唱したのがケインズでした。しかし、サミュエルソンらのアメリカンケインジアンによって、「ミクロ的基礎のマクロ経済学」という、ケインズが創出した概念を取っ払ったニューケインジアンが主流となっているのが現状と個人的に理解しておりますので、ケインズが克服したかに見えたミクロ経済学の考え方がマクロ経済学という学問の基礎となっていることが、現在の経済学で導かれるマクロ政策の非現実性をもたらしているのではないかと愚考するところです。(13/6/16訂正)そりゃまあ、当面は困らない範囲なら深淵に見える問題をいったん脇においてもいいでしょうけれども、特にマクロの政策はあらゆる利害関係を調整しなければ実施できません。飯田先生が提唱される「思考の型」では、そのいったん脇に置いておいた問題について、現在の経済学が有効な政策を導くことはできないことを自ら示しているものと思います。まあ、ワルラスの一般均衡理論もケインズの批判対象でしたし、(13/6/16訂正)ケインズがマクロ経済学の現状を見たときにどう思うのかは興味深いところです。

拙ブログでは、湯浅誠氏には評価できるところとできないところがあるというスタンスなのですが、評価できる部分のクオリティの高さは凡百の学者よりもはるかに上を行っていると感じます。それはとりもなおさず、霞ヶ関での政策決定という利害調整の場に主体として立ち会った経験から多くを学んだ結果でしょう。マスコミから霞ヶ関に入って同様の経験をした下村氏も述べているとおり、政策の形成、実施という作業は、誰かが正しい答えをもっていてそれに合わせれば万事解決するというものではないという現実を示すものといえます(念のため、私もリフレーション政策を緩やかに支持する立場ですので、たとえばリフレーション政策は他の条件を一定のものとすれば正しい政策ではあるでしょうが、他の条件が動けば必ずしも「望ましい状態」が実現されるとは限らないと考えております)。

誰も正しい答えを持っていないのが現実である以上、その問題に関係している多岐にわたる利害関係を理解し、それぞれの立場で納得の出る方向を模索し、できるところから少しずつ実行していくという迂遠な作業は避けて通ることができません。しかし、華麗なライフハックを実践している方や「思考の型」を持つ経済学者にとっては、そんな迂遠な作業をやっている役所というのは、「その手間に寄生するために陰謀を張り巡らす既得権益」か「ムダな作業をしている馬鹿な奴」に見えるのでしょう。時間に追われる生活の中ではそう思う気持ちも十分理解できますし、もちろん役所だってそんな疲れることに労力を割きたいわけではありません。しかし、その作業がなければ動かない現実の前では、ライフハック的な「思考の型」こそが問題を先送りし、利害の衝突とその事後的調整というコストの原因となり得るわけです。

長いエントリとなってしまいましたが、湯浅氏の著書から「時間のない中で政策を決定することの困難さ」を引用させていただきますので、ライフハック的な政策決定では解決しない問題の重要性も意識していただければ。いやまあ、まずは長時間労働とか超勤手当を前提とするようなライフスタイルこそ、何とかしないといけないんですけどね。

時間と空間が必要だ

 水戸黄門型ヒーロー探し自体を対象化し、相対化する必要があるのだと言いました。それはどうしたら可能になるのか。それは結局、民主主義のあり方を考えることになります。
 先に、仕事と生活に追われる人が増えることで、それが「自分は正当に報われていない」感につながり、その不正を正そうとする正義感から「犯人捜し」に拍車がかかり、切り込み隊長としてのヒーローを追い求める気持ちにつながるのではないかと言いました。
 また、それが回りまわって自分の生活を追い込むことになったとしても、いろんなものに追いまくられている世の中ではそれを立ち止まって考える余裕はないし、そもそもその人たちがこの本を読んでくれることはないだろう。
 単にお金がなくて仕事と生活に追われているというだけでなく、多少のお金があっても効率的に生きることに精一杯で、物理的にか精神的にか、またはその両方で、時間がない。社会に“溜め”がないとはそういうことで、格差・貧困が広がる社会は、底辺の人たちだけでなく、「勝ち組」と言われる人たちからも余裕を奪っていく、とも言いました。
 単純に言って、朝から晩まで働いて、へとへとになって9時10時に帰ってきて、翌朝7時にはまた出勤しなければならない人には、「社会保障と税のあり方」について、一つひとつの政策課題に分け入って細かく吟味する気持ちと時間がありません。
 子育てと親の介護をしながらパートで働いて、くたくたになって一日の家事を終えた人には、それから「日中関係の今後の展望」について、日本政治と中国政治を勉強しながら、かつ日中関係の歴史的経緯をひもときながら、一つひとつの外交テーマを検討する気持ちと時間はありません。
 だから私は、最近、こう考えるようになりました。民主主義とは、高尚な理念の問題というよりはむしろ物質的な問題であり、その深まり具合は、時間と空間をそのためにどれくらい確保できるか、というきわめて即物的なことに比例するのではないか。
 私たちの社会が抱えている問題はそれぞれ複雑で、一つひとつちゃんと考えようとすれば、ものすごく時間がかかります。一番簡単なのは、レッテルを貼ってしまうことです。一度レッテルを貼ってしまえば、もうそれ以上考える必要がない。
 何かを「既得権益」だと一度判断を下せれば、あとはその人たちが何を言おうと「しょせんは既得権益が自分たちの利益を守るために言っているにすぎない。社会全体の利益とは関係ない」と判断できます。一つひとつの発言を、そえぞれにどこまで理があるのか、具体的に細かく吟味する必要がなくなる。
 これは非常に効率的です。ではなぜそんなに効率が優先されるか。
 みんな忙しいからでしょう。そんなことにいちいち関わっている暇はない、俺は仕事と生活に追われて大変なんだと。新聞記者だって、原稿を30分で仕上げなければならないという状況に置かれたら、自分で一からちゃんと考えることをやめて、いちばん通りの良い図式に乗せて書いておこう、それなら誰からも文句を言われないだろう、となるのではないでしょうか。それと一緒です。
 レッテルにおさめず、複雑な問題を複雑な問題として考えるにはどうしても時間がかかります。すべての人は一日24時間しかもっていないので、その中からどれだけ、学んだり、意見交換したり、議論したりするための時間を切り出せるか。
 そして、学んだり、意見交換したり、議論したりするためには、そのための空間が必要です。邪魔されずに一人で読書できる空間、落ち着いて考えられる空間、友人やいろんな人たちと意見交換し、議論するための空間。
 本当の意味で「民が主」の民主主義を深め、自分たちで意見調整し、合意形成し、誰かに「決めてもらう」ではなく、自分たちで「決める」のだということを実践していくためには、時間と空間というその二つの問題に向き合う必要がある、と思います。

時間と空間が参加を可能にする

 これは改めて言うまでもなく、困難な課題です。暮らし方、働き方すべてに関わる問題です。何か一つの政策を打てば解決する、という類の事柄ではない。また、統治機構をいじれは解決する、という問題でもない。
 大阪都構想を実現しても、あるいは道州制や首相公選制を実現しても、一日24時間の中からいかに民主主義のための時間を切り出すか、主権者が主権者として考え、振る舞うための時間と空間を作り出すか、ということが進まなければ「それどころじゃないよ」という状態は変わりません。
 「それどころじゃないよ」も民意に違いありませんが、自分たちで意見調整し、合意形成する民主主義の面倒くささ、主権者から降りられない民主主義の疲れる性格を引き受けるものではない。事態を改善させることにはならないでしょう。
 困難な課題ですから、今着手すればすぐにどうにかなりますというものではありません。ただ、そこに課題があることは、みんなが一度十分に認識する必要があるのではないかと考えています。
 時間と空間の問題は、言い換えれば参加の問題です。社会的・政治的参加のための空間がなければ、そもそも参加が成り立たないし、「場」=空間があっても時間がなければ、やはり参加はできない。
 参加の形態や「場」の性質は、いろいろあっていい。
 政治参加の典型例は選挙でしょうが、投票は投票所という空間が設置されて、かつ人々が投票日に行く時間を切り出して、初めて可能になります。
 また、どこかのホールや公民館を借りて行われる後援会や集会は、社会参加の代表的形態の一つと言えるでしょう。それも誰かがその場所を借りて空間を確保して、参加する人たちが当日に時間を切り出してそこまで足を運ぶことで、初めて成立しています。
 デモも同じです。誰かがデモ行進を申請しなければ、デモ行進を行う空間は基本的に確保されません。そしてそこに意味を見いだして、時間を切り出してくれる人たちがいなければ、主催者だけのさびしいデモ行進になるでしょう。
 最近では、ネット空間も代表的な社会参加の空間の一つです。ツイッター、フェイスブックというネット空間が用意されて初めて、人々がそこに参加することが可能になりました。もちろん、一人ひとりがそこに何かを書き込む時間を切り出して初めて、その空間は活性化します。
 このように、時間と空間が参加の前提条件にあり、その前提条件が整って初めて社会参加、政治参加が可能になります。多くの人たちが「決めてくれ。ただし自分の思い通りに」と個人的願望の代行を水戸黄門型ヒーローに求めるのではなく、「自分たちで決める。そのために自分たちで意見調整する」と調整コストを引き受ける民主主義に転換していくためには、さまざまな立場の人たちと意見交換するための社会参加、政治参加が必要です。そして時間と空間は、そのためのもっとも基礎的・物質的条件になります。

ヒーローを待っていても世界は変わらないヒーローを待っていても世界は変わらない
(2012/08/21)
湯浅 誠

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コメント
この記事へのコメント
ネットには大変お優しい方々がいらっしゃるので、またも私の浅はかな理解に暖かいお言葉でご指摘をいただきました。

> piccad
> 相変わらず滅茶苦茶。限界革命は別に偏微分だけじゃないし、そもそも限界革命についての話ではない。ケインズの問題意識についても違う。だいたい他の変数を定数とみなすのが問題なら一般均衡に反対しない。2013/06/16
http://b.hatena.ne.jp/piccad/20130616#bookmark-150454806

ご指摘いただいた点は傍論のようなものでしたので、間違いのないよう見え消しいたしました。ご指摘ありがとうございました。
2013/06/16(日) 22:10:18 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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