2012年06月26日 (火) | Edit |
世の中は消費税率引き上げを巡る政局が関心を集めているようですが、少し前に書きかけだったエントリを片づけてしまいます。昨年11月に大阪府知事から大阪市長に華麗に転身された橋下氏ですが、最新号の『POSSE vol.15』で「橋下改革をジャッジせよ!」という特集が組まれていました。取り上げるタイミングが遅れまくりですし、すでにhamachan先生が偏頗な紹介をされていて、世間的には小熊英二氏の論説の評判が高いとのことですが、集団的労使関係の再構築が重要だと考えている立場からすると、

 『世界』2012年3月号の論文も含め、湯浅さんが書かれていることは、気持ちはわかります。しかし私は、誰にむかって、どういう効果を期待して書いているのか、わかりませんでした。
 良いか悪いかは別にして、「調整に参加してください」と書いて、喜ぶのは官僚です。しかし、では調整に参加するという気持ちで、批判や主張を和らげたら、行政からは「主張が10から7に落ちました。ではあなたに配分するのは7でいいですね、場合によっては5でいいですね」という話にしか、おそらく現状の政治構造ではなっていかない。
 それが予想できるから、これまで野党や圧力団体は、裏では妥協点を意識していたとしても、表では戦闘的にいってきたわけです。本当に現実的な政治参画を考えるのであれば、つねに戦略と効果を考えて発言したほうがいいのではないでしょうか。ああいうものを書いたら、運動のなかで分裂と対立がおきやすいことも、容易に想像がつくことです。

小熊英二「「橋下徹」はグーグルである」p.38

POSSE vol.15: 橋下改革をジャッジせよ!POSSE vol.15: 橋下改革をジャッジせよ!
(2012/06/05)
NPO法人POSSE、宇野常寛 他

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※ 以下、強調は引用者による。


というのは、何十年前の話だろうなあと遠い目をしてしまいますね。この「湯浅さん」というのは元内閣府参与の湯浅誠氏を指していて、「『世界』2012年3月号の論文」は現物を読んでいませんが、確か「学術知と実務知の間にあるはずの長い距離の自覚と無自覚」で取り上げた内閣府参与退任の辞の元になった論文のはず。その湯浅氏が政府の内部組織の一員として目の当たりにしたのが「利害調整の現場」であって、内閣府参与退任の辞は、その外側にいて「ただ単に目の前の悲惨な事態への対処に専念して、たまにデモをしたりして外から批判することでしかなかった活動家」だったことへの反省でもあったのだろうと思います。

その湯浅氏の反省に対する批判が、「それが予想できるから、これまで野党や圧力団体は、裏では妥協点を意識していたとしても、表では戦闘的にいってきた」というような古き良きポツダム組合的団体交渉の正当化でしかないというのがなんとも時代錯誤な感じです。この後に出てくる「デモの意義は、量より質」という見出しも、「外から批判することでしかなかった」組合的発想からすればさもありなんというところでしょうか。

でまあ、この小熊氏の論説のタイトルである「「橋下徹」はグーグルである」についていえば、

 新自由主義的だとか、それなのに権威主義的・官僚主義的なのが矛盾しているとかいった批判があります。自力でたたきあげた人らしい、素朴な自助努力主義や既得権批判が、新自由主義的だといえば、そういえないことはない。「俺様のいうことを聞け」というところが、官僚主義的だとか、民主的でないといえばいえる。しかし橋下さんの発信の山に対して、論理的一貫性を見いだそうとしたり、論理的一貫性がないからだめだと批判することじたいが、的を射ていないと思いますね。
同p.35


という形で、批判すると何でも反論するところが検索すれば何かしら結果を表示するグーグルのようなものなので、批判するのではなく無視すればよいという趣旨のようです。橋下氏はグーグルと同じく「使われない」ことが弱点だということですね。

現象面を捉えると確かにそういう面はあると思うのですが、個人的には橋下氏の言動には論理一貫性があると考えております。というのも、弁護士という職業はクライアントに応じて同じ法律から正反対の結論を導き出す職業でして、橋下氏は弁護士として「クライアントに対立する批判があれば現行法令の枠内で何でも反論する」という技を磨いてきた職業人の1人に過ぎないからです。そのクライアントが、弁護士時代の原告・被告から「民意」に変わったとみると橋下氏の言動を理解しやすいと思います。

 ――橋下さんは、「決定できる政治」を唱えています。リーダーの独善になりませんか。
 「議論はし尽くすけれども、最後は決定しなければならない。多様な価値観を認めれば認めるほど決定する仕組みが必要になる。それが『決定できる民主主義』です。有権者が選んだ人間に決定権を与える。それが選挙だと思います」
 「弁護士は委任契約書に書いてあることだけしかやってはいけないけれど、政治家はそうじゃない。すべてをマニフェストに掲げて有権者に提起するのは無理です。あんなに政策を具体的に並べて政治家の裁量の範囲を狭くしたら、政治なんかできないですよ。選挙では国民に大きな方向性を示して訴える。ある種の白紙委任なんですよ
朝日新聞デジタル:〈橋下徹・大阪市長に聞く〉選挙、ある種の白紙委任(2012年2月18日03時00分)


朝日新聞の質問の仕方が的外れではありますが、橋下氏が「弁護士と政治家は違う」という言葉と裏腹に、「ある種の白紙委任」という言い方が端的にその契約論的な考え方を示していますね。弁護士がクライアントから「あいつのせいでひどい目に遭ったからなんとかしてくれ」と依頼を受ければ、その弁護士は要件事実を積み重ねながらあらゆる現行法令を駆使して、クライアントの「なんとかしてくれ」を「不法行為による損害について賠償しなければならない」という具体的な形で抗弁するわけでして、クライアントから抗弁の具体的な方法まで指示されているわけではないという点では、弁護士も「白紙委任」されているといえるでしょう。

つまり、橋下氏が政治家になってやっているような違法すれすれの公務員労組攻撃とか公務員の良心の自由への介入という言動は、「投票行動」を一種の契約と見なして「大阪市民(以前は大阪府民でしたが)というクライアントからの白紙の委任契約に基づき、現行法令の枠内の真っ黒の一歩手前のグレーゾーンまで、そのクライアントの意向の実現を要求している」ものと考えることができます。この観点からすれば、橋下氏の言動は見事なまでに論理一貫性をもっていると思います。

ただし、弁護士と政治家の決定的な違いというのももちろんありまして、そのひとつが「クライアントの意向の実現を要求する」相手が、弁護士の場合は終局的には裁判所という司法であるのに対して、政治家の場合は立法や行政であるという点です。弁護士が現行法令の枠内でどんなに荒唐無稽な抗弁をしても最終的には専門機関である裁判所の法曹が判断しますが、政治家が荒唐無稽なマニフェストを主張して選挙で選ばれてしまうと、誰もその暴走を止めることはできません。「自分で決めたことに拘束される」というのが民主主義ですから、どんなに荒唐無稽な主張でも選挙の結果として受け入れるしかないわけで、こうした「民意」の強力な力に無自覚なまま「民意」ばかり叫んでいる政治家というのもまた荒唐無稽でしかないというループが生じます。いやあ、どこかで見えている風景ですね。

でまあ、政治家が要求する相手の政治が司る立法がこのループのなかで荒唐無稽さを深めていけば、通常はその政治手法が行き詰まるはずなんですが、残る相手の行政は、政治家が「せいじしゅどう」と唱えれば、それが効果のないものであっても効いたふりをしていうことを聞かなければならないとされているわけで、荒唐無稽さを深めた政策の要求が実現しなくても、行政にいる役人を既得権益として批判しておけば、その責任を行政に転嫁することができます。これもまた見事なループが成立していて、上述の公務員攻撃もその一環として行われていると考えると、皮肉でも何でもなくとても洗練された政治手法だと思います。バブル崩壊後に猖獗を極めたカイカク病のひとつの到達点が小泉構造改革であったわけですが、橋下氏の言動はその手法を忠実にかつより洗練させながら実践しているといえるのではないかと。

管見ではありますが、現行の民法が私的自治を尊重する契約論に立脚していることが「契約さえ成立すればなんでもできる」という法曹の意識を醸成してしまっているのではないかと思ってしまいます。それとは対極的に、実態論から法益を保護しようとするのが労働法でして、私的自治の典型契約である雇用契約については、労基法をはじめとする強行法規によってそれを下回る私的契約は無効とされています。まあ、こうした契約論が陥った幻想については、再びポラニーの的確な指摘を引用させていただきます。

 ファシズムにおける自由の完全な破棄は、実際のところ自由主義哲学の必然的な結果である。自由主義哲学は、権力とは悪であり、自由には人間社会における権力と強制の消滅が必要であると主張する。しかしこのようなことは不可能である。複合社会においてこれは明白となる。自由主義哲学のような立場をとれば、次の二つの選択肢しかなくなる。すなわち、幻想にすぎない自由の観念を固守して社会の現実を否定するか、あるいは社会の現実を受け入れて自由の観念を拒絶するかである。前者は自由主義者の結論であり、後者はファシストの結論であった。これ以外の選択肢はないように見える。
 必然的に、われわれは自由の可能性そのものが問題とされるのだという結論に達する。もしも規制が複合社会において自由を拡大し強化する唯一の手段であり、しかもそれを行使することが自由それ自体に反するというなら、そのような社会は自由であるはずがなくなってしまう。
 このディレンマの根本にあるのは、明らかに自由の意味それ自体をめぐる問題である。自由主義経済はわれわれの理想を誤った方向に導いた。それは、本質的にユートピア的な期待が実現できるかのように思わせたのである。しかしいかなる社会も、権力と強制がなければ存在できないし、力が威力を発揮しないような世界もありえない。人間の意思と希望だけで形成された社会を想定することは幻想であった。ところがこれが、経済を契約的関係と、そして契約的関係を自由と同一視した市場的な社会観の結果であった。こうした社会観から、人間社会において個人の自由意思から生み出されなかったものはなく、したがって再び個人の自由意思によって取り除けないものはないという、根本的な誤解が生じたのである。
p.464

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いくら政治手法として洗練されていても、根本的な誤解に基づいたものには変わりがないわけで、まあその点でも論理一貫していますよね。
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コメント
この記事へのコメント
POSSEの板倉さんからツイートをいただいたようです。

> NPO法人POSSE雑誌編集部/坂倉昇平
‏> @magazine_posse
> 『POSSE vol.15』の小熊さんインタビューを評価していただいてます が、「集団的労使関係の再構築が重要だと考えている立場」からむしろ、熊沢誠さんのインタビューを論じていただきたいですね。/根本的な誤解
> https://twitter.com/magazine_posse/status/219359760867274752


熊沢先生のインタビューについても別途取り上げたいところですが、ちょっと時間がかかると思います。ただ、熊沢先生が太田肇著『公務員革命』を「いい本」として取り上げていて、一部それに依りながらお話をされている点について違和感を感じていまして、そちらを読んでから取り上げようかなと思っているうちに忙殺されて・・・という状態です。

まあそんな個人的な事情はともかく、ここで手短にその違和感を書いておくと、熊沢先生は組合側と管理者側がバーターで手当などを措置するマヌーバー的(背面服従)な癒着を断って、公務員が自らの仕事を「自律」することが必要だということを指摘されているのですが、それってまさに労働者の「メンバーシップ」的労働を強化することにしかならないのではないかと。サービス残業なんてのは「自律」的に働いているから超勤なんか要らないとメンバーである労働者に言わせているのであって、特に公的部門とか福祉とかボランティアの世界では、「自律」に「やりがい」を上乗せした「やりがい搾取」が問題となっているのも現実です。

たとえば、熊沢先生のインタビューで取り上げられている事例で、大阪市の現業部門の労組が「コミュニティ労働論」としてゴミ収集の担当者が高齢者の住むアパート上階の小口までゴミ袋を取りに行ったりということが挙げられているのですが、それはあくまで「公務労働」として対価が支払われるべき労働(別途○○手当をつけるという意味ではなく、基本給の対象となる所定労働時間に組み込まれるべきものという趣旨です)であって、労組が自主的に取り組むことではないだろうと思います。

公務員労組の取組を「階級的もの取り主義」から「自主管理的労働運動論」に転換するという熊沢先生の主張の趣旨はわからないではありませんが、上記のような「メンバーシップ」的労働をさらに強化するものになり得る点は十分に注意する必要があると考えます。公務労働者はあくまで行政組織に労務を提供する存在であって、(ある程度まではやむを得ないとしても)それと心身ともに一体化する必要はありませんし、インタビューで取り上げられている欧米の公務員労組もそうした前提に立脚しているはずです。

ただまあ、インタビューの最後が「公務員運動のフロンティアと公務員のやりがい」となっていて、やっぱりメンバーシップ的だなあという印象なのですが。
2012/07/03(火) 08:18:13 | URL | マシナリ #-[ 編集]
> 坂倉さん

お名前を間違ってしまいまして大変失礼しました。hamachan先生にご指摘いただいてやっと気がついた次第です。坂倉さんには全く関係ありませんが、ダンディ坂野をダンディ板野と呼んでいた前歴がありまして、同じ過ちを犯してしまったことを深く反省しております。

もちろん、hamachan先生からのご指摘はそのことだけではなく、
> ここでマシナリさんが指摘されていることは、ある意味で日本の労働運動の歴史、さらには世界の労働運動の歴史の根本に関わる問題でしょう。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-e2b5.html

と、労働運動の中で労働者自主管理と労働組合主義が2つの対極をなしていることが指摘されていて、私自身はそこまで考えていなかったのですが、根が深い問題なのだなと改めて認識したところです。

とりあえず、坂倉さんがhamachan先生のエントリにツイートされていますので、この続きはhamachan先生の軒下をお借りしたいと思います。
2012/07/04(水) 07:25:41 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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