2012年03月04日 (日) | Edit |
拙ブログはパオロ・マッツァリーノさんの「スタンダード 反社会学講座」での軽妙な語り口を一つの目標として始めた経緯があるわけですが、その後『つっこみ力』とかちょっとアレな方向に進んでしまったように思えて、著作はしばらくフォローしていませんでした。ところが、最近出された著作が相変わらず軽妙な語り口の中に考えさせられる内容が盛り込まれていて、まっつぁん(と尊敬の念を込めて呼ばせていただきます)に対する認識を改めました。

実は、一つ前の『13歳からの反社会学』の後半部分を読んだときにいまいち消化不良気味だったのが、「第7章 芸能ニュースからだって、学べることはたくさんある」の結論部分でして、この問題提起は十分にかみしめる価値があると思います。

●批判は改善のチャンス

 羊水発言の件を倖田さん個人の無知と失言として処理してしまったことを、私はとても残念に思います。
 だれかを責めることばかりに目が向いてしまうと、ものごとの本質を見失ってしまうことがあるんです。この件だって、責任追及ばかりに血まなこになって、「なぜいけないのか」「なにが問題だったのか」をみんな考えようとしなかった。
(略)

●中身より形が大事な日本の謝罪

 日本人の大好物といえば、謝罪会見です。日本人は、有名人やエラい人が報道陣のカメラの前で誤る姿を見ると、とても嬉しくなるのです。
 事件、事故、不祥事が発覚すると、企業の経営陣や政治家、そして芸能人までが、カメラのフラッシュが炸裂する中で、深々と頭を下げます。その姿はテレビ画面に映し出され、全国に中継されます。有名人やお偉いさんが屈辱にまみれる姿を、みんなでウキウキウォッチンです。
(略)

●「だれが」より「なにが」を考えよう

 でも、なんでも謝罪で済ませる風潮は、私はよくないと思うんです。あらゆる問題を「世間を騒がせた」という、わけのわからない罪にすり替えてしまうのは、日本人の悪いクセですよ。
 今後、芸能人や有名人の謝罪会見をテレビで見たら、だれが悪いのかはひとまず脇においときましょう。そういう責任追求は、必要ならば警察や法律家がやってくれるんだから。
 そうじゃなくてわれわれは、なにが悪いのだろう、この騒ぎはなにが問題なんだろう、どうすればいい方向へ向かえるのだろう、と考えてみるべきです。
pp.214-216

13歳からの反社会学13歳からの反社会学
(2010/09/10)
パオロ・マッツァリーノ

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※ 以下、下線強調は原文(原文では傍点強調)、下線太字強調は引用者による。

私が消化不良に感じたのは、「どうすればいい方向へ向かえるのだろう、と考えるべき」とまでいうなら、「謝罪会見をテレビで見たら」という消極的な立場からではなく、「謝罪よりも重要な防止策や改善策といった今後の対応を国民全体で共有するのが会見という場だ」と積極的な立場から「謝罪会見」を否定してほしかったからです。

拙ブログでも何度か取り上げていますが、がれきの受け入れが進まなかったり、被災地というだけで風評被害を受けてしまう現状は、「東電が悪い」「政府が悪い」「東電と政府のせいで被災地は汚れてしまっているから自分のところにもってくるなんてもってのほかだ」という世論が作り出されたことに原因があるように思います。日本のマスコミは、「なにが悪いのだろう、この騒ぎはなにが問題なんだろう、どうすればいい方向へ向かえるのだろう」と考えることなく、東電の記者会見の場を、原因解明の場ではなく謝罪ばかりを求めるフリージャーナリストが跋扈する場に変えてしまい、確かな情報で冷静な対応を呼びかけることもなく、ヒステリックに「放射能」の恐怖をまき散らしてきました。まあ、マス「コミュニケーション」というのは送り手と受け手から成り立つものですから、東日本大震災という未曾有の災害が起きた後でも、「誰か悪いやつがいるから問題や事故が起きたのだから、そいつらに謝罪させなければならない」という思考法から、日本全体が抜け出すことはできなかったと考えるべきかもしれません。

で、まっつぁんの新著では、「第八章 つゆだくの誠意と土下座カジュアル」この謝罪会見についてデータを交えて考察されています。

 2001年以降、朝日も読売も、圧倒的に「謝罪会見」が多くなりました。大宅壮一文庫の雑誌記事見出し検索でも、「謝罪会見」の文字は2002年から急増しています
 これはべつに、新聞社や雑誌社が意図的にやったことではありません。マスコミの人たちだって一般市民のひとりだし、一般読者が求めるものや気分をつねに意識しています。ですから自然と一般読者が喜びそうな方向へと、言葉や記事内容は変化していくものなのです。
 世紀の変わり目を境に日本人は、他人の釈明を聞いて善悪をあれこれ深く考えるよりも、なにも考えずに悪と決めつけて謝罪させることのほうを、より強く求めるようになったようです。
p.175

 いやあ、欧米は釈明、日本は謝罪の文化、などと単純化してしまったのは、お恥ずかしいかぎりです。その理論には修正が必要なようです。もちろんむかしから、日本人が他人のミスや失敗にきびしくあたり、事態の解明よりも責任論に走りがちな傾向は見られました。けど、20世紀までは日本人もまだ、ヘタこいた人間の釈明を聞いてやるだけのふところの深さがあったのです。
 しかしここ10年ほどで、どういうわけか日本人は、ひどく不寛容になってしまったようです。他人のミスや失敗を糾弾し、釈明よりも謝罪を期待し(あるいは要求し)、頭を下げるさまを見て溜飲を下げる品格のないオトナが増えました
 だったら、謝罪すれば許すのかというと、それがそうでもない。今度は謝罪の内容や言葉、作法に誠意が見られない、と難癖をつけていつまでも許さないのだから、どうしたらいいものやら。日本では、一度でもミスや失敗を犯した人間は死ぬしかないってことですか。こんな不寛容な社会では、日本の自殺率が高いのも無理はないなと思えてきます
p.176

 新聞の読者投稿欄を見ても、「政府には誠意ある対応を望む」「企業側は誠意ある態度を見せるべきだ」みたいな怒りの投書がごまんとあるんです。お怒りになっていることはわかるのですが、私はその投書者たちに逆に聞きたいのです。あたのいう誠意って、具体的には何かね? と。
 誠意ある対応とか誠意ある態度、謝罪とはどういうものなのか、具体的に提示しなければ相手は対処のしようがないから、永遠に相手を責め続けることができるのです。なんて陰湿な責めかたでしょう。相手から豚を贈られればとりあえず矛を収める人たちの方が、よっぽど紳士的です。
p.182

パオロ・マッツァリーノの日本史漫談パオロ・マッツァリーノの日本史漫談
(2011/09/26)
パオロ・マッツァリーノ

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震災後の東電に対する報道や「市民の声」というものを見ていると、まさに「誠意って何かね」と謝罪を求める立場の菅原文太が投げかけた言葉のやりきれなさを思い出します。被害を受けた側が謝罪を求める中で、その謝罪をする相手に「誠意」の考え方を聞くというのは、暗に「オレが納得するまでは許さない」という意思表明にも見えます。謝罪会見が急増しだしたここ10年くらいで一般に広まった言葉に「説明責任」というのもありますが、「「納得のいく説明」なんてのは極めて主観的なものであって、特に建設的じゃない野党が「納得できない」と言い張れば、いつまででも政府に対して説明責任を求めることが可能になる」のと同じように、際限のない謝罪を求めることができるようになってしまう危険性を感じてしまいますね。この著作では、2001年ころから謝罪会見が急増した理由までは述べられていませんが、個人的にはこの「説明責任」が際限のない謝罪を求める際の理論的な根拠を与えてしまったのではないかと考えるところです。

まっつぁんの新著でもう一点私が見直したのが「第十章 たとえ何度この世界が滅びようと、僕はきみを離しはしない」でして、「亡国論」の類いをあおり立てる論者の無責任ぶりを痛快にぶった切りされています。

 日頃から他人を辛らつに批判・嘲笑している識者ほど、えてして、ご自分が俎上に載せられると、笑う余裕もなく逆上するものです。来月あたり「パオロとかいうふざけた名前のやつが日本を滅ぼす」みたいな滅亡論が、東京都の定例会見で述べられたりするかもしれません。それとも、「わたしらは、世を憂えてまじめに警告を発してやっているのに茶化しやがって」とおかんむりになってます?
 よろしい。では、そろそろこちらも真面目にお答えしましょう。
 個々の問題に対するみなさんの主張やご意見には、正しいものもあれば間違ったものもあります。ただね、個々の問題の正誤と、国が滅びるかどうかのあいだには、なんの関連もないんです。特定対象への批判が、一足飛びに亡国までいってしまう論理の飛躍がみえみえなんです。だから、亡国だの滅びだのと、きちんとした論証もできてない戯れごとをいうのはおやめなさい、とご忠告申し上げているのです。
 ありていにいえば、亡国論や滅び論は、私憤を大義にすり替えるための装置にすぎないのです。自分が個人的に気にくわない相手がいたり、そいつらがやっていることが気にくわなかったとき、冷静にスジを通して批判するのでなく、そいつは国や世界にとっての敵だぞ、そいつが国を滅ぼすぞ、と感情的にわめき立てることで、お手軽に批判対象を公共の敵に仕立て上げようとする、せこいトリックなんです。
pp.268-269

 予想がハズれるだけなら、いいだしっぺの失点となるだけで済みます。でもちょっと待ってくださいよ。これまで「○○が日本を滅ぼす」と名指しで糾弾されてきた数百もの○○の名誉はどうなるんです?
 個々の問題について、○○が犯人であるかどうかはべつとして、結局日本は滅んでいないのだから、少なくとも亡国犯・滅亡犯としての告発に関しては、明らかに冤罪じゃないですか。だれかそのことで謝罪した識者がいましたか? 亡国論、滅び論は冤罪製造装置でもあるんです。だからまともな知性と倫理観を持つ者は、亡国論なんてのを気安く口にすべきではないんです。
 反論がきそうなので、先回りしていっちゃいましょう。「おれが亡国の警告を発したから、事態が改善され、亡国の危機をまぬがれたのだ」。
 残念でした。それは論理的な証明になっていません。「仮にあなたが警告を発しなかったとしたら、日本は滅びていた」ということを確実に証明できないかぎり、あなたが正しかったことにはならないのです。「あなたが警告を発しなくても、日本は滅びていなかった」可能性もあるのですから(わかんない? だったら論理学を基礎から勉強してください)。
pp279-280

パオロ・マッツァリーノ『パオロ・マッツァリーノの日本史漫談』

拙ブログでも飯田先生の『ダメな議論』から同趣旨の部分を引用して疑問を呈していましたが、「日頃から他人を辛らつに批判・嘲笑している識者ほど、えてして、ご自分が俎上に載せられると、笑う余裕もなく逆上するもの」というのはまさにその通りですね。まあ、この方とそのお仲間は相変わらず「お手軽に批判対象を公共の敵に仕立て上げようとする、せこいトリック」を駆使していらっしゃるようで「まともな知性と倫理観」は期待できなさそうでして、あの界隈の方々にも「誠意って何かね?」と聞いてみたくなりますね。

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コメント
この記事へのコメント
ドラめもんさんのところで取り上げていただきましたが、個人的にはその直前で取り上げられている「議連」なるものについてのドラめもんさんのご指摘に全面的に賛同するところです。

> がれき処理問題って最大(というか唯一最大というか)のネックが受け入れ側の地元住民の反対であって、そこをどうクリアにするのかというのが重大な話ではないかと思います訳で、その地元住民の説得という一番重要な話をするのが「がれき処理推進議連」なんじゃないんですかねえ。まずてめえらの選挙区で地元の反対する有権者の皆様の説得をして、がれき処理受け入れの実績を作って、その実績を基に他の地域の反対する住民の皆様を説得して回るというキャラバンでもやるというのであれば高く評価しますが、上記の記事を読んでいるとどう見てもそうじゃなくてさっき書いたように「仕事は環境省の役人と自治体だけど手柄は俺様にも寄越せ」という浅ましい議連に見えてしまいますよねえ。
http://www.h5.dion.ne.jp/~bond7743/doramemon1203.html#120306

実はこの点について以前書いたことがありまして、
> 「脱官僚」とか「政治主導」なるものが結局は、政治家は一般受けのいい政策をばんばん打ち出し、それに伴う利害調整のような面倒なことは官僚がやれということになるのは小泉・竹中によるコーゾーカイカク祭りで経験済みではあります
http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-345.html
というようなわけでして、「民意」のみによって政権を奪取した現政権の方々の行動パターンというのは、徹頭徹尾首尾一貫していてこの上ない清々しさを感じます。

というような政治家の皆様の行動の清々しさを常々感じながら、さらに通常業務に加えて震災のためのエクストラな業務に忙殺されている地方自治体職員の身としては、ドラめもんさんがおっしゃるように
> 当然ながら議連の皆様におかれましては、一番大変な地元の有権者の皆様の説得という有権者ウケしなさそうな大変な事を一緒にするんですよね!!!!!!!!!!
と全力を挙げてお願いしたいところです。
2012/03/07(水) 00:09:53 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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