2006年11月05日 (日) | Edit |
 前回取り上げた未履修問題とともにいじめ問題が大変なことになっております。未履修問題のときは学校側の立場で考えてみましたが、今回は教育委員会の立場で考えてみましょう。

 まず、文部科学省のサイト「教育委員会制度について」で教育委員会とは何かを確認しておくと、[教育委員会制度の意義]として(1)政治的中立性の確保、(2)継続性、安定性の確保、(3)地域住民の意向の反映が、[教育委員会制度の特性]として(1)首長からの独立性、(2)合議制、(3)住民による意思決定(レイマンコントロール)があげられているとおり、中央集権的といわれている教育委員会の制度が実は、(あくまで制度上は)独立性や中立性、地域性の確保などを主眼にしたものということになります。

 しかし、岐阜県の事件での教育委員会の対応は、地域の住民である生徒やその親の意見を反映していたとは到底言えない状況のようにみえます。となると、問題はその制度の意図と実態が乖離してしまっていることとなるわけですが、なぜそのような状態になってしまうのでしょうか。現在問題となっているいじめに関して考えてみると分かりやすいのですが、教育委員会の行動においては訴訟リスクが大きな要因となっていると考えられます。つまり、岐阜県の事件のようにいきなりいじめが原因だったと認めてしまうと、のちに訴えられたときに逃げようがなくなる可能性がのです。

 報道では「学校側」という言い方がされますが、訴訟が起きた場合の当事者は、学校ではなく「学校設置者」となります。つまり、訴訟においては、現場としての学校と都道府県や市町村の教育委員会が訴えられることとなり、したがって、学校側の責任が認められた場合に支払われる賠償金は税金が原資となります。税金の支出がそう簡単でないことは誰もが認めることでしょうけれども、賠償金を予算として計上する教育委員会が賠償責任を認めないよう慎重に対応することは当然のことです。したがって、簡単に責任を認めた校長に対して、教育委員会は「責任の所在は裁判で明らかにするのだから、発言を撤回してでも現時点では責任の所在を認めるな」と指示を出すことは想像に難くありません。

 今回の学校側の対応を批判する方々に一度よく考えていただきたいところですが、どんな凶悪犯であっても裁判が確定するまでその責任は確定しません。なおさら「自殺」ということであれば状況証拠からしかその原因を探ることはできず、責任の所在を特定することは通常の犯罪よりも困難になるはずです。つまり、いじめのような証拠の残りにくい問題を解決するためには、誰が責任を取るのかではなくどうやってそれを調べるかをまず考えなくてはなりません。

 学校側、この場合であれば賠償金を支払う可能性のある教育委員会が「事実を確認するまで責任を認めない」という方針をとったことは、上記のような訴訟における支出のリスクと事実確認の困難さを考えるなら合理的といえます。しかし、冒頭で確認した教育委員会の制度と合わせて考えると、教育委員会の現場では相当なジレンマがあったであろうことが想像されます。教育委員会として地域の住民である生徒や保護者の意向を尊重するか、地方財政の執行者として責任を認めてしまって損害賠償を支払う根拠を与えてしまうかという二律背反に苛まれていたのでしょう。それが、いじめに関する学校側(現場の学校と教育委員会を含む)の見解が二転三転した要因であったのだろうと考えられます。

 しかし、これを生徒の側から考えてみるならばまた違った様相を呈することになります。同級生が自殺したとき、正直に「私がいじめました」と名乗り出るような殊勝な生徒ならそもそもいじめなんて卑劣なことはしないと思われます。学校が調査すれば、いじめた生徒に対する制裁が与えられると予想される以上、いじめた生徒は沈黙を守ろうとするでしょうから、実態を明らかにすることはそう簡単なことではありません。そんな事実確認もできない状況で、学校側が自殺した生徒の遺書のみをもって「お子さんの自殺の原因はいじめです」と断定したならば、学校側はその原因を特定する、すなわちいじめた生徒とその行為を特定しなければなりません。ますます学校が犯人捜しに躍起になる中で、いじめた生徒がさらに沈黙する可能性も考えられます。

 以上を考え合わせると、真相を明らかにしようとするなら、対外的には「いじめはなかった」としながら生徒が自ら事情を話すよう促す必要があり、一方では上記のような訴訟リスクの不確実性および事実確認の困難性もそれを補強します。すなわち、教育委員会のとりうる望ましい対応として、「事実が確認されるまでいじめの事実を認めず、学校としての責任を認めない」となる場合も十分に考えられるのです。

 しかしよく考えてみると、自らは直接いじめに関わっていない学校側だけが責められるのはどうも腑に落ちません。もちろん、いじめが行われていた現場で注意しなかったとか、福岡県の事件のように先生が率先して暴言を吐いていたなどの学校側の作為・不作為が明白であれば別ですが、岐阜県の事件では、報道によればいじめていたのはバスケ部の同級生とのこと。自らの行為で一人の人間が命を失ったことを一番重く受け止めなければならないのは彼らいじめた生徒であることは疑いようがないのに、なぜ報道の矛先はその生徒や直接の保護者である両親に向かないのでしょうか。それが教育委員会としての、いじめた生徒とその保護者を含む地域住民に対する配慮の結果であるなら、教育委員会にとっては切ないものです。
スポンサーサイト


コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック