2011年12月05日 (月) | Edit |
前回エントリで取り上げた藤井『死体入門』と同じくメディアファクトリー新書から発行されている長谷川『働かないアリに意義がある』がおもしろいと評判で、山形浩生さんが取り上げられていたこともあって読んでみました。

本書のタイトルに対する回答は前半部分で示されていて、社会性昆虫がなぜそのように進化したかという核心部分については後半にいくほど深みのある議論が展開されていきます。ということで「働かないアリ」の意義は核心部分ではないと思いますので引用してしまいますが、

 なぜそうなるのか? 働いていた者が疲労して働けなくなると、仕事が処理されずに残るため労働刺激が大きくなり、いままで「働けなかった」個体がいる、つまり反応閾値が異なるシステムがある場合は、それらが働きだします。それらが疲れてくると、今度は休息していた個体が回復して働きだします。こうして、いつも誰かが働き続け、コロニーのなかの労働力がゼロになることがありません。一方、みながいっせいに働くシステムは、同じくらい働いて同時に全員が疲れてしまい、誰も働けなくなる時間がどうしても生じてしまいます。卵の世話のように、短い時間であっても中断することコロニーに致命的なダメージを与える仕事が存在する以上、誰も働けなくなる時間が生じると、コロニーは長期間は存続できなくなってしまうのです。
 つまり誰もが必ず疲れる以上、働かないものを常に含む非効率的なシステムでこそ、長期的な存続が可能になり、長い時間を通してみたらそういうシステムが選ばれていた、ということになります。働かない働きアリは、怠けてコロニーの効率をさげる存在ではなく、それがいないとコロニーが存続できない、きわめて重要な存在だといえるのです。
pp.74-75


働かないアリに意義がある (メディアファクトリー新書)働かないアリに意義がある (メディアファクトリー新書)
(2010/12/21)
長谷川 英祐

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※ 以下、強調は引用者による。


と説明されていて、拙ブログでも「長期戦となることが避けられないからこそ、平常時の体制で緊急に作業を進めるという難しい舵取りが求められる」と震災から1か月後に指摘していたことがあながち間違いではなかったかなと思うと同時に、被災地の避難所で見た光景を思い出しました。その被災地では、震災直後から役場の職員がそれぞれの避難所に数名ずつ配置されて、役場の災害対策本部と無線でやりとりしながら避難所の運営に当たっていたのですが、主に運営を仕切っていたのが課長クラスの職員で、もう一人年配ではあるものの役職の高くない職員が配置されていました。後者の職員は、昔でいう「窓際族」というか池○先生いうところの「ノンワーキングリッチ」というか、身もふたもなくいってしまえば「無能なコームイン」を絵に描いたような職員に見えましたが、実はその方が見かけによらず(?)避難所に大量に押し寄せる食料品や物資の配給をそれなりに取り仕切っていて、ああ見えてやればできる人なんだなと思ったものです。

ところが、震災から数か月後にその役場に行ってみると、物資の配給を取り仕切っていた職員がいかにもヒマそうにぶらぶらと役場の中を歩いているではありませんか。挨拶をしても要領を得ない返事でどこかへ行ってしまいましたが、今考えてみると本書で言う「反応閾値」が低い人なのかもしれないと思ったりしました。こんなことを書けば「そんな無能なコームインなんか首にしてしまえ」と自治体職員有志の会の皆さんなどはおっしゃりそうですが、あの混乱した避難所を取り仕切っていたのは紛れもなくその「無能なコームイン」に見える職員だったわけです。

震災直後には、在庫を極限まで削減するPOSシステムで物流が「効率化」されていたために極度の物資不足に陥ったことは記憶に新しいことと思いますし、このことも考慮してか「復興への提言~悲惨のなかの希望~(平成23年6月25日 東日本大震災復興構想会議)」でも、

第2章 くらしとしごとの再生
(6) 地域経済活動を支える基盤の強化
① 交通・物流
災害に強い交通網
 生活交通については、少子・高齢化、過疎化等の地域の社会動向を踏まえ、地域の復興方針と一体となり、交通施設に防災機能を付加するなど、災害に強い地域交通のモデルを構築すべきである。
 また、幹線交通網については、今後とも、耐震性の強化や復元力の充実、「多重化による代替性」(リダンダンシー)の確保により防災機能を強化しなければならない

復興への提言~悲惨のなかの希望~(平成23年6月25日 東日本大震災復興構想会議)」p.23

と「リダンダンシー」がキーワードとして登場しています。「ムダは削減しなければならない」というそれ自体は反論の余地のないスローガンによって、「ムダなコームインは首にしろ!」「ムダな公共工事は中止しろ!」という「民意」の下で公的セクターのリソースが削減されてきたわけですが、日本型雇用慣行のおかげもあってわずかに残っていた中高年の「無能なコームイン」が今回の震災でその能力を発揮したということは、きちんと記憶されるべきではないかと思います。

本書についてはもう一点とても示唆的な議論がありまして、山形浩生さんも

ちなみに最後(p.184) にある、教科書や本は、何が書いてあるかよりも何が書いていないかを見ないとだめ、という著者の意見にはハゲ同。これは著者のいうような研究者だけでなく、ふつうの本を読む場合でも、それ以外のときでもまったく同様。

■[メディアファクトリー]長谷川英祐『働かないアリに意義がある』(2011-07-15)」(山形浩生 の「経済のトリセツ」  Formerly supported by WindowsLiveJournal

と指摘されていましたが、本書の「終章 その進化はなんのため?」では、短期的な効率化を追求して「リダンダンシー」(という言葉は出てきませんが)を排除することの危険性が議論されていて、専門家と呼ばれる方の中にもこうした姿勢を持つ方がいらっしゃることに安堵を覚えます。というより、社会性昆虫の地道な観察を通じて生物の進化を研究してきた著者からすれば、教科書に書いてあることを金科玉条のごとく持ち出す研究者とか、現代社会が永年の試行錯誤の中で作り出してきた社会的規範を「キセーカンワしろ」などと叫ぶ研究者も、「学者といえども人の子だから」と軽くいなしてしまいそうです。生物学を研究している著者から次のような指摘がさらっと出てくるのも、こうした社会性についての透徹した見方ができているからなのでしょう。

 最近企業は、非正規雇用労働者を増やしたり賃金の上昇率を抑えたりすることで労働生産性をあげることに邁進していますが、こうした対処が労働者の生活基盤を悪化させ、それが一因となって社会全体の消費意欲がさがっています。企業は商品を多く売ることで利益を出し、会社を存続させるのですから、こういう状況が企業の存続に有利なわけはないでしょう。まあ、多国籍企業になったり、労賃の安い海外に工場をつくったり、海外に商品を売ったりして儲ければ、という考え方もありますが、そうすると今度は国内の産業基盤が弱くなり、国が長期的に存続するかどうかが問題になるでしょう。

長谷川『同』p.168

と、社会全体の消費性向を高めるために所得再分配の重要性を説明する議論となっていまして、この必要原則に応じた所得再分配の制度をいかにうまく運用できるかという点こそが、単に生物学的に進化して形成された昆虫の社会と、心情を知性で裏付けながら制度設計を積み重ねてきた人間の社会の違いではないかと思うところです。最近はむしろ社会性昆虫の社会のような「純理論的」社会を理想として議論をされる方が、特に経済学方面とか政治主導方面に多いのが気がかりではあります。

 多くの研究者(プロを含む)は、教科書を読むときに「何が書いてあるかを理解すること」ばかりに熱心で、「そこには何が書かれていないか」を読み取ろうとはしません。学者の仕事は「まだ誰も知らない現象やその説明理論を見つけること」なのにです。優等生とは困ったものだと「変人」である私は思います。私はこれからも変人として、私たちの研究がそのような新たな科学の発展に役立つ一例となるよう、やっていきたいと思うのです。
 生物の世界はいつも永遠の夏じゃなく、嵐や雪や大風の日など予測不可能な変動環境であることが当たり前です。「予測不可能」とは「規則性がない」ということですから、実は数式で表されるものしか理解できない理論体系が、最も苦手とする分野が「生物学」なのかもしれません

長谷川『同』pp.183-184

本書で取り上げられている社会性昆虫よりも高い知性を持つとはいえ、ヒトも社会性を持つ生物であることに変わりありません。数式で表される美しい理論体系で経済政策を語り、教科書に書かれていない現象を現実にまみれながら理解しようとする立場を侮蔑し、教科書に書いてあることでは理解できない現実は政府などの公的セクターの陰謀論と決めつけ、政府・日銀の陰謀論に飽き足らず一般人まで「御用」呼ばわりするような専門家にとっては、ヒトという生物の社会は苦手なのかもしれませんね。
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コメント
この記事へのコメント
改革の大義を標榜する、「改革派官僚」、あるいは、いわゆるりふれ派、みんなの党などの背景にいる新自由主義者たちは、ケインズやクルーグマンを都合よくつまみ食いをして、便利使いしているが、みないわゆる「リベラル派」の系統のはず。
構造改革万歳のはずがない。
せめて、クルーグマンのコラムを翻訳するとき、朝日新聞は、ニューヨークタイムズでのコラムの表題である、「conscience of liberal」も訳してのせて欲しい。それだけでもだいぶ違うように思う。
2011/12/09(金) 08:29:04 | URL | 元リフレ派 #-[ 編集]
黒川さんからとても興味深いTweetをいただきました。

> くろかわしげる @kurokawashigeru
>
> 教科書に書かれていないこと sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-487… マシナリさんの記事よいね。震災の支援でしばしばみかけたのは、日頃優秀な人がシステム化された予定調和がされていないことにイラだって事態を混乱させている現実でした。
>
> 12月6日 Tweet Buttonから

https://twitter.com/kurokawashigeru/statuses/143904901792153600

まさにおっしゃる通りで、先ほどhamachan先生のところでもコメントさせていただきましたが、混乱した現場の秩序の維持には杓子定規なお役所仕事が有効で、本エントリで取り上げた「無能なコームイン」に見える職員は、その意味で忠実にお役所仕事を体現されていました。

もちろん刻一刻と変わる現場ではその状況に応じた判断を行う司令塔も必要ですが、そんなスーパーコームインなんて一握りもいません。私を含め多くの凡庸なコームインにとっては、外部の情報も自分の置かれた状況も分からないような混乱した中でまずは秩序を維持することが最優先で、そのためには目の前の作業をいかに決まり切ったルーティンワークに落とし込んでいくかを考えなければならないのではないかと思うところです。そのような事態にあって、お役所仕事に染まりきったコームインが力を発揮したのかもしれません。
2011/12/09(金) 08:35:20 | URL | マシナリ #-[ 編集]
> 元リフレ派さん

メアドを拝見すると以前yunusu2011のHNでコメントいただいていた方ですね。

> せめて、クルーグマンのコラムを翻訳するとき、朝日新聞は、ニューヨークタイムズでのコラムの表題である、「conscience of liberal」も訳してのせて欲しい。それだけでもだいぶ違うように思う。

アメリカでの「リベラル」と日本での「リベラル」の位置づけがかなり違うというのが、事態をややこしくしている印象があります。というか、アメリカという国自体が「個人主義を最大限尊重する」という意味で極端にリベラル化しているために、本来なら「ソーシャル」と呼ばれるべき立場のクルーグマンとかスティグリッツが「リベラル」と位置づけられてしまうという異様な状況にあるのではないかと。

翻って日本でリベラルというと、マイノリティや貧困への保護というソーシャルな政策目的を掲げながら、その手段は公的セクターを否定してひたすら自助努力を称揚するという「リベサヨ」((c)hamachan先生)を指してしまうので、朝日新聞も「リベラル」という言葉をクルーグマンに冠するのに躊躇してしまうのでしょう。

まあ、日本では「社会主義」という言葉自体が「全体主義」とか「護送船団方式」、「癒着」とかのマイナスのイメージを背負ってしまっているので、「ソーシャル」な議論そのものが封じられているのがより大きな問題なのかもしれません。
2011/12/11(日) 10:41:57 | URL | マシナリ #-[ 編集]
政策実施
投稿するところを間違えてしまい恐縮。間違った方は削除していただければ幸い。

「政策実施」 (BASIC公共政策学) 大橋 洋一 (編著) は、教科書で珍しく、政策実施のむずかしさについて、九州大学の法学部系統の先生たちがあつまって出した労作。
地味な本でそんなに売れていないようだ。
一時、法学部バッシングがはやったが、政策実施という課題については、machinery氏が指摘されるように、法学部の実学的な知見を活かして、経済学部などのモデル思考とは違った地についた議論をしたほうがよいと思う。
2011/12/15(木) 23:34:05 | URL | 元リフレ派 #-[ 編集]
> 元リフレ派さん

> 投稿するところを間違えてしまい恐縮。間違った方は削除していただければ幸い。

一つ前のコメントは削除いたしました。

> 一時、法学部バッシングがはやったが、政策実施という課題については、machinery氏が指摘されるように、法学部の実学的な知見を活かして、経済学部などのモデル思考とは違った地についた議論をしたほうがよいと思う。

…すみません。拙ブログでも
> 前回のエントリは例によってわかりにくい書き方になってしまったのではっきり書いておきますが、政策法務とか騒いで嬉々としている自治体職員とか議会議員とか首長に俺はうんざりしているのです。

> 私の知る限りの(特別職である首長や議員を含む)地方公務員は法律の執行にモノカルチャー化していて、法律学者や行政学者のいうことはありがたがっても、経済学者のいうことはほとんど耳を貸しません、というか理解できません(神野先生や金子先生は例外)。

「政策法務」2008年09月21日 (日)
http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-108.html

なんて法学部バッシングしておりまして、何ともいえないのですが…

実務上での法学や経済学の役割については、ちょっと古いエントリで今読むと口調に違和感がありますが、おおざっぱには、

> 1. 政治家は「国民はこうあるべき」という仕様書を作って、経済学者に渡す
> 2. 経済学者は仕様書をもとにして、それを実装するための構造を考え出す
> 3. 法律家は経済学者が考案した構造をコーディングする
> 4. 仕様書は政治家同士が、構造は経済学者同士が、コードは法律家同士がレヴューする
> 5. コーディングされたプログラムの動作を購入者(国民とその対面サービス提供者である現場の国家/地方公務員)がレヴューし、類似のプログラムと比較して購入を決定する

「制度の帰着」2007年12月21日 (金)
http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-74.html

というところではないかと考えております。

ご教示いただいた本はなかなか手強そうですが、機会があれば手に取ってみたいと思います。
2011/12/16(金) 00:14:43 | URL | マシナリ #-[ 編集]
ついでにといってはなんですが、
2011/12/09(金) 08:35:20 | URL | マシナリ #-[ 編集]
のコメントを今読んでみると違和感がありまして、よく考えてみたら、黒川さんのおっしゃる「システム化された予定調和」というのは、私が「お役所仕事」と指摘した行動様式そのものという気もします。

その観点から言えば、秩序のない状態で「目の前の作業をいかに決まり切ったルーティンワークに落とし込んでいくか」というようなシステム化を考えてしまうと、かえって混乱してしまうので、それよりは愚直に目の前の作業をこなすべきと考えた方がよさそうです。
2011/12/16(金) 00:26:34 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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