![]() | 日本人はどのように仕事をしてきたか (中公新書ラクレ) (2011/11/09) 海老原 嗣生/荻野 進介 商品詳細を見る |
実を言えば、著者との往復書簡自体は、海老原さんが編集されている雑誌『HRmics』で「人事を変えたこの一冊」というコーナーで連載されていたものでしたので、私も一度は読んでいた(はず)と思います。ただし、この本の白眉は、戦後を6つの時代に分けてそれぞれの時代の生々しい状況の「振り返り」が各セクションの冒頭で解説されている点にあると思います。これによって、一度読んでいたはずの往復書簡についてもその時代性を理解することが可能となっています。正直なところ、連載を読んでいたときはピンとこなかった(というより単にその時代背景を理解していなかった)往復書簡についての理解も、この「振り返り」があることで「そういうことだったのか!」と目からウロコ状態でした。
取り上げられている著書はアベグレン『日本の経営』からhamachan先生の『新しい労働社会』まで13冊で、それぞれの著書にも「そういうことだったのか!」はあるのですが、ぶっちゃけた話をすれば、この中でまともに読んだことがあるのは『新しい労働社会』だけという私がそれぞれの往復書簡にコメントできるはずもありません。いやまあ、この本を読んでから取り上げられている著書に直接当たるのが正しい作法なのだとは思いますが、絶版とか市販されていない著書まで網羅されていますので、ありがたく「読んだつもり」の気分にさせていただいております(近年中には手に入るものだけでも読んでみたいと思ってはおりますが)。
というわけで、往復書簡についてはこれからの読書の指針とさせていただきたいと思いますが、私の目からウロコを落としてくれた時代背景については、各セクションの表題を並べてみるだけでよくわかります。
特に§3~5の「振り返り」は、当時の人事、労務政策を知るための一級の解説になっていると思います。繰り返しになりますが、一度往復書簡を読んでいた方でもこの部分を読むだけで本書を買う価値はあると思います。もちろん、そうした時代背景抜きにしても読む価値のある著書が多数取り上げられていて、人事、労務政策は不易と流行の織りなす領域なのだなあと感慨にふけるところですが、中にはそうした時代背景がなければ理解できない著書(の一部の主張)もあります。§1 戦中~戦後という奇跡的な時代環境が強調経営を形作った
§2 欧米型vs.日本型「人で給与が決まる」仕組みの正当化
§3 「Japan as No.1」の空騒ぎと、日本型の本質
§4 栄光の余韻と弥縫策への警鐘
§5 急場しのぎの欧米型シフトとその反動
§6 雇用は企業ではなく社会が変える
本書とは関係ないのですが、こうした時代背景と併せて読まなければ理解できない著書があることと、企業の人事、労務政策という実務の関係を考えたとき、ケインズが警鐘を鳴らしたこの言葉を思い出しました。
人事、労務という実務の世界の話だけに、その実務屋は既存利害よりも強力な「経済学者や政治哲学者たちの発想」には気をつけたいものです。でもこういう現代の雰囲気はさて置くにしても、経済学者や政治哲学者たちの発想というのは、それが正しい場合にもまちがっている場合にも、一般に思われているよりずっと強力なものです。というか、それ以外に世界を支配するものはほとんどありません。知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかのトンデモ経済学者の奴隷です。虚空からお告げを聞き取るような、権力の座にいるキチガイたちは、数年前の駄文書き殴り学者からその狂信的な発想を得ているのです。こうした発想がだんだん浸透するのに比べれば、既存利害の力はかなり誇張されていると思います。もちろんすぐには影響しませんが、しばらく時間をおいて効いてきます。というのも経済と政治哲学の分野においては、二十五歳から三十歳を過ぎてから新しい発想に影響される人はあまりいません。ですから公僕や政治家や扇動家ですら、現在のできごとに適用したがる発想というのは、たぶん最新のものではないのです。でも遅かれ早かれ、善悪双方にとって危険なのは、発想なのであり、既存利害ではないのです。
「第 24 章 結語:『一般理論』から導かれるはずの社会哲学について」(YAMAGATA Hiroo Official Japanese Page)

おっしゃる通りで、「1940年テーゼ」とかいう言葉で、日本の雇用システム全てを語ろうとする、整理上手な識者がおりますよね。この人とか本当に困りものです。そんな、箱モノを作り上げたからって、そこで働く人が全員、右へ倣えで、言うとおりになるわけないですよね。そういうのではなく、制度や法律や仕組みなどで縛られても、それをどう逃れようとするか、という日々のせめぎ合いの中で、ようやく一歩進み、二歩進み、それが半歩後退し、という形で、雇用の仕組みは出来上がってきたのだと思います。だから、生の葛藤を伝えられるよう、幕間に解説をはさませていただきました。意図をご理解いただけ、光栄に存じております。
こちらも毎度直々のコメントありがとうございます。
「1940年テーゼ」というのは本書に登場されるY先生ですね。拙ブログでも何度か取り上げさせていただいておりますが、現状に対する分析やそれについての認識までは大変まっとうなことを指摘されているのに、それに対する処方箋になると(私からすると)途端に不可思議な方向に議論が進んでしまうので評価が難しい方です。
本エントリの最後にケインズの言葉を持ってきたのも、こうしたことをおっしゃるのは経済学者や政治学者(必ずしも政治哲学者ではないのはケインズの時代との違いでしょうか)が多くて、実務屋から見れば危険きわまりない存在だからです。実務屋の端くれとしては、自らが日々格闘している実務について、それを一切否定して「抜本的な」カイカク案を示してくれる方々には十二分に気をつけなければならないと気を引き締めた次第です。
もちろん、マクロのスケールの大きい政策も重要ですが、それはあくまでも環境整備までの話であって、具体的な企業の人事、労務政策についてはミクロの地道な取組が重要なのだろうと思います。
この点については、海老原さんのコメントでも、
> 制度や法律や仕組みなどで縛られても、それをどう逃れようとするか、という日々のせめぎ合いの中で、ようやく一歩進み、二歩進み、それが半歩後退し、という形で、雇用の仕組みは出来上がってきた
と指摘されていますが、そうしたミクロの労使、というより、会社の上司と従業員との直接のやりとりとその集積の中で形成されたのが雇用の仕組みだという、当たり前のことでありながらアカデミズムではオミットされがちな側面こそが重要なのではないかと思うところです。