2011年10月10日 (月) | Edit |
相変わらず風邪が長引いていますが、布団の中で熱にうなされながらhamachan先生と水町先生の新刊を拝読しました。
日本の雇用と労働法 (日経文庫)日本の雇用と労働法 (日経文庫)
(2011/09/16)
濱口 桂一郎

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労働法入門 (岩波新書)労働法入門 (岩波新書)
(2011/09/22)
水町 勇一郎

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いやもちろん、熱にうなされただけではなくて両書の内容に唸らされていたわけでして、どちらも同じ日本の労働法について論じているのですが、印象としてはhamachan先生本が金属を写実主義的に切り出したオブジェのような重量感があるのに対して、水町先生本はラフなスケッチという感じでこんがらがった頭を整理するのに重宝するような感じがしました。

全体的な書評については各方面から寄せられているようですので、拙ブログとしてはやはり集団的労使関係についての両書の指摘を比較してみたくなるところです。その前提としての日本の労働法制の位置づけについて、hamachan先生本から引用すると、

 今日においても、日本国の労働法制の基本枠組みは労働基準法と労働組合法であり、それらが想定している労働者とは企業のメンバーシップに基づいて働いているのではなく、指揮命令を受けながら個々の労務を供給するという取引関係に基づいて働いている人々です。つまり、現行労働法制は基本的にはジョブ型であり、日本以外の社会と何ら変わりはありません。
(略)
そして、これら判例法理が積み重なり、確立するにつれ、日本の労働社会を規律する原則は、六法全書に書かれたジョブ型雇用契約の原則ではなく、個々の判決文に書かれたメンバーシップ型雇用契約の原則となっていきました。そして、こうした判例法理が確立することが逆に現実の社会に対する法規範として作用し、それまで必ずしもメンバーシップ方ではなかった中小企業など社会のさまざまな分野に対して、メンバーシップ型雇用契約を規範化する役割を果たしていきました。

濱口『前掲書』pp40-41


※ 以下、強調は引用者による。
という指摘があり、こうした歴史的経緯に立脚した立論がhamachan先生本を立体的なものとしているように思います。この点については、水町先生もhamachan先生の前著『新しい労働社会』を引用した直後で、

日本の労働者が、自分のことを示す言葉として、アメリカやフランスなどで一般に使われる「労働者(worker, travailleur)」や「被用者(employee, employe)」ではなく、会社のメンバーであることを意味する「会社員」という言葉を使うのも、日本の労働関係の共同体性格を示す一つの例といえよう。このことは、法的には、日本の労働契約の解釈において人間関係や信頼関係を重視する信義則による補充的・修正的解釈などの形で表れている

水町『前掲書』pp.45-46


と指摘されていますが、上記引用したhamachan先生の指摘に比べるとやや観念的な感じがしました。それがラフなスケッチという印象につながっているのだと思います。

個人的に興味深かったのは、hamachan先生本では、労働運動が挫折していった経緯が記載されているのですが、

 一方、民間部門の急進的な労働運動を抑制するため、1949年に労働組合法が改正され、組合の力を削ぐために、管理職の加入を認めず、在籍先住者への給与負担など会社からの利益供与も原則的に禁止する改正を行いました。これらは、従業員代表的性格に基づいて獲得していた組合の権限を、本来のジョブ型労働組合としてのあるべき姿を理由にして剥奪することにより、その勢力を削ぐという高等戦術であったといえます。特に効果があったのは、それまで期限が来ても自動延長されていた労働協約を自動延長できなくしたことで、これにより交渉が難航すると協約の期限切れで無協約状態になってしまうという事態になり、それまで組合側が勝ち取ってきた企業経営や雇用管理への介入権限が失われていったのです。

濱口『前掲書』pp.154-155

という指摘です。戦後直後の労働組合が管理職までを組合員としていたからこそ生産管理闘争が可能であって、それがメンバーシップ型労働組合としての強みであったところを、労働組合法本来のジョブ型に戻すことで勢力を削ぐことができたというわけですが、ではそれがなかったら今の労働組合はメンバーシップ型として機能していたのだろうかと考えると、それもよく分かりません。いずれにせよ、法改正のような政策決定は、目の前にある現実と法によって実現しようとする理想の姿とのせめぎ合いであって、現状追認ではなく法の趣旨を貫徹することが保護対象である労働組合を弱体化させたというのも、歴史の綾を感じるところです。
なお、細かい話ですが、労働協約が失効した後でも労働契約の内容として有効であるという余後効の考え方は、この後の労働委員会命令や判例で確立されていくことになると思うのですが、そうであっても従業員一律に適用される就業規則の方が事実上優先されるという指摘も宜なるかな。

そして、今後の労使関係について、hamachan先生本では、非正規労働者の取り扱いにおいて

 この問題は、理論的な解決と実践的な解決とがなかなか整合しにくい分野ですが、あえて論ずるなら、労働組合自体を自発的結社と捉えるだけではなく、ある種の公的な労働者代表機関と位置づけて、非正規労働者の加入を義務づけていくやり方もあるかも知れません。日本の企業別組合が実際には西欧の労働者代表機関と同様の機能を果たしていることを考えれば、理論的な矛盾はともかく、実態に即した方向性ではあります。

濱口『前掲書』pp.240-241

と最後の最後で指摘するに留まっています。これはhamachan先生の前著『新しい労働社会』の第4章で議論されているので、詳しくはそちらにというところなのではないかと思います。

これに対して水町本では、

 伝統的な労働法においては、この集団的な関係は、労働組合と会社の間の労使関係のなかで培われてきた。そして今後も、労働組合があるところでは、それが労働者の集団的な話し合いの重要な基盤となるだろう。しかし、それが正社員を中心とした内向きの性格をもっているとすれば、そこに外からの風を入れ、外にも目を向けて話し合いができる組織に変えていく必要がある。また、労働組合がないところでは、労使の自主的な努力によりこの集団的な話し合いの基盤が作り上げられることが望ましいが、当事者の自主的な努力のみでこれを広く作り上げていくことが難しいとすれば、政策的にそれを促すことも必要であろう。例えば、労働者が会社や職場で自分たちの代表を比例代表選挙によって選び出し使用者と話合いを行う労働者代表制度を法律上制度化し、そこで公正な話合いが行われることを政策的に促していくことが考えられる。
 このように、新しい社会状況のなかで、従来の集団的な労使関係に場合によっては透明性と開放性という新しい風を入れてその息を吹きかえさせ、また、法律によって新たな集団的制度を作り出していくことによって、国家と個人との間に立ち、両者の能力を補う集団的な基盤を作り上げていくことが、これからの日本の労働法の重要な課題となる。
 このような日本の労働法や労働法学の方向性は、「内省」を法的に取り込んで制度化しようとする世界の労働法や労働法学の潮流と、基本的に方向性を同じくするものである。

水町『前掲書』pp.222-223

と、集団的労使関係法制を重視する水町先生らしく、日本のみならず世界の労働法の潮流につなげてその重要性を指摘されています。その点では、拙ブログの問題意識とも一致しておりまして、方向性としては全面的に賛同するところですが、現状で存在する労働組合からの移行をどのように行うのかという実務的な問題が立ちはだかるのだろうと思います。この点については、2年前のhamachan先生の前著についての金子先生とのやりとりで議論させていただきましたが、個人的には箱物としての集団的労使関係制度というものを新たに構築することが必要ではないかと考えています。まあ、まさに言うは易し行うは難しなんですが。。。

(おそらく本エントリもhamachan先生に捕捉されてしまう(?)可能性が高いと思いますが、とりとめのない感想となってしまい恐縮です。)
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