2006年09月20日 (水) | Edit |
この項目は予定を変更してとあるブログ主さんとの議論を掲載します。

その前にざっと経緯をまとめておくと、以前このブログでも取り上げたとあるブログの閉鎖問題についての見解の相違から派生したものです。その論点についての議論ははそのブログ主さんのブログをお借りするのが筋と考えて場所をお借りしてきましたが、今回からは論点が別になっているので、当方のブログで展開することにしました。トラックバックという性質上これまでの文体と若干変えてますが、まあご了承を。

#これまでの議論についてはこちら。
知識人の品性とは何だろうか~ある大学教師のブログ「閉鎖」を巡って
知の欠陥を悟れ!~人間を知らなすぎる‘知’の職人たち①~
「知の所有」という僥倖~人間を知らなすぎる‘知’の職人たち②~
「知」の反逆児たちよ!~人間を知らなすぎる‘知’の職人たち③~
「知」の逆鱗に触れる!~人間を知らなすぎる‘知’の職人たち④~
「知」の相対化を目指せ!~人間を知らなすぎる‘知’の職人たち⑤~(当方のコメントはここから)
12日エントリーのコメント欄に応答します
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>shojisatoさん

再度コメント(コメントに答える(2)9月14日コメント)をいただき大変ありがたいのですが、
>私の伝え方の不足を深く省みなければならないかもしれません
とおっしゃるからには多少なりとも私の疑問に対してご説明を補足いただけるかと期待したものの、世の中それほど甘くはないのですね。仕方がないのでこの点は諦めるとして、ブログ閉鎖問題からだいぶ論点が移行しており、こちらから場外乱闘を仕掛ける形になってしまい大変恐縮ですが、政策の理論的裏付けについてのみ再論させていただきます。

まず前回の「人道的」という言葉は、あくまで当方の見解を整理するために「たとえば」という注釈つきで事例をお示ししたに過ぎませんので、今回の議論の文脈とはいったん切り離してお考えください。shojisatoさんからお示しいただいた畠山先生の著述については毎度不勉強ながら未読ではありますが、ネットでの書評などを漁る限り、マイケル・リプスキーの1980年の著作(日本語訳は田尾雅夫、北大路信郷訳『行政サービスのディレンマ―ストリート・レベル の官僚制』(木鐸社、1986年))によって「ストリートレベルの官僚」という言葉で定式化された問題を日本の官僚組織に沿って検証されたもののようですね。時間がとれず畠山先生の著述に当たることができないので間違っていたらご指摘いただきたいのですが、「ストリートレベルの官僚」について認識しているかとの問いであれば、行政学の標準的な教科書に載ってる言葉でもあり、何より私自身そうですので、そういった論点は一応意識しながら議論しております。

shojisatoさんの論調から推測するに「理論」という言葉のために「身体性を無視した」冷徹な政策を志向するような誤解を生じたようなので、これを当初使用した「正当性・妥当性の検証」という言葉に言い直すと私の立場をご理解いただけるのではないかと。つまり、「ストリートレベルの官僚」問題と政策の正当性・妥当性の検証(これが私のいう「理論」です)の関係については、こちらの論説(ここでは「政策形成の客観性」という言葉が使われてますが)にもあるように、それらは互いに牽制しあう弁護士と裁判官のような関係であり、現実の政策の根拠がどちらからに偏るべきではなく、そうならないような組織的・制度的インフラや人的資源の整備が必要です。このような両者がバランスを失していることを批判されるというのならおっしゃることも理解できるのですが、どうやらどちらも「人間を知らない」というような(疑問にお答えいただけないので私には未だその個別具体的な根拠が不明な)くくり方で批判されているようなので途方に暮れてしまいます。それぞれ短所長所がある以上、それらを組み合わせて次善の策を採ろうという政策担当者についてそのような一方的な評価をされるというのはあまり公平な態度ではないように思います。

私の拙い意見では認知的不協和を解消できないのでしたら、正当性・妥当性の検証の政策への適用問題について、「公務員の(ための?)社会学」というサイトの「「社会学」なんて使えるの?」という項(ここでは主に「社会科学」という言葉が使われておりますが、学問的知見による裏付けという意味で私の想定する「理論」と同義です)によくまとめられていると思いますので、ご承知かも知れませんが、ご参考にしていただけると幸いです。その項では法学・経済学以外の学問の政策を巡る現状について言及がありますし、別項では「ストリートレベルの官僚」問題も取り上げられていますのでご覧ください

※なお、いうまでもありませんが私もこのサイトの記述に全面的に同意するものではないので、このサイトの記述についての議論はご勘弁ください。とはいえ、「昇進試験」の項の記述の詳細さからするとこのサイトの作成者はかなり公務員の内情に詳しい=役人の立場に近い方のようですので、shojisatoさんからすればやはり異論はあるでしょうけれども。
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コメント
この記事へのコメント
マシナリさん、やっとあなたのブログで再会できましたね。畠山さんの著作の種本があったなど知りませんでしたが、「ストリートレベルの官僚論」というのは、言い得て妙ですね、感心いたしました。マシナリさんが、いまだにご納得いただけていない「人間を知らない」は、「人間が不合理で複雑で未知な存在だ」ということが前提されないで政策論議がなされ、政策決定から政策実施へいたる、官僚という「悲しき存在」について、私はやや抽象度が高い、寓意表現ながら、揶揄を込めて「人間を知らない」と申し上げたのです。それは、当初、日本の知識人(例えば、稲葉振一郎など)の諸発言や振る舞いに端的に現われている、それを本田由紀さんのブログ閉鎖問題をひとつの典型例として取り上げたわけです。政策のフイ-ジビリティなどとマシナリさんはおっしゃいますが、ではあの80年代後半の「バブル」は、経済学者や評論家という日本の知識人のどなたが警鐘を鳴らしておられましたか?あるいは、当時の官僚やお役人は、どういうお立場でいらっしゃったでしょうか?そういう将来予測における不確定要素に対して、どれほど謙虚に対峙していたっしゃるとでもおっしゃるのでしょうか?理論が先行きに対して有する脆弱性は、そういう歴史経験でわれわれは大きな犠牲を払ってきているではないですか。私は、無知で蒙昧な市井人が、自分たちの身近な生活の中で素朴に抱く疑問の数々に、日常生活で接遇するお役人の方々は、何を基本に立ち会っていらっしゃるでしょか?やはり、統計とかルールとか、理論とかでしょうね、きっと。それが、人間を知らないという言葉で言い表せる内実なんだろうと私は思っています。そして、お役人は、事柄を隠すんです。機密保持という名目だったり、権力の恣意性だったり、それらは、実に判別が難しい。それを紐解くのが、実は知識人の大きな役割のひとつなんです。今朝、ワイドショウで、消費者金融に詳しい宇都宮弁護士がこういう驚くべき背景を説明していました。例のグレーゾンの金利の話ですが、上位21社のうち、アメリカからの資金援助(米ファンド)による会社が2社あり、そういう関係から在日米大使館を通して金融庁へ圧力がかかったという仕組みらしいのです。問題は、そういう事実の公表です。私はむろん素人だから知りもしませんし、ジャーナリストの鳥越俊太郎も、そんなこと全く知らなかったと告白していました。ポイントは、そこです。例の本田由紀ブログ閉鎖問題で活躍した元官僚は、そういう問題は当然専門家だから知っていたでしょう。問題はそこです。知っていることを、公表しない知識人っていうのは、どういう存在か、と。ね。官僚もそういう観点でも批判がやはり必要だというのが私の基本スタンスにあったということをぜひご理解いただきたいのです。
2006/09/20(水) 11:08:55 | URL | shojisato #00ItApiY[ 編集]
>shojisatoさん
当ブログをご高覧いただきありがとうございます。

>「人間が不合理で複雑で未知な存在だ」ということが前提されないで政策論議がなされ、政策決定から政策実施へいたる、官僚という「悲しき存在」
とのコメントでshojisatoさんの問題意識を追うことができました。おっしゃるとおり官僚とは、理論による裏付けのない政策については、どれほど心情的にシンパシーを抱こうとも実施できない「悲しき存在」です。しかしこれは、「人間が不合理で複雑で未知な存在」であることを前提としないことの結果というよりは、むしろそうであるからこそ、多様な利害関係を有する万人に共通する、最大公約数としての理論的裏付けに頼らざるを得ないと帰結するというのが私の考えですので、紙一重のところで認識が行き違っていたように思います。そう遠くない認識から出発したのに対処方針のところで正反対に向かってしまうというのも不思議なものですね。


その他の点について。
バブルについてはリフレ派の方々が当時の経済情勢とそれを巡る政治情勢、さらには「バブル潰し」に致命的な失敗を犯した日銀の政策について、「経済学の理論に則って」説明された著作が多数ありますので、そちらでお考えを整理されることをおすすめします(一つあげるとするなら、若干誤解されがちな体裁で記述が古くなっているところもありますが、田中秀臣・野口旭・若田部正澄『エコノミストミシュラン』(2003、太田出版)をお読みになれば、バブルから現在に至る政策状況やそれを巡る経済論壇の混乱ぶりの原因がおわかりになるかと)。

またグレーゾーン金利については、要望書自体はWebで公開されていることですし、それに基づく圧力の存在が事実であるかどうかはっきりしない時点で「官僚が隠している」と断じてしまうのは早計ではないかと。特に「圧力」というもののデリケートな面を考えると、「圧力」の存在やその内容を公表するのかどうかは優れて政治的な判断が必要な部分であり、それを官僚が率先して行わないのはむしろ政治と行政の役割分担という面からいえば特に非難されるものではないだろうと思います(真偽がはっきりしないことについて責任論を展開しても有益ではありませんし、むしろ、こういった情報をマスコミがリークするならともかく弁護士がテレビで公表するということの方が、正義感からのものとしても軽率な行動という誹りは免れないのではないかという気もするところですが)。

これを題材にするなら、たとえ心情的には「はっきりアメリカの圧力を説明できれば方が金融庁もラクだろうに」と同情しても、理論的に上記のように政治と行政の役割分担を考えるならそうも言えないというところですね。悲しいですなあ。
2006/09/21(木) 02:14:11 | URL | マシナリ #-[ 編集]
「人間を知らない」お役人という意味を、マシナリさんは、いかにも「お役人ふうに」、「多様な利害関係を有する万人に共通する最大公約」と、(お役人らしい)いつもの常套句である口調で答えていらっしゃいましたね。それをごく通常では、慇懃無礼と申しますが、「万人に共通する」という認識は、どの個別の人々にも当てはまらない、という厳しい現実があるということを、例えば、「生活保護」の個別取り扱いなどに現われていますから、それこそ「万人」はよく「身体論的に」痛いほどわかっています。分かっていないのは、そういう身体論を有する無垢で純朴なる一般国民を、相も変わらず知らない(か、知ろうともしないでというべきか)で公務に従事する「お役人」のリアルな姿こそ、今は渦中にあるわけです。

 「バブルに関する」ご返答は、マシナリさんが私のブログで、当のエントリーを凌駕するほど熱烈に迫ったあれほどのエネルギーをお使いになられていないようですね。ご紹介いただいた類の書籍は、私は求めていないのですよ。学者は「終わったことをあれこれ詮索して、整理するのが仕事」ですが、政策現場の人々は、「今」と「その先行き」に責任を有する存在でしょう。そういうときに、当時の知的表現者の種々の意見が、奈辺にあり、どういう点が問題なのかを、進行中の課題として把握する責務があったのではないでしょうか。それを怠った責任に頬かむりして、「理論に基づいて」云々いわれても、結局責任を取れもしないのに、日々の業務では、一般国民に「理論に基づいて」画一的に対応する。これこそが、「(人間を知らない)お役人の真実」だと、再三、私は自分のブログや他のコメントでそういう「官僚」観を前提に論じてきていたわけです。

 さらに、「事実を隠す」ことに対して、あなたが公表した弁護士を非難する立ち居地に付いてしまうとは、一体、かつての厚生省役人とどこがどう違うというのでしょうね。大きな失望です。菅直人が大臣になりやっと、「公表が可能となった」ことを、あなたは「公表した大臣が問題」とでも、いいかねないところですね。そういう問題意識は、一体、どこから生じてくるのか、あなたご自身の成育過程からだとは申しませんが、お役人を目指して、その後に、そういう環境の中から生じてきたのか、関心を抱く若い学究にでも探索してほしいところです。
 私の「お役人」観は、マシナリさん、あなたの疑問点「人間を知らない」の解読からお付き合いさせていただいたのですが、結局は、残念ながら実りがないまま、私の「失望」でこのキャッチボールは萎んでしまいました。この件、「スルー」で結構ですから。
ながながとお付き合い下さってありがとうございました。
2006/09/21(木) 10:24:09 | URL | shojisato #00ItApiY[ 編集]
>shojisatoさん
政策の現場はshojisatoさんの考えるほどピュアではないということをお示ししようとしているものの、逆に認知的不協和は増大する一方のようです。このコメントをお読みいただいているかはもはや不明ですが、ご認識の誤りについては指摘させていただきます。という次第ですので、この件はスルーしていただいて結構です。

今回のコメントで判明しましたが、shojisatoさんは政治と行政の区別が(意図的にかも知れませんが)できていらっしゃらないのですね。この点に思いが至らず指摘しなかったこちらにも落ち度はありますが、政策に関する意志決定は官僚のみが行うのではなく、法律や条令、税金などの制度の大枠は政治が司る議会によって決められるという民主主義の根幹に立ち返りましょう。恐らくこういえば「実質的には官僚が法案も制度も作って運用しているじゃないか」との反論をいただくでしょうが、政策の現場はそんなに単純ではありません。官僚が作った法案が与党根回しで原形をとどめなくなることなんて日常茶飯事ですし、地方自治体においては地元の国、都道府県、市町村のあらゆる議員にとどまらず、市民団体や個人に至るまで政策形成や執行の現場に口を出してきます。そこにはもちろん、たとえば社会的弱者の方々の意見を代弁するものもあれば、土建屋の利益誘導のためのものもあれば、特定の思想からのものもあります(こういえば簡単ですが、これらはすべて表向きは善意の衣をまとってやってくるので判別はそう簡単ではありません。社会的弱者かと思いきやその背後に利権を得る勢力があったり、慈善団体と思いきや特定の思想に基づくものだったりします)。政治側はどうかわかりませんが、(上記のような情報の非対称性もあり)少なくとも行政側の段階では当然ながらそのようなすべての申し出に誠実に対応しなければならず、その上で特定の層に有利になったり不利になったりしないよう政策を形成し運用しなければならないのです。そのときに「身体性」というような個人の資質に左右されうる基準に頼るよりは、理論に頼る方が公平ではないでしょうか。何度も申し上げているように、聖人君子でもない自分の(もっといえば飲酒運転で悲惨な事故を引き起こすような人間が少なからずいる役人の)身体性なぞに頼ることのできない「悲しき存在」である役人にできることといったら、せいぜい理論で裏付けることに限定されてしまうのです。

また、shojisatoさんから圧力問題を例示されたのでその件について見解を示したに過ぎないのに、それをもって事実を隠す役人像にまで拡大され、さらに私ごとき小役人に失望される(まあそれはいいですけど)のはいくらなんでも早合点ですね。私はグレーゾーン金利についてのアメリカの圧力という個別の問題について、それが事実かまだわからない現段階(shojisatoさんが事実であるという確実な裏をお持ちならば話は別ですが)で官僚が公表しないことの責任を問うても意味はなく、さらに事実であったとしてもそれは外交を含めた高度に政治的な判断を要するので、官僚が率先して公表するのは行きすぎであり、政治が判断すべきという趣旨で発言しております。したがって、圧力の事実がありそれを公表すべきと政治が判断するなら、それは政治の責任として当然の行為なので、
>あなたは「公表した大臣が問題」とでも、いいかねないところですね。
ということとは全く逆になりますよ。

一応補足するならば、アメリカの圧力というような外交問題と厚労省の内部資料の隠蔽では官僚の責務は全く違いますので、同列には扱えないと思います。国民の代表である政治家をさしおいて官僚が何でも決めるべきとでもいうのでなければ、この点はご賛同いただけるのではないでしょうか。そもそも前回も指摘したとおりアメリカの要望書はアメリカ大使館のサイトで公表されており、その公表の義務を日本政府が負うわけもありませんが、それとは別の問題としてアメリカからの圧力が事実であり、外交上も日本にとって有益であると政治が判断すればそれを公表すべきでしょう。これを一般化すれば「事実を隠蔽する官僚の体質」というより「公表すればラクになることも公表できない立場の官僚に責任を押しつける政治」という関係で捉え直すことも可能になると思います。全くの推測になりますが、もしかしたら金融庁としてはアメリカを含め各種業界の圧力に屈しないよう理論で対抗したものの、政治の側からその圧力に対応するよう指示があり、その意を汲んでやむをえず作成されたのが改正案であるならば、金融庁の官僚のみを責めるのは的はずれかも知れません。まあ仮定の話はともかく、そういった圧力を公開しようとしない政治の判断のために悪者役を引き受けるざるを得ないというのは役人の性ですけど、役人憎しで役人を叩けば片づけられるほど話は単純ではないということをご理解ください。

バブルについては、エネルギーがないというよりそれを扱うことは単純に私の能力を超えるので専門家の書をお読みになることをおすすめする次第です。その専門家のいうことがどれほど信頼でき、それによって官僚の責任がどう問われるかという問題については、おっしゃるような「理論が先行きに対して有する脆弱性」は実は理論そのものに内在するというよりも外部的に歪められていたと私は理解しておりますが、恐れ入りますがshojisatoさんご自身でご判断いただくしかないかと。

ついでに、
>当時の知的表現者の種々の意見が、奈辺にあり、どういう点が問題なのかを、進行中の課題として把握する責務があったのではないでしょうか。それを怠った責任に頬かむりして、「理論に基づいて」云々いわれても、結局責任を取れもしないのに
というのは、バブルの件に限定しないなら私の申し上げていることそのままですよ。それを怠らないようにするべきだとの私の主張は身体性を無視して人間を知らないことになるとのことですし、やはりshojisatoさんのお考えを理解しようにも途方に暮れるしかなさそうです。

責任をとらなくていいなら、理論なんてしちめんどくさいものなんか考えずに自分の身体性を頼りに住民の身体性をすくい上げるように事務を執行すればいいのでラクですね。それで問題が起きたとしても「理論や制度がどうあれ、私の目の前にある身体性を救うためにやりました」と抗弁することが許されるわけですから。それで済むなら役人としてもありがたいんですけど、国と地方を合わせて約500万人の公務員すべてがそういいだしたら住民の側も役人が同行どうするか予想できなくなり、恣意的な執行を引き出そうとして収集つかなくなりますね。shojisatoさんはどうやって解決されるおつもりでしょう?

そのような途方もない問題に解決の糸口さえお示しいただけないような主張をされるshojisatoさんの姿勢は、僭越ながら一番はじめのコメントで申し上げたとおり、人間を知るというご自身の信条に固執するあまり現実に対して無責任になってはいませんか?役人については個々の政策を無視した一般論で、生活保護などの個別の事務には理論を度外視した身体性でもって批判するという使い分けも恣意的ですので、それらを統一して論じるだけの客観的な視点をお持ちになるとより望ましいのではないかと愚考します。
2006/09/22(金) 01:07:06 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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