2011年07月19日 (火) | Edit |
震災から1か月程度を経過したころからでしょうか、多くの有名人やアーティスト、伝統芸能などの方々が現地に入って、炊き出しをしたり歌などのパフォーマンスをしたりしています。全国の皆さんの善意とご厚意には心から感謝を申し上げる次第です。私自身も、気分が落ち込んだときに聴く曲が決まっていたり、ある曲を聴けばその当時の想い出が鮮明によみがえるということがあります。第一線で活躍されるアーティストのパフォーマンスを間近で見ることで、被災された方々にも大きな感動と勇気がわいてくることを願ってやみません。

そして、こうしたアーティストと並べるのは無理があるかもしれませんが、今日のなでしこジャパンの女子サッカー世界一というニュースには、私も朝から涙が出るほど感動してしまいました(といいながら、私もご多分に漏れず選手名も知らない「にわかファン」ではありますが)。もちろん、世界一ということそのものが嬉しいのはいうまでもありませんが、震災後の落ち込んだ状況の中で日本人が失いかけていた誇りと希望を、被災された方のみならず、全国の皆さんが取り戻すきっかけになればいいなと思います。

これまで、拙ブログでは、主要な関心事の雇用を中心に被災地の状況と課題について書いてきましたが、震災後4か月以上が経過して、こうした精神面でのケアが重要な局面に入ってきていると感じています。特に、遅々として進まないがれき撤去のために、企業が被災地での再建を諦めて内陸部に移転したりと、復興しようにもその基盤となる土地の整備すらままならない現状では、企業のみならず雇用される側にも倦怠感が漂っているように思います。

震災当時は例年より長引く寒さに凍えていた被災地も、腐敗した水産加工物やヘドロのために蠅が大量発生していたり、例年より10日以上早く梅雨が明けてしまい、連日の真夏日で熱中症対策が課題になっていて、震災から4か月という時間の重みを感じてしまいます。それだけの期間が経過しながら、土地の整備はおろかがれきがほとんどそのまま残っていて、そのがれきを撤去する毎日では気が滅入るのも当然です。このことはhahnela03さんが4月の段階で指摘されていたことですが、

 ただ、市の対応が、新卒者や既卒者に「がれき撤去」の仕事があるからと引き留めている話があったことには、疑念がのこった。瓦礫撤去作業は精神的に辛いのだ。将来がある人たちを毎日あの現実に向き合わせ良いものなのだろうか。社員の中にも精神的ダメージを受けている話を聞くにつけ、震災前との業務と組み合わせることが必要なのだろう。平常の発注と停止していた業務を再開しないと、精神的軋轢の対立が現場でおきるだろう
 自分が今居るところは、震災前と変わらない風景で、震災があったことが本当かわからなくなることがある。それでも一週間に一度、帰宅するさいにみる手付かずのあの光景が目に入ると胸が締め付けられる

津波被災の記録18(2011-04-27)」(hahnela03の日記


私もこの3連休で被災地の現場(おそらくhahnela03さんの近辺も入っていると思いますが)を見る機会があったのですが、がれきの撤去が比較的進んでいるように見えるところでも、単にがれきを数メートルの高さの山にしただけだったり、がれきは撤去されているけど基礎はそのままというのが実態です。がれきの撤去が進まないところでは、道路のアスファルトがはがれたままだったり、側溝ふたが流されて脱輪しないように注意して通行しなければならないなど、がれきの撤去そのものの作業が危険と隣り合わせというところも多いようです。こうした状況からすれば、まずは公共事業によってがれきを撤去して社会的インフラを復旧することが先決だろうと思います。

一方で、このような状態であっても、日本型雇用慣行を前提とした貧弱な社会保障制度の下では生活の糧として仕事をしなければなりませんので、日本型雇用慣行では必ずしも社会保障制度の網がかからない非正規雇用(緊急雇用創出事業)で短期的に雇用をつなぐということになります。こうして、企業活動の基盤がないのに雇用を創出しなければならないという矛盾を押しつけられるのが被災自治体であって、それを支援している立場からすれば、現政権がマニフェストで掲げた「コンクリートから人へ」というスローガンが、もっとも「人」にとって酷なものなのではないかという違和感を禁じ得ないところです。

もう一つ、冒頭であんなことを書いておきながらではありますが、現地から離れたところで日常的に支援事業を担当している身からすると、有名人やアーティスト(と称する方)による炊き出しやパフォーマンスに何ともいえない違和感を覚えることもあります。テレビでしか見たことのないパフォーマンスを間近に見るという「非日常」の体験が、先行きの見えない日常に対する不安を緩和してくれることには異論がないのですが、率直に言ってパフォーマンスする側の自己満足ではないかというものも散見されます。自己満足といっても2種類あって、一つは「この俺(私)のパフォーマンスを見てほしい」という自己顕示欲のようなものと、もう一つは「俺(私)のやっていることは正しいor俺(私)がやりたいからやる」という「自己反省の欠如」とでもいうべきものです。

前者の典型は、聴いたこともないアーティストが避難所などに(言葉は不適切かもしれませんが実態として)押しかけて、誰も興味のないパフォーマンスを披露するようなパターンです。実は、このパターンは単なる「自己満足」で片付けられますので、実害は余りありません。無視すればいいだけです。

しかし、後者のパターンは多方面に実害を及ぼすことがあります。炊き出しが典型的ですが、震災直後の緊急時ならともかく、復旧・復興に本格的に取り組まなければならない現時点で、避難所や仮設住宅で炊き出しをしてしまうと、再建しようとしている小売店や飲食店の売り上げを奪ってしまいます。同じ理屈は物資の支援にもあてはまります。もちろん、収入や移動手段がなくて食料品や日常必需品を購入できない方に対する支給は継続しなければなりませんが、そのためには生活保護のようなミーンズテストを課さなければ「公平性」が保てなくなりますので、役所またはNPOなどの専門の機関が行うべきでしょう。

さらに、定期的に無償で食料が提供されることが予想されると、被災された方の「生活のために働く」というインセンティブが損なわれてしまう可能性があります。北欧などの高福祉国家で課題となっている「アクティベーション」の問題が被災地で発生してしまうわけですから、労働市場での移動を円滑にする「フレクシキュリティ」のシステムもない現状では、当面はそれを防ぐ必要があると思います。

そして、アーティストによるパフォーマンスや有名人による炊き出しは、被災者に「非日常」を強く意識させることで、かえって「日常」への不満を募らせるおそれもあります。中には、そうした「非日常」を体験することで「日常」のつらさを和らげられる方もいらっしゃるでしょうが、いくら有名人が現地に入ってパフォーマンスなどの活動をしても、仕事も収入もないという現実は変わりません。テレビで取り上げられるような「再建に向けて一心不乱に取り組んでいる」方はごく一部です。多くの方は目の前の「日常」に押しつぶされそうになりながら、それでも必死に生きているというのが実態だと思います。普通の生活では想像もつかないような「非日常」ではない中途半端な「非日常」は、そうした「日常」をより鮮明に浮き上がらせるという点で危ういものではないかと愚考するところです。

まあその典型が、被災地に頻繁に出入りする政府要人でもあるわけですが。。。
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