2011年03月04日 (金) | Edit |
一部で某脱藩官僚の方が某新興宗教の雑誌に記事を投稿された件が盛り上がっているようですが、計ったようなタイミングでその某脱藩官僚の方がブレーンを務めているとされるみんなの党の予算案が公表されたとの由。

高橋洋一氏@幸福の科学(高橋洋一氏@幸福の科学)」(hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
みんなの党の緊縮財政予算案(2011-02-25)」(dongfang99の日記
みんなの党の予算w案(2011-03-01)」(what_a_dudeの日記
HALTANの日記」さんの一連のエントリ(数日後には伏せ字になるようですので、引用は控えます)

これらのエントリを拝見して、ケインズの言葉が深く身にしみたので抜粋しておきます。リフレーション政策を支持される方々(私自身その端くれだとは認識しております)が、これらを読み比べてみてどのような感想を持たれるのか大変興味があります。

 過去何年かの経験を考えれば、賢明な人なら財務相や中央銀行から独立した価値の基準を望むのが当然である。現状では、さまざまな機会に、無知で軽薄な政治家が経済の分野で破壊的な結果をもららしうるようになっている。一般的な見方では、政治家や中央銀行家は経済と金融に関する教育水準が全般に低いので、通貨制度の革新が実現でき、安全であるとはとても思えないとされている。為替相場を安定させるべきだとする主張は、財務相の手足を縛ることを主な目的にしているほどである。
 確かに、過去何年かの実績を見れば、ためらう理由は十分にある。しかし、そのときに根拠になっている実績は、政治家や中央銀行の能力を判断する材料にするには、公正だといえるものではない。これまで何年か、金や銀に基づかない本位制度がとられてきたのは、科学的な実験を冷静に行うためではまったくなかった。戦争かインフレ課税の結果、最後の手段としてやむなく採用されたのであり、その背景には財政が破綻していたか、状況が手に負えなくなっていたという事情があった。したがって当然ながら、悲惨な状況の伴奏曲であり、前奏曲だったのである。この実績に基づいても、正常な状態で何が達成できるのかを議論することはできない。わたしの見方では、社会にとっての重要性がもっとも低いもののこれまで達成できてきた各種の目標と比較して、価値の基準の管理がその性格上、もっと難しいと考える理由は見あたらない。
pp.107-108

ケインズ 説得論集ケインズ 説得論集
(2010/04/21)
J・M・ケインズ

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※ 以下、強調は引用者による。


先進国の中でもずば抜けて対GDP比の公債残高の高い日本においては、どんなに優秀な政治家でも中央銀行家でも執りうる手段は限られてきます。いやもちろん、そうした状況に到ったのが政治家や中央銀行家の自業自得なら、ざまみろというだけの話ですが、いうまでもなくそうした社会福祉国家の恩恵を受けて経済活動を行っているのが現代社会である以上、アフォな政治家や中央銀行家だけの責任では済まないわけですね。

ところが、そうした利害関係を度外視して効率性やら経済成長やらにのみ議論が集中してしまうと、公平性というかなり重要なポイントが華麗にスルーされる結果となります。

 現在の状況で、炭鉱の所有者は生計費の動向にかかわらず賃金を引き下げて問題を解決するよう提案している。つまり、炭鉱労働者の生活水準を引き下げるよう提案しているわけだ。炭鉱労働者は、自分たちには何の責任もなく、管理のしようのない状況に対応するために、犠牲を払うよう求められている。
 これが誰の目にも合理的な提案だと思えるのだから、イギリスの経済運営の方法には重大な欠陥があるといえる。もっとも炭鉱所有者が損失を被るべきだというのも、リスクを負うのは資本家だという原則のもとでそう主張する場合を除けば、やはり同じように非合理的である。炭鉱所有者が自由に他の産業に事業を転換できるのであれば、そして炭鉱労働者が失業するか賃金が低すぎる場合に、パン職人や煉瓦工や鉄道駅の赤帽として働くことにし、これら産業でいま働いている人より安い賃金を受け入れて職を確保できるのであれば、事情は違う。だが周知のように、そうはなっていない。過去に起こった経済変化の犠牲者がそうであったように、炭鉱労働者は飢え死にするか屈服するかの選択を迫られているのであり、屈服すれば、他の階級がその成果を獲得するのである。しかし、産業間で実質的な労働移動がなくなり、産業間の競争で賃金水準が決まる状況ではなくなったという点を考えれば、炭鉱労働者がある意味で祖父の世代より悪い状況におかれていないとは、断言できないように思う。
 炭鉱労働者はなぜ、他の産業の労働者より低い生活背水準に甘んじなければならないのか。炭鉱労働者が怠惰で、役立たずであり、しっかりと働いていないし、労働時間も短すぎるのかもしれない。だが、他の人たちとくらべて、怠惰で役立たずだといえる証拠がはたしてあるだろうか
ケインズ『同上』pp.136-137


十分な証拠もなくゾンビ企業をつぶせとか、ロクな仕事もしないコームインなんぞの給料は下げてしまえという言論が世の中の支持を集めて、それが誰の目にも合理的な提案だと思われてしまう社会には、確かに重大な欠陥があるのでしょう。ところが、合理的な提案だと思われてしまう社会というのは、それが道徳的にもかなっているとの信念があるからこそ成り立つものであるわけで、公平性が損なわれると社会全体の損失になりますよという合理的な説明はもはや通じなくなってしまうのかもしれません。

 イギリスの道徳的なエネルギーがいま、間違った方向に向けられている。現在ぶつかっている問題の真の性格を分析することに頭を使って、もっとしっかりした結論を得なければ、深刻な事態になるだろう。
 国も地方も個人も、「節約」という考えだけに固執しており、支出の削減という後ろ向きの行動にこだわっている。生産活動を刺激し、稼働させている支出を減らそうというのだ。義務感にかられて節約が極端になれば、その影響が大きくなり、イギリスの社会制度全体を揺るがすほどになりかねない。
(略)
 失業者がこれほど増え、あらゆる種類の資源がこれほど大量に遊休状態になっているなかで、国全体の観点で節約が有益だといえるのは、輸入品の消費を減らす部分だけである。それ以外の部分は、失業、企業の損失、貯蓄の減少の形でまったく無駄になる。しかし、輸入を減らす方法としては、節約は異例なほど間接的で無駄が多い。
 労働者を失業させ、政府職員の所得を減らして、直接、間接に影響を受けた人たちがこれまでと同じように輸入品を買うことができないようにすれば、輸入が減少した分、イギリスの国際収支の問題は緩和する。しかしその幅が、節約の総額の20パーセントを超えることはないだろう。残りの80パーセントは無駄になり、イギリス国民が他人からものやサービスを買うのを拒否したために起こる損失の転化か失業の形であらわれることになる
 以上に述べた点はまったく確かなのだが、節約を声高に求める人のなかに、自分たちの主張が実際にもたらす結果をわずかでも理解している人が百万人に一人いるかどうかは疑問だと思う。

ケインズ『同上』pp.154-156


冒頭で引き合いに出したみんなの党の緊縮財政予算案を支持する人がいたら、自分たちの主張が実際にもたらす結果をわずかにでも理解している人ではないのでしょうね。

『ケインズ説得論集』では、「自由放任の終わり」という章で、こうした考え方が世に広まる原因を作ったのは、功利主義華やかなりしころに、それを「わかりやすく」理解しようとした政治哲学者だと指摘されています。

 以上で語ってきたのは、18世紀の哲学思想の発展と啓示宗教のの衰退から利己主義と社会主義の矛盾が生まれたが、経済学者が科学的な装いの理屈を示したために、実務家がこの矛盾を解決できたということである。しかし、そう論じたのは簡潔にするためであって、ここで但し書きを加えておかなければならない。これは、経済学者が論じたとされていることである。偉大な経済学者の著書には、そのような教義は書かれていない。偉大な学説を平易に解説して通俗化した著者が論じた見方である(1)。功利主義者がヒュームの利己主義とベンサムの平等主義を同時に認めて、両者を総合しようとしたとすれば、信じるようになったとみられる見方でる。経済学者が使った言葉は、自由放任を主張したと解釈できるものだった。しかし、この見方が普及したのは、経済学者ではなく、この見方を受け入れやすかった政治哲学者のためだというべきである。

(注1)レズリー・スティーブンソンが要約したつぎのコールリッジの見方に共鳴できるはずである。「功利主義者は、社会の結束のあらゆる要素を破壊し、社会を利己主義がぶつかりあう場にし、秩序や愛国心、詩歌、宗教のすべての基礎を攻撃した」

ケインズ『同上』pp.178-179


まあ、拙ブログでも政治学者の話には眉につばをつけて聞くようにしておりまして、ケインズのこの指摘はまさに我が意を得たりというところです。さらにケインズは、返す刀で二流の経済学者をばっさり斬り捨てます。

 その後、自由貿易を求める政治運動や、急進的な自由貿易主義を主張したマンチェスター学派の影響、ベンサム派功利主義者の影響、二流の経済学者の主張、ハリエット・マーティノーとジェーン・マーセットの啓蒙書によって、政党的な経済学から学べる実践的な結論として、自由放任が人びとの見方に定着するようになった。もっとも大きな違いが一つあり、人口に関するマルサスの見方がその間に同じ論者に受け入れられるようになっていたため、18世紀後半の楽観的な自由放任主義は、19世紀前半には悲観的な自由放任主義に変化していた。
ケインズ『同上』p.182


この行を読んで、リフレ派と呼ばれる方々の中の一部の経済学者の顔が浮かんだのは私だけでしょうか。

 こうしてみていくと、すでに触れた経済的な自由放任とダーウィン主義の関係が、ハーバート・スペンサーが真っ先に指摘したように、じつのところ、きわめて密接であることが分かる。ダーウィンは性愛が性選択を通じて競争による自然淘汰を助け、進化が望ましいうえに効率的な方向に向かうことになると論じたが、個人主義者は金銭愛が利益追求を通じて自然淘汰を助け、交換価値でみてとくに望ましいものが最大限の規模で生産されるようになると論じているのである。
 この理論はきわめて美しく、単純明快であるため、ありのままの事実に基づいているわけではなく、単純化のために導入された不完全な仮説に基づいている点が忘れられやすい。
(略)
経済学者は、後に現実を分析する際にこれら要因を導入すればいいと考え、当初はこれらの要因がないと想定して分析していく、それだけでなく、この単純な仮説が現実を生活にとらえたものでないと認識している経済学者でも、これが「自然」であり、したがって理想的な状態だと考えていることが多い。つまり、単純化した仮説が健全なのであり、複雑な現実は病的だとみているのである。
 以上で取り上げたのは事実の問題だが、それ以外に、よく知られた点として、競争のコストと性格、富がとくに必要とされているわけではないところに集中する傾向も考慮にいれるべきである。キリンの厚生を心から気に掛けているのであれば、首が短いキリンが飢えに苦しんでいること、美味しい葉がキリン同士の戦いで地面におちて踏みつけられていること、首の長いキリンが食べ過ぎになっていること、本来は穏やかなキリンの顔が不安や貪欲な闘争心で歪んでいることを見逃すわけにいかない

ケインズ『同上』pp.188-190


「若者世代は搾取されている」でも「既得権益をぶっ壊せ」でも「官から民へ」でも「地方にできることは地方に」でも「霞ヶ関解体でチホーブンケン、チーキシュケン」何でもいいんですが、これらの主張には、首の長いキリンが葉を食べられるのは競争に勝ったからだという単純な世界観が通底しているように思いますね。人間社会よりも野生動物の生態系に合理性を見いだすというのも、道徳的なエネルギーが間違った方向に進んでいる証ではないでしょうか。そんなケインズは、こんな言葉を残しています。

 しかし何よりも、経済的な問題の重要性を過大評価しないようにし、経済的な問題の解決に必要だとされる点のために、もっと重要でもっと恒久的な事項を犠牲にしないようにしようではないか。経済は、たとえば歯学と同じように、専門家に任せておけばいい問題なのだ。経済学者が、歯科医と同じように、謙虚で有能な専門家だと思われるようにすることができれば、素晴らしいことである。

ケインズ『同上』pp.219-220


dongfang99さんも指摘されてましたが、けだし名言ですね。

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コメント
この記事へのコメント
とある方からhimaginaryさんのところで、本エントリと同じようにケインズの言葉を引用したエントリがあるとご紹介いただきました。

ケインズから現代経済学へのメッセージ?(2010-10-25)
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20101025/from_keynes_to_candide
確かに拝読してはいたのですが、斉藤誠先生と飯田泰之先生とどちらのどの辺を指摘されいているのかよく分からないというのがそのときの印象でした。

まあ、双方にあてはまるのがケインズの批判なのだろうとは思います。もしかすると、新古典派統合以降のアメリカ・ケインジアンが、都合良くケインズを解釈してしまっていることが問題の根源にあるのかもしれません。
2011/03/06(日) 14:22:40 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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