2011年02月20日 (日) | Edit |
故あって職業能力開発関連の文献をいろいろとサルベージ中なのですが、ふと手にした広田先生の近著がとてつもなくおもしろいので感想など。
教育論議の作法―教育の日常を懐疑的に読み解く教育論議の作法―教育の日常を懐疑的に読み解く
(2011/01)
広田 照幸

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まあ、もちろん、hamachan先生のところで「まことに「まっとう」な本」とご紹介されていたり、黒川さんのところで「痛快」と評されていたりというのを拝見していたから手に取ったわけですが、チホーブンケンやらチーキシュケンに疑問を呈し続けている拙ブログの立場からしても「まっとう」かつ「痛快」な書ですね。

というような立場から本書のポイントをピックアップすれば、PCDAサイクルと地方分権の2点についての指摘がとても共感できる内容となっていると思います。これらに共通する特徴というのが「誰も反論できない正論でありながら、その内実があまりにも空虚」ということになると思います。拙ブログでは、チホーブンケン絡みのおかしな議論はカテゴリを置いてクドクドとぼやいておりますが、PCDAサイクルについてあまり取り上げたことがありませんでした。ただ単に私が事業評価系の議論に疎いというのがその理由なんですが、というのも、事業評価とか政策評価の分野ってまともな文献がないんですね。費用便益分析の具体的な手法としてなら、ボードマンの有名な古典(?)があったりしますが、
費用・便益分析―公共プロジェクトの評価手法の理論と実践費用・便益分析―公共プロジェクトの評価手法の理論と実践
(2004/12)
アンソニー・E. ボードマン、アイダン・R. ヴァイニング 他

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その計量経済学を用いた手法なんぞが地方自治体レベルの事業評価で顧みられることがあるはずもなく(というより、この大学1年生レベルの訳出はなんとかならんものか)、現場レベルでは大手コンサル(とそのスピンアウト組)によるハンドブック系が幅をきかせる分野となっておりまして、まあ、有り体にいえばコンサルの商売道具なわけです。

というしだいで、詠み人知らずのこちらのサイトの指摘くらいしか、納得のいく議論が見当たらないように個人的には思います。

 コミュニケーション・ツールとなるには、各参加者(現場)が納得する、あるいは、少なくとも納得できる合理性が必要ですが、導入が以上のように急がれると、「合理性」を構築するための手順・時間が省かれがちです。ここで必要な「合理性」は、理論的な一貫性や科学的な権威付けではなしに、当事者双方のコミュニケーションによって、新たにつくりあげられるものです。多くの場合、これは得られませんから、かえってリクツぽさや理論武装が、その欠けた部分を埋めようという話になります。「現場」からはまた、「理論先行」だの「リクツどおりいくもんじゃない」などの反発が生じます。

 しかし、岡目八目的に事態をながめれば、欠けているのは、事態を客観視できるような視点です。上のような話は、すこしでも「組織論」をかじった人であるならば、容易に予想がつくことでしょう。悲劇は、組織の社会心理的な側面をてんでわかってない人たちが「マネジメント」をやっきになって導入しようとしている(しなければならない)ことにあります

事務事業評価は何故うまくいかないのか?」(お役所に関わらなきゃならないすべてのひとのために 公務員の(ための?)社会学

※ 以下、強調は引用者による。

前回エントリとも関連しますが、成果主義とか事業評価をリクツや理論先行で導入してしまうと、それとは違う行動原理でなければ動かない利害関係者やそれに組織で対処してきた現場の労働者に、多大なしわ寄せを生む結果となってしまいます。

3 社会的プレッシャーや組織的慣性が与えるバイアス

(1)バイアス=too highな評価

 組織では無能者であることは耐え難い。事業を自らの手でつぶすことは、その危険がある。当然、各セクションの責任者は、自ら関わる事業の評価を、too highに評価する傾向がある。これは先に述べたように、「評価者」が評価を「割り引く」ことを常態化させる。これは「評価」への信頼を提言(ママ)させる。自然な評価への態度が引き金となって、評価システムへの腐食的な信頼低下が悪循環的に進行する。

(2)押しつけとコミットメント欠如の悪循環

 リクツ・理論先行との反応が広範に起こっている。リクツ+財政状況+権力で、押しつぶさざるを得ない。評価システムや評価によるマネジメントへのコミットメントはそのためにあまり期待できない。すると、ますます権力的なトップダウンが必要となり、これは麻薬的悪循環に陥っている。 当初は「評価」そのものへの抵抗があり、それを抑えても抵抗はより潜在化する(そして予想がより難しいものになる)。

(3)既存の組織文化からの乖離

 これはインフォーマルに/毛細血管的にひろがり、日常的な業務遂行及びスキル移転(トレーニング)などを支えていた、インフォーマルで普遍的な組織インフラを損ねるかもしれない。つまりこうした組織文化は、a)身につけることで「一人前」となり、b)それ故に身につけようとする意欲を未修得者にもわかせるものだった(だからこそ自動的に「学習」され、また未学習者のサンクションにより「学習」の機会と態度が強化され、組織の持続=再生産に寄与してきた。理論先行の、新しいマネジメント手法は、こうした組織文化へのリスペクトを低下させる(新しいマネジメント手法は組織変革を目的とするので、これは当然のことである)。しかし新しいマネジメント手法は、これら組織文化が果たしてきたものを、代替できる訳ではない。

同上

こうした現場の組織文化を破壊する強力な武器がPDCAサイクルというやつでして、広田先生はこう指摘されます。

チーム労働としての教職

 日本の教員の仕事は意外なほどチームで行われる労働です。教育以外の分野の研究者と議論して、なかなか理解してもらえないのは、この点です。政治学の専門家でも経済学の専門家でも、自分が受けてきた教育を思い出すとき、教壇に立つ授業中の先生の姿だけを思い浮かべているらしいのです。だから、個々の教員を単位とした評価・競争の徹底をやれば、教育の質が向上するはずだ、と思い込んでいます
 実は、教員の仕事の重要な部分は、教員集団のチーム労働や、メンバー相互の協力によって支えられてきています。現場にいる人には当たり前の話になってしまうのですが、ここでは、三つの側面を整理しておきたと思います。
 第一の「分業と協力」という側面です。日常の学校運営は、多種多様な仕事が組み合わさって成立しています。一見すると、クラス担任、学年主任、生活指導担当など、分業が徹底した組織の印象を与えるけれども、あくまで協力を基礎とした分業にほかなりません。
 学校に限らず、どの組織にも「使える人」ばかりではなく、「使えない人」が一定程度いるものです。会社にもいるし、大学の教員にもいます。「使えない人」を抱えながら、それでも学校運営に支障をきたさないのは、適切な協力を伴った分業によって、教員間でフォローし合ってやりくりしているからです。いざというときの協力体制は、教員間が相互に支え合う絆があるから可能になるのです。

広田前掲書、pp.72-73

有能でない職員を切って切って切りまくるキラのごとき有志の方々ですら、「個々の教員を単位とした評価・競争の徹底をやれば、教育の質が向上するはずだ、と思い込んでい」るようですので、現場にいてもそれはなかなか理解されないようですが。。。

ここで広田先生が指摘されている「職場の協力関係」が果たす役割は、特に現場の利害関係者が複雑に絡み合った労働関係の職場だったり、個々の住民を対象に生活全般をケアしなければならない福祉関係の職場にも当てはまることだと思います。しかし、職員の処遇制度としての成果主義とか事業評価では、このような組織の協力関係は評価されず、むしろPDCAサイクルと組み合わせられることによって、組織の協力関係とは無関係な評価軸が現場に導入されることになるわけです。

 PDCAサイクルの導入に関連して「事前規制から事後チェックへ」というスローガンが打ち出されたりしています。「今まで細かなルールをつくって個々の現場をしばっていた。もっと自由にやってもらって、結果のみを評価しますよ」という意味のようです。でも、実際には、それとは違うものになりそうです。「事前規制もプロセスの管理も事後チェックも」という感じです。「目標はこちら(教育行政)で立てます。チェックもやります。それを使ってダメな学校や教職員は、きびしく処遇します」というような仕組みです。

広田前掲書、p.116

本書の対象が教育というある程度個別の分野に限られているので、引用部では「教育行政」が主語になっていますが、行政の場合はそれが首長だったり議員さんだったりするわけで、事後検証可能な数値目標が掲げられた「マニフェスト」という選挙公約が、事実上の事業評価の目標となってしまうわけですね。「グランドキャニオンに柵はない」という政治家が掲げるマニフェストが、それ自体の中に政策目標なる事前規制を掲げるというトートロジー自家撞着(2/28修正)が繰り広げられてしまっているんですが、これも民意至上主義クオリティなのでしょう。ところが世の方々は、評価を徹底すれば競争が起きて、ムダが排除されて真に効果的な事業が残る・・・という物語を好むように仕向けられていますから、まずは政策目標に照らして評価しろという流れは、ここしばらくやみそうにありませんねえ。

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コメント
この記事へのコメント
レスが遅くて恐縮ですが、はてブで興味深いご指摘をいただきました。

> gruza03 行政, 組織, 管理, CSR, QMS, PDCA 労働安全衛生MC、厚労省指導等も、緩やかな「スパイラルアップ」と「サステナビリティ」を求められている。「OSHMS指針」労働者の意見を反映させる(第6条) /国、ILOの暴力によって労働者は破壊されている? 2011/02/21
http://b.hatena.ne.jp/gruza03/20110221#bookmark-31257081

「労働安全衛生マネジメントシステム」(OSHMS)というのはこれですね。
http://www.jaish.gr.jp/yougo/yougo02_1.html

> (1)PDCAサイクル構造の自立的システム
> OSHMSは、「PDCAサイクル」を通じて安全衛生管理を自主的・継続的に実施する仕組みです。基本的には安全衛生計画が適切に実施・運用されるためのシステムですが、これに加えて従来のわが国の安全衛生管理ではなじみの薄かったシステム監査の実施によりチェック機能が働くことになります。したがって、OSHMSが効果的に運用されれば、安全衛生目標の達成を通じて事業場全体の安全衛生水準がスパイラル状に向上することが期待できる自立的システムです。

実をいえば、「労働安全衛生マネジメントシステム」(OSHMS)ははじめて知ったんですが、こうした安全性向上のためのシステムとしてであれば、PDCAは有用なシステムだと思います。安全対策に漏れがないようにするために必要なのは、そうした日々のサイクルの積み重ねですから。

これを政策評価に適用してしまうと、単純に「成果」の上がらない組織や事業をスポイルすることにしかならないというのが本エントリの趣旨でしたので、安全性向上施策としてのPDCAサイクルの有用性とは矛盾しないように思います。

というより、私のようにPDCAサイクルの本来の役割を知らないにもかかわらず、何かといえばPDCAサイクルとかいう政策担当者が幅を利かせる状況の方に問題がありそうですね。
2011/03/06(日) 13:16:50 | URL | マシナリ #-[ 編集]
いま、評価の世界では、エビデンスに基づく評価という潮流があるようです。
http://evaluationjp.org/files/Vol10_No1.pdf
アメリカの経営学でも、「事実に基づいた経営」(東洋経済)ということがいわれており、その本では、「教師に対する業績連動型報酬制度は、100年近く存在する」が、うまくいっていないということです。(同邦訳書p32あたり)
ちょっと、ずれますが、npm(新公共経営)に盲信していた者にとっては、眼からウロコのところがあります。arnさんの書評も参考になります。
http://d.hatena.ne.jp/arn/20090329
2011/03/28(月) 04:13:47 | URL | yunusu2011 #-[ 編集]
> yunusu2011さん

『事実に基づいた経営』については拙ブログでも2回にわたって取り上げたことがあります。
http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-318.html
http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-319.html
ご指摘の成果主義的な評価制度は1回目のエントリに関係がありそうですが、日本の経営システムが営々と積み上げてきた年功序列型職能資格給制度を、アメリカ型評価システムに依拠して妄信的に否定する流れがあったのだろうと思います。日本的雇用慣行が崩壊した原因の一つはそこにあったのではないかと個人的には考えているところです。
2011/03/29(火) 08:34:55 | URL | マシナリ #-[ 編集]
失礼しました
失礼しました。すっかり失念しておりました。
なお、政府は、今、総務省行政評価局が、例の「事業仕分け」にあったこともあり、政策評価の見直しを検討しているようです。
http://koukaikei.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-7b4e.html
machineryさんが指摘されているようなことも踏まえて、生産的なPDCAサイクルの見直しになるとよいのですが。
2011/03/29(火) 23:07:39 | URL | yunusu2011 #-[ 編集]
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