2011年02月07日 (月) | Edit |
昨日のエントリの予想どおりではありますが、中部地区の県とその県庁所在地で検証可能なばらまき型マニフェストを掲げたカイカク派が勝利したとの由。合理的無知の理論はおもしろいほどに的中しますね。いや、これからの地方財政を考えると全然おもしろくありませんが。

今回の愛知県や名古屋市のように、地方税などの自主財源で自らの歳出をほぼまかなえる自治体(後述するように、今年度はどちらも交付団体です)で、減税を掲げた首長が当選したということのインパクトは侮れないものがあります。でまあ、こうしたチホーブンケンやらチーキシュケンの動きにうかつにもつられてしまう過疎地域もあるものの、地方交付税に手をつけないという前提の元では、これらの自主財源の比較的豊富な地方自治体が減税することによって、日本という国の財政に影響が出ることになります。極端な話、もし日本で最大の税収を有する東京都が、「せっかく国が地方交付税をくれるなら、自分とこの税収は下げるよ」とか言い出して減税したら、自主財源で歳出を賄いきれない過疎地域の地方自治体の分け前が減ってしまうわけです。

地方交付税は国税5税の一定割合を原資として地方固有の財源として各地方自治体に配分されるものですから、地方自治体が減税したところで影響はないように見えるかもしれません。しかし、地方交付税は制度創設以来ほぼ一貫して歳入を越える歳出規模となっていて、昭和50年代からは国がその債務を負担する仕組みとなっています(Wikipedia:地方交付税)。愛知県、名古屋市ともに今年度は交付団体(どちらも交付団体と不交付団体を行ったり来たりしていますが)となっていますから、ただでさえ借金して賄っている地方交付税を受け取りながら、自分のところの自主財源である地方税は減額しようとしているわけです。その地方分の債務を償還するのは愛知県民と名古屋市民だけではなく、将来世代を含む日本の全国民なんですけれども、まあ、それがチホーブンケン教によるチーキシュケン改革の実態なのでしょう。

話は変わりますが、前々回エントリで取り上げたケインズが世に問うたものが手段としての経済学でしたが、古典派経済学が確立する前は、政治学も経済学も法学も一つの学問体系として認識されていたわけで、18世紀のアダム・スミスももちろん、経済学の書として『国富論』を書いたわけではありません。

 『道徳感情論』によって、秩序と繁栄を基礎づける人間の諸本性は何か、また、それらはどのように作用するかを解明したスミスは、次の段階として、秩序と繁栄を導く一般原理の具体的内容は何か、それは人類の歴史において、どのように作用し、また歪められてきたかを論じる計画をもっていた。
 『道徳感情論』の初版を出版した後、スミスはグラスゴー大学で、法学に関する講義を行なった。学生がとったノートによれば、スミスは、正義の諸法だけでなく、生活行政、高収入、軍備などについても講義した。スミスは、『道徳感情論』の最後で示した約束を果たそうと準備していたのだ。
p.137

アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書)
(2008/03)
堂目 卓生

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※ 以下、強調は引用者による。注は省略。


スミスが生きたのは、スコットランドがイギリスに統合され、イギリスとフランスが7年戦争を戦い、アメリカ独立戦争へとつながる時代でしたが、スミスは諸国民の絆となるのが市場を通じた富の交換であり、分業であるとして、当時の重商主義貿易を批判することも『国富論』を書いた動機の一つだったようです。かといって、スミスは市場原理主義であらゆる規制を撤廃せよと叫ぶカイカク派を信頼してはいません。あらゆる利害関係を意図的に調整する仕組みとして「見えざる手」を重視したスミスの態度をこそ、改革を漸進的に進めるために想起すべきというのが、本書のメッセージではないかと個人的には思います。

 序章で示したように、スミスが生きた時代は光と闇が交錯する時代であった。経済の発展、技術の革新、知識の進歩と不急という文明の光があふれる一方、その光は、格差と貧困、戦争と財政難という闇によって弱められていた。その中で、スミスは光に熱狂することなく、また、闇に絶望することなく、冷静に現実に取り組んだ。しかし、スミスの冷静な態度の背後には、人間の存続と繁栄を願う強い情熱が感じられる。スミスは、到達すべき理想を示しながら、今できることと、そうでないことを見きわめ、今できることの中に真の希望を見いだそうとした。
『同』p.279

そうした冷静な態度を貫いたスミスはまた、こんなことを指摘しているそうです。

 私たちは、スミスが「徐々に」(graduarally)、あるいは「しだいに」(by degrees)という言葉を用いていることに注意しなければならない。スミスにとって、自然的自由の体系を確立することは、社会の秩序と繁栄にとって望ましいことであり、あらゆる社会の為政者がめざすべき理想であった。しかしながら、現実が自然的自由の体系とは異なる状態にあるからといって、急激な改革を行なえば、植民地政策や外交政策における失敗と同様、多くの利害関係者に大きな損失をもたらし、彼らの不満を招くことになるであろう
『同』p.240

したがって、スミスがもっとも警戒しなければならないと指摘するのが、自らの掲げる理想に心酔してしまい、それに伴う利害調整を無視してしまうような「体系の人」(man of system)となります。

 しかしながら、統治者は、しばしば拙速に事を運ぼうとする。そしてこの傾向は、統治者が、自分の掲げる理想の美しさに陶酔すればするほど強くなる。スミスは、1789年頃に書いた『道徳感情論』第6版の追加部分において、「体系の人」(man of system)について論じた。体系の人とは、現実の人びとの感情を考慮することなく、自分が信じる理想の体系に向かって急激な社会改革を進めようとする統治者のことである。スミスは述べる。

 体系の人は、[中略]自分が非常に賢明であると思いやすく、しばしば、自分の理想的な統治計画の想像上の美しさに魅惑されるため、計画のどの部分からの小さな逸脱も我慢できない。彼は、その計画と対立するであろう大きな利害関係、あるいは強い偏見に対して何の注意も払わず、自分の計画を完全に、あらゆる細部において実現しようとする。
(略)
もし、それら二つの原理が一致し、同じ方向に働くならば、人間社会のゲームは調和的に進行し、社会は幸福で成功したものになるであろう。しかし、もし、二つの原理が対立し相違するならば、ゲームは悲惨な仕方で進行するであろうし、社会はつねに最高度の無秩序の中にあるにちがいない。(『道徳感情論』第6部2編2章)


『同』pp.242-243

誰も反論できない理想を掲げたチホーブンケンの原理主義者たちが主張する「抜本改革」というものの行方は、生暖かく見守っていくしかなさそうですね。

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コメント
この記事へのコメント
ドラめもんさんに取り上げていただきました。
http://www.h5.dion.ne.jp/~bond7743/doramemon1102.html#110207

拙ブログのアクセス件数が見慣れない桁数になっていて、ドラめもんさんの影響力の大きさにびっくりしました。私も金融政策は「疎い」もので、ドラめもんさんの金融政策の記事はいつも勉強させていただいております。この場を借りてお礼いたします。

> #だからこの選挙の示唆する事は「菅政権への打撃」ではなくて「財政問題の更なる悪化への懸念」ではないかと思うのであります

数年前までは、ネットならまだ資産超過だとして国債の発行を支持する論説が多くありましたし、私もそうならいいなと漠然と考えていたこともありますが、そろそろ金融マーケットの側からも、財政問題の更なる悪化が意識されるようになったのかもしれません。金融政策ももちろん万能ではないでしょうから、財政問題が矢面に立ったとき、財政赤字は重大な桎梏となってしまいますね。

最近湯浅誠さんがよく使う理屈ですが、国民負担が低いからこそ、政府なんてあってもなくてもいいと思う人が増えてしまうのかもしれません。
2011/02/08(火) 00:17:52 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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