2011年02月05日 (土) | Edit |
さて、うちの業界的にはこの4月に統一地方選を控えておりまして、あちらこちらから候補者が決まったとかいう噂が聞こえてくるようになりました。まあ、正直誰がなってもあまり変わりないなあという気もしないではありませんが、それより気になるのは、提唱者の北川氏が自ら「期待していない」と認めてしまったマニフェストとかいう選挙公約の内容です。役所の中にいるものからすると、外部の方がいきなり入ってきて、「これがマニフェストなり」といって有無をいわさずご自身の選挙公約の実行を求めてくることになりますからね。

上記で「マニフェストとかいう選挙公約」と書きましたので、マニフェスト好きな方からすれば、「マニフェストは選挙公約とは違う!」とお叱りを受けそうです。ところが、いくら「選挙公約」を「マニフェスト」と言い換えたって、被選挙者が有権者からの得票を極大化するためにセールスするという目的は一緒なわけですから、区別する実益はほとんどないんですよね。一応確認のために、北川氏が所長を務める早稲田大学マニフェスト研究所のWebサイトから引用しておきます。

今までの公約は「口約束」でしかありませんでした。つまり、事後検証できない口約ですから、公約の担保がないのです。だから、数字や金額を文字できちんと書いて、きちんと約束すると、選挙が終わって1年経つと、「あなたの約束したことは、これとこれとこれでしたね」という具合に検証が可能になります。また、2年目はこうでということになり、4年経つと、「あなたは4年間知事でしたが、約束を守ってないじゃないですか」、だから次は落選ですねということになるのです。

事後検証可能な公約、「政権公約」のことをマニフェストといいます。事後検証不可能なばらまき型のことを公約といいます。これまでは、あまりにも公約や約束が軽すぎたので、「どうせ政治家は公約を破るものだ」、「政治家は都合のいいときだけ」というように思ってきたということは、政治を信用していない、政治家が信用されていないということだったのだと思います。そこで、「まだ公務員のほうがましではないのか」ということで公務員が信用されていました。公務員は信用されていたものだから、立法府の仕事は政治家がやらなければいけないのに、ほとんど立法は行政がやってきました。これはやはり、原則に戻さなければいけません。なぜかと言えば、民主主義だからです。民が主役と書いて民主主義です。受験勉強をして試験を通った官が決めていくのだったら、選挙なんて関係ありません。民主主義ではないのです。官僚がすべて決めていく社会のことを社会主義国家といいます。このことを本当に今一度考え直しませんか。

マニフェスト Q&A? マニフェストって何ですか?」(早稲田大学マニフェスト研究所

※ 強調は引用者による。


・・・おそらく北川氏本人が直接キーボードを叩いて打った文章ではないかと思うのですが、この論点の定まらない「回答」からマニフェストなるものの定義を発見することはかなりの労力を要します。引用部分の前後にも、地方自治制度や公務員や既存の政治家に対する批判がダラダラ書き連ねられていて、私の読解力では心許ないのですが、定義らしいところを抜き出すとすれば、「事後検証可能な公約、「政権公約」のことをマニフェストといいます。事後検証不可能なばらまき型のことを公約といいます。」というところでしょうか。

この定義によると、「マニフェスト」は事後検証可能という一つの要件を満たせばいいらしいですが、「公約」の場合は、事後検証不可能なだけではなくばらまき型という要件も満たす必要があるようです。では、事後検証可能なばらまき型はマニフェストなのだろうかという疑問が即座に浮かぶわけで、そもそも「事後検証可能」とはどういう事態を指しているのか不明ですね。特に、検証が可能かどうかという点だけが要件とされてしまうと、その政策の実現可能性が問われなくなってしまうという点に注意が必要です。

たとえば「行政のムダをなくして税金をゼロにします」という政党/候補者が現れて当選したとしましょう。この場合、税金がゼロになっているかどうかで判断ができるので、確かにそのマニフェストは事後検証可能ではあります。しかし、政策そのものについてみれば、結果として税金がゼロにならなかった場合に、その政策がそもそも実現可能だったのかという点こそが問われなければ政策論としても政治過程論としても意味がありません。もし、実現不可能なことをわかっていてそんな公約を掲げたなら悪質な選挙活動ですし、実現可能性も何も検討していなかったのなら、そもそも政治家としての資質に欠けるというべきです。しかし、政治家は得票を極大化しなければ当選できないという職業ですので、政策の実現可能性と得票極大の可能性を天秤にかけるなら後者を優先せざるを得ません。つまり、どう転んでも、政治家になろうとする被選挙者は政策の実現可能性を重視するインセンティブを有しないわけです。北川氏が批判する「公約」の問題点は、公約それ自体に帰せられるものではなく、政治家という職業につきまとうそうしたインセンティブ構造に由来すると考えるべきでしょう。もちろんこれは権丈先生の受け売りですが。

もともと実現できる見込みもないのに「税金ゼロ」という公約を掲げて有権者の票を獲得するような政党/候補者のインセンティブ構造に問題があるとして、単に事後検証可能という要件のみを満たすマニフェストではそれを制御することが不可能であることは、以上から明らかです。結局は、実現可能という要件を満たさなければマニフェストがそれとして機能しないわけで、実現できる見込みもなく掲げられる「税金ゼロ」なんていうマニフェストこそ北川氏のいう「ばらまき型の公約」の典型でしょう。中部地区で繰り広げられている地方自治体の首長選挙で掲げられているマニフェスト(「減税日本 河村たかしマニフェスト」「大村秀章 日本一愛知の会マニフェスト(pdf)」)を拝見するに、北川氏がマニフェストに対置して批判する公約と内実においてなんの変わりもないことを如実に物語っている事例といえそうです。いやまあ、つくづく「地方自治は民主主義の学校」ですねえ。

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