2011年01月09日 (日) | Edit |
実質的に新年初のエントリとなりますが、ここ数日そこはかとなく考えたことをいくつか書き出してみます。

山登りは誰かに誘われれば行くくらいで、それも最低限の装備で日帰りできるくらいの山しか登ったことはありませんのでたいしたことはいえませんが、それでも一歩一歩自分の足で登って山頂にたどり着き、そこから周囲の景観を見ると爽快な気分になります。といっても最後に山に登ったのはかれこれ5年近く前になるわけでして、今よりも体力があった当時ですら、一日かけて山頂まで往復すれば膝が笑ったものでした。

確かに山に登るのはそれだけの労力を要しますが、山の地形とそれを登る労力そのものや、天候や季節の移り変わり、その地形に生息する動植物の生態系などは、実際に山に登ってはじめて自分の目で確かめて実感することができます。そうなると、自分で登った経験があるということで、たとえば、その山に登ったことがある人と「あの山の景色はいいよね」とか「登山ルートのあそこが大変だったな」という会話ができますし、相手がベテランなら「こんなルートもあるよ」とか「こっちから見る景色もまた格別だよ」なんて情報を聞き出すことができるかもしれません。他の人が登るという話になれば、自分の経験から「○時ころに出発すれば、ちょうど昼時に山頂に着くよ」とか「あそこに○○があるから××を持っていくと便利だよ」というアドバイスができることもあるでしょう。

もちろん、誰もが山登りが好きなわけではないので、こういう話をしていると、中には「山登りなんて面倒くさいだけだろ? 俺は忙しいからヘリコプターで一気に山頂に行ってしまうけどな」なんてことを冗談でいう方もいたりします。まあその気持ちはわからないではありません。そりゃ誰だってラクしたいですし、私もどっちかというとできることならそうしたい気持ちもあります。

ただし、ヘリで一気に山頂まで行ってしまうと、その山がどういう地形でどういう動植物が生息しているかということを自分の目で見ることができなくなります。もちろん、実際に登った人から話を聞いたり、写真とか動画でもあればそれを見てイメージすることはできるかもしれませんが、そんなイメージだけで「俺はあの山頂に行ったことがあるから、あの山のことなら何でもわかる」とはいわないでしょう。そんなことをいう人がいたとしても、実際に山に登った先人に対する敬意を欠く言動をした時点で、実際に登った人はもちろん、周囲の人からも信頼を失うことになるのが関の山です。

もし、どうしてもその山に登らなければならないという事情があって、財力はあるけど時間と体力がないのでやむを得ずヘリで山頂に行くという人がいるなら、実際に山に登った先人の言葉に素直に耳を傾けて必要な情報を聞き出し、想像力をフルに働かせてその山の景色や生態系、天候などを思い描けるような心の準備が必要となります。大きな組織のトップは往々にしてこういう場面に出くわすことがあるのですが、そのときに「現場主義の罠」に陥らないトップが、この「現場主義」がもてはやされるご時世でどれだけいるのかというのはかなり怪しいところではないでしょうか。

さらにいえば、こと政治とか経済政策という分野の話題になると、「誰にでもわかりやすく説明しろ」とか「俺が理解できないものは認めない」とか真顔でいう人がいたりするので厄介なんですよね。拙ブログでは毎度引用させていただいている権丈先生のサイト経由ですが、権丈先生が使用されている教材にこういうのがあるそうです。

 しかし、私は現段階での徴収年齢引き下げには反対だ。厚労省がこの問題を正面から問うことを避けてきたため、議論が生煮えだからだ。(略)私はその次の改革に向けて、年齢引き下げと統合がなぜ必要なのかを一から丁寧に説明することから始めるべきだと思う

(略)

 そもそも、厚労省は「保険料の徴収年齢を引き下げるべきだ」とも、「統合すべきだ」とも、公式には一度も表明していない。(略)
 厚労省幹部は「役所は選択肢を奪うな、と批判するのはマスコミの方じゃないか」と反論する。しかし、まずどうしたいのかを明言しないことには、国民に熱意も真意も伝わらない
 厚労省はこれまでの対応を改め、若者にも負担を拡大して年齢で区別しない「一般介護」へ転換することの意義をきちんと説明すべきだ。安易な財源対策との印象をぬぐえなければ、若者から保険料徴収といった思いきった改革に、いつまでたっても国民の理解は得られないだろう

「毎日新聞[記者の目] 2004年の年末のこと
もっと介護負担を=野沢和弘氏 と 介護保険料徴収年齢引き下げ反対=吉田啓志氏(注:odfファイルです)」(仕事のページ(権丈善一先生Webサイト)


※ 強調は引用者による。


なるほど、国民が納得しないのは厚労省が熱意を持って説明しないからだと、今までよりも「丁寧な」説明をすることが必要だと、役人はいつまでも「示唆」するだけで説明しないと、総じて説明が足りないのは役人のせいだといいたいわけですね。「せいじしゅどう」という呪文を唱えて財源があると言い張った政党によって政権交代が実現するというこの国の政治環境の中で、そんな「官僚主導」で政策を打ち出したりなんかしたら真っ先に叩くのは彼らマスコミなはずですが、私の理解が間違っているんでしょうか。合理的無知の購読者・視聴者を意識するからそうなるとしても、まあ出口の見えない倒錯しきった状況ではありますね。

説明責任」という他力本願全開の便利な言葉が人口に膾炙するようになってから、説明が受ける側が「説明が足りない」主張しさえすれば、たとえ説明を受ける側がその説明に聞く耳をもたなくても、説明する方が無限定に責任を問われる仕組みができあがってしまったように思います。なるほど、引用したpdfファイルの1ページ目では、その説明をきちんと理解している立場からの論説も紹介されているので、マスコミの無責任な政治部的論調を見抜くための格好の教材となっていますね。

こういう自分で理解することを拒否する論調を見ていると、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」で昔やっていた「松本&黒子・挑戦シリーズ」を思い出しました。松本人志が2m50cmの走り高跳びや150キロの剛速球を打ち返すことに挑戦するという企画なんですが、いざ挑戦する段になると、松本自身は自分でも立てないくらいに脱力して挑戦する気力を一切見せません。しかたなく、黒子に扮した他の出演者が形だけでも成功できるようなんとか松本人志を奇抜なアイディアで支えながら挑戦しますが、当然のごとく失敗するわけで、すると松本が他の出演者に対してキレまくるという松本の不条理な行動がこの企画の見せ所です。最終的には、ごくオーソドックスな方法で記録をクリアする(走り高跳びのバーの上から松本を投げ落とす、松本を肩車した黒子が代わりに打つ等)のがこの企画のオチですね。

制度を知らず、歴史を知らず、現実に裏打ちされた各論を理解しようともせず、総論だけで「コーゾーカイカク」だとか「チーキシュケン」だとか声高に主張し、政府の審議会や諮問機関の報告書があっても「官僚の作文だ」と理解することすら拒否して、その限られた理解に基づいて推進する政策がうまくいかない現実を目の当たりにすると「既得権益の抵抗だ」「官僚の陰謀だ」と煽り立てるマスコミ政治部的論調(あるいは無責任な政治学的論調)の場合は、どこにオチがあるんでしょうか。

(松本&黒子挑戦シリーズの部分を修正しました)

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