2010年06月28日 (月) | Edit |
前回エントリまで数回にわたって、山形さんの官僚評を引用させていただきながら官僚叩きの無内容ぶりを考えてみたわけですが、当の官僚はどう考えているかというと、『エンゼルバンク』で恒例となっているコラムに現役官僚の匿名コラムが掲載されています。下っ端のチホーコームインとしては異論がないわけではありませんが、この現役官僚氏のおっしゃることはおおむね妥当ではないかと思うところです。

ただし、最後の最後にちょっと危ない匂いをかぎつけてしまったのがこの部分です。

お任せ民主主義との決別を!
「官僚たちの夏」のような古き良き時代には、政治家やマスコミではなく、官僚自身が考える国益を信じて行動することが許されていました。しかし官僚に対する信頼が崩壊した今では、政治家の「民意」やマスコミの「世論」に反対する官僚は「抵抗勢力」とみなされます。だから、最近の官僚の多くは、選挙やマスコミ報道に、民意や世論は表明されていると考え、行動の指針としています。

官僚の行動に影響を与える方法。それは、政治家の言動やマスコミの主張が、本当にみなさんの気持ちを代弁しているのかチェックすることです。そして、もし違ったら、ブログやツイッターで、政治家やマスコミに異を唱えるのです。

国民が政治に関心をもち、自らの利益のみならず日本の将来を考える。それを政治家が受け止め、あるいは国民に方針を示して説得し、官僚がそれを具体化する。その政府の活動を、マスコミがジャーナリズムを発揮し、国民の監視に役立つように報道する。それが美しい民主主義国家です。そして、民主主義国家においては、国民の一人一人の意識が要です。今の日本の有り様は、政治家のせいでもなく、官僚のせいでもなく、マスコミのせいでもなく、国民一人一人が決めてきた(あるいはしっかりと考えてこなかった)結果です。

元米財務長官ウィリアム・サイモンは「悪い政治家をワシントンへ送り出すのは、投票しない善良な市民たちだ」という言葉を残しました。よい官僚、よい政治家、よいマスコミ、いずれも与えられるものではありません。みなさん一人一人が、日本の将来のことを考えて行動した分だけしか手に入らないのです。政権交代が起きた今こそ、「お任せ民主主義」と決別し、自覚と責任感をもった市民による「成熟した民主主義」を確立しましょう。それは、国民のみなさん一人一人にかかっています

第5回「私はセミにはならない!」5月20日(木)配信」(MORNINGMNGA.COM「5週連続Web連載!!官僚の言い分 中央官庁で働く現役官僚が熱く語る」

※ 太字大文字強調は原文、太字下線強調は引用者による。


「国民が政治に関心をもち、自らの利益のみならず日本の将来を考え」るべきであって、「それは、国民のみなさん一人一人にかかって」いるというのが「政治主導」を正当化する理屈だというのはこの現役官僚氏も十分に認識されているとは思います。しかし、そのことに依存した「政治主導」こそがカイカク病の猖獗を招いてしまったことに対する警戒心はないのだろうかと心配になってしまいます。

拙ブログでは繰り返し指摘していることですが、各種団体、特に労働者を代表する労働組合といった中間組織が政策に対する圧力団体として適切に自らの利害関係を代表することなしに、間接民主主義が機能することはないのではないでしょうか。中央官庁にいながらそうした利害関係の調整過程を軽視する姿勢は、なんとも危ないものを感じます。そういった調整の果てにやっとたどり着く漸進的な改善を軽視することは、結局は、不幸にもカイカク病に罹患された方々の症状をさらに重くこそすれ、カイカク病によって大胆に削減された所得再分配機能を回復することにはつながらないように思います。

ちょっと話が飛びますが、江戸時代の「お上」は、庶民にとっては確かに不可侵で遠い雲の上の存在だったでしょう。その遠い存在ぶりは、士農工商という厳格な身分制はもちろん、政策決定への関与は望むべくもないという点で、憲法で国民主権がうたわれる現在の日本とは比べものにならないほどの制度上の高い壁があったことからも明らかです。

そんな中で享保の改革で徳川吉宗が採用したのが目安箱(Wikipedia:目安箱)という制度でしたが、Wikipediaによると、これは下層民対策として取り入れられたということもできるようです。目安箱の成果として必ず取り上げられるのが、「赤ひげ」で有名な小石川養生所ですが、目安箱そのものが下層民対策として設置されたのであれば、もしかすると小石川養生所の開設は既定路線だったのかもなどと邪推してしまいますね。

この下層民対策としての面も持ち合わせていた(と思われる)目安箱は、その後明治政府初期まで存続したようですので、明治維新当時でさえも、目安箱によって「お上」にものを申して、それによって「お上」に対応してもらうというのが、庶民にとっての政治参加だったのだろうと思います。逆にいえば、そうした「目安箱による政治参加」から、立憲君主制による間接民主主義への移行が明治政府の大目標の1つであったともいえそうです。しかし、天皇に大きな権限を与えていた明治憲法下では国民の政治参加は大きく制限されていたわけで、結局のところは「目安箱による政治参加」から移行したというよりも、その仕組みは維持したまま、御前会議でいかに天皇の了承を得るかという手続きを整備したに過ぎないのかもしれません。

まあ、この辺の歴史的経緯はあまりよく調べたことがないので、以上は印象論の域を出ないのですが、「目安箱」でググると現在でも多くの政策提言系のサイトがヒットすることからすると、日本の国民にとっての政治参加のイメージは「目安箱による政治参加」の枠を超えていないような気もするところです。もちろん、困ったことがあればそれを声に出して訴えることは民意の発露として最大限尊重しなければなりませんが、それに対する処方箋を考えることはある程度のリテラシーやスキルを要する作業になります。たとえば、おなかが痛いと訴えるのは患者の役目ですが、その痛みの原因を探って適切な処方箋を施すのは資格を持った医者の役目であることに異論はないでしょう。

ところが、「目安箱による政治参加」のイメージを持った国民にすれば、声を上げることとそれに対する処方箋を求めることはセットでなければなりません。「現場を知らない官僚なんかにこの現実が分かるもんか! 俺のほうがよく分かっているんだから、俺の要求するとおりにしろ!」といえてしまうわけです。それが「政治主導」と結びついた結果が、バブル崩壊後のカイカク病の猖獗ではないかと愚考するところです。

という観点からすると、上記で引用した現役官僚氏の呼びかけは、その意に反して、「政治主導」によって自らの立場に対する信頼を失わせるという流れに棹さすことはあっても、冷静な政策議論を呼び起こしてそのために必要な官僚のリテラシーやスキルを生かそうという流れを作ることはなさそうに思います。まあ、現在の参院選で示されている各党のマニフェストなるウィッシュリストを見ていると、そんな流れができる気もしないわけですが・・・

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コメント
この記事へのコメント
HALTANさんのところで言及していただきました。
http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20100701/p2

> ・・・この悪循環に嵌り込んでいる。第三世界に「まとも」な医者が行くと、しばしば原住民が土地の祈祷師などの方を信用するばかりで困るというが、それと似た現象なのかもしれない。

ついでにいえば、少し現代医学をかじった近隣住民が「この医者は藪医者だ」と言い募ることもありそうですね。いやもちろん、高等教育を受けて医学に精通している方なら、資格を持った医者を藪医者呼ばわりすることに正当性もありうるでしょう。あくまで印象論ですが、少しばかり実体験があって医療系の啓蒙書を読んだ程度の方のほうが、非伝統的医療により深い思い込みを持っていそうな気がします。
2010/07/04(日) 00:40:20 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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