2009年12月20日 (日) | Edit |
景気の低迷期には否応なしに労働問題がクローズアップされるわけですが、その一方で「労働」という言葉に関しては、新自由主義であろうが左派思想であろうがネガティブなイメージを重ねて語られる方が多いように思います。私の知っている経済学者の方でも「労働経済学者は変わり者ばかりだ」と公言してはばからない方もいらっしゃいますし、特に(いわゆる近代)経済学でもない労使関係論とか労働法とかの研究者だというだけで、「今時マルクスかよ」とか「市場原理を否定する社会主義者だろう」とか偏見を持たれそうな気がします。

かくいう拙ブログでも、労働について書くとGoogleリーダーのおすすめに社○党とか共○党の議員さんのブログが表示されたりするので、「労働」という言葉が党派制を持っていることは事実だろうと思います。でまあ、そういう「労働」という言葉が背負ってしまったイメージと、「経済」という言葉が与えるイメージというのを考えると、意外に共通しているところがあるのではないかと最近思い始めました。

というのも、「労働」と「経済」はともに、どんな国民であっても直接・間接に関わっている行為を切り取った概念であるために、人それぞれに一家言を持てるのがその理由ではないかと個人的に考えています。まず「労働」についていえば、不労所得をもたらす資産がない限りは、貨幣経済において貨幣を得るために「主体的に」何らかの労働をしてその対価を得る必要があります。資産を有していたとしても、その資産を活用して企業活動を行ったことによる不労所得を得ているのであれば、大抵の場合その事業に従事する労働者を雇用して分業体制をとる必要が生じるでしょう。たとえ全くの家族経営による自営業であっても、資材の調達や財・サービスの取引の相手方の一定割合は労働者を雇用しているはずなので、その限りにおいて「労働」の成果を「主体的に」取引していることになります。一方「経済」については、同じく貨幣経済において日々「主体的に」消費するために貨幣(現ナマ)が必要となりますし、流動性選好や相続のための流動性の貯蓄はほぼすべての国民が「主体的に」行っているはずです。

つまりは、国民が日々直接・間接に関わっている行為の大部分は、「労働」と「経済」という概念で切り取ることができるのであって、しかもその関わり方は誰に強制されるでもなく「主体的に」行われているわけです。もちろん、そういった貨幣経済とか資本主義そのものがけしからんという立場の方もいらっしゃるでしょうけど、少なくとも日本という資本主義国家で生活する限りは、「労働」と「経済」に「主体的に」関わらなければ生きていくことができません*1。となると、それぞれ国民にとっての「労働」とか「経済」という言葉は、それぞれの国民が日々営んでいる活動によって定義されてしまうことになります。ここに、「労働」観とか「経済」観が乱立する素地が生まれるのではないでしょうか。

「俺は労働なんて古臭い言葉は使いたくないから、『仕事人』だと思っている」という労働観も、「うちの従業員は労働法規違反があっても変な労働運動もしないで、会社のために働いてくれる家族のような存在だ」という労働観も、「インフレになると給料の額面で買えるものが減ってしまうので困る」という経済観も、「財政が企業にたとえればとっくに倒産するような借金まみれになったのは、官僚とかそれと癒着した大企業が無駄遣いしているからだ」という経済観も、どんなにそれが間違っていたとしても、それぞれの国民の日々の活動の中で育まれた実直な物語であることに違いはありません。

そういった国民の実直な物語を是正することは、少なくとも「民意至上主義」においては誰もできるはずがありません。言い方を変えれば、「民意による政治主導」とは、間違っていようがいまいが「国民が信じる物語」のみを根拠とする意志決定システムです。最近政権党の「豪腕幹事長」が隠然と影響力を行使し始めていますが、「国民が信じる物語」を自らが体現しているとでもいわんばかりの彼の行動*2をみていると、民主的なワイマール憲法によって人類史上最大級の悲劇がもたらされた政治状況とはこういうものだったのだろうと思えてなりません。その反省がケルゼンの「違憲立法審査権」として実現したり、「法による支配」が西欧各国の基本理念として採用されることにつながったわけですが、それを再び反省し直さなければならない状況だけは何とか回避したいものです。

そのためにも、「労働」とか「経済」という言葉を、自らの日々の活動から帰納的に定義づけるのではなく、日本という単一国家の国民として、全体のシステムの中で演繹的に把握する努力が重要なのだと思います。その際、すべての国民がそんなことできるわけはないので、それを集約していく中間組織が必要不可欠となるはずです。それが労働組合であったり、経済政策を立案するテクノクラートを要する政府組織や研究者供給システムだったりするんですが、「民意至上主義」を標榜する歴代の政権党によって、これらの中間組織はことごとく目の敵にされてしまいました。

個人的には、これらの組織を立て直さない限りまともなシステムが機能することはないと思うんですが、「「労働組合」って一体なんなの?」と当の労働者が疑問を抱くような集団的労使関係法制の見直しがスルーされる一方で労働者派遣ばかりが悪者扱いされ、一部のリフレ派が社会保障の財源を確保すると不況になるから認めないと主張する一方で日銀はデフレを容認し続けるという事態はしばらく変わる気配がありません。まあ、国民がそのような変化を「主体的に」担う組織を否定しつづける限りは当然の帰着ではあるわけで、国民自らが望んだことだとあきらめるしかないのでしょうね。




*1 障害者など「主体的に」「労働」や「経済」に参画できない方については、別の仕組みが必要となるのはいうまでもありません。
*2 小選挙区制での彼の得票をみれば、国の一部において133,978票を得たに過ぎないんですが、政府や党を飛び越えつつある彼の支持基盤はそんなに日本という国の「民意」なるものを体現しているのかはなはだ疑問です。

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コメント
この記事へのコメント
はてブでコメントいただきました。
http://b.hatena.ne.jp/entry/sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-363.html

> buhikun 労働, 経済, 民主党政府, 合意形成 『「民意至上主義」を標榜する歴代の政権党によって…中間組織はことごとく目の敵にされてしまいました。』←専門職もな。中間組織敵視はジャコバン派流の急進自由主義だが、ジャコバンと言えばギロチンだよな。 2009/12/21

ヨーロッパでもジャコバン派の反省だけでは足りず、1世紀以上かけてワイマール憲法まで試行錯誤した結果としてのあの悲劇だったとしたら、日本が先の大戦から60年で再び反省しなければならないのは、早いと言うべきか反省が足りないと言うべきか・・・

まあ、それぞれ国が違うのでそれぞれに試行錯誤しなければいけないのでしょうけど。
2009/12/22(火) 07:30:02 | URL | マシナリ #-[ 編集]
「労働」をよく知っていると自任される方と、「経済」をよく知っていると自任される方が他方を見下す傾向にあるのが興味深いところで、後者の例として一例を挙げれば、

http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51630684.html

などはその典型ですね。

この方の場合はあくまで「自任」しているだけで、「労働」も「経済」も両方とも認識する範囲が半径5メートルくらいで完結してそうなところもありがちな感じです。
2009/12/22(火) 08:17:01 | URL | マシナリ #-[ 編集]
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