2009年11月04日 (水) | Edit |
前回エントリの補足ですが、ハーシュマンの原著には実はアメリカ人に「発言」の効果を説こうとする意図があるようで、今の日本の政治状況で読む場合はその点を留意する必要があります。

ハーシュマンによると、アメリカ人の感覚では、中に残ってグズグズいうよりも外に出てしまえばいいんであって、自分が外に出たあとその組織がどうなったって構わないと考えるそうですが、そういった「離脱」を中心とした市場の機能だけでは改良はできませんよというのが、この時期にこの著書を書いた理由のようです。

アメリカ合衆国をまさに形づくり、成長させた要因は、発言よりも離脱を重視してきた数多くの意思決定である。
(中略)
フロンティアが閉じられたあとでも、この国が広大で、また異動が容易であることも手伝って、アメリカ人は他のどのような国民よりも「物理的逃避」による問題解決を考えることができる。他の国民なら、自分が「放り込まれた」ある特定の状況下、その場所で状況を甘んじて受け入れるか、あるいは改善のための努力をしたり、置かれた状況と闘う場合でも、物理的逃避を行うことが可能である。トクヴィル以来、いろいろな人々がアメリカ人の風変わりな順応性を観察してきたが、これも今述べた形で説明できるかもしれない。どのような状況であれ、もしも非常に気に入らないなら、いつでもそこから完全に逃げ出すことができる。そのような場合、なぜわざわざ反対の声を上げ、面倒なことに身を投じなくてはならないのか。[これが通常のアメリカ人の感覚なのである。]
ハーシュマン『同』pp.119-120
※ 以下強調は引用者による。


そんな「アメリカ合衆国をまさに形づくり、成長させた要因は、発言よりも離脱を重視してきた数多くの意思決定である。(p.118)」というアメリカにおいても、移民の国であるが故にその国が間違っていては困るので、

しかしここで考えてみよう。すでに述べたこの議論に沿っていえば、嫌気がさしたと人が公言する時期は先延ばしになると予想できる。これはまさに、幸せの強迫観念に支配されている局面である。しかしながら、状況がさらに進み、もはや嫌気を抑えきれなくなるかもしれない。そのときには、いくつもの反応がでてくる。
(1) すでにみたように、新たな離脱が試みられるかもしれない。だが今回の離脱先は、この国の(幸いにして広大な)領域内になるだろう。
(2) この国が間違っていないことなど明らかなのだから、不幸、嫌気、その他の責任は、そうしたことを感じるに至った本人の側にあると思い込む。そこで、さらなる「調整」が行われる。
(3) そして最後に、この国が間違っていることが結局のところ明らかになったとすれば、そうなって欲しいと人が切望する理想的な場所に、この国は作りかえられなければならないということになる。したがって、発言が並外れて強い力で姿を現す。人間の作る制度は完全にできるし、諸々の問題は解決できるのだというアメリカ人に典型的な確信によって、発言は活気づくだろう。幸せでなければならないという強迫観念は、この国をイメージどおりの国にするために発言を行使しなければならないという強迫観念に置き換わる。ちょうど離脱がこの国の起源に貢献したのと同じように、実際のところ、発言がこの国の成し遂げたいくつかの偉業に貢献している
ハーシュマン『同』pp.125-126


として、アメリカ人だって「発言」オプションを実際に行使しているし、それが効果を上げているじゃないかと主張します。原著は1970年の出版ですので、この当時アメリカでの最大の関心事はベトナム戦争に対する反戦運動とか黒人運動の高まりだったわけで、ドイツ出身のユダヤ人であるハーシュマンは、ナチスに追われて社会主義運動にいったん身を投じた原体験を持ちますが、戦後はマーシャルプランに参画してナイジェリアの開発に関わったりする中で、そういった「発言」が社会を動かす可能性を感じ取りっていたのかもしれません。

しかし、ここで問題になるのは、「発言」そのものは確かに発言者の希望や心情などの発露であるとしても、その内容自体が適正であるという保証はどこにもないということです。民法上の契約になぞらえていえば、当初の契約の態様に瑕疵や悪意があった場合に無効又は取消されうるのは前回エントリで書いたとおりですが、その契約の瑕疵や悪意について当事者から発言があったからといって、その発言自体が新たな瑕疵や悪意を含む可能性は排除されません。だからこそ、法律上の疑義については司法が両当事者の主張に基づいて判断することになっているわけで、そのような仕組みもないまま発言ばかりが力を持ってしまうと、また別の問題を引き起こしてしまう危険があります。

特に、直上の引用部の(1)から(3)の流れのうち、「不幸、嫌気、その他の責任は、そうしたことを感じるに至った本人の側にあると思い込」んで、「人間の作る制度は完全にできるし、諸々の問題は解決できる」と確信するというのは、アメリカに典型的なだけでなくどこぞの国の民意至上主義と大変似通っているように思われます。そういう確信を持って発言することとその発言が適切な解決策を提示しているかは慎重に峻別して判断すべきでしょう。

たとえばこんなプレカリアート的なタイトルの番組がありまして、第3回は「どにかして!働く場」というテーマで落合恵子氏と湯浅内閣府参事参与がご出演でした。

今年度からスタートした新番組「そりゃあんまりだ!」。皆さんの身の回りにある“あんまりだ!”の声をもとに、第1回「お金がないと学べない?」(4月24日放送)、第2回「介護の負担 もう限界!」(7月24日放送)と、これまで放送してきました。このホームページに寄せていただいたみなさまからの声も、すでに200件以上に上ります。ありがとうございました。
第3回の放送は10月23日(金)総合テレビ 午後8時から(※地域によって放送時間が変更になる場合があります)。今回は、働く場をめぐる“あんまりだ”の声に耳を傾けます
年内に失業率が6%台に乗るといわれる中、雇用をめぐる状況は悪化の一途を辿っています。高校生の求人数は、去年に比べてほぼ半減。過去最大の減少率を記録しています。特に地方の高校生たちは、厳しい状況に置かれています。また、雇い止めにあった非正規労働者も、新たな仕事を容易に見つけることができないでいます。正社員とて、安泰ではありません。
日々の生活を支えるはずの働く場をめぐって、今様々な不安が渦巻いています。雇用に関して「そりゃあんまりだ!」と感じていることや ご意見がございましたら、ぜひこちらにお寄せください。お待ちしております。
NHK「そりゃ あんまりだ!」


そういう「声」を個別の企業の経営実務や労務管理を通じて労働条件に反映させるのが産業民主主義なわけでして、「民意」とかいう得体の知れないポピュリズムより前にそういった現場に根付いた「発言」オプションを有効に機能させることが先決だろうと思います。そうした現場での「発言」であれば、その結果は直接に発言者の労働条件や企業の経営状態に反映されるので、労使双方が常に「発言」をし続けることによって、企業内の経営や労働条件を不断に修正することが可能になる点が重要なわけです。

これに対して、民意という漠とした主体による間接民主制では、いったん選挙で示された民意は次回選挙まで修正することができません。拙ブログで中間団体たる労働組合が主体となる集団的労使関係の意義を強調しつつ民意至上主義を揶揄するのは、両者の規模や主体同士の利害関係のレベルが桁違いであるため、制度上の「利害代表性」とでもいうものがこの両者では全く違うと考えるからです。今進められているカイカク祭りが実効性のあるモノかどうかは、誰が誰の利害を代表しているのか、その利害を誰がどう調整するのかという難問に政権党が正面から向き合うかどうかにかかっているのでしょう。

その点からいえば、上記の番組の最後での「貧困を救うためには景気回復と企業頼みではなく社会の責任で!」という発言を聞くにつけ、湯浅内閣府参事参与は貧困の代表だとは思いますが、貧困までいかずとも景気低迷によって生活が苦しくなっている大多数の国民の代表として発言する気はなさそうですね。霞ヶ関の官僚には一方的に要求を突きつける割に、番組で取り上げられていたハローワークの官製ワーキングプアには同情的でしたし。

まあそもそも、政治家やマスコミにはそういう視点で利害を代表する立場の方が見当たらないというのが、「失われた××年」を長引かせている要因となっているように思います。少なくとも、我々コームインの利害代表が有権者の皆様の支持を得ることは当面の間ないんでしょうし・・orz

※ 湯浅氏の役職名を修正しました。
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